表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

空海傳

作者: 宝蔵院 胤舜

はじめまして。

昔に書いたものですが、埋もれさせておくのもアレだと思い、投稿しました。

楽しんで頂けたら幸いです。

◆空海傳




 宝亀五年(七七四)、讃岐の佐伯氏に、一人の男の子が生まれた。彼は、幼い頃より仏道に心を寄せ、終には大唐 (しょう)龍寺(りゅうじ)において恵果(けいか)和尚(かしょう)より、密教の両部の大法(たいほう)を授けられた。彼の名は空海という。


弘仁七年(八一六)、空海は嵯峨天皇より高野の地を賜った。以前より自然に帰る事を強く望んでいた空海は、是を機に一旦京での雑事を弟子に任せ、自らは未だ建設中の高野山へと引き篭った。

社交的、寛容を以って(たの)む空海であったが、その広い心にもやはり鬱積は溜まる。鬱積が溜まると余裕も失せるものである。そんな時には、禅定に入ってその心の黒いものを取り払い、すっきりと力を蓄え直すのが、彼のやり方であった。時に弘仁十年(八一九)、空海四十五歳であった。この頃の高野山は、まだ堂宇一つあるわけでもなく、開拓に皆が懸命に立ち働いていた。空海も、作業を手伝っては禅定に入る、そんな毎日を送っていた。

真っ先に開墾された土地には、人夫小屋と僧房、そして空海用の庵室が建てられていた。空海は、今日もこの庵室で瑜伽(ゆが)三昧(ざんまい)に入っていた。本不生の阿字を観想して深い三昧に入っている。南を向いて座したまま、身動き一つしない。深く長い息をしているので、その呼吸すら密やかで、まるで彫像の様である。

阿闍(あじゃ)()様、阿闍梨様」

弟子の真然が呼びに来た。しかし、空海は答えない。

「京からの使者が参っております。近江 大臣(あそん)様からのお手紙で、すぐ御返辞が欲しいそうです」

真然は構わず用件を伝える。彼は、師匠が三昧に入っている時には滅多に動こうとしないのを知っているのだ。案の定、空海は何も答えない。気配さえ感じられない。

真然は待つ事にした。待つ以外に方法は無いのだ。やがて、庵室の中で動く気配があり、空海が出て来た。

「何だ、ここで待っていたのか、真然。向こうにおれば良かったのに」

「向こうに居ると、使いの者が煩いですから。こちらで待たせて頂きました」

「そうか、まあ良い」

空海はにこりと笑った。人を安心させる何かがある、柔らかい笑顔である。しかし、それもすぐに消えた。

「で、近江大臣の使者だ、と言ったな」

「はい」真然は頷く。

「しつこい奴だ。わしは虚勢を張る為に開く講義などしない、とあれほど言っておいたのに、また使者を立てて来おったか。何度も同じ事を言わすな、と追い返せ」

「まあまあ、そう言わずに」真然が優しくなだめた。「そう言わずに、文に目を通すだけでもお願いします。使者は、ただ御用を仰せつかっているだけなのですから。手ぶらで帰れば、きっとお仕置きでも貰う事でしょう。彼らの為と思って、一筆、文を付けて下されば宜しいかと…」

「もう良い、判った」空海は真然の言葉を遮った。「あの大臣は大嫌いだが、使いの者の顔を立てて、話しを聞いてやろう」

そう言うと、真然を置いてさっさと僧房へ向かって歩き出した。真然は、肩をすくめて歩き出した。禅定を破られた時の空海の機嫌の悪さは、真然には良く判っていたので、あえて余計な口出しはしなかった。


「御苦労様。待たせて申し訳無い」

空海は、不機嫌な顔を見せずに、使者に向かって声を掛けた。使者は、床に座ったまま頭を下げた。木綿の立派な狩衣を着け、長大な太刀を下げている。武人である事、力を持っている事を誇示している、見た目にも嫌らしい男である。左右に付き従っている付き人も、身の丈六尺を越えるかと思われる威丈夫で、主人よりも強力(ごうりき)そうである。

空海は、謙虚さの無い者は嫌いである。しかし、その気分を表に見せないだけの社交性は持っている。

「ただ今瞑想に入っておりましたので、随分とお待たせ致しました。長旅でお疲れでしょう。暫く体を休められては」

「いや、結構」武人は横柄に答えた。「主人より、早急にお答えを頂いて参れ、と承っておるので。(それがし)加茂(かもの)中将(ちゅうじょう)と申す。見知り置きを」

「空海です。どうぞ宜しく」

中将の態度とは逆に、空海はあくまでも低姿勢である。横で見ている真然と泰範は、空海が何時爆発するか、とハラハラしながら見守っている。

「早速主人の手紙をご覧頂き、今直ぐ御返辞を頂きたい」

「今直ぐ、ですか…。判りました。とりあえず御手紙を拝見させて頂きましょう」

空海はそう言うと、中将から手紙を受け取った。表にはそれらしく「親展」と墨書されている。

なにが「親展」だ。

空海は心中毒づきながら、手紙を開いた。中には、下手な字、下手な文章で、

私が大臣の役付きに成り二十年が経った。また、三番目の娘が皇族の家へ嫁に行く事になった。それを記念して「真言会(しんごんえ)」を開きたいので、是非屋敷へ来て講義をして欲しい。

と、このような事が書かれていた。

「真言会」とは大きく出たな。

思わず空海の口元がほころんだ。多分に嘲笑を含んだ笑いである。

「判りました」空海は、中将に手紙を返しながら言った。「今直ぐ手紙を書きます。泰範、墨と硯と紙を持って来なさい」

「はい」

泰範には、空海の笑いの意味が判ったので、興味半分、不安半分で立ち上がった。

空海は、瞬く間に手紙を書いた。見事な筆致である。それを奉書で包むと、表に「親喩」としたためた。そして座を立ち、中将の手に直接渡した。

「どうぞ、これを御主人に手渡して下さい。読んで頂けたらお判りになると思います。まあ、今日はもう遅いですから、足元も悪い事ですので、翌朝御発ち下さい。貧しいながらも食事と、寝床を用意致します」


翌朝、まだ早くから中将一行は京へ向けて出発した。山門にあたる鳥居まで彼らを見送った空海は、一緒について来た真然を見下ろした。

「多少お山が騒がしくなるやも知れんが、お前達は構わず土地の整備に全力を尽くしなさい」

「はい」そう答えてから、真然は空海に尋ねた。「阿闍梨様、一体どの様な御返辞を書かれたのですか?」

「なになに」空海は珍しくニヤニヤとした。何かを企んでいる悪戯っ子の様な表情である。「大臣どもを高野山に呼び出したのだよ。貴族という権力を笠に着て、好きな事をしようとするあの態度には腹が立った。一つ灸を据えてやろうと思ってな」

空海は鳥居の先に眼を遣った。空は晴れ、瀬戸内の海に浮かぶ淡路島の姿がぼんやりと見えていた。天も地も極めて澄んでいた。


京では近江大臣が、空海からの手紙を今や遅しと待ち構えていた。

「考えてもみろ」朝から酒杯を傾け、近江大臣は言った。「真言宗の空海と言えば、嵯峨天皇の覚えも目出度く、今では叡山の最澄をも凌ぐ、と言われる京でも随一の僧だ。あの男を我が家に呼び入れ、親しくその教えを説いて貰えば、我が近江の家名が上がる事は必定。娘も皇族へ嫁ぐ目出度い時だ。是非ともこの機に我が家門の一層の繁栄を望みたいものだ」

「されども、あの御仁は中々の大人物と伺っております。果たして来て頂けるのでしょうか」

大臣の妻が首を傾げた。

「何を言う。我が権勢の前に、何を断る事が出来るものか」

近江大臣はそう豪語すると、杯を呑み干した。そこへ使いの童子がやって来た。

「加茂中将様が、高野山よりお戻りになられました」

「そうか!直ぐ通せ!」大臣の喜び様は大変なものであった。

中将は、旅装も解かずに大臣の前に座に着いた。懐から空海の手紙を取り出すと、大臣に差し出した。大臣は、「親喩」と書かれた手紙を開いた。

その手紙は見事な文字と文章で、時候の挨拶から始まり、丁寧に返辞の遅れた訳を説明し、謝意を表している。その上で、先ずは個人的に教えを授けたいので高野山まで足を運んで欲しい、と認めてあった。

この内容を読んで、大臣は小躍りして喜んだ。

「見ろ!あの天下の大僧侶が、この儂に『伏して(こいねが)う』と書いて来たぞ。儂の権勢は、終にあの空海をも動かすまでになった、という事か」

大臣は、更に注がれた杯の酒をこぼさんばかりに高笑いをした。ただ、手紙の最後に書いてあった「この手紙を持参する様に」という文句だけは理解出来なかったが、まあそれくらいの事は聞いてやろう、という大きな気持ちになっていた。

「そんなに手放しで喜んでいいのかしら」

妻がポツリと呟いた。


それから一週間ほど後、近江大臣一行は京を発った。供を二十人ほど連れた、中々に派手な行列であった。京を出立して二日ほどで、伊都郡へとやって来た。九度山に近づいた所で、街道沿いに彼らを待ち受ける僧形の人影があった。真然である。

「ようこそいらっしゃいました」真然はペコリと頭を下げた。「皆様には、とりあえず慈尊院にてお休み頂きます。また後ほど、阿闍梨様から御話しがあると思います。御案内致しますので、どうぞ後に付いていらして下さい」

真然に連れられた大臣一行が慈尊院へ着いた頃、陽は西の山並みに沈もうとしていた。彼らが旅装を解いて(くつろ)いでいる所へ、空海が現れた。

「皆さん、長い道程を御苦労様でした。話しはまた翌日にして、今日はごゆっくり御寛ぎ下さい」

空海はそう言ってから、近江大臣に近づいて、こそりと言った。

「食事を終えられたら、私の部屋へお出で下さい」

近江大臣は目を丸くしたが、直ぐに頷いた。

「うむ、判った。直ぐ参ろう」

そして食事が済むと、近江大臣は真然に導かれて、空海の部屋に通された。大臣は、「御免」と軽く頭を下げただけで、勧められもせぬ内から座に着いた。

「話しとは何か」

蓋し横柄な大臣に対し、空海はあくまで慇懃である。

「はい、実は御願いがあるのです。明日の早朝より、大臣様には高野山まで御越し頂きたいのですが」

「山の上へか?」

「はい。それもなるべくなら御一人で。それが無理なら御付の者は二、三名までで御出で頂きたいのです」

「供が二、三人とな?残りの者共は如何にするのじゃ?」

「他の者達は、私の弟子達が御世話をさせて頂きます。なるべく内密に御話しがしたいのです」

「そうか」大臣は大きく頷いた。「それで、儂の頼みは聞いてくれるのであろうな」

「その事につきましても、山の上にて御答え致します」

「判った。そなたの申す通りに致そう」

大臣は、空海のしおらしい対応に大層気を良くして、大仰に頷いて見せた。

空海は、ただ黙して頭を下げた。


翌朝早く、空海、真然を先頭に、近江大臣とその供三人は高野山上へ向かって出立した。空海は慣れた山道である。三十歳若い真然を凌ぐほどの健脚で、どんどん先へ進む。比べて、空海より五歳年下の近江大臣は、高野下辺りで既に息が上がり始めていた。

「上人、上人」終に大臣は音を上げた。「少し休んでは下さらぬか」

「仕方がありませんね」空海はつと立ち止まった。「四半刻ほど休みましょう。しかし、なるべく急いで下さい。夕刻までに山上へ着きたいですからね」

四半刻の休憩の後、再び山上へ向けて歩き出した。空海も真然も、疲れた顔一つ見せずに、ひょいひょいと山道を登って行く。そんな二人の背中を恨めしげに見ながら、大臣とその供は必死の思いで後について登って行った。

空海がひょいと振り返った。かなり急な坂道である。大臣は必死の形相で坂を登っている。

「苦しいですか?」空海は声を掛けた。当然応えは無い。空海は構わず続けた。「これも、(みつ)(ごん)浄土(じょうど)へ向かう道ですよ。楽な道ばかりでは無いんです」

その時、皆の目の前に鳥居が見え、一気に視界が開けた。

「さあ、振り返って御覧なさい。これが密厳浄土、仏の世界です」

空海が良く通る声で言った。皆がその場から振り向いた。そこからは、高野の八葉の峰々が見渡せた。陽は正面に大きく輝きながら海に向かって沈まんとし、紀ノ川から瀬戸内、淡路島までが一望出来た。胸に迫る雄大な光景であった。大臣の一行は、声も無く肩を弾ませながらそれを見つめた。

「近江大臣!」

突如、朗々たる怒声が辺りの空気を震わせた。大臣の一行は、飛び上がってその声の方向を見た。空海であった。その顔は忿怒に歪み、その身は圧倒的な巨大さに見えた。大臣は思わず後ずさった。空海の姿は、当に明王のそれであった。

「大臣、よく聞け!お前は己が私利私欲の為、己が権力の為、娘を利用し、僧を利用し、あくまで自らの利益を追い求める。恥ずかしいとは思わぬか!己が何の為にこの世界に生きているのか、何を為さなければならないか、それをよく考えてみよ。派閥だ、権力だ、財産だ、と一瞬の栄華に心奪われて、そして何が残る。残るのは、数多くの敵と、空しさばかりだ」

大臣は、打たれた様に身動き出来ない。空海は続けた。

「見るが良い。この世界を。広く、美しく、そして揺ぎ無い。この世界こそが仏国土だ。密厳世界だ。この世界を守り、この世界に生きる価値を見出し、この世界において自らを仏と成して真理を具現する。これが我々の使命だ。大日如来の化身たる我々に課せられた使命なのだ。儂の言う事が判るか?」

「は、はい」大臣は空ろに頷いた。「自分自身の利益だけを追い求め、他人を省みなかった事を恥ずかしく思います。上人様に対しても、権勢を笠に着て、失礼をいたしました。我が娘の事も・・・。」

「いや、娘の事に関しては、娘と相手の者、双方の気持ちを(ないがし)ろにするもので無ければ、無理に手を付ける必要は無い。要は、人の心を良く良く考えて物事を成す事だ」

「はい。良く判りました」

大臣はそう言って頭を下げた。次に頭を上げた時には、そこには普段通り、人の良さそうな表情の空海が立っているだけであった。

「判りましたか?これが大日如来の教説ですよ」

空海はそう言って笑った。


近江大臣は、その後山上の様子を見廻って、堂宇建立の寄進を約束すると、何度も礼を言いながら山を降りて行った。

彼らを見送りながら、真然が空海に尋ねた。

「阿闍梨様、先程は近江大臣様に何をされたのですか?」

「別に。ただ説教をしただけだ」

「いえ、そうでは無いと思います」真然ははっきりと言った。「先程の阿闍梨様は、何だかとっても大きく見えました」

「ほう」空海は目を丸くした。「お前にも判ったか」

「はい」

「よかろう。では言うが、私はあの時、不動明王を勧請したのだよ」

「不動明王を?」

「そうだ。不動明王は、(かたく)なに心を閉ざした迷える衆生を、忿怒(ふんぬ)を以って仏道に引き入れる役割を持った仏だ。私は、その仏の力を借りたのだ」

「そうか」真然はハタと手を打った。「これが、何時も阿闍梨様が仰っておられる『加持力』なのですね」

「そうだ」

空海は、それだけ答えると、顔をほころばせた。

高野山は、今だ開墾途上であった。



ちなみに、この際に空海が近江大臣に(したた)めた書状は残されていない。それは、あまりに(へりくだ)った表現を多用した件の手紙が後世に残る事を嫌った空海が、それを近江大臣の手から取り上げ、処分した為である。




1994・05・16(月)AM9・55了

1994・07・10(日)PM3・38改

2010・11・04(木)PM6・40改

元々は「空海傳之壱」というタイトルでしたが、続く気配がないので、壱を外しました(笑)。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ