12
部室の鍵は開いていた。
だが、狭い部室はドアを開けた瞬間、お兄ちゃんはいないとすぐにわかった、でも呼ばずにいられなかった。
「お兄ちゃん…お兄ちゃん…」と
涙が溢れてくるのを手の甲で拭いながら、扉の近くの机と椅子に座り、ぼんやりと翔兄の呆然とした顔を思い出していた。まさか私が来るって思っていなかったんだよね、あの顔は…
翔兄の家に行かなきゃよかった…
泣いて目が腫れているだろうなぁ…きっと酷い顔してるよね…教室に行きたくない…
バックから、鏡を出し自分の顔を見た。真っ黒な瞳の周りを囲む睫は、長くやはり黒い、だが一重で切れ長の目だから、大きく黒く見えるが、その分きつい顔に見える。私は嫌いだった。
伊達眼鏡の大きな黒い眼鏡を外し、メガネを蔓を持ち苦笑した…眼鏡をかけたからって、このきつい目元が優しく見えるわけではないのに、ただ隠すだけ…
昔、翔兄は私のこの瞳を見て、よく言っていた。
「花音の目は、猫みたいに綺麗だね。」小学校低学年の子供がいう褒め言葉だ…今考えると、褒めていたのか…、ただの感想なのかわからないが、嬉しくて毎日のように鏡を見ていた。あぁ…そうだ。と言いながら…
花音は、二本に分け編んでいた髪の編み目に、下から上へ手ぐしを入れるようにしてほぐし…鏡を覗いた。
ゆるいウェーブが掛かった黒い髪が、花音の顔に掛かった。
「花音の髪は、綺麗で良いよねってお母さんが言っていたよ、カラスの濡れ羽色っていうんだってね。」
それを聞いて、私は泣いて翔兄を慌てさせたんだ。
でも…カラスのあの黒い色と、近くでみるとかなりの大きさで、恐くて本当に嫌だったのだ。
「翔兄、カラスは嫌…」
とめそめそする私をおろおろとした翔兄は、
「えっと、えっと…」と言って慌てていたなぁ。
花音の顔にようやく笑みがでた。
そうだ、あの後…私はこう言ったんだ。
「あのね、カナリヤがいいの…」
「じゃぁ、花音の髪は、カナリヤの濡れ羽色だ。」
「うん、花音、それがいい。」
全然意味がわからない例えになってしまったが、カナリヤの濡れ羽色はかなり大きくなるまで、使っていたなぁ。翔兄はいつも優しかった。あんなに優しくて大好きだったのに、どうして…秋月先輩が、翔兄だと半年も気がつかなかったのだろう。ううん、翔兄だったらいいなぁと、どこかで思っていたから、避けるという正反対な形だったけど、気になっていたんだと思う。
いつも女の子に囲まれ、明るくて誰にもやさしい、そして頭脳明晰、容姿端麗をまるで作られたかのような人物像だと思い込むようにして、自分の気持ちを固い扉の向こうに隠した。あまりにも固い扉は自分でも開くことが出来なくなっていた。
廊下で女子の大群を見かけたら、方向転換してしまうくらい係わり合いになりたくなかったのは、翔兄の周りの女子生徒らの様に、華やかな世界の住人達とは私は違う、だから自分が惨めになるのが恐かったんだ…。
そして…それは今日…思っていた通りになってしまった。惨めだった。
理香さんのように、良い家柄で、美人で、頭も良い、それは翔兄と同じ華やかな世界の住人。
同じ華やかな世界の住人同士が惹かれあうのは自然だ。
幼い頃、華やかな世界の住人の翔兄の側にいられたこと自体が、有り得ない事だったんだ。そんな奇跡みたいなことが、またあると、どこかで思っていた。
「翔兄…」と一度呟くと…もう止められなかった。
「翔兄、翔兄、…大好きなの。」と、
とうとう口に出てしまったが…「今更」と言って机に伏して、目を瞑り、なんにも考えたくなかった時だ、にゃぁ~んにゃぁ~んと子猫の声が…お兄ちゃんの私物の中から、聞こえてきた。
へ…平蔵?机から頭を上げようとしたが、平蔵が私の頭の上に乗ってきて上げられなくなってしまった。平蔵は私の頭を乗り越えると…私の顔に自分の顔をこすり付けてきた、温かさとふわふわとした毛並みに、私はそっと手を伸ばし、平蔵の頭を撫でた。
「おまえは…不思議な猫…。慰めてくれてありがとう。」
花音の目にまた涙が零れた、その涙を平蔵は小さなピンクの舌で慰めるように舐めていた。
「わたしね…まだ…先輩が翔兄だと気がついていなかったのに、平蔵が…あの雨の中…雨と泥で汚れた先輩のズボンの裾に、にゃぁ…にゃぁ…と鳴きながら、尻尾を絡ませて慰めいた様子を…元気を出してといっているかのように先輩の唇を舐めていた様子を…見て思ったの…
私も猫だったら、先輩の側でこうやって慰めてあげられるのに…と、おまえの体だったけど、短い時間だったけど、翔兄の側にいられたのは、おまえがくれた、奇跡だったんだよね。願いを叶えてくれたのね…ありがとう。」
平蔵は、にゃぁ~と鳴くとまた花音の顔に自分の顔をこすり付けてきた。




