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えんぜる

作者: 柏崎棗

    えんぜる



                                 柏崎 棗


すずはいま緑色をした風の精になっているのでした。すずが通り抜けると川岸の草が波のようにうねっておじぎしていきます。すずの髪も首すじも花の匂いがします。蝶がまとわりついて、黄色や白や紫の群れが、ずっとついてくるのはそのせいです。

 晴れた日曜のお昼、すずはいつも家を出てからこの川土手まで夢中で、友達に出会って公園へ行かない? と声をかけられても耳に入ったためしはなく――自分ひとりだけの物語を次から次へ作り出していくのは、小さい頃からいちばん好きなことです。小学校の休み時間でも続きをつくるのにいそがしく、誰かに誘われても上の空でいることが多いのはそのためです。

いま、風の精は海をめざして川下へ川下へ、駆けていきます。いろんな人を登場させたり変身させたり――たいていはすず一人だけで、あとは花や動物が出てくるのがほとんどだけれど――土手の下で、川の水が飛び跳ね、歌ってこっちへおいでと誘いました。すずはとんと地面をけりました。蝶と別れて川面へおりていき、つま先で水をひっかきます。しぶきがガラスみたいにきらきら光ります。と思うと湖――ほんとうは川だけれどやっぱり湖だということにしました――にさっと潜り、泥に埋もれて眠り込んでいる銀色の亀の甲羅を七つばかりコツコツと叩いてまた湖面へすいっと浮かび上がりました。風の精は水から出るとふうーっ、ふうーっと息をはいて渦をつくり空の雲をくるくる回します。

風の精は人差し指くらいに小さくなって、ヒメジョオンの茂る森の中をゆっくり歩いていきます。じっさいのすずは土手の中ほどまで降りいって、腰掛けました。お母さんが入れてくれた冷たい紅茶を、首にかけた水筒から出して飲みました。太陽がまっすぐに手をのばしてきて、前髪のつくる影を汗ばんだおでこの上でちらちら踊らせました。お母さんは今日もいそがしく、一人で喫茶店をきりもりしています。お父さんはすずが生まれてまもなく、病気でなくなったのでした。

 たんぽぽをよけて寝ころぶと、空が見えました。雲がわたっていきました。顔を横に向けるとひょろひょろした草の林がつづいています。林の間に、まるい、つやつやしたたまごが見えました。あれ、たまご? すずは思わずひとり声を出してもう一度よく見てみました。顔をまよこに向けた、鼻の十センチばかり先に、冷蔵庫に入っているのとよく似た、たまごがちょんと座っているのです。ただふつうのたまごと違うのは、ひとまわり大きくて、全体にうっすら空色をしていることです。まるで空から落ちてきたように澄んだ水色をして、なめらかに光っています。すずは起き上がると、ためしにちょっと右の人差し指をたまごのお腹あたりに、当ててみました。

(すこしあったかいな)

 すばやく、すずはそう思いました。それから大事に持つと、手の平のくぼみに、のせました。すずにはたしかに分かりました、たまごの生きているのが。息をすうっ、すうっ、と吸ったりはいたりして、今はねむっているのです。落とさないようにもういっぽうの手をたまごにかぶせて、そろそろとすずは立ち上がりました。汗で湿ったひざの裏を風が吹き抜けて、かわかしてくれました。


「ただいま」

 と言ってドアを店のドアを開けると、お母さんはすばやくレジを打ちながらおつりを数え、

「おかえり」

 と言いました。常連さんたちが口々に、

「すずちゃんおかえり」

「こんにちは、小学校はどう」

「こっちへ来て、アイスクリームを一緒に食べる?」

 と声をかけてくれます。すずは、

「こんにちは」

「うん、まあまあ」

「ありがとう。今日はいそがしいから、こんど」

 などと答えながらみんなの間を忍者のように通り抜け、何でもない顔で二階へ上がりました。


 たまごはすずの机の上で小さなおさいほうのクッションをお尻にあてがわれて、すずをしずかに見返しました。すずは顔をたまごにくっつきそうなほど近づけて、でも鼻息でたまごがころげないよう息をはんぶん止めながら、よくよく観察してみました。

「何のたまごかな」

 すずは考えました。全体が、空を写し取ったようなあわいブルーだけれど、近くで見ると、うっすら虹の輝きが、たまごの殻に透けて見えるのでした。角度によって、川辺の夕焼や草のいろ、道ばたのすみれの色など何色にも見ようと思えば見られるようでした。すずは、本棚から〈ずかん 鳥のなかま〉という重い本をひっぱりだしてきました。その中の〈いろいろな 鳥のたまご〉というページには、ちっちゃなうずらのたまごからまだら模様のついたたまご、ラグビーボールのように大きいだちょうのたまごなどあらゆるたまごが載っています。

「これに似てるけど、色がちがうなあ」

 すずは何度も見比べながら、思いました。それからほかの動物の巻も持ってきて調べました。

「へびだったらこわいな」

 と思いました。でも赤ちゃんの小さいへびだったら小指に巻きついたりしてかわいいかもしれない、と思い直しました。

 けっきょく、どれもちがうようでした。ずかんを閉じるころすずは決心していました。

「何のたまごだか分からないけれど、私がかえそう。お母さんになって、育ててあげるんだ」

 たまごをふとんの中に入れて、毛布をかけました。それから、ほっかいろを三つ、たまごを囲むように入れました。宿題をやっている間、すずは気になって仕方なくなって五へんも六へんも毛布をめくってたしかめました。夕飯を食べていてもお風呂に入っていても、心配になっていちいち、たまごを見に行きました。その夜すずはたまごを抱いてねむりました。


 次の日の朝早く、何か湿り気のあるあったかいものにぴたぴたほおを触られて、すずは目を覚ましました。とても眠くて、すぐには何が起こっているのかぜんぜん頭がはたらきません。でも、目を開けると同時に、ハッと昨日のことを思い出して、

「あっ、たまご!」

 と叫ぶとすずはぱっと起き上がりました。急いで枕のよこに重なる三枚の毛布をつぎつぎはがしました。そこには、割れたたまごの殻だけがありました。すずはびっくりして、

「わっ」

 としか声が出ません。あわてて周りを探すと、ちょうど自分の背中のまうしろに、仰向けになった赤ちゃんが、転がっていました。すずは今度こそ本当におどろいて、しばらく頭の中がぐるぐるしました。その赤ちゃんは、すずがよく知っているふつうの赤ちゃんとは違っていました――というのはうんと小さいのです。肌の色がまっしろで、大きさはちょうど、この間いとこの家でみせてもらった、生まれたての子猫と同じくらいの大きさしかありません。上からのぞきこむと、赤ちゃんはビー玉のようなあおく透き通った目ですずをじっと見つめました。ごまつぶくらいの指がならんだ足の先に、たまごの殻がくっついていました。おもちのような頬をこわごわつつくと、

「ふにゃっ」

 とくしゃみをした後のような顔をして、そのちっちゃな手をにぎったり開いたりし、それから安心したようにか細い声で泣き始めました。すずは自分でも分からないうちさっと赤ちゃんを抱きあげると、胸に押し当てるようにしっかりかかえ、

「よし、よし、どうしたの? さみしいの?」

 と、ゆすっていました。赤ちゃんはじき泣き止んで、すうすう寝息をたてはじめました。思わずしたことだけれど、部屋が静かになると、

「危ないところだった、一階にいるお母さんに見つかっちゃうところだった」

 とすずは今ごろ胸がどきどきしました。


 「きっとこの子は、妖精の、赤ちゃんなんだろうな。だってふつう、赤ちゃんはたまごからは生まれないもん。妖精だったら、花のつぼみから生まれたり、雨つゆから生まれたり、いろいろするよ」

 絵本をめくりながらすずが考えていると、

「すず、起きてるー? 朝ごはんを食べて、学校の前にポーちゃんの散歩へ行って」

 下からお母さんの声がしました。すずはなるべくいつもと変わりなく、

「はあい」

 と返事をすると、服を着替えて下へ降りていきました。また胸がさわぎだしました。ポケットには眠った赤ちゃんが入ってます。くまのぬいぐるみが着ていた洋服にすずがくるんだのです。テーブルにはすずとお母さんの朝食がもう用意されていて、目玉焼きから湯気が立っていました。

 お母さんはすずを待つ間にと思ったらしく、洗濯機を回していました。ごうごう音がしています。いつもなら、

「おはようお母さん。食べようよ」

 と声をかけるすずだけれども、今朝は小声で

「おはよう」

 とだけ言って、先にどんどん食べ始めました。目玉焼きもハムも野菜もみんなパンにのせてむちゅうで食べると、牛乳を飲み干し、

「ポーちゃんの散歩、行ってくるねっ」

 と言って、犬のリードを首輪につけて、飛び跳ねるポーちゃんと家を飛び出しました。背中から、お母さんの声が追いかけてきました。

「あれー、すずー、もう済んじゃったのー? まってようー」


 赤ちゃんの入ったポケットを、揺れないように押さえながら、すずはどんどん走っていきました。ポーちゃんも、いつもよりスピードが出てうれしいらしく、はりきってついてきます。

 湖のある公園へ着きました。この小さな湖の周りをぐるっと一周するのが、毎朝のコースなのです。すずはあまり人目につかない茂みのかげへしゃがみ、胸に手を当ててはあはあ息をしました。ポーちゃんも舌を出してハッハッと言いました。とつぜんポケットの中から、

「ふえー、ふえー」

 と赤ちゃんの泣き声がしました。すずはそっと赤ちゃんを取り出しました。赤ちゃんは手の平の上でもぞもぞ動いて、よけいに激しく、泣き出しました。

「どうしよう。お腹がすいてるのかな」

 すずは不安で、心細くなってきました。ポーちゃんが首を伸ばして手の中をのぞこうとしました。

「だめっ」

 とすずは言って、立ち上がりました。ポーちゃんが、噛んだらいけないと思ったからです。ポーちゃんはおすわりして首を傾げ、すずを見上げました。赤ちゃんがますます泣いたので、すずは一生懸命、そのふっくりしたお腹を指先で撫でたり、小枝みたいな足をさすったりしました。でもおさまりません。すずは困り果てました。

「死んじゃったらどうしよう」

 と思うと胸がつぶれる思いがしました。

 その時、ポーちゃんがくうう、くうう、と鳴きました。赤ちゃんが泣きやみました。もう一度くうう、と鳴くと赤ちゃんはじっと考え込むようでした。すずはまたしゃがんで、すぐ離れられるよう用心しながら、、赤ちゃんにポーちゃんを見せてあげました。赤ちゃんがつまようじのような手でポーちゃんのぬれた鼻をさわりました。すると、ポーちゃんは草の上に仰向けになってお腹をみせ、そこに並んだいぼのようなおっぱいからは、白くとろりとしたお乳が出てきたのです。おっぱいに近寄せると、赤ちゃんはいぼを一つきゅっとつかんで飲みました。しばらく飲むとお腹いっぱいになったのか、またすやすやすずの手の平で眠り込んでしまいました。


 その日ほど、学校でずっとハラハラしていたことはなかったと、すずは後になって思いました。散歩から帰って、うちに置いていくわけにもいかないから、悩んだすえ赤ちゃんをポケットに入れて登校したのです。

「赤ちゃんが泣いたらどうしよう。何と言い訳をして、教室を出たらいいんだろう。お腹が減っても、ポーちゃんはいない、給食の牛乳なんか飲むかな」

 ずっと気を揉みながら学校へ行きました。赤ちゃんは、そんなことも知らずに、さいわい、ずっとぐうぐう眠っています。

 一時間目が終わり、二時間目も平和に過ぎて、さんすうの授業が始まりました。すずは先生に当てられました。すずはパッと立って、ずいぶん早口に、しかも立った瞬間に答えたので、みんなおっと驚きました。けれども先生が、

「せいかいです」

 と言ったので、みんなは答え合わせのマルをノートにつけたり正しい答えを書きこんだりして、すぐ忘れました。そのすきに、すずはこっそりポケットの口を広げて、赤ちゃんがちっそくしないよう空気を入れました。

 給食の時間が過ぎても、赤ちゃんは起きるけしきを見せませんでした。かえって心配になるほどです。すずはそうじも終わりの会も早く早くと祈りながら時計ばかり見ていました。とうとう、下校のチャイムがなると、かけっこのピストルをきいた人のように駆け出しました。隣の席の男の子が、「ねえ、」と何かきいたときにはもういませんでした。


 「ああ、もう、こんなにドキドキばかりしていたら心臓がしわくちゃになっちゃうんじゃないかなっ」

 自分の部屋に入るなりドアを後ろ手に閉めて、じゅうたんにどたっと座り込むと、すずはそう思いました。こんな思いはもうしたくない。明日からはしばらく学校をお休みしよう。今日はよかったけれど、明日はとちゅうで目を覚ますかもしれない。もし、みんなに見つかったら、この赤ちゃんはいじめられるだろう。それとも、先生が、「みんなで見られるようにしましょう」と言ってカブトムシの虫かごに入れてしまうんだ。お母さんもきっとだめ、「元のところに置いてきなさい」と言うだろうし、「けいさつに持っていこう」なんてことになったら私のいう事、きいてくれないな……一生休んでいることはできないけれど、しばらくしたら、何か上手にお世話できる方法、きっと見つかるよ……すずはやっぱり、一人でこの赤ちゃんを大事にしなければという思いをつよくしました。


 三時、すずがおやつを食べながら本を読んでいると、赤ちゃんがハンカチを箱にしいて作ったベッドの中から顔だけのぞいているのに気がつきました。みるまに、赤ちゃんは箱からはいでると、すずに突進してきたのです。なかなか威勢のよいハイハイでした。赤ちゃんはすずがいま前にして座っているミニテーブルの足につかまると、だんだん上へ上へとつかんでいって、まるで立ったような格好になりました。すずは、赤ちゃんが朝と比べて三倍くらい、大きくなっているのに気が付きました。ぬいぐるみの服がぴったりで、そでもすそも手足の長さちょうどだったのに、すっかり半そで半ずぼんになっています。赤ちゃんはテーブルの上に手だけ伸ばすと、おやつののったお皿のふちをつかんでぱっと引き寄せました。あっという間の出来事でした。のっていたドーナツが落ちて、砂糖のつぶがじゅうたんにふりまかれました。すずが慌ててティッシュを取ってくると、赤ちゃんが元気よくドーナツにかぶりついているのが目に入りました。

 それから赤ちゃんは、すずの運んでくるおやつをあんまりかみもせず飲むように食べて、むくむくと大きくなっていきました。なかでも、いちごは、とりわけ好きなようです。ちゃんと取って渡してあげないと、へたまで食べて、おいしくないと泣いたりします。すずがお風呂と夕飯に呼ばれるころにはサッカーボールくらいの大きさになっていました。赤ちゃんは食べおわると、

「ぐふっ」

 とおじさんみたいなげっぷをして、寝入ってしまいました。すずはお風呂へ入って濡れた髪をふきながら、お店のレジの下で丸くなっているポーちゃんのところへ行きました。もしゃもしゃの頭を撫でて、

「ポーちゃん、おっぱいは、もういいみたい。朝は、ありがと」

 とお礼を言いました。ポーちゃんは前足の上にあごをのせたまますずを見上げると、長いまつげでぱちぱちとまばたきしました。お母さんが食器を洗っている間を見計らい、お湯を入れた洗面器を持って二階へ上がると、ねぼけてうとうとしている赤ちゃんを入れてきれいに洗ってあげました。赤ちゃんには金色の綿毛みたいな髪の毛がふわふわと生えてきています。タオルでよく拭いて、もっと大きなぬいぐるみの服に着替えさせると、すずは赤ちゃんと一緒に布団へ入って眠りました。


 「痛い痛い。苦しい。ぬけちゃうったら。やめて。あー」

 朝、すずはいろんな痛みで目が覚めました。のどの上に赤ちゃんが乗り、すずの髪をつかんで何本あるか数えでもするかのようにあっちを引いたり、こっちを引いたりしています。ぐちゃぐちゃにからまって、動かせなくなると、すっかり太くりっぱになった足が飛んできてすずの頬をふんづけます。それがどけられて息をついたら、今度はベッドのへりにつかまり立ちした赤ちゃんがよろけて、すずの顔の上に思いきり尻もちをつきました。これは本当に痛くて、言葉が出ません。しびれた鼻をおさえてすずがうめいていると、顔に赤ちゃんのお腹が覆いかぶさってきました。赤ちゃんは、

「チェッチェッチェッチェ。ブバーブ。エッシ」

 と言って、すずの顔の上でごろごろ転がり始めました。命からがら、すずはベッドから逃げ出しました。シーツの上に、むしられた髪が十本くらい、落ちています。

 赤ちゃんはベッドの上でぐらぐらしながらも、両手を離して二本の足でしっかりと立ち上がりました。大きさは、昨日とそんなに変わらないけれど、金色の髪がふわふわとおでこにかかり、目もいっそうぱっちりし、桃のようなほっぺをしています。赤ちゃんは、

「マンママンママンマ。チュリロリロ」

 と言いながら、座り、かがんで後ろ向きになり、じょうずに足からベッドを降りました。そして、すずの足元まで二、三歩歩き、残りはハイハイでやってきました。すずは赤ちゃんを抱きあげました。赤ちゃんはにっこりしました。すずはその体がほかほか熱いのと、マシュマロのようにやわらかいのにびっくりしながら、ほほえみ返しました。赤ちゃんは、

「イッチャブジ。シュカンカン」

 と言いながら、ひとさし指を出し、すずのまぶたを突いたので、

「うわっ」

 とすずは自然ウインクをするかっこうになりました。


 それからが大あらしでした。

 まず朝ごはんの時にすずは、「熱があるんだ」と言ってドライヤーで温めた体温計をお母さんに見せました。あんまり高すぎてもいけない、低くてももちろんだめ、いつもよりほんの少し高いくらいです。お母さんは、

「どうしよう。お医者さんに連れていってあげたいけれど、今日は団体のお客さんが入っているの。つらい?」

 とすずにききました。すずはホッとしながら、急いで、「少しだるいけれど、大丈夫。一人で寝てる」と答えました。そして今のは、元気すぎたかもしれないと思って、口に手を当てこほこほと咳をつけ加えました。

「ごめんね。後でくすり持っていくから」

「あ、いい!」すずは慌てて言いました。「忙しいでしょ。今すぐ、のんでいくよ」

 お母さんはすずの顔を両手ではさんで、心配そうにのぞくと、「ありがとう」と言いました。すずはあんまり近くにいると、何もかもみやぶられてしまう気がして、心配で顔が熱くなりました。

 ひと仕事終えたと思ってくつろいだ気持ちになりながら、すずは二階の部屋へ戻りました。お母さんが学校に電話をかけていた様子を思い出して、胸にごはんがつかえたように苦しくなります。でも、その時まででした。短い廊下を歩き、ドアを開くと、すずは、

「あっ」

 と言ったきり立ちつくしました。部屋が、まるで泥ぼうでも入ったようにどこもかしこもひっくり返されています。たんすの引き出しは開けられ、中からすずのパンツやシャツが垂れさがっています。辺りにひらひらとひらめいているのは、箱から一枚残らず取り出されたティッシュでした。ちぎられた本のページがそこかしこに落ちていて、表紙だけごみ箱の中に入っていました。ミニテーブルは壁ぎわまで押しやられ、ベッドのわきに飾ってあった人形が、全部床に散らばっています。そばで、赤ちゃんが顔を真っ赤にして何やらウンウンふんばっているのが目にとまりました。見ると、がびょうで留めた、壁の絵を力いっぱい引きはがそうとしているところでした。これは去年の夏のコンクールで銀賞をとったのです。

「あ、やめて」

 思わず赤ちゃんの肩をつかんで後ろへ倒しました。赤ちゃんはどんとお尻をつき、そのまま勢いあまって頭の後ろを床で打ちました。赤ちゃんは、

「ビジュビジュビジュ。プイアップ」

 と言うと、近所じゅうに響きわたるような声で泣き始めました。すずは飛び上がって全部の窓を閉めにいきました。その間に赤ちゃんはえんぴつ削り機のコンセントを引き抜き、そのままコードをたぐりよせて削りかすをじゅうたんにぶちまけました。ピンクのじゅうたんがすすけたように黒くなってしまったのを、一生懸命はたいたりこすったりすずがしていると、赤ちゃんはターッと走って本棚からつぎつぎ本を出しては放り投げました。本を大事にしているすずです、いちもくさんに駆けつけ元通り並べていると、赤ちゃんがうまい具合にノブに手をかけ部屋から出ていこうとしました。

「そっちはだめ、階段から落ちちゃうっ」

 すずは本を投げ出すと赤ちゃんに飛びかかって、がっちりつかまえました。そしていったん、とりあえずだけれど赤ちゃんを押し入れにしまいました。けれどすぐに激しく泣き出すのが聞こえたので開け、こっそり持ってきた蒸しパンを赤ちゃんに食べさせてあげました。赤ちゃんは今までのことを、全部なんにも知らないような顔をして蒸しパンを大きな口でほおばり、にこにこして、

「テュイロリロリロ。パパパ。アブジブジャ」

 と言いました。すずは思わず吹き出して、

「なに? なんて言ったの?」

 とききました。ぐちゃぐちゃになった部屋の真ん中で笑い続けるのは、よく考えるときみょうな事ではありました。でも、赤ちゃんの顔はあんなにハムスターのようにパンでふくらんでいるのですから。

 すずと赤ちゃんは仲直りして、一緒に遊びました。手をつないでぐるぐる部屋をかけたり、たかいたかいをすると赤ちゃんは声を立てて笑います。それをきくと、すずは心の中に明るい花がさいたような気持ちがしました。それから、画用紙とクレヨンを出して赤ちゃんに持たせてあげると、クレヨンを赤ちゃんはかじりました。「クレヨンはだめだな」と思ってすずは取り上げてしまいました。本を読んであげました。赤ちゃんは少しのぞいてあとはビーズの入ったびんを振りながらきいているのかきいていないのか、遊んでいます。すずはもどかしくなって、手を伸ばすと赤ちゃんのわきをくすぐりました。赤ちゃんはまた声を立てて笑ってびんを放り出し、あおむけに寝ころびました。またくすぐりました。赤ちゃんは両足を振ってよろこびました。

 床に座ったまま、すずは赤ちゃんを引き寄せると、ひざの上によいしょとのせます。うす水色のひとみを、のぞきこみます。赤ちゃんはいたずらな顔をして、もっともっと近づいてきます。二人の鼻と鼻がぴったりくっつきました。赤ちゃんが、右手ですずの鼻をつかむと、すずはぶーっと鼻から息を吐き出します。赤ちゃんは、フフフと笑いました。すずも、赤ちゃんの鼻をつまみます。すると、赤ちゃんもぶーっと息を出しました。すずは思いがけなく、でもうれしくて笑いました。赤ちゃんはすずの顔に顔を、よく猫がすきな人にそうするように何度もこすりつけました。

 ふと、すずはお手洗いに行きたくなりました。赤ちゃんを下ろして、立ち上がりました。ドアのほうへ行きかけると赤ちゃんはすぐついてきます。部屋から出てしまうといけないので、本棚の前へ逃げると、やはりついてきます。すずはビーズのびんを拾って、赤ちゃんに手渡しました。赤ちゃんがそれに気をとられている間に、すずは走って部屋を出て外からかぎをかけました。まもなく、大きな声で泣き始めるのがドアの向こうからきこえました。

 すずは超特急でお手洗いをすませて、戻らなければなりませんでした。ドアを開けたすずの顔をみるなり、赤ちゃんは泣くのをやめました。まだヒッ、ヒッ、とすすり上げています。ほおには涙のつぶが四つぶ、ついています。すずは赤ちゃんを抱きあげ、溜め息をついて指でつぶをぬぐってやりました。

 泣きつかれた赤ちゃんはそれから、深く深く眠りました。息をちゃんとしているかすずが不安になるほど、石のように眠りつづけました。すずはときどき、赤ちゃんのちっちゃな鼻の下に指をあてて、風があるか、調べます。手帳ほどの広さしかない胸が、規則ただしく上下していました。一時ごろ、お母さんが熱いおかゆをお盆にのせて運んできてくれましたが、「まだお客さんをお待たせしていて手が離せないの。ごめんね、すず」と言ってお店へ戻っていきました。

 すずは一人、ちらかった部屋を片付けました。もとあった場所へ全部。するとところどころに、白い綿菓子のようなものが、ふわふわと落ちているのを見つけました。同じものが赤ちゃんの洋服のお尻のからはみだしていたので、「赤ちゃんのうんちかな?」とすずは思いました。けれども、ちっともくさくないのです。「やっぱり妖精の赤ちゃんなんだな」と思いながら、一つ一つゴミ箱に拾い集めました。


 「これが連絡帳。明日のしゅくだい。こっちの紙は、金曜日までに、お母さんのはんこをもらってきて下さいだって」

 クラスのナナちゃんという子が、やってきていました。玄関へ出たすずに今日の預かりものを一つ一つ手渡してくれます。今まですずは、ナナちゃんとあまり話したことがありません。というより、本を読んでいるほうが面白いので、ナナちゃん以外の子とも、そんなに話さないのですが。ナナちゃんは髪を二つにくくった、まつげのふさふさした子です。少し太っていて色が白いし、おっとりした雰囲気なので、なんとなくみんなのお母さん役みたいな感じの子だと、すずは思っていました。

 すずは、このまえ先生が、

「ナナちゃんのお家は、昨日いもうとが生まれました。ナナちゃんはお姉ちゃんになったのです。みんなでおめでとうを言ってあげましょう」

 と言って、みんなで拍手したのを思い出しました。連絡帳やプリント、おしまいに今日の給食のパンとゼリーを受け取ると、何となくいま思いついたというように、すずはたずねました。

「ナナちゃん、いもうとは、どう?」

「どうって?」

「かわいい? 大きくなった?」

「うんかわいいよ。あたしが歌をうたってあげると、一緒になって手を打つの」

「うそ」

「うそじゃないよ。ほんとう。やってみせていたら、だんだんまねして出来るようになったんだよ」

 すずは、自分の赤ちゃんを思い浮かべました。

「泣いたりする?」

「うん。しょっちゅう。お腹がすいたり、眠かったりするとね。そうするとお母さんがとんできて、抱っこするの。よしよし、いい子ねって。それで、いもうとは泣き止むよ」

「へえ」

「あたしが抱っこして泣き止むこともあるんだ」

 ナナちゃんはほこらしそうに、言いました。そのあと、声をひそめて、

「ただね、ときどきいもうとはいいなあ、て思っちゃうことがあるよ。だって少し泣いたくらいで、すぐ来てもらえるんだから。あたしなんか、転んでひざから血が出ても、もう二年生なんだからがまんしなさいって言われる。ずるいよ」

「そうだねえ」

 すずは同情しました。そして、このナナちゃんという子は、あんがいお喋りだな、と思いました。

「あたしももう一回、いもうとみたいな赤ん坊になって抱っこしてもらいたいと思うことも、ちょっぴり、あるんだ」

 ナナちゃんは伏し目になって言いました。長いまつげがみんな下を向いています。すずは、このナナちゃんがそんなことを考えるのだと知って、衝撃を受けました。それに、そう仲良くもない自分にこんなこと言ってしまっていいのかなと、どぎまぎしました。

 「今のは、誰にもひみつにしておいて」

 おわりに、ナナちゃんはそう言うと、恥ずかしそうに口のはしだけで笑いました。それから、道の途中でつんだのだというすみれの花束を、おみまい、とすずにくれました。すずはますますどうしていいか分からなくなりました。帰って行くナナちゃんを、すずはいい匂いのするすみれを握ったまま見送りました。

 夢を見たような気持ちで、すずは二階へ戻りました。階段の中ほどで、ものがガタンと落ちる音やぱりんと何か割れる音がしました。赤ちゃんが起きています!

 すずは階段を駆け上がりました。お母さんがいぶかるといけないので、なるべく足音を立てないように、でも出来るだけはやく。ドアをパッと開けました。もう言葉が出ませんでした。前とそっくりな光景がそこには広がっていたのです。

 赤ちゃんはすずの髪どめがしまってあるオルゴールの箱を、何度も何度も机に打ちつけているところでした。取り上げると、怒って、

「アー、アー、アー」

 と叫びます。急にたったと窓のところへ行ったと思うとカーテンにぶらさがりました。ばりばりと縫い目が裂けます。赤ちゃんの背丈が、また少し伸びていることにすずは気がつきました。 

ナナちゃんの話を思い出して、すずはやさしいお母さんのように赤ちゃんを抱っこし、よしよし、と言いました。けれども赤ちゃんは暴れて、腕の中からすたこら逃げていきます。すずはパンをとって赤ちゃんを追いかけると、

「はい、食べていいよ」

 と差し出しました。赤ちゃんはプンと顔をそむけました。すずはねばり強くそむけた鼻先にパンを持っていって、

「はい、どうぞ」

 と言い、またそっぽをむかれるとしつこく

「食べたら。お腹すいてるんでしょ」

 と言いました。赤ちゃんは手を振ってパンを払い落としました。パンは、ベッドのほうまで転がっていきました。赤ちゃんはワアワア泣き出します。すずはむりやり、赤ちゃんを抱きしめて、

「よしよし、いい子いい子。泣かなくて大丈夫よ。大好きよ。あたしが、歌を歌ってあげるからね」

 と歌い始めました。“ぞうさん”です。


   ぞうさん ぞうさん

   お鼻が長いのね

   そうよ かあさんも

   長いのよ


 自分でも、とげとげした声だなとすずは思いました。けれども一番のおわりのところで、かあさんもおそろいで鼻が長いのだと喜んでいる小象が浮かんで、ほんの少し気持ちがやわらかくなりました。

 赤ちゃんは、すずの歌をきいても、ぜんぜん泣き止むけはいがありませんでした。ますます激しく、息が止まってしまうんじゃないかと思うくらい真っ赤になって泣いています。すずは耳が痛く、頭ががんがんしました。どうにかなってしまうと思いました。赤ちゃんを抱いていた腕をほどき、耳をふさごうとした時、すずの目に、おどろくべきものがうつりました。気がつくと、すずは赤ちゃんなんか放り出して、それのほうに、あわてて駆け寄っていました。それは、額に入ったお父さんの写真でした。毎日起きたら一番におはようを言って、家へ帰ってきたらかならずただいまを言う、お父さんの写真です。赤ちゃんのすずを抱っこして、うれしくてたまらないという表情で頬ずりするお父さんでした。

「あ、あ、あ……」

 すずはそれだけ言ってかがむと、引き裂かれた写真の破片を拾って一つに合わせました。パズルを組むように、一つ一つ確かめながら。涙が止まりませんでした。両方の眼から、しずくが落ちて、川になって流れ、スカートにしみこんでいきました。泣き止んだ赤ちゃんがそばへやってきて、面白いことでもあるのかというように、すずのひざに手をかけのぞきこみました。

「どうしてこんなことするの。これすごく大事なのに。どうして、どうして……」

 すずは泣きじゃくりました。赤ちゃんはすずの泣いている顔を見ても、まるきり平気で、うふふと笑いました。そしてあっちへ行ってしまいました。

 すずがスカートに顔を埋めて、しゃくりあげていると、また何かが落ちたり壊れたりする音がしました。はっと見やると、赤ちゃんがナナちゃんのくれたすみれの花束を半分、口に入れて食べてしまったところでした。

「あんたなんか、きらい、大きらい」

 思わずかっとなって花束をむしりとると、赤ちゃんの手をぱちん! と叩きました。赤ちゃんはいっしゅんぽかんとしましたが、すぐに痛いのに気がついたらしく消防車のサイレンみたいに泣き出しました。すずも負けずに大きな声を挙げながら、部屋を飛び出しました。


 すずが駆け下りてきたのと、お母さんが最後のお客さんを「ありがとうございました」と見送ったのとは、同時でした。お母さんはすずの顔をみて、仰天しました。

 涙で顔じゅう汚れて、髪もぐしゃぐしゃになっています。興奮して、全身びっしょり汗をかいていて、頭も熱くなっていました。

「赤ちゃんが、ひ、ひどいことばっかりする」

 すずが喘ぎ喘ぎ言いました。

「あ、あたしは、い、いっしょうけんめいやって、てるのに、ちっともいうこと、きか、きかない。あーー」

「赤ちゃん?」

 お母さんは、すずの前に腰をおとし、おでこに張りついた髪をかきあげてやりました。(すごい熱)と、お母さんは思いました。そして、熱のせいですずが夢を見てうなされたのだろうと思いました。

 お母さんはすずをカウンターの上によっこいしょとのせると、あたたかい紅茶に、ミルクと砂糖を入れてすずに飲ませました。自分も椅子を引き寄せてそばに座ると、だまってじっと見守っていました。やさしく甘い飲み物がすずのお腹の中に落ちていきました。飲み終わると、力がぬけてすこしだるくなり、そして気持ちが落ち着きました。

「赤ちゃん、赤ちゃんと言えば……」つぶやくようにお母さんは言いました。

「あなたが赤ちゃんだった時、ミルクのあとのげっぷがなかなか出なくて、いつもあたしは寝不足だったな」

 泣いたあとのしゃっくりをしながら、しかめつらですずはききました。

「飲んだあとで、こうトン、トンと背中を叩いて出させるのよ。でも三十分たっても一時間たってもしないから、もういいや、と思って寝かせると、とたんにげっぷしてミルクを全部吐いちゃう。くじらの潮吹きみたいに」

 お母さんが笑って、すずも鼻をすすりながら少し笑いました。

「もう肌着はよごれるし、顔もお布団もミルクだらけで、一からやりなおし。すごく、大変だったなあ」

 大変だったなあと言いながらも、お母さんはにこにこして、大すきな歌を口ずさむように続けました。

「そんな風だから、なかなか体重が増えなくて、いつまでもあなたはやせっぽちで、あたしはなやんだの。大丈夫かしら。ちゃんと元気に、大きくなるかしら。けんしんの時は、お医者さんに叱られやしないか……なんてびくびくして。まるまる太ったほかの子を見ると、あたしってだめなお母さんだなあって自信をなくした」

「お父さんは? お父さんは、どんなだったの」

 すずはなんだかはずかしくなって、いそいでお茶をのんでごまかしながら、ききました。

「お父さんは、あなたがお腹にできたと電話で知らせた日、とってもよろこんでね、両手にいっぱいの花束と、名前つけの本を何冊も、袋に入りきらなくておっこちそうなくらい買ってきてくれたんだ。かくそうとしてもつい顔が笑ってしまう、そんな様子で、あたしはそれが、うれしくてたまらなかったの」

 お母さんはなにかがあふれだしてしまうのをおさえるみたいに、両手で胸をおさえました。

「お腹が大きくなると、毎晩さすって話しかけてくれてたわ。今度きみのパパになりますよろしくね、なんて改まって言うから、吹き出しちゃった。でもね、ときどきあたしには聞こえない声で、コショコショ内緒話をしていたときもあったな。あれはいったい、何を二人きりで話していたの?」

 すずは「わかりっこないよ」と言うとおかしくって、もう普段と同じくらい笑ってしまいました。きくほど、もっとたくさんききたくて、話の先をねだりました。本当いうと、全部知っている話でした。それでも繰り返しききたくて、きくほど心地がよくて、幸せでした。

 いっぱい話をして、泣いてたのなんかどこへ飛んでいったのかと思うくらいすずが笑うと、おしまいにお母さんは言いました。

「あなたはあたしが赤ちゃんだったころにそっくりだって、よくおばあちゃんが言ってたよ。よく眠って、笑うと天使のようで、活発でちっともじっとしていなくて、手がかかったって」

 それをきくと、すずは変な感じがしました。赤ちゃんだったのは自分だけじゃないんだ。お母さんも赤ちゃんで、お父さんも赤ちゃんで、たぶんおじいちゃんもおばあちゃんもあんなにしわしわだけれど赤ちゃんだったのだ。そう考えると、道を歩いたり、車を運転したり、お店で品ものを売っている人もビルの工事をしている人も学校の先生も全員赤ちゃんということだから不思議でした。世の中が赤ちゃんだらけに思われます。そうかと思うと、すずの頭の中によその家で見たことのあるロシアの人形が浮かびました。その人形は入れ子になっていて、人形の中にひとまわり小さい人形が、その中にもうひとまわり小さい人形が、またその中にもそっくりな小さい人形が……とどこまで開けていってもどんどん入っているのです。考えているうち、人形の中に入っているものが全部一度にパッと表へ出ました。それらがずらりと一列につらなり、すずの頭の中でいっせいにおじぎしました。

「今夜はいっしょのお布団で、眠ろうか」

 お母さんが誘いました。けれどもすずはかぶりを振りました。赤ちゃんのことが心配になって、部屋に戻りました。手には「食べきれないから」とうそをついて夕飯の残りで作ってもらった、おにぎりを持っています。それと、りんごジュースと、こっそり取ってきたいちごクリームのドーナツがありました。

 部屋に入ると、赤ちゃんはこちらに背を向けて、めずらしくしずかに座っていました。窓のほうを見上げながら、月明かりの中で、指を一本、しゃぶっていました。眠くなってきたのか、しきりに頭をかいて、目をごしごしこすります。すずは「赤ちゃん」と、そっと声をかけてそばへ近づきました。

 赤ちゃんのやわらかな髪は、だいぶもう伸びて、お日様のひかりのように、ふわふわ輝いています。耳は、ちっちゃな海の貝殻のようでした。ほっぺは白パンのようにふっくらして、これは笑うと揺れるのです。ちっちゃな握りこぶしにはえくぼのようなくぼみが四つ、ついています。ぬいぐるみの洋服の下にまんまるなお腹が入っていて、ここに口をつけてブウウ、と言ってあげるとよろこびます。足は生まれたばかりのころよりずっとしっかりして、強くなり、走ったり、時にはすずをけっとばしたりします。「赤ちゃん」とすずはもう一度呼んでひざの上へのせてあげました。赤ちゃんの体からはおやつに食べた大好きないちごの匂いがしました。すずに抱っこされると、赤ちゃんはホッとしたような表情を見せて指を口から出しすずの胸へ顔をうずめました。思わず、すずは赤ちゃんを抱きしめました。すると、赤ちゃんもまた、小さな手でぎゅっとすずの体をつかむようにして抱きついてきたのです。

「ああ、赤ちゃん、大好き」

 すずはつぶやいて、赤ちゃんの匂いを胸いっぱい吸い込みました。「いつまでも、ずっと、あたしの赤ちゃんでいてね」赤ちゃんは暴れたりせず、ずっと大人しく抱かれていました。寝ちゃったのかな? すずは、やさしく赤ちゃんの背中をさすりました。

 赤ちゃんの背に、変わったでっぱりを見つけたのは、この時でした。肩の少し下あたりに、右と左にそれぞれ、二つ合わせてきれいなハートのような形を描いて、でこぼこが並んでいました。すずはそれを指でなぞってみましたが、何かは分かりませんでした。


 すずと赤ちゃんが一緒に眠ったのは、その夜が最後でした。朝方、すずは夢を見ました。パタタ……パタタ……と鳥が飛んでいるのを、雲に座って上から見下ろしています。雲の上は何もなくずっと向こうまで平らでした。すみずみまで日を浴びて、まっしろく照り返り、あんまり見ていると目が痛いようです。何の音もしません、鳥の羽ばたきのほかは。風の吹く音さえしないのです。雲が全部、吸い込んでしまうのでしょうか? その時すずが考えたのは、

(神さまってどこにいるのかな? たいていのお話には、雲の上に住んでいるみたいに、書いてあるけど)

 ということでした。神さまは、どこにも見つかりません。神さまがいたら、願いを言って、叶えてもらうのに。お父さんが、いつもあたしを見ているか、教えてもらえるかな。お母さんと、世界りょこうへ行きたい。赤ちゃんのことをお母さんに話して、いっしょに好きになってもらえたら。すずは考えて、願いをいくつも並べました。……一人ぼっちで、長い間そうして座っていても、こわいさみしいとは、ひとかけらも思いませんでした。


 夢から覚めると、鳥の羽ばたきだけは本当でした。天井の電気のまわりを赤ちゃんが背中に生えた小さな羽をはばたかせ、くるくると飛び回っていました。金色の髪に反射してできた光の環も、赤ちゃんのまわるのについて天井をまわります。しばらくすずは布団に入ったままぼんやりとそれを見ていました。どこまで夢でどこから本当か、区別がつかなかったのです。すずは手を天井のほうへ伸ばして、「赤ちゃん」とつぶやきました。その自分の声をきいた瞬間、すずははっと、これは夢じゃない、と思いつきました。赤ちゃんは生えたての翼で夢中になって飛び回りながら、それでもちょっとすずの方を見たようでした。にこっと笑いかけてくれた気がしたのは、すずの願いのせいで、そう見えたのでしょうか。赤ちゃんは天井をまわるのをやめると、さっと窓のほうへ行き、ガラスにさわりました。ふれるなり窓はひとりでに開いて、赤ちゃんは外へ飛んでいってしまいました。すべてが、気がついたり考えたりしたとたんに、もう終わっていたのです。すずは布団をけとばすと、窓のところへ走り寄りました。開け放しの窓から、落っこちそうになるほど身を乗り出して、空を見上げます。赤ちゃんは、どこにもいません。お隣の家の木の葉のかげにも、向こうの雲のはしにも、ぽっちりとも見えません。ただ、赤ちゃんのひとみの色とおなじ透き通った水色の空が、どこまでも広がっています。


 すずはたまごから生まれて空へ飛んでいってしまった赤ちゃんのことを、ずっと忘れませんでした。誰にも言わなかったし、日記にも書きませんでした。けれども、こまかな事までよく覚えています。ナナちゃんとは、授業中や休憩時間など、ふと目の合ったときに、こっそり笑顔をかわすようになりました。     

一年たち二年たって三年、四年……年月がたつと赤ちゃんの思い出は少しずつ色あせ、何度も読んでよく知っているお話のように思えてくることもあります。そんな時、すずはいちごの匂いのするもの(消しゴムや、匂いつきのしおりなど)を取り出して、かいでみます。ぬいぐるみの洋服を頬にあてて目をつむります。本もののあかちゃんとは全然ちがうけれど、そうすると、二人できゅっと抱き合った時の、あの気持ちを、ちゃんと思い出すことができるのでした。

                            〈おしまい〉






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