ベイラーと這い寄るナニカ
生き残りが、避難船に向かってきている。それは彼らにとってこの避難船こそ、まさき希望の地であった。だがその彼らの背には、猟犬も迫ってきている。その猟犬も、ただの猟犬ではない。ベイラーと並び立つほどの大きさをした、あきらかに脅威度の増した存在。通常の猟犬が港に近寄らない事を考えても、避難船に向かってきているだけで、今までの猟犬とは一線を画している。
「(見殺しにする訳がない! )」
カリンは、すぐさま行動を起こした。姉であるクリンを置いて、生き残りの元に行こうとする。だが、一言だけ、姉に向けて言う。
「お姉さま、また共に」
「ええ、また共にねカリン」
姉のクリンは、虚ろな目のまま、口の形だけは笑顔で返事する。己の子供が目を覚まさない。それによって変わり果てた表情に、胸が締め付けられる。姉に対するこの仕打ちに、なぜ、どうしてと、叫んで抗議したい。そんな相手など居ないのは、理性ではわかっている。それでも、この憤りが消える事は無い。
「おのれぇえ!! 」
そしてその憤りは、目下の敵を対象とした。巨大な猟犬を倒してから、あとの事は考えようと、その足が動けるだけ動く。避難船を飛び出していく。
◇
生き残りと、巨大な猟犬の接近は他の避難船も認めていた。
「総員ベイラーに乗り込め! つぶれてる奴は叩いて起こせ! 」
指揮は、コルブラットが取り仕切っていた。宴が下火になったとはいえ、まだ兵士達は酒に酔っている。ひとりひとりを叩き起こす時間は無かった。
「水砲を持たせい! パラディンは後列、ウォリアーは前列に配置、決して猟犬を避難船に近寄らせてはならない! 」
「「「は! 」」」
迅速な指揮により、乗り手たちはベイラーに乗り込み、すぐに陣形を整える。彼ら兵士達の練度は、この閉ざされた地で、確実に腕を上げていた。
「出撃します! 剣よわが身を守り給え」
兵士の一人が祈りと共に出撃する。帝都の中で使われている、スラング、流行り言葉のような物である。強大な敵と相対する為に、己を鼓舞する際に使われる。なお、コルブラットはこの言葉が好きではない。それは、本来の言葉が崩されて使用されているからである。
「……剣よ皇帝陛下を守り給えだ。まったく」
婚姻の儀でも使われたこの言葉こそ、本来のもの。だが、いちいち咎めていてはキリがなく、加えて、祈りの言葉ひとつで兵士の士気が保たれるのならば、わざわざ咎めて士気を下げるのは得策ではないと、コルブラットは口を閉ざしていた。
そして、自分も現場に向かおうとした時、ふと気が付く。
「皇后さまは何処に行った? 」
「さきほどサーラ王のもとに。お子がお生まれになったとか」
「なるほど」
コルブラットは、カリンの事を、直情型の人間であると理解している。その上で、自身の利益より他者の利益を優先する性質であるとも。サーラ王の妻、クリンが、カリンと血が繋がっているのは知っていた。であれば、姉妹の情で会うのは、なんら不自然ではない。
「もうすこし陛下の妻としての自覚も……いや、陛下はどこに? 」
「カリン様とご一緒にいかれましたが」
「何? 」
だが、カミノガエも一緒に向かっていったのは想定外だった。
「(陛下が、赤の他人に、ここまで興味を持って行動するようになったのか)」
長年付き従っていたが、あくまでカミノガエを、この帝都の毒から守る事だけに奔走していた。彼の心に触れることは決してない。鉄面皮と言われようとも構いはしなかった。すべては、皇帝の血を、決してカミノガエの代で終わらせぬようにする為。
だがその長年で、カミノガエの心が塞いでいくのを無視したのも、またコルブラットである。その事に対して、後悔の念が無いといえば嘘となる。しかし、それでも彼が行うのは、カミノガエを慰める事ではなかった。
そのカミノガエが、短期間でここまでの変化を見せている。
「(これだけでも、あの娘と一緒になった甲斐があったな)」
己の事を棚にあげての評価を下し、自身の業務に戻ろうとした時。兵士のひとりが声を荒げる。避難船、甲板の上で、野次馬も集まりだした。
「あ、アレ、皇后さまじゃないのか!? 」
「うわ足速ぇ! なんだあの人」
「……何? 」
その声を受け、心穏やかでなくなりながら、コルブラットが目を見やると、そこに信じられないものがあった。件のカリンが、猛烈なスピードで避難船を飛び出し、あろうことか生き残りの元に駆け付けようとしている。問題は、カリンが誰もつれておらず、相棒のコウにも乗らず、生身で向かっている事になる。
「あの者は、物を考え無いのか?」
呆れて出た言葉は、兵士の耳に届き、噴き出すのを堪えるべく、口を結んだ。
「(なんだ? 何故立ち向かいに行く? あの猟犬を生身で倒せると? 本気か? それとも何か勝算があるのか? )」
コルブラットは、何故、カリンが出てきたかを、思い描けるだけ描いたが、そのどれも確証が得られなかった。そもそも、彼女が出てきたところで状況が動くわけがないと信じている。あの巨大な猟犬の始末を兵士達に任せ、一刻も早く、自身の身の安全を確保してほしいというのが、コルブラットの願いだった。
「ええい! 皇后さまのキャラバンを呼べ! だれぞ、何処にいる! 」
「あ、あのコルブラット卿! ひとり心当たりが! 」
「そうか。どこだ? 」
「あの、あそこに」
兵士のひとりが指さす。その先には、酒を抱えて、男たちと共に雑魚寝をし、この騒動の中、鼻提灯を浮かべてすやすや眠っている、眼帯の女が居た。正味、コルブラットは全力で無視したくなったが、彼女の力を知らないコルブラットではない。加えて、眼帯の女――サマナのすぐそばに、相棒のベイラーがいた事で、彼女が最も早く、この状況に対応できると考えた。
「……あの海賊女を皇后さまの元に向かわせろ。」
「しかし、どうやって」
「なんでもよい。水でもかけてしまえ」
完全に酔っぱらいに対する投げやりな方法だが、他の方法は思いつけなかった。兵士は言われるがまま、桶に海水を組み、その顔面に躊躇なくぶっかける。
「……んあ? 」
「お、おい海賊の! 手を貸してくれ! 」
「……なんでぇ? 」
「カリン様が危ないんだ! 」
「カリンが!? 」
そして、サマナは飛び起きて、兵士と共にカリンの元へと向かった。
◇
生き残りの青年は、ひたすらに走っていた。体は痛くない場所を探すほうが難しい。肺に空気をいれるだけ入れて、なんとか体を動かす、
「やっと、やっと助かるのに」
訳もわからず、この帝都という場所が、化け物に襲われて、もうどのくらい経ったかわからない。ろくに眠れず、ただひたすら逃げ続けている。
「なんで、こんな」
ここにいるのは、偶然居合わせたと言うだけで、家族や友人でもない。名前すら憶えていない。最初は五人ほどのちいさなまとまりだった。それが、化け物たちがはびこった街で、ひとりでいる事はあまりに危険で、寂しかったのだろう。自然と生き残りが集まり、二十人ほどの集団へと膨れ上がった。兵士崩れや平民、商人。貴族以外のさまざまな人種が集まっていた。貴族は一番に逃げており、この輪の中に居ないのも当然だった。だが、その二十人ちかく半分は、もう化け物に喰われて、居なくなってしまった。
「足を止めるな! もうすぐだ」
「は、はい! 」
集団の中で、唯一声を張り上げているのは、背の高い男。帝都人ではない。彼らをここまで統率していた。彼に対して、集団は特に恩義を感じている。
「(名前は誰も呼んでなかったな)」
なぜか、彼の周りにはカラスの羽根が舞っている事が多い。だから、彼の事を皆「カラスさん」と呼んでいた。カラスさんは、表情こそ硬いが、彼が何かを口にしたのを見た事がない。食べ物が見つかった時も、自分の分すら他の皆に分け与えていたのを、青年は目撃していた。カラスさんは良く通る声で、青年達は彼の指示通りに動いていた。カラスさんは、組織を効率よく動かす術を知っていた。
「でも、もう」
青年は、足がもつれ、倒れてしまう。背後には化け物が迫っている。化け物は化け物でも、今まで見た事がない大きさをしていた。その大きさは、牙で体を食い破られる、というより、丸のみにされてしまいそうな大きさだった。何度嗅いでも嗅ぎなれない、腐敗臭と刺激臭を足して倍にしたような、化け物が持つ特徴的な匂いが、すぐそこまで迫ってくる。
死にたくない。でも足がもう動かない。
「嫌だ、嫌だ」
大きな顔が迫る。顔といっても、目には眼球がない。耳もあるが、耳と呼べる位置についていない。なにもかもがチグハグな場所に付いている。唯一、口と牙だけが、考えうる正しい位置についていた。大きな口が開かれ、飲み込まんとしてくる。脳裏に浮かぶ、死という終わり。寿命でも、病でもなく、戦争でもない。こんな方法で死ぬとは予想できなかった。
「助けて」
絞り出た月並みな言葉は、誰に聞かせるでもない言葉。それでも、誰かに聞いてほしいと思った言葉。青年は、誰かに届くとは一切考えていなかった。
故に、とんでもない大声で、とんでもない速度で、その化け物を横から突っ込んできた女の子が出てきた時は、自分がついに狂ってしまったのだと思った。
「ズェエアアアアア!! 」
「(人間の、声か? )」
服装で女の子であろうと判断できた。だが、およそ人が出す声ではなかった。化け物の首を、女の子は剣を真っ直ぐ振り下ろしながら突っ込む。そのまま、全体重を押し込み、何度も何度も、肉を切り開き、推し斬っていく。
ごり、ごり、ごり、ごりと、血と、肉と、骨を、ぶった切っていく。
「ダッシャァアアアアア!! 」
やがて、そのまま女の子は化け物の首を貫通して躍り出る。首にまるまる人間の大きさをした穴が空いて、化け物はその場に崩れ落ちる。女の子には、着地こそ綺麗に行ったが、その後に、全身に化け物の赤い血が滴り落ちる。洋服と顔が血に濡れていた。
「ご無事で? 」
「――は、はい」
「避難船までもう少しですよ」
「はいぃい! 」
青年は悲鳴をあげてしまった。血みどろになった女の子がこちらに向かって手を伸ばした。だが、どうしても手を取る気が起きなかった。女の子は最初は首をかしげたが、やがて自分がどんな状態なのかを把握すると、伸ばした手を引っ込めた。
「ご、ごめんなさい。汚いわよね」
「は、はは」
笑って、誤魔化す事しかできなかった。
「立てますか? 」
「た、立てます」
「走れますか? 」
「走れます! 」
先ほどまで、死期を感じた恐怖とはまったく別の、単なる絵面の恐怖が視覚に入力されたことで、青年の体がバグを起し、その場から立ち去れる事ができた。だが、最後に良心が、女の子に、せめてもの礼をしなければと奮い立つ。
「あ、ありがとう」
「また共に」
「はい! また共に! 」
刀の一撃を入れた女の子――カリンは手を振って見送る。
「あら? あの言葉は」
血みどろになった顔を拭い、最低限の視界を確保する。ふと、先ほどの青年に、つい癖で、故郷の挨拶をしてしまった事に気が付く。だが、青年の方は、なんら違和感なく返礼している。まるで、その挨拶を知って居るようだった。
その事を青年に聞こうとした時には、すでに、さきほどの一撃を与えた猟犬が、立ち上がってこちらを向いていた。不思議なもので、目玉が無くても、こちらを向いているのが分かる。
「ああ、そう。貴方、ちゃんと殺気は籠ってくれるのね」
「――」
生き物が持つ、闘争心から出る殺意。猟犬からソレが出ていることに、カリンは、外見、生態、思考、何一つ分からなかった生物が、こちらと同じような殺気を持っている事に驚きを隠せない。なにより。
「でも、それで生きているの、やっぱり変よ」
首に大穴が空いて、皮一枚でぶらんと垂れ下がったまま、こちらを向いて牙を剥いている。その結果、巨大な猟犬の目線は、人間と同じ程度の高さになっているのもまた不気味だった。
「(アレじゃ、私を食べてもお腹に入らないわ)」
そんな場違いな事さえ頭に浮かぶ始末だった。無論自分が食べられる事など絶対に許容できない。
「さて」
刀を握り直す。血しぶきがどうの言っている場合ではなかった。たった今、猟犬を推し斬ったばかりの刀には、刃こぼれ一つない。カリンの使っているこの刀は、由来こそ知らないが、旅の始まりより前からずっと扱っている為に、よく手に馴染んでいる。切れ味こそ、他の刀に比べればずっと悪いが、しかし決して折れず、決して曲がらない。意図せずして、ベイラーの刀と真逆の性質をもったこの刀を、カリンは気に入っている。
「どうしたものかしらね」
そして、コルブラット卿の言う通り、彼女は、本当に何も考えずにこの場に立っていた。さきほどの青年を助けられたのは結果論であり、とにかく、彼女は体が動くままに刀を振るったにすぎない。だが、懐には、きちんと、猟犬を殺せるだけの手段を忍ばせている。
「敵は一匹。なら」
腰には、小さな樽が二つ。ふたつとも水が入っていた。心もとない手札ではあるものの、コレで何とかなる。と思っていた。新たな巨大猟犬の出現で、人々が恐怖している中、悠然とカリンは立ち向かえた。それはカリンにとって、ベイラーと同じほどの大きさの生き物など、いくらでも見た事がある為である。いくれ大きくなったとはいえど、獣は獣。これは侮っている訳ではない。事実として、人に害を成す獣を倒すのは、カリンにとって当たり前の仕事である。
故に、その猟犬の体が蠢きだした事に、警戒心を強くする。
「今度は何をしてくるのかしら」
猟犬が何をしてきても、即応できるように。していたつもりだった。巨大な猟犬が首をかしげる。大穴の空いた首でそんな事をすれば、流れ出た血が、さらにドバドバと地面に落とされていった。 やがて、ブルブルと体を振り、流れ出した血を止める。これにより、巨大な猟犬の足元には大量の血の池が出来上がる事となる。
「……一体、何を」
一切目を離さず、その様子を観察する。そして、その場で起きた事を、正確に理解しようとした。血の池から、ぶくぶくと泡が出ていく。その泡の勢いがやがて大きくなり、そして弾けた時。ばしゃばしゃと、内側から吹き上がるようにして、何かが出てくる。
「あー、今度はそういう事してくるの」
何が起こったかは、理解できた。なんでそうなったのかは、やはり、今まで通り、理解できなかった。
「……増える訳、ね」
巨大な猟犬の血から、小型の、見慣れた猟犬が複数現れた。数にして15匹ほど。これにより、カリンは一気に数的劣勢を強いられる。
「(もしかして、いくつかの猟犬が集まってあの大きいのになった? それとも、あの大きい猟犬そのものが持っている力? )」
仮に、巨大な猟犬の力を推察してみる。猟犬とし、血から湧き出てくる事は前にも見た事がある。今回は、その力が、ある種増援として使われた面に注目している。
「ま、そのあたりはオルレイトあたりに話すとして」
だが、時間にして五秒に満たないほどで、そちら側の思考を破棄し、目下、自身の置かれた絶体絶命の状況を打破する為に、思考を切り替える。
「(背後の避難船まで逃げる? 駄目。避難船まで追ってくる可能性がある。特にデカイ奴)」
数的不利は明確。背後の避難船まではまだ距離がある。さらには、さきほど助けた青年達も、まだたどり着いていない。逃げる道は無い。
「時間を稼げば、なんとかなるかしらね」
援軍が来ること。ソレを信じ、この場で踏ん張る事を決めた。ここまで思考時間は2秒無い。きっと、自分がここで戦えば、誰かが水砲を持って現れるだろうと。実際、後ろからサマナ率いる兵士達がやってきているので、この作戦は正解ではあった。そして助ける誰か。それはきっとコウであってほしいと、無意識に願っていた。今まで、彼女の窮地を幾度となく救ってきた。そして自分も、彼を救ったことがある。お互いがお互いに信頼し、信用し、信愛している。疑う余地は無かった。
だからこそ、背後から、もっとも聞きたくなかった声が聞こえた時、カリンは安堵より先に、怒りが湧いてしまった。
「もう少し、後先を考えないのか」
「―――嘘でしょ」
足元に舞い散る、黒いカラスの羽根。武器は無く丸腰。だが彼の技術を考えれば当然の事。彼は、徒手空拳の使い手。その両手は武闘家らしからぬ柔らかさで、ともすればカリンより手の皮が薄い。それらは全て、彼が、諜報として各地を回る為に、己が武闘家であると悟られない為の物、
「貴方、どうして。いままで、どこに」
カリンも、姿が見えない事に、別段気にかけていなかった。きっと、物陰から、自分と、自分の父、ゲーニッツを見守っているのだろうと。いままでがそうであったように。
「街いる生き残りを探していました……もっとも、半数はやられてしまったが」
「オージェン、貴方は」
「ここは何とかしましょう。ベイラーの居ないカリン様では手に負えない」
オージェン・フェイラス。故郷ゲレーンで諜報機関『渡り』。その長であり、ゲーニッツ・ワイウインズの無二の友。そして、カリンの初恋の相手にして失恋相手でもある。今でも、顔を合わせるとどこか気まずい。もっとも、きまずくなっているのは一方的にカリンだけであり、ゲーニッツにとってはすでに過去の事で、気にしていない。
「貴方だってベイラー居ないじゃない! 」
「恥ずかしがり屋のベイラーがいる」
「え、来ているの? 」
「――喚ぶしか、なくなった」
オージェンは、右手を、猟犬たちに向ける。途端に、猟犬たちの様子が、今まで見た事無い物になる。あの、牙をもつ口で、初めて、吠えはじめる。もっとも、ほかの部位と同じように、喉が無いからか、吠える声は響かない。それでも、15匹の猟犬が、たったひとりの男に対して、その場から動かず、ずっと吠えている。
それは、猟犬が、威嚇しているようで。
「貴方、何をするの? 」
「さぁ。この後に出てくる奴に聞いてくれ」
それ以上、オージェンはカリンに対して返礼しなかった。代わりに、彼は、右手の手袋を放り捨てる。やがて、わなわなと皮膚が蠢いたと思えば、皮が不自然にめくれ上がり、やがて、血が垂れながらも体を離れ、宙へと浮かぶ。皮の、否、紙の一枚一枚が仕上がっていく。その紙は、枚数を重ね、折られ、そして綴じられていく。瞬く間に、小さな豆本が、その場で製本されていく。
どこからか、声が聞こえる。
《称えておくれ》
「いあ、いあ、くとるふぅたぐん」
オージェンが、謳う。幼子に利かせる子守歌のようで、しかし優しさは微塵も感じさせない。
「にゃるらとてっぷ・つがー いあ、いあ、くとるふぅたぐん」
短い詩を、オージェンは繰り返す。カリンにとっては、ソレは意味の分からない言葉でしかない。だがそれは、確かに、彼を、もしくは彼女を、何者かも分からないアレを称える言葉。
「にゃるらとてっぷ・つがー!! 」
詩が三回巡った頃。豆本が、まばゆい光と共に、あたり一面の覆うほどの霧が噴出していく。突然の出来事に、カリンは顔を覆う事しかできない。
「ちょっと! オージェン! 何を――」
抗議しようとした時、ソレを見た。霧の中に、確かに揺れ動く何か。あまりに太く大きい、軟体生物のような触手が、霧の中で一瞬見えた。その触手が、血の中から現れた小型の猟犬を、文字通り、押しつぶしていくのを。触手は一本では無かった。五本か、それ以上にも見えた。
しかし、霧の中では、その実態はつかめない。ただ、猟犬が無慈悲に蹂躙されているのが、聴覚でとらえていた。
「貴方、一体」
《そろそろかなぁ》
さきほどから聞こえる、ベイラーの声。男性の声だが、しかし聞いた事がない。
《おしまいには、まだ速いか》
「オイ。早く戻れ。これ以上は」
《違う! 違うよ。契約者! 》
「(契約者? )」
ベイラーの乗り手。それには様々な愛称が付けられる。親友。相棒。戦友。剣と称する者もいた。だが、契約者と称しているのは、カリンは初めて聞いた。
《もうそれどころじゃナイ! 事態はすでに後戻りできナイんだよ契約者! 》
「何!? 」
《前にも言っただろう。アレに、契約者の見ているこの姿では無理だ》
「アレは、眷属なのだろう? 」
《正確には、違う》
声は、どうやら、あの巨大な猟犬がなんなのかを、知って居るようだった。
《腹が立ったお姫さまが、すこし力を分けた。まだ力の使い方を知らないだけで、そのうちとんでもナイ事になる》
「どうすればいい」
《逃げられ、なかったね。うーん》
「なら契約に追加しよう」
オージェンが、聞いた事もないベイラーの声と話している。しかしカリンは、オージェンのベイラーの名は知って居た。一度、見た事があった。
「(名前は、確か、ナイア)」
《追加? 今更? 》
「お前は言ったな? 力を出せないのは、お前も奴らと同類だからだと。そして、形が保てないからだと。名前が無いから、形も保てないのだと!」
《確かに言った! 》
「貴様に名を与える。以後、ソレを名乗れ! 」
《えええ! 駄目だよ契約者! 契約者の見るこの姿に、名が出来たら、もう星から出られない! それは困る! とっても困る! 》
「早くしろ! 」
《えー》
「本を燃やしてもいいんだぞ! 」
《そうしたら、君も死ぬのしってるよね? 》
「(オージェンが、死ぬ? 本って、一体)」
繰り広げられる会話が一向に理解できなかったのに、そのたった一文だけは理解できた。なにやらオージェンは『本』を持っており、その本が燃えると、オージェンは死ぬらしい。何故そんな事になっているのかは分からないが、ともかく事実として受け止めるしかなった。その上で、オージェンは淡々と告げた。
「なら、ここでお前とあの獣に喰われるだけだ」
《あ゛・ア゛・a゛・唖゛》
声が、明らかに変わった。一文字一文字、同じ音のようで、すべて違う。それが、ベイラーから発された声だと気が付くのに時間が買った。なにより、彼らが一体なんの話をしているのか、カリンには分からなかった。なお、彼、もしくは彼女は、この瞬間、笑っていた。アレは笑い声なのだ。
あの契約者が、目の前の少女を助ける為に、そしてなにより、この瞬間にこの取引を持ち掛けた事に。正気など当に失っているのに。たったひとつのよすがで立っているのに。
《いいだろう契約者。名を呼び給えよ》
「――深淵はお前の目の前に。現れいでよ」
オージェンには、あらかじめ決めていた名前がある。ずっと三文字の名を呼んでいたが、彼、もしくは彼女にとってその名は、どうやら短すぎてあまり意味を成していかった。しかし最近になって、読める文字が増えた事で、彼、もしくは彼女の名前を知る事ができた。知る事はできたが、やはり発音ができなかった。故に、知った上で、呼びやすいように言い換えた。
「ナイアーホテプ」
その言葉が、引き金となって霧を晴らした。そこには、血も流さずに倒れ伏している小型の猟犬と、あれから変わりのない、大型の猟犬。そして。
オージェンの傍らに立つ、体表がうねうねとうねっているベイラー。
《――そうしたのか》
「今から、お前はナイアーホテプだ」
《結局、発声も発音も発言も違うのだが、喜べ契約者》
「(アレが、ベイラー? )」
両手両足はそろっている。だが、両手の前腕部。手首から肘にかけての部分に、ベイラーには無い部位がある。
片腕に一本ずつ、触手がだらりと垂れさがっている。
《ナイアーホテプは、存外気分がいい》
彼、もしくは彼女であった不定形のはずの物は、契約者の命を受け、ここで初めて、自らを『ナイアーホテプ』と定義した。これにより、形あるもの。彼となった。
《やつらに混沌を授けてやるともサ! 》
這い寄るナニカ。ナイアーホテプが、ここに顕現した。果たしてソレが人にとって良い事なのかは、まだ誰にも分からなかった。
けいおすけいおすあいわなけいおす




