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朝食は貴方と共に。

朝ごはんを食べたくなるロボットもいます。

 コウが目を覚ますと、すでに日は登り、光が窓から差し込んでいる。言われた通り目をつぶり、そして夢を見ることなく眠ってしまった彼は、予想外の熟睡に驚きながらも、自分のいるゲレーンの国を見回してみようと首を動かした時。


 《わぁ!?》

 《ぬぁわ!?》


 目の前に、別のベイラーが至近距離で顔を覗かせていた。その目は虹色に光っており、軽い興奮状態なのが分かる。


 《起きた!?》

 《は、はい。起きました……》

 《そ! 仕事あるからまたね!》

 《仕事……?》


 コウが状況を飲み込めないまま、そのベイラーは足早に去ってしまった。


 《(仕事……ベイラーにも仕事があるのか)》


 ガインはベイラーの医者として働いていた。であるならば、他のベイラーも何らかの仕事を任されているのだろうと予測できる。レイダのような、軍属らしきベイラーもいる。


 《あれ? 縦穴がある。こんなのあったか? 》


 目覚めて立ち上がると、そのすぐ傍に、寝る前までは気が付かなかったおおきな縦穴があった。直径は15mほど。かなりおおきく、穴の奥は地上につながっているようで、底であろうとよく見ることができた。


 なぜこのような縦穴がわざわざ用意されているのか。それは次の瞬間、怒涛のようにその縦穴を駆け上がってくるベイラー達で思い知る。


 《ありゃけが人さん。今日は起きてるね。おはよーさん!》

 《おはよございまーす!》

 《オハヨー!!》

 《お、おはよう! ひー遅れたぁ!》

 《ちーす》

 《おはよう。怪我治るといいねー!》


 ベイラーの群れとも呼ぶべき光景が、その縦穴から疾走してこの医務室になだれ込んで来た。 何人か挨拶されたが、恐るべき早さで誰がなんと言ったかわからない。手を振り返す暇もなく、その一団は医務室を通り抜け、城の各部屋へと散って行ってしまった。


 《なんだ今の? 》


 立ち上がり歩き出そうとした瞬間、足がもつれ転びそうになる。カリンがコックピットにいないだけでここまで動作に影響があるのかと、自分の体が思うように動かせない事実が心底煩わしかった。だが、転びそうになった時、近くにあった手すりを付かんだ事で怪我をすることなく、歩き出す事が出来た。


 《ここ、壁一帯手すりが付いてる……段差もない。はは。バリアフリーだ》


 老人ホームもかくやといった心配りだった。これもすべてベイラーのために、設計の段階で仕込まれていたのだと分かる。


 《この縦穴は、籠なしで登るためか》


 縦穴は、よくみれば一部がほぼ垂直ながらもスロープ状になっており、いざとなればここからベイラーは滑り落ちていくことができる。階段を上り下りすることすら難しいベイラーであれば、この設計はありがたい。登る場合は、スロープと反対方向にあるいくつもの突起を足掛かりに、飛び上がっていくという若干アグレッシブな方法だった。さきほどのベイラーの群れはこの足掛かりをつかって登ってきたのをみるの、すべて乗り手がいるベイラーであるのが察せられる。


 《……あれ。もう一人いる》


 穴を覗き込むと、そこにはひとり、あのベイラーの団体から若干おくれて進んでいるベイラーがいる。突起から突起へとジャンプを繰り返しているが、頑なに手を使っていない。


 《使っちゃいけないルールでもあるのか》


 手を使わずに、なんとか登り切ったベイラーを想わず観察する。縦穴から飛び出して着地したベイラーは、空の色を映したような、鮮やかな水色。体をつつむ外套(マント)をしているのが特徴的だった。水色のベイラーはコウに気が付いたようで、向き直って挨拶を交わす。


 《お邪魔します》

 《お気遣いなく》

 《……ん? 降りる? わかりました》


 ベイラーからは、幼い少女のような声がした。その中から、乗り手がでくる。すこし体の背丈に合っていない服をきた少年、のように見える。ネイラの一件があるため、コウは外見で性別を見抜けなくなっていた。


「新しく来たベイラーさんですね」


 乗り手が話しかけてくる。少年の声ではあるが、まだ判断し損ねている。若干のタイムラグがきになったのか、乗り手の少年(仮)が声を張り上げた。


「新しい、ベイラーさんですね!!」

 《あ、はい!》

「郵便を送る際には、ぜひこのナット・シングと」

 《このミーンに》

「《お手伝いさせてください》」


 ぺこりと乗り手とベイラーが動作と言葉を同じくして礼をする。見事な連携だった。コウはおもわず拍手を返そうとするが、片腕を固定しているのを思い出し、ハイタッチの構えを取る。


「?」

 《ナット。白いベイラーは左手を固定していて拍手できないよ》

「そ、そうだった。迂闊」


 少年(仮)はコウにトテトテと近づき、その手をちょんと叩いた。


「いえーい」

 《いえーい。郵便するときはお願いするよ》

「よし言質とった。破ったら蹴る」

 《へ?》

「ではでは。ミーン」

 《はい。彼は本気だから、白いベイラーは約束をやぶらないように》


 水色、というよりは空色という方がふさわしいそのベイラーが、ナット・シングと名乗った人物を『彼』とよんだことで、ようやく性別が判明する。自分の観察眼にほっとしながら、来た時とおなじようにトテトテと歩いてミーンに乗り込んだナット。


 何回か足の調子を確かめた後に、2人は先ほどのベイラーの群れより、さらに早いスピードでこの城内部へと入り込んでいった。恐るべき加速とスピードであったが、それより気になることをコウは発見してしまう。ミーンの外套(マント)は、コウはてっきり装飾品の類であろうとおもっていたが、駆けだした瞬間、一瞬だけその下が見えた。ミーンは腕を使わなかったのではなく使えなかった。


 なぜなら彼女には()()()()


 ネイラの言葉を思い出す。「体が欠けて生まれてくるやつがいる」と。


 《欠けるってそういう事か》


 どれだけの困難が待ち受けているか。考えるだけでも恐ろしい。五体満足のコウでさえ、乗り手であるカリンがいなければ歩行もままならない。今も腕をつかって手すりを掴んでやっと立っている状態。あの空色のベイラーは生まれてから今まで、どれだけの苦労を重ねたのか。


 《それでもあの子、立ち上がったんだな》


 それはきっと、あの少年の力もあったのだろうと思いふける。


 《ここ……この国を一望できるのか》


 なんとか歩き、窓を見る。ベイラー用の2階でもかなりの高さであり、この国を見渡すことができた。ここには時計がなく、今が何時なのか、そもそもこの国に時刻の概念があるのかどうかさえ定かではない。しかし、月と違って、太陽は一つ。 東から登ったであろう太陽が西に沈むのは変わらなかった。


 窓の外からこの国の場所と生活を、少しだけ垣間見ることができた。一面を山に囲まれ、深い森が続いており、森がこの城を境に途切れ、あたりが開けた場所になっている。城は山と盆地の、ちょうど境目にあたる場所のようだ。川もあり、この城に沿うように流れている。城の堀は、この川から直接水を引いていた。


 《(川が近かったから、このソウジュの木は腐って枯れたのかな)》


 城の歴史を考えながらながめると、他の窓のあちこちから湯気が出ている。火を使っているのだなと推測できるものの、ベイラーの性質上、火の扱いにとても気を遣うと考えらえる。安全面に少々不安を覚えた。


 住んでいる人々も見えている。上下、洋服のように体のラインが出るタイプの服であり、各々、道具を持って森に向かっている。道具のほとんどは、大きめのノコギリが目立つ。ベイラーを連れている人も見える。広大な森、そしてそれを切る道具……なら答えは一つ。


 《林業か》


 材質の異なる木は森の中に、それこそ腐るほどある。加工品がこの城に溢れているのを見るに、職人もかなりの数と腕の持ち主がそろっていることが伺える。


 しかし、人間は食べていかなければならない。葉っぱだけ食べれば生きていける訳ではない。タンパク質や糖質をとって、エネルギーにするなり筋肉にするなりしなければならない。無論、この国の人々が、コウの知る人間とは違う構造だったら、そうはいかないが、担架で運ばれている最中に肉らしきものを食べているのを見ている。肉の供給源がある。そう目星をつけて盆地の方角を見ていると、ここにきてまた、その存在に驚愕してしまう。


 《恐竜だ……恐竜がいる!? 》


 コウが恐竜といったのは、それが昔、彼が図鑑で見たアンキロサウルスのそれに酷似していたからである。背中にゴツゴツとしたコブがあり、背は高くないが、しっぽまでは異様に長い。頭は平べったく、細長い。嘴のないカモノハシのような顔をしていた。


 大きさは、牛と同じかそれ以上。人が並んで歩いていており、人間をまったく警戒していなかった。そんな恐竜が、盆地の何か所かで放し飼いにされている。


 そして、盆地のさらに奥には、さらに多くの農地があった。その農地では、ベイラーが、両手を使って土を耕しており、収穫は人の手によって行われていた。ベイラーの大きな手では、人が食べる実は小さすぎて潰してしまうのだと気付く。


 ベイラーと、人と、自然とか見事な調和をなしている光景であった。


 《おお、起きてたか。このねぼすけめ》


 ゲレーンという国を見てある種の感動を覚えている最中、ガインがネイラと共に階段で上がってきた。この時、コウが登り籠に行けば、今度は上げてあげる手伝いができた事を思い当たり、すこしだけ後悔をする。同時に、言葉の意図がわからずおうむ返しで応えた。


 《ねぼすけ?……そういえばさっきの人たちも、『今日は起きてる』とか》

 《新入り、お前さては生まれて初めて寝たな?》

 《はい……もしかして、寝たらまずかったんですか? ベイラーは疲れないから寝る間を使って働かなきゃならないとか、この国にはそういうルールがあるとか》

 《違う違う、そうじゃない。そうじゃなくてな……あー》


 ガインが頭の後ろをポリポリと掻きながら、なにやら言い淀んでいる。伝えるべきかどうか悩んでいるようだったが、何度かネイラとこそこそと話した後、決心がついたのか、ガインはゆっくり話し始めた。


 《お前がここにきて、()()()()()()()()

 《……一週間? 》

 《そうだ》

 《Pardon(ぱーどぅん)(なして)?》


 思わず使い慣れもしない英語で応えるほど、コウの脳内は混乱した。睡眠時間が長いなどというレベルではない。


 《だ、だって、僕は昨日この国に来て、ここで眠って……そんな馬鹿な》

 《その一週間、寝っぱなしだったんだよ。こればっかりは調節してくしかない》

 《なんで起こしてくれなかったんですか!? 》

 《起こしたさ。でも起きなかったんだよ》

 《それでも、一週間なんて》

 《あー、レイダの乗り手のこと、聞いたことあるだろ》

 《なんです突然? たしかバイツって人で、三代目がどうって―――》


 乗り手が三代目。それはつまり先代が居たという意味である。もし、乗り手が変わる理由が、ベイラー側の意思ではなく、人間の意思で、さらに言えば、肉体的な限界を理由として乗り手が変わる事があるとしたら。


 《レイダは、バイツのとこでずっとベイラーとして働いてる。バイツのお爺さんが初代の乗り手だ……もうわかるだろ? 》

 《僕らの、寿命は、人間より遥かに長い? 》


 レイダは乗り手を変えざる負えなかった。だから今、三代目となっている。


 《俺たちはな、人間と同じ時間を歩めない。眠るっていっても、人間とは違う時間単位で寝ちまう。感覚が違うんだ。お前がそんな寝てないつもりでも、人間の方の時間では、かなりの差になってる》

 《そ、そんなのどうすれば? 》

 《だから人間の真似をして、一日きっかりタイミングを合わせて寝るんだ。そうすれば行動がそのまま習慣になる。習慣になれば、寝過ごすなんて起こらない。眠らないことに慣れないようにするんだ。眠らないと、人がいない時間のほうが長い。それは……》


 ガインが、ほんの少しだけ気恥ずかしそうにその言葉を紡いだ。


 《すっげぇ寂しいんだ》

 《……僕らが寝るのは、寂しくないように、ですか》

 《ああ。だってさ、俺たちは相棒がいなきゃ体を満足に動かせないだろ?》

 《はい。ちょっと気を抜いたら、立ち上がるのだって難しかったです》


 実体験が伴うために、ガインの言葉はコウの身に染みた。


 《だからさ、できるだけ寝る習慣を付けるっていうのは、人間と一緒に過ごすための()()ってやつさ。俺らは眠らなくていいが、人は眠らなきゃならない》

 《難しいと思いますけど……少しずつ、やってみます》

 《おう、とりあえず往診だ。頼むぜネイラ……おい相棒?》


 ネイラがずっと黙っている事が珍しかったのか、思わず声を掛ける。そしてかえってきた言葉は、ガインにとって、先ほどよりもっと気恥ずかしかった。


「いや、あんたがずいぶん気持ち悪いこと言ってるなぁって」

 《こいつ! 真面目な話してるときに!》

「はいはい。悪かったよ。寂しがり屋さん」

 《うるせー》


 がやがやとしながらも、手早くコウの体を診察していく。腕の固定もほどき経過をみていくと、一週間の睡眠には体には効果があったようで、もう傷のほとんどが無くなっていた。


 《もう大丈夫そうだな……それにしてもずいぶん治りが早ぇな》

 《丈夫な体みたいで良かったです。姫さまを心配させずに済む》

 《……姫さまねぇ。じゃ、俺らは退散するぜ》

 《治療、ありがとうございました》

 《おう》

「あんまり怪我するんじゃないよ」


 ゴゴゴゴゴゴと、サイクルを回しながらガインが去っていく。立ち上がって、各所の感触を確かめる。あれだけ傷んでいた左手はおろか、ぼろぼろだった体は無傷同然となっていた。手を開いたり閉じたりしても、違和感はない。どんな治療をしたのかは気になるが、左腕の針を抜いたときことを思い出してやめた。


 折れたり傷がついたコウがこんなになってしまうのであれば、両腕を切断されたレイダなどはもっと面倒であったに違いない。謝るまでにはいかないにしろ、何かしらの礼をしたかった。


 そしてレイダ以外にも、会いたい人物がいる。


 《姫さま……カリンに会わなきゃ》

「呼んだ?」

 《わぁああ?! て、ああ!!》


 後ろから声が聞こえて、振り向いて驚愕し、そのままバランスを崩して尻餅をついてしまった。巨大な音が、フロア中に響く。そのあまりの轟音に、ベイラーの尻が割れてしまったか確認したい衝動に駆られた。


 《無事ですか!? すいませんバランスを崩して、えっと》

「倒れたのは貴方なのに、なんで私の気を使うのよ。まったく」


 微笑みながら呆れるカリン。コウからしてみれば、体の不自由さはいかんともしがたく、それによって発せられた言葉だったが、今はその微笑みが見れただけでも転んだ価値があったとさえ思っていた。


 《いつからそこに?》

「手をグーパーグーパーしてるあたりよ。今来たところ。そこまでびっくりすることないのに」

 《いや、まさか、会いたいと思った瞬間に会えると思ってなく……て……》


 口に出して初めてわかる。なんともむずがゆい感覚。


「そんなに会いたかった?」

 《その、ええっと……はい》

「一週間ずーっと会いに来てたのに」

 《どうも……はい?》


 間抜けな声が疑問符と共に飛び出る。 


「なんどか乗ってみたんだけど、ウンともスンともいわないし、あんまりにも退屈で足で蹴ってみたりしたんだけど。えいって」

 《何て事をしているんだ》


 コウは一応苦言を呈する。それは一週間毎日見舞いのように来ていた事に関してか、自分に勝手に乗ることに対してか、それとも乗り込んだ上で足で蹴る事に対してなのか、言いたい事が多すぎて何を言えばいいのか分からなくなる。


「でも、ようやく起きたのね」

 《はい》

「おはよう」

 《おはようございます。素敵な朝になりました》

「今日は天気がいいものね」


 なにやら空気が変わる。その、何でもない雑談の始まりのように思えるカリンの言葉は、コウに不安を抱かせた。


 《(なんだ? なんかミスったか? )》


 コウはまだ、2日しかカリンと話していないが、カリンという女性は感情の起伏が、彼の知る異性のクラスメイト以上に激しい物とある程度理解していた。そして今、カリンはわずかに怒っている。それが何故かはわからない。それほどコウの人生における経験値は少なかった。


 《(天気の事を話したいのか? )》


 会話において、現代でカードゲームに例えた『デッキ』という会話の概念がある。ごく一部の界隈で使用されるその概念は、天気の話をふれば、雨の事、雲の事、晴れの事。それらを手札として置き換えることで、俗に『天気デッキ』と呼ばれた。しかしながら、コウにはそもそもデッキが組めるほど練度がなかった。


 相手の話題に合わせて話す事の方が多く、自分で主体的に話題を振ることなど無かったのだ。適当な相槌と、相手を不快にさせない程度の同意。そして自分の身を守るために、自分は『あなたの味方である』ことをしめす同調。それさえできていればよかった。


 《(ここで、返事を間違えたら、ダメな気がする)》


 そんな、ある一方のコミュニケーションしか知らなかったコウが、唯一『相手が不快を感じている』事に関する感度が働き、今、カリンが怒っている事を察知できた。ここでかつてのコウであれば、同調し、無関心に近い相槌を打っている。


 『ええ。よく晴れてますね』と返している。


 《(そうじゃないんだ。ソレじゃダメなんだ)》


 その言葉をコウは排除する。それを言ってしまったら、今カリンがなぜ怒っているのか。永遠に理解できない。それだけは、死ぬよりも恐ろしいと感じていた。故に必死に、頭の中で応えを模索する。


 《(僕の言葉に、何か足りなかったのか)》


 省みる(かえりみる)のは、自分の発言。カリンが突然天気の話をし始めたその直前の言葉。


 《……カリン》

「なぁに? 」


 まだ、怒気は収まっていない。怒気といっても、目に見えて怒っている訳ではない。ただ、落胆と不甲斐なさを叱るような、わずかなもの。そんなわずかな変化でも、笑っていない事だけがコウを、それほどまでに苦悩させた。


 《今日がいい日になったのは、僕が君と会えたからだ。君と会えなかったら、今日はダメなんだ》

「……」


 コウは、己を省みて、そして伝えなおした。これがダメであれば、もう打つ手はないと言う、すでに背水の陣、もしくは首をくくって椅子から飛び降りる寸前のような、そんな心持ちであり、無音で返されてしまい気が気でなかった。


「及第点ね。花丸とはいかないけど、まぁいいとしましょう」


 心底、ほっとしてしまう。そんなコウの、メトロノームのように行ったり来たりする心情など全く関係ないと言った足取りで、カリンはコウへと歩み寄る。


「さ。朝食にしましょ」

 《はい……はい?》

「だから朝御飯。パンでいいのよね。コウの舌が肥えてなければいいのだけど」

 《ええと、何を?》

「入るわねー」

 《ちょっとあの! せめて説明を》


 なんの説明もないまま、尻餅したコウの、そのコックピットに、カリンは入ってしまった。体に波紋が波打ち、カリンを飲み込んでく。


 座り込んだカリンはすぐ操縦桿を握り、すぐさま視界の共有が始まる。実に一週間ぶりとなる共有で目がチカチカとしながらも、コックピットのカリン視界を見る。するとその中に、奇妙なものがあった。


 《バスケット?》

「そう。少ししか分けてくれなかったわ。でもこれは全部貴方が悪いのよ? 一週間当てが外れたせいなんだから」


 ピクニックに行く時に使うような、網籠のバスケットである。その中には、なんの変哲もないパンが入っている。


 《でも、この体、食事はいらなんじゃ》

「こうするのよ」


 カリンが、バスケットの中のパンをちぎって、一口大の大きさにする。この時、左手を操縦桿は握ったままであり、共有が切れない。そのまま――


「あぐ」


 右手で、パンを口の中に入れた。瞬間、コウにとって久しぶりの、ほんとうに久しぶりの感覚が、体全身を駆け巡った。


「どう? ()()()()() 」

 《はい、はい。とっても……とっても、美味しいです》


 視界と意識の共有。そこに味覚も入っているとはコウは考えなかった。痛覚が共有されていない事を見るに、おそらく味でない『辛さ』は共有されないのだろうなと、漠然と考える。ベイラー側に痛覚に相当する器官がないのであれば、それはまっとうな理論だった。


 カリンが咀嚼している時、口の中のパンに、特徴を発見する。


 《木の実が入っているんですね》

「ええ。この国では誰もが食べたことのあるパンね。お母様のとは違って申し訳ないけど」


 カリンが話す『お母様』。その言葉が指すのは、カリン自身の母の事ではなく、そしてこれは、コウが話したことをカリンが覚えており、コウが嬉しかったと言った事を、カリンはこの体でもできることを教えてくれたという事でもある。


 ここで、カリンがなぜ一週間コウの元に来ていたのかを理解する。彼女は、見舞いに来ていたのではない。無論見舞いも兼ねていたことは疑う余地もないが、それ以上に、彼女は、コウと共に朝食を取りたかったのだ。それがコウが嬉しかった記憶に沿ったものだったから。


「なぁに? 今にも泣きそうよ。コウ。そんなにおいしかった?」

 《はい、はい。おいしいです……そっか、この体だと涙は出ないのか》


 感情がカリンにも共有される。その目はわずかに潤んでいる。カリンの物ではなかった。


「ゆっくり食べるわね」

 《はい……カリン》

「なぁに?」

 《ありがとう》

「どういたしまして」


 ゆったりとした時間が過ぎていく。今日のパンの味を、コウは忘れることは無い。それはきっとカリンも同じなのだと、共有しなくても分かっていた。


 それが何より、コウは嬉しかった。




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