霜月
霜月編がスタートします。
私の調理師の道も驚くほどテンポ良く決まりました。反対にイラストレーターや漫画家、デザイナー等の道は全く開けていませんでした。
智輝は私自身を含め、私に過去に関わった、「夢を追っていたが叶えられなかった、しかしそれでも一生懸命生きていた素敵な人達」がモデルになっています。
上大岡駅から徒歩20分。
築60年近い亮平の住むそのボロアパートで話し合った内容は智輝の予想のはるか斜め上をいく内容だった。
「先輩に、俺の代わりにあの店で働いてほしいんです。」
アパートに着き、上着を脱いでちゃぶ台の前で寛ぎ出した智輝に茶を出すや否や亮平は口からそう発した。
茶に口をつけてはいなかったため、吹き出して周囲を茶まみれにする事は免れたがもし口をつけていたら確実に吹き出していただろうと智輝は思った。
「いきなりだな。おい。」
智輝は前方で正座をしている亮平に言った。
「すみません。」
亮平は申し訳なさそうにうつむいた。
「実は、実家の父親が倒れて入院してしまって…母親から帰ってきて家の工場を手伝うよう強く言われたんです。」
「マジかよ…。親父さん大丈夫なのか?」
亮平の言葉に智輝は思わず身を乗り出した。
亮平の実家は戸塚にある大正時代から続く中~小型の船舶の修理工場だった。
けして大きな事業所ではなかったが、歴史とともに築き上げられた実績と信用は揺るぎ無いものがあり
地元の漁業関係者を初め、県外からの修理の依頼も来るほどの優良企業だった。
「幸い命に別状は無かったんですけど、しばらく様子見で入院が必要でして…。」
「そうか。しばらくは気が抜けねぇって事か。」
亮平の言葉に智輝は複雑な気持ちになった。
親の入院は智輝も経験済みだったが、何度やられても心配なのは同じだった。
それに加え両親の年代でもある50代から還暦にかけては次第に衰えも加速し若い頃のようにどんどん無理は効かなくなっていく。
誰しもが“もしもの時”は常に隣り合わせである事を痛感せざるを得なくなるのだ。
亮平が家族思いの青年であることは智輝は5年間の付き合いで充分理解していた。
「俺のお袋も入院した事あるからさ。心配な気持ちすげぇわかるよ。辛かっただろ?」
「先輩…。」
智輝の優しい共感の言葉に亮平は大きなややつり気味の目を潤ませた。
智輝はその様子を優しく見守りながら尋ねた。
「店の人には言ってあるのか?」
「はい。あの、先輩、確か調理師の免許持ってましたよね?」
亮平は溢れた涙を照れ臭そうに拭いながら言った。
「ああ。ここの所ずっと持ち腐れてたけどな。」
智輝はばつが悪そうに首の後ろを掻きながら答えた。
「店長に先輩の事話したら是非来てほしいって言ってました。」
亮平の言葉に智輝は優しげに微笑み返し
「良いぜ。で、いつから働きに行けば良いんだ?」
と尋ねると
「急で本当に申し訳ないんですが11月からでお願いできますか…?」
「…。11月!?」
智輝が面食らうのも構わず亮平は続けた。
「一応面接の日取りも伝えておいてほしいって頼まれてるんですが…。」
「面接…。」
いつの間にか話はどんどん進み、心の準備が整わないまま智輝は今日行ったばかりの店の料理人になる手筈を整えられていた。
面接は10月10日の午後3時ごろと伝えられた。
智輝は亮平の部屋の奥に掛けられているカレンダーにちらりと目をやると思わず叫んだ。
「明後日じゃん!!」
光陰矢のごとしとはまさにこの事だった。
10月10日に無事面接を終えた智輝の所へ、店長から直々に
「是非来てほしい。」
と事実上の採用通知が届くまでそう時間はかからなかった。




