皇帝とカリン
《何がどうなってるんだ》
「わからないわ……ほんとうに」
霧雨の降る帝都の昼下がり。長い時間歩けば歩くほど水滴がつく鬱陶しい天気の中、カリン達は第十一番地区に足を運んでいた。コウの姿はあの大会で帝都中に知れ渡っており、ただでさえベイラーでも珍しい白い肌であるのに、そこに翼が生えているとなれば、見物客も多く集まってくる。だがその見物客は、最終的にコウを見に来たのを忘れ、ただ黄色い歓声を上げている。理由はその同行者にあった。
《嫁入りって話だったろう? なんで散歩してるんだ》
「わからないわよ……それよりほら。落とさないようにね」
《落とさないけどさ》
「うむ。実に、いい眺めだ。これで雨が止めばもっとよいのだが」
コックピット越しで行われるカリンとコウの会話は、すでに混乱の最中におり、そしてその中心は、いまコウの右手にのり、悠々と帝国内を散策する皇帝カミノガエである。霧雨で体を塗れるのを嫌い、コウの左手には、大きな傘をさしていが、その大きさはもはや傘というよりパラソルだった。
「どうしてこうなっているの」
時は、今朝にまでさかのぼる。
◇
「お主が、カリン・ワイウインズであるな? 」
「は、はい陛下」
「佳い。表をあげよ」
朝一番、軽い朝食を済ませた直後に、カリンとその父ゲーニッツは皇帝カミノガエと謁見を果たしていた。突然カリンを嫁に欲しがっている事を告げられたゲーニッツは、その真意を問いただすべく謁見しているが、本題に入る前に、横に控えているコルブラッドが遮る。
「陛下。今日は街の視察と、帰還する者達がおりますので」
「ああ。そうであったな」
「お待ちください陛下、今日はお話が」
「……そうだ。カリン・ワイウインズ。ベイラーは操れるな? 」
名指しの問いに一瞬反応が遅れながら、カリンが凛とした声で答える。その声色をきき、普段退屈そうにしている皇帝の顔がわずかにほころんだ。
「無論です」
「佳い。コルブラッド。視察は彼女と行う」
「……よろしいのですか?」
「今日の視察は第十地区までのはずだな」
「はい」
「であるならば、パラディンよりも、共をするのはカリン・ワイウインズの、あの白いベイラーでよい。余は一度、あのベイラーの手にのってみたかったのだ。お主。できるであろう? 」
「も、もちろんです」
「決まりだな」
皇帝カミノガエが立ち上がり、玉座から離れる。
「ゲレーン王。言わんとしている事は分かっているつもりだ」
「は、はぁ」
「カリン・ワイウインズにその問いにもこたえておく。安心されよ。余は女性を口説き落とす手練手管は持ち合わせていない」
肩をすくめながら答えるカミノガエに、ゲーニッツの顔は、呆けたままだった
◇
急遽決まった同行に一番の難色を示したのはコウであった。心を通わしたカリンを娶ろうとするカミノガエは、いわば恋敵であり、その人物を手にのせて歩くなど気が気でない。カリンはそれをよく宥めすかしながら、どうにか王城を出立。龍石旅団の面々に見送られながら。こうして帝都を練り歩いている。
「陛下、揺れは大丈夫でしょうか? 」
「思った以上に揺れるな。平坦な道でこれか」
「くれぐれも、その綱から手を放しませんように」
「離すものか」
カミノガエが掲げるのは、コウの右手に直接結ばれた命綱である。手のひらに人間を乗せながら歩く事は、コウにとってはすでに慣れた行為であるが、気候が雨であり、いつ足を滑らすか分からない。その際、手に乗っているカミノガエが落ちれば大けがに繋がりかねない。
《(苦肉の策だけど、無いよりはマシだ。安心して歩ける)》
この命綱をみて安心しているのは、コウだけに限らず、見学に来たものも胸をなでおろしている。幸い、霧雨ながらも風はなく、横風で倒されるという事はない。そしてもう一つ。カリンには用意した策がある。
「(ヨゾラはきちんとついてきてくれている)」
上を見上げると、雨雲の隙間からちらちらと見える、センの実で緑色になった姿。空を飛べるヨゾラが、全周警戒をするためにずっと低速で飛び回っている。これは、コウになにかあった時に、空から手助けできるようにする配慮であった。
「(暗殺者がいないとも限らない……それにしても)」
街の人々は、コウを見て、そして皇帝をみてその手を振っている。皇帝も慣れた様子で、退屈そうな顔のまま、その手を振り返している。
《(ここまで人気があるのはしらなかった)》
カリンは、帝都に対して、圧制を敷く暴虐な国であるという疑念を拭えないでいた。しかしいざ自分が帝都に入り、民の暮らしぶりを見て、暴虐な面をまったくみつけられず、ともすれば拍子抜けさえしていた。民は王を慕い、王は民を導いている。
「(こうも歓迎されているのは、陛下の人望ああってこそ……なら、軍事力を用いて他国を侵略する理由は一体どこにあるのだろう)」
思案が続く中でも、止まない雨粒が滴り、コックピット内部の視界は最悪の状態。コウの目線で道をみながら、通行人に気をくばりながら歩き続ける。
《カリン、考えるのは後にした方がいいかも》
「そうね。足を滑らせないように」
ベイラーであるコウも、整地されているとはいえ、雨の中を歩くのには神経を使う。ましてや両手に物を持っているため、倒れた時に体を支える事ができない。
《(にしても、ちょっとは笑ってもいいのに)》
コウは、ただの感情論ではあるものの、民に親しみを込めて呼ばれ、それに応じ手を振っている皇帝が、一切の笑みを見せない事が不思議でしょうがなかった。それは彼が今まで出会ってきた王たちが、例外なく民に向けては屈託のない笑顔を見せる人々であり、それがまた、当たり前の事だと認識していた為である。
「ふむ。第十一地区も変わりないな」
民の視察を事務的にこなす皇帝は、コウの所感など全く鑑みず、ただ乗り手のカリンに次の目的地を告げるだけにとどめた。
「第十二地区に向かいたまえ」
「戻るのですね? 」
「港に用向きがある。そろそろ頃合いのはずだ」
「港ですね。コウ! 向きを変えるわ」
《お任せあれ》
一度立ち止まり、ベイラーにとっては狭い道で方向転換する。その手に乗っている皇帝は横方向の揺れに耐えるべく、命綱をしっかりを握りしめた。
「お、おう。なかなかどうして」
「本当はあるきながらゆっくり曲れれば良いのですが」
「佳い。十一地区にはベイラーを満足に動かす広場もないのだからな」
《(今にして思えば、あのコロシアムってやっぱり特別なんだなぁ)》
ベイラー2人を迎え、あまつさえ両者の決闘に耐えうる広さと、何百という観客を収容できるコロシアムは、帝都でも唯一無二の施設だった事を痛感する。
《(人は多いし、物はあるし。便利な街なはずなのに)》
だが、その施設に対する感想とは別に、コウがこの国に来てからずっと感じている疎外感の答えが見つけられない。
《(ゲレーンよりずっと栄えているのに、どうしてこう息苦しいんだろう)》
数年に一度起きるという病の蔓延。それを止めるべく行われているという消毒。人々を意図的に遮る壁。排他的な要素はいくらでも見出せるが、どれも答えの決定打にならない。
「陛下―! 」
「おお、陛下だ! 」
答えを探す思考は、街の住人が自分の手のひらに載っている人物に向けての声で遮られる。声をかけてくるだけならばまだどうとでもなるが、問題は、皇帝を一目みようと民衆が足元に群がる事にある。カリンと視界を共有しているとはいえ、カリンの身体的特徴のために、足元を見るのは難しい。なかばすり足になりながら、いつもの何倍も神経をつかって歩いていた。
《―――ッツ! カリン! 右足に子供がいる! 》
「かくれんぼがお上手な事で!! 」
すり足ならば、踏みつぶす事はないが、どうしても激突の危険はある。ぶつかりそうになるのを回避すべく、ガクンとコウの体が止まるのと同時に、手の平にのっていたカミノガエが前につんのめる。綱を握りしめていたために、落下することはなかった。
「陛下! お怪我はありませんんか!? 」
「大事ない」
カミノガエはわずかに冷や汗をかきながら、コウの手の上で姿勢を正す。足元では、初めて見るベイラーにキョトンとしている子供を、血相を変えて抱き上げて離れていく両親たちがいた。彼らは頭を何度も何度もさげながら、しかし恐怖で一目散に逃げて行ってしまう。
「あの親子は悪くありません。罰すのならば私を」
「……だれも罰するとはいっておらん。罪にも問わぬ」
カリンの懸念は、あの親子の処遇だった。もし皇帝を怪我させたとあれば、重罪となる。しかしそれもすべては、カミノガエの言葉で杞憂に終わる。
「余を降ろせ。第十二地区までは遠くない。これでは埒があかぬ」
「は、はい」
「さぁ、その方ら。道を開けよ。余が通るぞ」
カミノガエの、文字通りの鶴の一声により、歓声に沸いていた群衆がぴたりととまり、皇帝があるく道を、例外なく開けた。雨が降っているとはいえ、まだ昼間で人の往来も激しい。だがカミノガエの声に応えるように、誰も逆らうことなく道が開いていく。
「これで少しは歩きやすかろう」
「お心遣い、感謝します陛下」
「佳い。ベイラー。世話をかけたな」
《い、いえ》
コウは、たった一声で民草を動かしえる人物であることを目の前で見せつけられ、いよいよもって、この国に感じる違和感の正体が分からなくなっていく。
《(悪逆非道で横柄な態度をしてくれれば、まだやりようがあった)》
そうすればまだ判断のしようがあったが、今のところ、皇帝カミノガエが民衆に対して酷い行いをしているのをみた事がない。もしそんな場面になれば、即座に地面に叩き落す心づもりですらあったコウにとっては肩透かしを食らった気分であった。
《(少し陰湿が過ぎる……雨に長く当たってるからか? )》
いまだ晴れぬ空をみあげながら、皇帝の体がぬれないように傘をさして進んでいく。帰り道と比べて、道に出てくる人はおらず、歩きやすさだけでいえば各段に良くなっていた。
◇
「陛下。ご質問してもよろしいですか?
「佳い。許す」
「ご用向きというのは? 」
「ああ。言っていなかったな」
第十一地区を超え、第十二地区の港にやってきた。雨は未だ静かに振り続けているものの、港の様子はまったく違っていた。船をいれるための入り江には大きな波がひっきりなしに打ち付け、船は海水をかぶっている。船乗りたちは自分たちの船を守るべく錨を降ろし、縄をつないでいる。大しけの海を前に。カミノガエは潮風に当たる事を厭わずに入り江でたたずんでいる。
「今日は遠征隊の帰還日なのだ」
「えん、せいたい……まさか」
カリンの脳裏に、侵略の二文字が浮かぶ。軍事力で他国を征服してきたという帝都ナガラの成り立ちに即した想像である。しかしカミノガエは即座に答えた。
「戦争をしにいったのではない。今日帰還する多くは商人である」
「商人? 」
「他の国で商いをして、成果を持ち帰っているのだ」
「商い、だけなのですか? 」
カリンが思わず問いかけてしまう。だがその問いかけを見透かしたかのように、カミノガエは淡々と続けた。
「商人だけだ。余の代ではな」
「陛下の代? 」
「戦争するだけの兵力が育っておらん。これでも、あのウォリア―だのパラディンだので補強はされたのだ。だが練度がてんで話にならん」
大しけの中で立つカミノガエは、じっと海の一点を見ている。いささか港が騒がしくなっている。
「戦争している暇はないのだ。剣爺や鉄拳の奴には、余から言って聞かせているのだが、それも難しくてなぁ。なかなかうまくいかぬようだ
「―――おっと」
高波が押し寄せ、カミノガエに降りかかる。しかし、すぐさまコウがカミノガエの体をかかえ、カミノガエがぬれないように丸くなる。背中に大波を受けながら、しかし波に連れていかれないようにしっかりと体を支えていた。
「陛下、この波では、船は港につくのは難しいかと。一旦日を改めたほうが」
「……よく、間に合ったものだ」
カミノガエのつぶやきは、コウの見せた機敏な動きに対してだった。そのまま入り江から遠く離れ、波が届かない場所までカミノガエを非難させる。大波を受けて家が流されぬように、ある程度の高さをもつ防波堤には、多くの舟守達が大しけの海を祈るような気持ちで眺めている。その眺めている一団の中に、コウは、帝都に防波堤という災害用の設備がある事に驚きながら、すべりこむようにカミノガエを降ろす。
《ここなら、波も届かないと思います》
「コロシアムで見ていたつもりだったが、よもやここまでとはな」
「そ、そこの白いベイラー! 待ってくれ! 」
突然現れたベイラーに誰もが驚く中で、ただ一人前にでる人物に、コウは一瞬顔と名前が一致せずに困惑する。だがコックピットの中にいたカリンはすぐさま反応しする。
「やっぱり! コウ君か! なら中には姫様がいるな!? 」
「ロペキス? 貴方ロペキスよね? なんでこんなところに? 」
ロペキス・ロニキス。カリンの姉であるクリン付きの従者である。
「これでも、サーラの船を任されているんだ」
「あら。なら名実ともに船長じゃない」
「それが、その、困った事に……入り江で船が座礁していて」
その座礁した船が入り江をふさいでいるために、他の船は出る事もと入る事もできなくなってしまっていた為であった。ロペキスは任された船を守るべくここに立ちより、偶然カリン達と出会ったのである。
「うちの船はまだなんとかなりましたが、座礁した船が塞いじまって」
「その方。名を名乗れ」
ロペキスとの会話に割って入ったのは、ずぶ濡れになったカミノガエだった。最初、ロペキスは目の前にいる人物が皇帝だと気が付かず、思わず首を傾げるも、しかしその物言いと纏う雰囲気が損なわれておらず、すぐにロペキスは膝をついた。
「じ、自分は、ロペキスと申します! 」
「ロペキス。余の質問に応えよ」
「お、仰せの通りに」
「座礁した船には、帝都が使う狼の印のついた旗はあがっておらなんだか? 」
「狼……は、はい。確かにその旗を見たという者がおりました」
一瞬、皇帝が二の句を告げなくなり、妙な間が空いた。普段、気怠そうな表情を変えることが乏しい皇帝の表情がわずかに歪む。
「で、あるか」
静かにその言葉を吐き出した頃には、皆、ぬれねずみになった陛下に体を拭う布を差し出すかどうかの相談をしていた。
「御体に我ら庶民の布で拭いてもらうわけには」
「だが、あのままではそれこそ御体に触る」
彼らはみな船を守る舟守で、上半身裸であった。それは日々船を守るべく海に出る彼らにとって服、とくに上半身の物に関しては水に濡れてしまえば重くなり、泳ぐことも叶わない。現代のような救命胴衣は、まだ開発されていなかった。
「陛下。入り江で座礁しているのは、陛下がお待ちしている遠征団ですね? 」
コウから降り立ち、カリンが伺いを立てた。皇帝も、その言葉に応える。
「そうだ」
「……ロペキス、ありがとう。ちょっと行ってくるわ」
「行くってどこに!? 」
「海よ。コウ! 」
《お任せあれ》
それはカリンに、そして皇帝に向けた言葉だった。カリンのコクピットに納め、いままでコウが雨避けとして使っていた巨大な傘を強引にねじ込む。
「場所は入り江の近く。風は大丈夫? 」
《俺達はもっとひどい嵐を知ってる》
両肩のサイクルジェットが暖気を始める。雨でぬれていた体が少しづつ乾いていていく。やがて全身の湿気が吹き飛び、コウが姿勢を低く構えた。
「変形して行くわよ! 」
《応! 》
カリンとコウの意識がより深い所まで一致していく。そして、その深くなる一体感と同じように、両肩のサイクルジェットに火が灯り、それはコウの体を大しけの海の上へと運んでいく。皇帝とロペキスに見送られながら、コウは4枚の羽で飛ぶ鳥のような姿となった。
《(砂漠でヨゾラと訓練してなかったら落ちてた)》
荒れ狂う横風に大しけの海、普通ならば飛ぶ事が困難な状況であったが、コウはこの帝都に着くまで何度も何度も飛行訓練を行っている。時に翼を折り、時に失速し、時に墜落までしながら、必死にヨゾラを追いかけ続ける中で、自然と自分の体が空を飛んでいる感覚を身につけ、その上で制御不能に陥らない為の動きを身に着けていた。
《カリン! 船は見えるか! 》
「見えた。狼の印! あれね」
下の入り江で、船が座礁しているのを見つける。巨大な商船であるそれは、ロペキスが言っていたように、狼の印をつけた旗が掲げられている。船体に二本の柱があることから、帆をつかって風をうけて進むであろうその船は、この大しけが生む波のせいでその船体が徐々に傾き始めている。さらには、座礁したときの方向が悪かったのか、波に対して船体が横になっている。放っておけば波をもろにうけ、海に沈むのは時間の問題だった。
「座礁してるってことは、底が海に着いちゃってるのよね」
《それが座礁っていうんだろ? 》
「なら、船を動かせばいいわけね」
《どうするのさ》
「引っ張るのよ」
《単純がすぎる》
「だから効果があるんでしょう」
この大しけの嵐の中、船員はひっしに船の舵を取ろうとせわしなく動いていた。手で漕いでなんとしても脱出しようと試みる物。その最中に空から白いベイラーがやってきたことで、一同は困惑と驚嘆に包まれる。
「空からベイラーが!? 」
「な、なんだ!? 」
船員たちの混乱をよそに、コウは船の錨をつかむと、強引にソレを持ち上げて、船を空へと引っ張り上げていく。錨の重さで関節がみしみしと悲鳴を上げた。目でみるより、船の重さが相当のようで、どれだけの荷物が積まれているのか想像でもつかないほど、船そのものが重くなっていた。加えて、ベイラーの体に叩きつけられる雨という要素が、想定以上の関節に負荷をかけていく。同時に、カリンにも負荷がかかり、その骨から、みしみしと軋みが上がる。
《カリン! いっきに引き上げる! 》
「陛下に、直接運んでしまうのね」
《そういう事だ! 》
時間をかければかけるほど、カリンの体も持たない事を悟ったコウは、故に船をいっきにひきあげ、入り江の内側へと引っ張りこむ作戦にでる。
「サイクル」
《リ・サイクル!! 》
コウとカリンの意識が溶け合うと同時に、全身から緑の炎が吹き上がる。超常の再生力がもたらす剛力。だが、はたから見ていた船員たちは、突然現れたベイラーが燃え上がり、混乱がさらに加速した。
「あいつら、何をしようっていうだ」
「み、見ろ! 船が!」
体にロープを巻き付け、海に落ちないように警戒していた船員。帆を畳むべく柱に登っていたために、全体像を唯一把握しやすい位置にいた。
「ふ、船が持ち上がっていくぞ」
「バカな!? 何人乗ってると思ってる!? 荷物だって」
あれだけ混乱していた者達が一度、船がガクンと縦に揺れたことで、言葉を失う。波をうけて揺れる事はあっても、縦に、それも一瞬で高低差が出来るような揺れは船の構造上起こりえない。それを、目の前のベイラーが、船を文字通り引っ張り上げていく光景がそこにはあった。
「あのベイラーが、やってるのか? 」
だれしもがその現象を信じる事ができない。しかし、4枚の羽をもつ、淡い緑色をした炎を身にまとうそのベイラーが、錨を持ち、そのまま、座礁した場所を引きはがしていく。船が本来浮くべき位置もどったことで、舵をが取れるようになるという頃合いに、船員の1人が、切羽詰まった悲鳴を上げた。
「お、大波だぁ! 」
それは、今までとは比べ物にならないほどおおきな大波。座礁し、波を横に受ける状態になっている船では、飲み込まれ転覆してしまうほどの波であった。船をどうこうする対応をしていては、この場をしのげない。
「コウ! 」
《できるさ! 俺と君なら! 》
故に、波の方に対応を切り替えた。錨を手放し、背中に備え付けた『龍殺しの大太刀』。それを鞘ごと手に取り、空中で構えを取る。コウとカリンのもつ、最速で最大の攻撃方法。
「真っ向」
《逆袈裟ぁ―――》
コウが、カリンが、その刀に力を注ぎこむ。鞘の入り口、いわゆる鯉口から、行き場を無くした炎がわずかに漏れ出ていく。コウ達が選んだ対応とは、迫りくる大波を、その太刀で切り伏せる事であった。
「く、くるぞ! 全員何かに捕まれ!! 」
船員の1人が絶望しながらもロープを握りしめる。船が壊れ、体が放り出されても、なんとか生き延びようとする知恵が働く。大波を前にして人間ができる事などたかが知れていた。ましてや目の前のベイラーが波をどうこう出来るなど、思いもよらない。
「《大炎斬ッ!!! 》」
コウとカリンの咆哮が、空と海と、そして入り江で事の顛末を見守る皇帝に響いた。大太刀が鞘から解き放たれ、力の行き場をえた炎が、その威力を遺憾なく発揮する。極大の刃となったそれらは、海が作り出した大波を前に、委縮することなく突き進んでいく。
そして、炎を纏った大太刀は、大波を真正面から食い破った
波であった残滓が体に降りかかりながら、大太刀を鞘に納めていく。未だ炎が猛るその刀身は、何もしなければつねにベイラーが与えた力を発揮してしまうが故の急務な動作だった。
「お、おお! 」
「波を切ったのか? あのベイラーが? 」
波が分かたれ、船の安全が確認されたころ、ようやく舵が聞き始め、商人達をのせた船はゆっくりと旋回していく。すでにベイラーと乗り手に対して、感謝の言葉が大量に送られていた。
「あれが、カリン・ワイウインズのベイラーか」
あまねく全ての救出劇を見たカミノガエは、その働きに大いに満足している。
「他の者たちとは、ずいぶんちがうようだな……おや」
皇帝は自分の体が新たに濡れない事に気が付き、空を見上げた。薄暗い雲をおしのけて、頭上には透き通るような青が広がりつつある。船乗りたちが一斉に船に帆をはり、乾燥させるべくまた走り出した。
「だがまずは、迎えに行ってやらねば」
長い雨が明け、喧騒の中で、カミノガエの目線だけが、入り江に誘導すべく、海の上をぷかぷかと浮いている白いベイラーと、その乗り手に向けられていた。




