咀嚼側側
[3 咀嚼側側]
油の満たされた皿が光源だった。
長年使われてきたのか、どす黒い油汚れがこびりつき、乗せてある台は元の色が判別できないほど徹底的に汚れきっていた。
住む者が気にしなければ何のことはなく、明かりに焼けた壁も別段問題はなかった。
詰るところ、衛生が悪いだの不潔だのといった言葉とは無縁の者が住む居城だった。
その中でもこの部屋は格別に酷かった。
所狭しと置かれた機材。
机の上には薬品の数々。
スペースの限界に挑み、それを更新していく。
…一般では物置とされているような部屋の筈だが、持ち主はあくまで研究所と、この部屋に名付けていた。
少年は想う。
混沌とは形にすれば、こんなものかもしれないと。
「PBか、何か起きたのか?」
嗄れ声が混沌から響いてくる。
「マスター、荷崩れが起きそうですから部屋を出ませんか?」
これは建前だ。
本当は声の主が埋もれていて、何処にいるのか理解できないからだ。
そんなことを口にすれば、激怒するので胸に留めておく。
ゴミかと想われた物体がごそごそと動き出す。
「まったく、ワシの手を煩わせよってからに」
愚痴をぶつぶつと零しながら、物体が石造りの廊下に移動してくる。
「……」
いつ見てもゴミかと想う。
黒いローブが一段とその想像に拍車をかける。
その上、背丈が120という低さの所為で下手なゴミより、ゴミらしく見える。
一度本音を口にしてしまい、ドラゴンの餌にされた事があった。
(…僕でなければ死んでいたよ)
あの時の強靭な顎と凶悪な牙の感触は、簡単に忘れられるものではなかった。
「で、何事だ。
つまらぬことなら、ドラゴンの餌にするぞ!」
背筋に悪寒が走る。
御免だと言わんばかりに早口で内容を伝える。
「先ほど日本において、観測史上最高のパワースポットが検出されました」
「…混沌の巫女が動いたか」
顎鬚に指を滑らしながら、ゴミが答えてくる。
「……」
「否定か、…お前、もう少しシャンと答えんか!
いちいち、こちらが察するまで黙る癖を直せと言っておろうが!」
怒声に、亀のように首を竦めてしまう。
「…で、巫女に動きは無かったと?」
「はい、巫女が干渉していた形跡はありませんでした。
ただ…」
「…止めるな、続けろ」
「はい、あの辺りは新宮寺と呼ばれる、巫女の領地です。
無関係とは想えません」
「…仙人、セイランに動きは?」
「こちらもございません。
傍観を決め込むつもりかと」
ゴミは顎鬚に滑らせていた指を止め、簡潔に指示を送る。
「こちらも同じだ。
監視だけは怠るな。
……一波乱ありそうじゃわい」
再びゴミが物置に帰っていく。ピタリと足が止まる。
「貴様、先ほどから善からぬことを想像してないか?」
「……」
「図星か。こんな時には役に立つな、お前の性格は」
(ああ、さようなら僕の肉体…)
ゴミ、もといマスターからどす黒い思念が渦巻き、物置、もとい研究所を覆う。
今度こそ、この性格を直そうと誓い、生まれてから三十七回目の死への誘いが決行される。
それは鮮血だろう。
どうしてそう思えたかは、至極簡単だった。
胸が穿たれたからだ。
空間を染め上げるほどの、あか、アカ、赤、紅、朱。
穴を押さえたところで意味などない。
貫通しているために、背中からも止めど無く流れ落ちていく、命の水。
死の予感。
それが頭を過ぎると、胸の穴が塞がる。
安堵し、ため息が零れる。
次の瞬間、胸を穿たれる。
血反吐を撒き散らし、再び鮮血が咲く。
のたうち回り、ひたすら恐怖に侵食されていく。
(何故、死ねない!)
そこでは死が拒否され、堂々巡りの地獄を味わう。
胸の穴が又、消えている。
(来る!)
穿つのは巨大な爪。
避ける、躱すといった回避行動は全く取れず、貫かれる。
(ぐはぁぁぁ!)
声にならならない。
苦痛が足の先まで伸びていく。
気が狂いそうになる手前で、嘘のように痛みが引いていく。
そして胸に穴は無い。
(…殺せ)
(おいおい、洒落の解らないヤツだな。
でも、嬉しいぞ。
お前が恐怖でのたまってくれて)
(誰だ、ぐぁぁぁ!)
これで何度目だろう。
最初は黒かった空間は池を形成し、赤々と染め上げていた。
いつの間にか、赤い池が水位を上昇させ、膝元まで達していた。
(忘れたか、つれないな。
お前は俺のお陰で生きているんだぜ)
朦朧とした意識の中でもはっきりと、その声は聞こえてくる。
(今度は苦痛に満ちた表情を拝みたいな)
リクエストに答えるべく巨大な手が遅く、遅く胸に近づいてくる。
(やめろ、やめろ、やめろぉぉぉ!)
身じろぎすら出来ず、ゆっくりと爪が心臓目掛けて浸透していく。
皮膚、肉、内臓、肉、皮膚。
順々に、しかも内部で動く指の感触までもはっきりと感じ取れた。
普通なら、痛みを感じるまま意識を保つ事など出来るような生易しい傷ではない。
だが、意識は覚醒したまま、痛みが津波のように押し寄せてくる。
(おっと、失敬、失敬。危うく、精神を崩壊させてしまうところだったな)
(この、奇人が!)
(この状況下でも吠えるか。
何処まで楽しませてくれる、お前は)
(…夢にいつまでも付き合う気は無い)
(ほう。
だが、そこまで判っていてもどうしようもない。
だから、お前は何度も致死の痛みに悶え、穴を塞ぐ)
(五月蝿い!
黙れ!)
(……不愉快だ!)
風穴が開く。
急速に冷めていく感情。
声が聴こえてから、次第にこの場の本質が自分の中に確立されていくのが分かった。
そして、不機嫌な声音を発した誰かは、根本的なミスを犯していた。
理解させてしまったのだ。
夢の持ち主が俺であることを。
そう、俺自身を想い通りに出来ないことを教えてしまったのだ、先ほどの台詞で。
(…誰かは思い出せない。
だが、お前は馬鹿だ)
(何だと!)
あれだけ受けていた威圧感は、最早微塵も感じない。
胸の穴は健在しているが、別段どうということはない。
これは飾りで、痛みは想像が作り出した幻覚。
(無駄だな。
お前は俺の夢にいる。
形勢は俺にある)
潮が引くように、血の池の水位が急速に下がっていく。
(何故だ!
お前は死なない!)
(つまり、お前は俺を殺せなかっただけで、殺そうとしなかったのではないのだな)
化けの皮を剥げば、何のことはない。
こいつはもう無力だ。
(どうやって、俺の夢に進入した!)
(可笑しなことを言うな。
お前は俺の命を奪った。
だから、俺はお前の中にいる。
それだけではないか)
記憶にない。
ただ、奪うという単語に妙な引っかかりを感じる。
(貴様の奪うは殺るではなく、言葉通りのことか?)
(本当に覚えてないのだな。
…まあいい、このままいけば同化していくのは停められまい。
そうすれば、お前もこちら側の者だ)
相手の言葉に戸惑ったが、それよりも沸々湧き上がってくる感情に翻弄されていく。
不愉快とか耳障り、腹立が立つとかそんな生易しい心境ではない。
正体が露にされているなら皮を削ぎ、肉を解体し、臓器をぶちまけて破戒し尽くさないと収まらない衝動が高まり、どうしようもない程の殺意だけが思考を埋め尽くしていく。
(…貴様の招待などどうでもいい、喋るな!)
(はっはっはっ!
なんだ、何をそんなに苛立っている!
どんなに苦痛を与えても、その胸中を埋めることが出来なかったのに、俺の声はそんなに不愉快か!
はっはっはっはっ!)
最高の見世物を堪能したかのように、高笑いがこだまする。
堪忍袋の緒が心の何処かに存在するなら、復元不可能なほどズタズタに千切れ飛んでいることだろう。
(目睫にいないのなら、引き摺りだしてやる!)
殺気だけが空間に充満した。
それは俺が夢を手中にしたという意味。
この夢にいる限り、不快な声の主は逃げ場を失ったことになる。
(やめろ!
言った筈だ、お前の命は俺が繋いでいると!
俺を殺せば、死ぬぞ!)
別にそれが苦し紛れの言い訳とは想わない。
ただ、遅すぎたのだ。
あるのは殺意に身を焦がした、人間の皮を被った獣のみ。
(殺してやる、殺してやる、殺してやる、殺してやる、殺してやる、殺してやる、殺してやる、殺してやる、殺してやる、殺してやる、殺してやる、殺してやる、殺してやる!
肉の一片たりとも、俺の目に二度と晒さないようにしてやる!)
塗りたくられ、混濁した感情の渦が生まれていく。
それは混沌の誕生に似たもので、混沌の表像を表しているみたいだ。
濁、濁、濁、濁、濁。
されど、何処までも純粋な想い。
負に犯された絶対領域。
(消えていく、やめろ!
貴様は死にたいのか!)
殺意は相手をこの空間に押し留め、逃げる術を失わす。
的確で機械的に、そして確実に相手を追い詰めていく。
姿が見えなくてもなんの意味も無い。
そう言うなれば、この世界の神は俺なのだから。
感知出来た、この世界に取り込まれかけていた存在を。
(貴様か!)
死を下す。
記憶と精神を司る、夢の世界の死は消滅。
(何故ここまでの心力が!
そうか、もう貴様は!)
(五月蝿いな!
その口黙らせてやる!)
再び空間が、あか、アカ、赤、紅、朱に染まる。
事の終わりを告げる色彩。
頭の隅で、自分にお似合いのだと自虐的と想う。
口端を微かに吊り上げ、皮肉げに笑う。
もう、あの忌々しい声は何処からも聞こえてこなかった。
意識を呼び覚まし、覚醒させたのは匂い。
香ばしく漂ってくる匂いが鼻につき、身体が自動的に起き上がっていく。
……グゥ―――。
見事な反応だと、自分でも思う。
誰もいない自室でのことで、正直ほっとした。
(恥ずかしいな。
意地汚いみたいじゃないか、このお腹は)
身体の欲求が悪いと完結すると、一度背筋を伸ばす。
小気味良い音がしてくる。
そして、布団から脱出するとパジャマを脱いでいく。
(…あれ、まだ六時だ。
ここのところ早起きだな、お父さんは)
目に付いた、目覚まし。
普段は遅寝、遅起きが支流の父。
だがこの一週間もの間、居間に行くとエプロン姿で出迎えて、「おはようございます、我が愛娘!」と挨拶してくるのだ。
…悪夢のようだった。
まあ、大怪我をして、貧血気味の娘の代わりに朝食を造ろうとしてくれるのは有難いが、それ以上に似合わないエプロン姿が不気味に映る。
(…赤凪さん、起きたのかな)
一週間前に増えた住人のことを考える。
今日も御神木の下で日がな一日過ごすのだろう。
(そりゃあ、行き成り三百年後にいますと言われたらショックだろうけど、毎日ボーと過ごすのはね。
考えものだわ)
脱ぎ終えたパジャマを畳み、昨日選んでおいた根気とプリントされているTシャツと紺のジーパン、それに琥珀色のブレザーを纏う。
自分では割とイケてると想うのだが、父曰く、規格外のファッションセンスとのことだ。
布団を大地震に因って歪んだベランダの柵に掛け、日干しにする。
部屋を出る前に鏡で自分の姿をチェック。
一週間前まで背中まであった髪が、ばっさりと肩口まで切られていた。
お母さんに憧れて伸ばしていたので、鏡を見るたびに悲しい気持ちになる。
気を取り直し、前髪の乱れを直し、準備OK。
いざ、食卓へ。
匂いからしてご飯に味噌汁、煮干とおしんこ。
おまけに海苔が付属していると読んだ。
二階から降り、居間に到着。
見事な推理通り。
おしんこの替わりにほうれん草のお浸しでなければ、パーフェクトだった。
「おはようございます、我が愛娘!」
やはり悪夢だった。
父に間違っても似合わないウサギさんが刺繍されたエプロン姿は、脳髄が腐りそうだった。
「……頼むから、脱いで」
力ない私の声で、父は渋々とエプロンを外す。
「可愛いのに」なんて戯言は勿論無視する。
「…赤凪さんは」
父は視線を外に向ける。
そこにはほぼ全壊した庭。
そして生命を使い果たし、枯れる手前の御神木があった。
あの事件は、万さんの命を根こそぎ奪い去ったようだ。
話かけても反応どころか日に日に衰弱し、地上を蹂躙した根は見るも無残に枯れていた。
根がこれなのだ、御神木は長くないだろう。
此処にはもう龍脈は通っていないと父は言っていた。
倒壊しそうな大木の下に座り込んでいる影法師が一つあった。
「ご飯は温かい内が一番です。
呼んできてください」
「…うん」
私は縁側から草履を履くと、御神木と向かい合っている男に歩み寄っていく。
何をするでもなく、ジッと神木を見つめている。
父と体格が同じ位なので、父の浴衣を着ていた。
紺色の染物で、腕周りに白い線が入っただけのシンプルな代物だった。
「…ご飯が出来ています。
お召し上がりになりませんか?」
無気力な眼差しがこちらを向く。
「ああ、…そうか」
物凄いギャップだった。
鬼神の如き気迫を漂わせていた人物の面影すら無い。
「悪いな。
馳走になる」
「…はい」
淡白に答える。
この一週間で彼は抜け殻になっていた。
そう、この神木と同じように。
(どうすればいいのかな)
自然と伝染して、私は沈んでいく。
彼の心の痛みを、私は理解してあげられない。
大切な少女がこの世に居なくなってしまっているこの世界に、彼は希望を持てないのだろう。
巻き戻ることのない歯車は、今日もカチカチと時を刻み続けていく。
あの事件での被害は多大だった。
機能の欠片すら残してない神社。
入り口は破壊され、階段を使って登ることすら出来ない。
父が発動させた爆薬は、階段の中腹を粉々に粉砕し、倒れた鳥居は階段の上部を盛大に叩き壊した。
お陰で敷地から出るには、周りを覆っている雑木林を潜る必要があった。
難儀なものだ。
全壊だけは免れた母屋は、震度六は在っただろう大地震で至る所で歪みを生じさせていた。
事件から二日は補強作業に費やした。
ツギハギだらけの生活空間だが、残っていてくれただけでも恩の字だと想うことにした。
それよりも大変だったのは私の体だった。
あの時の予想は的中していたのだ。
結界に弾かれた後、背に枝がブスリと刺さり、うつ伏せに倒れダクダクと血を流していたそうだ。
肺まで到達していなかったのが幸いだった。
震える声で父が答えたのを見て、冗談事では済まされない程だった様子。
万さんの治療は止血のみで、体内に木片が残っていたので摘出に大変だったとか。
その際、治療に邪魔だと、本人の了承もなく腰まであった後ろ髪をバッサリと切られてしまっていた。
これが一番ショックな出来事だった。
因みに、私が眼を覚ましたのは三日後だ。
疲労と出血が重なった所為だろうと医者は診断していた。
その間に父は娘の恩人?である赤凪さんと会話をしたらしい。
父は赤凪さんに受け入れていた。
三百年前の歴史にいた人物。
夢の中で伝承を解釈し話してくれたのは、そういえば父だった。
鬼の伝承は何処にいったのだろう?
未だその件について問い詰めていないので、はぐらかされない様に腰を据えて挑もう。
この人について語れることは、名が赤に凪とかいてしゃなということ。
名字は捨てたとかなんとか。
それ以外は不明。
本人が語らないからだ。
根気よく説明を繰り返し、今置かれている立場についての理解を求めたそうだ。
私が寝込んでいる間は御神木に話しかけていたと、父は怪訝そうに顔を顰めていた。
赤凪さんは私が目覚めると、駆け寄り万さんについて質問攻めをしてきた。
どうして知り合ったのか、奴は何処に行ったとか、鬼気迫るとはこの事を言うのだろうと想った。
順を追い、簡潔に判りやすく話したつもりだ。
勿論、記憶に細工をしたとか、万さんに不利になりそうなことは伏せておく。
恩人だしね。
あ、記憶を除いたことも言ってない。
話を終えると、見事な消沈ぶりだった。
見事は失礼か。
それからは生ける屍。
彼の大部分を占めていた想いを、私には察する事が出来た。
あの、凪穂と呼ばれた少女に二度と会うことが出来ない侘しさ、切なさ、苦しさ。
命を賭してまで守りたいと想う者の存在しない世界とは、どんな色をしているのだろう。
いや、色など付いてないのだろう。
彼は唯一、過去との繋がりを感じられる場所を求め、今日も御神木の下で時を止めて過ごすのだろうか…。
淡いものだ。
散々消してきた命を嘆くことはないが、初めて光を与えた者が消えた時、人は嘆くことを忘れるほど、呆然と事実を傍観する。
背けるには余りに大きすぎる事実だ。
大きな穴。
夢と同じ、胸に大きな穴が空いている。
物心付いた頃から、命をすり減らしてきた日々は、用意に自らの命を絶つという結論にたどり着けない。
そうだ、殺せとのたまうだけで、実際に死を望んでもいない。
馬鹿馬鹿しい限りだ。
口にした事もろくに行えない。
卑怯者。
俺にしっくりくる言葉だ。
夢の言葉は虚言で、俺は生きて目覚めた。
この情けない男に哀れみの一つもくれないのか。
こんな俺を見たら、あいつは何と言うだろう。
(凪穂、どうしろというんだ)
鬼の封じられし神木。
代々、これを守護し伝えるがこの神社の慣わしらしい。
よりによって新宮司に祭られていたとは、皮肉以外の何ものでもない。
因縁か。
記憶の一部の欠落。
この状況に繋がる記録が、どうしても思い出せない。
凪穂との旅路で、京にでる鬼退治を仰せつかったところまでは覚えがある。
その先の記憶は靄が晴れず、霧の中。
いや、思い出せないのではなく無い気がする。
完全な空白。
ふと、仁と名乗る人が語った物語が頭を過ぎる。
彼が語るのは、少女の物語。
登場人物は三人。
万爺と凪穂、そして俺。
それに拠れば、俺は死に、万爺に命を救われたことに成る。
…無理だ。
確かに万爺は大地に宿る精が一人。
その力は巨大なれど、理を曲げ、御魂の蘇生など不可能だ。
それに、精は大地の均衡を保つもの。
長老格に当たる万爺が理を崩すとは想えない。
理の崩壊は生命の変改に他ならない。
そんな御魂の存在を精が許すはずが無い。
故にこの物語の明らかな欠陥を携えていた。
なら、俺はどうやって、此処に現存しているのだろうか?
鍵を握る凪穂はこの世にはいない。
そして、万爺の意識体は最早この樹に宿って居ない。
確かめる手段は断たれた。
…本当はそんな事どうでもよかった。
意味がない。
何の因果でこの世に舞い戻ってきたのか分からないが、俺にはすべき事、なすべき事はないのだ。
(生は信念によって存在を成し、実感を齎す。
ならば、ここに居るのは死人だな)
抱くべき信念、生への固執。
それらは切り取られてしまった。
(あの頃は微塵にも疑わなかった。
生き残ることが全てだったから)
もう、そうは想えない。
彼女に変えられた、そして変わってしまった。
それでも生きているのは、疎まれ、妬まれそれでも生き抜いてきた、生存本能が最後の防波堤を成しているからだろう。
そして、心の何処かで物語の一部を信じたいのかもしれない。
(凪穂が望んだ俺の命を、俺が消すわけにはいかないよな)
それだけだった。
それだけが生きる意味だった。
天候は良好。
晴天と呼ぶに相応しいだろう。
これを逃すと、いつ出来るかわからない。
決行の時はきたのだ。
拳をぐっと握りしめ、決意を表明する為に父と向かい合う。
「で、頼みごととは何ですか?」
私から頼みごととは珍しいと、嬉々としている父。
娘に頼られる喜びで、頬が緩んでいる。
その様子に嘆息をついてしまう私。
「私に符術を教えて」
「……病み上がりですからね。
熱を測りましょう」
失礼なことをサラと言う。
救急箱を取りに行動を起こしそうな父の服を掴み、着席させる。
「真面目に頼んでるの。
だから、完治するまでジッと耐えたんだから」
「…暴れん坊が静かだったのは、そういうことですか。
でも、修練嫌いの貴女がどうして、今更」
今更を強調している。
吊り上りそうな目元。
堪えろと言い聞かせる。
三度深呼吸をし、落ち着かせると本心を語る。
「痛感したから。
何も出来ないで傍観することの辛さ。
足手まといにしかならない歯痒さ。
…自分自身の不甲斐なさが許せなかった。
だから、少しでも打開できる強さが欲しいの。
自分に納得できるようにしておきたいの。
悔しさは、遣るべき事をやっていれば軽減されるよ」
「…成長と言うべきでしょうね。
でも、間違えないでください。
強さは紙一重です。
これにより、新たな遺恨は生まれます。
だから、強さの定義を誤らないでください。
打開策というのは何も、戦うことでしか得られない訳ではありません。
時に逃げて冷静に自分を見つめ、見守ることも強さの一環だと頭に止めて置いてください」
いまいち判らない。
「いずれ理解できますよ」と微笑する父。
「で、修行のことですが」
「うん」
私は固唾を飲んで返答を待った。
日頃から修練に励めと口煩い父が、この申し出に反対する理由はないだろう。
「お断りします」
「うん、宜しく、…な、なんで!」
素っ頓狂な返事に素っ頓狂な声で返してしまっていた。
「暇が無いからでしょうか」
「ひ・ま・が・な・い・・・な・ん・で?」
棒読みに近いたどたどしい言葉を投げかける。
「…忘れたのですか、此処は本家に狙われているのですよ。
私は対策を講じたり、警戒網を広げたりと中々多忙なのです。
ご理解いただけましたか?」
…失念もいいところだだった。
私は肝心なところが良く抜けている。
健忘症の類ではなかろうかと心配になってくる
「娘の成長に力を注いで遣りたいのは山々ですが、諦めてください」
落胆したが、そもそも父の行動は自分たちの安全を考慮してのことの為、怒る理由はない。
サボっていた私が悪いのだから仕方がない。
私は沈黙し、思案した。
教えを請わなくても、自分で出来る範囲のことを考えた。
父が私のために書き上げた符術の教材を読んだり、いざというときの為の体力作りなどしておいて損はないだろうと。
「判った。
自分の出来る範囲で頑張ってみるよ!」
決意を胸に私は立ち上がろうとした。
「待ちなさい、鼎」
勢いに乗っていた私に、停止の合図が下る。
一気にテイションが下がり、脱力してしまう。
「…勢いを挫くのやめて」
恨みがましく私はそう呟いた。
「私は手伝うことは出来ませんが、赤凪君に頼んでみたら如何でしょう」
「えっ、赤凪さんって符術遣えるの?」
意外な父の言葉に私は驚く。
「本人の口からは聞いてませんが、恐らく」
父は含みのある物言いで言った。
そういえばテラングィードの襲撃の際に、父の戦いぶりを見てかなりの遣い手と見抜いて、手助けはいらないと判断したのは赤凪さんだった。
ある程度符術に精通していなければ、そんな判断は下せないだろう。
父の事だ。
口にする以上、確信してのことだろう。
それに、あんな状況でフラフラと毎日を過ごす赤凪の状態も戴けない。
何か気晴らしになる出来事でもあれば、前向きにばれるかもしれない。
「断ってきたら、居候だということをチラつかせてあげなさい」
とんでもない脅迫を娘にさせようとする父親。
「するかぁ!」
「冗談はともかく、頼んでみるだけ頼んでみては」
質が悪すぎる。
正直、頭を抱えたくなってきた。
何にもしていないのに疲れが溜まり、疲労感だけが充実していた。
「…うん、頼んでみるよ」
これが良い方向に向かう切っ掛けになればと、私は父の提案を呑むことにした。
私は二階の部屋に戻り、準備を行う。
先ずは服装から。
断られた際には庭先でもランニングしようと、運動に適した根性のロゴの入ったTシャツに着替える。
春先で暖かくなったとはいえ、まだ肌寒い気温を考慮してジャージとお揃いの黒の上着を羽織る。
次に教材と筆、綴り、墨汁を机の上の引出しから出す。
…殆ど使われていないのが明らで、綺麗な代物だった。
苦笑を浮かべつつ、下の引き出しを開く。
そこにも新品同様のランニングシューズが白いボディを私に惜しげもなく自慢してくる。
…今迄日陰に追いやってご免なさい。
それらをバッグに詰め、準備万端。
私はバッグを担ぐと、早速庭先で黄昏に暮れているであろう、赤凪さんの下へと急ぎ降りていく。
居間に到着すると荷物を隅に置いておき、中からランニングシューズを取り出し縁側にから庭に下ろす。
(夜でなくて良かった)
別にジンクスなど信じている性格ではないが、夜に靴下ろしをすると縁起が悪いという習わしを守っておきたい。
此処の所、運が底を尽いたように悪いから尚更だった。
靴紐を緩め、靴下に包まれた足をスッポリと入れる。
なかなかのフィット感。
ダイエットする為に奮発して購入した一品だけあって、そこそこの履き心地だ。
靴擦れしないようしっかりと紐を締める。
さて、どう切り出したものか。
御神木に寄りかかり目を閉じている赤凪さん。
そこだけ現実から切り離され、拒絶している感じを受けた。
(え~い、悩むな!
正面から衝突だぁ!)
疚しいことを頼む訳でもないし、怯む必要はないのだと言い聞かせ、私は赤凪さんに近づき声をかけた。
「あ~の~」
「…なんだ、昼には未だ早いぞ」
私が声をかけたら飯か!と叫びたかったが、理性がそれを止めてくれた。
深呼吸し、自分を落ち着かせる。
「違います」
「なら、邪魔だ。
一人にしろ」
…最初に受けた見解は撤回。
優しい人だなんて想った自分が腹立たしい。
この人はムカつく人だ!
鼻息が荒くなるのを堪えながら、用件を述べることにする。
「聞きたいことがあるんですが」
赤凪さんは完全に私から目を背け、虚ろな瞳で空を眺めていた。
青筋が浮き上がってくるのが自覚できた。
それでも笑顔を絶やさずに我慢する。
「赤凪さんって符術を遣えるんですか?」
「…どうして、俺がお前の質問に答えないといけない」
頬が一気に引き攣る。
明らかに痙攣していた。
この居候がぁ!と罵ってやりたい気分だが、最後の理性が防波堤となって津波を食い止める。
だが、それも簡単に蹴散らす三コンボが飛んでくる。
「鬱陶しい、目障りだ、消えろ」
思考を消し去る、白い空白。
ああ、これが理性が飛んだ状態、キレた状態なんだと、自分を置き去りにした客観的な自分が感じていた。
これから放たれる罵声の数々は、その~、本当の私ではないということで。
あくまで箍が外れ、自分を見失った私が勝手に吐いた言葉で、けして私はこんな女ではないということで。
念入りにもう一度。
これは本当の私ではありません、悪しからず。
「いい加減にしろぉ!
この腑抜けやろうがぁ!」
「…」
今まで下手に出ていた私の態度は一変、表情筋が凶悪な面を作っていくのを感じた。
「だいたいなんだ、その態度は!
邪魔、鬱陶しい、目障り、消えろだぁ!
テメーこそ、鬱陶しいんだよぉ!
この世の終わりみたいに辛気臭い面で日がな一日不貞腐れやがってぇ!
ばんさんに失礼だとは思わないのかぁ!」
「・・さい」
(誰か止めてぇ!
歯止めが利かないよぉ!)
私の心の叫びと裏腹に、罵声は勢いに乗っていく。
「こんな料簡の狭いことこの上ないねぇ!
女々しいにも程がある!
生きてる人間の所業じゃない!」
(助けてぇ、お願い止めてぇーーー!)
ヒートアップは加速していく。
止めて欲しいけど、それは私の本音であったことに間違いはない。
生きてる者にしか与えられない特権。
得ようとしても、それを得られなかったものがいるのに。
滞っているこの男の態度が、私は許せなかったのだ。
「・・れ」
「人間らしい反応の一つも出来ないのか!
この養○野郎が!」
「黙れ!」
一喝。
それで私は縮み上がった。
冷水を浴びせられた気分だ。
「………」
気まずいなんてものではない。
逃げ出したいけど、先ほどとは異なり、意思を、生気を感じさせるその瞳から抜け出せないでいた。
怒気を孕み、唯純粋な光だけを湛えた瞳に。
「…ふっ、くっははははははぁ!」
赤凪さんが笑っていた。
それが何を意味しているのか、停止している頭で考えることは出来なかった。
「そうだ、あんたの言うとおりだ!」
先程まで、笑い声をあげていた男が立ち上がる。
打って変わって、含み笑いすれ浮かべている。
「本当に、あんたには無様なところばかり見せているな。
そして迷惑ばかり…」
「え、え、えぇぇ」
戸惑いと当惑。
その言葉はその二つをより強く私に抱かせた。
「女々しいか。
全くその通りだ」
「…済みません、口が過ぎました」
冷静に成ると、饒舌に文句をぶちまけた事が無性に恥ずかしい。
真っ赤に俯き、謝罪を述べるのがやっとだった。
「…名は」
「へっ」
「間抜けな話だが、あんたの名を聞いてなかった。
教えて貰えると助かる」
これはどうだろう。
無粋な物言いから反転して殊勝なこと。
「あ、えーと…、鼎です。
新宮司 鼎」
おずおずと、自分の名前を口にする。
「…かなえか。
お前は俺が怖くないのか?」
「怖い?」
唐突な質問に私は疑問した。
目の前の人物が、恐れを抱かせる人物には想えないからだ。
「…戦の最中、俺の殺気を感じただろう。
なのに何故、恐れずにいる?」
質問の意図は掴めた。
つまり、どうして動じないのかということらしい。
「意味は何となく分かります。
…恐いのは戦中の赤凪さんで、今のじゃないから…。
というのは、答えになりませんか?」
決して、あの時の事を忘れていたからとかではない。
断じて!
「…変な奴だな、お前」
あ、笑った。
純日本風の顔立ちが微笑む。
思わず見とれてしまった。
「…何じろじろ見てんだ」
「あ、…済みません」
ぶっきら棒な声を出す赤凪さん。
認識の復活!
やっぱりこの人は不器用だけどいい人だ。
「で、質問だったな。
答えてやるよ。
符術が遣えるかどうかだが、肯定だ。
邪道だが、符術を遣うことは出来る」
お父さんの予想は正しかった。
こうなれば、駄目もとで頼んでみよう。
「…ぶしつけですが、私に符術を教えてくれませんか!」
どうしてか、まるで告白するかのような気持ちだった。
…何でかな?
兎に角にも、遣るべきことやった。
至らんことの方が多かった気がするけど…。
後は返答を待つのみ。
「…あのな、仮にもお前は新宮司に名を連ねる者だろうが。
俺の邪道を学ぶより、正道を学べ」
正論だ。
誠に正論だ。
呆れた口調で諭す赤凪さん。
…あ、うん、父の造った教科書でも読もうかな。
「…なんだ、まさかとは想うが、符術が遣えないのか?」
「つ、遣えますよ。
…遠見だけですけど」
最後は聞き取れない位の小声になってしまっていた。
「遠見ね。
…基本中の基本じゃねか。
その程度の正道なら、俺にも出来る」
言葉に侮蔑が含まれている気がした…、あれ?
「正道て、赤凪さん普通の符術も遣えるんですか?」
「馬鹿だろう、お前」
腹立つけど、ここは堪えて理由を尋ねる。
「…何でです」
「邪道を確立するには、正道を元に作り変えないといけない。なら、遣えて当然だろう」
「……」
言葉だけじゃなく、視線も馬鹿だろうと訴えてきている。
赤凪さんは、盛大にため息をついた後に、提案を上げてきた。
「判った、こうしよう。
謝礼も兼ねて、俺が符術を見てやる。
もちろん、教えるのは正道だ。
基礎しか出来ないが、それでいいだろう?」
「はい、ありがとうございます!」
諦めかけていたから、この申し出はかなり嬉しい。
天候は良好。
晴天と呼ぶに相応しいだろう。
曇り空から、僅かながらの木漏れ日は彼の心中に射した気がする。
そんな午前の一時だった。
何の因果か、新宮司の血族に符術を教え、学ばすことになるとは。
ま、気晴らしぐらいにはなるだろう。
にしても、かえなか。
こいつは何処と無く、凪穂に似ている。
勿論、顔や性格はそれ程似ている訳ではない。
凪穂はあんなに童子顔ではないし、暴言を吐くにしても感情任せに事を進めるような、子供のような癇癪は起こさない。
それでも、成り立ちみたいな、芯の部分で似通ったものを感じる。
だからかもしれない。
確かに恩義を感じてはいる。
だからといって、状況の掴めない最中で手の内を晒す事を良しとは、先ほどまでの俺ならしなかっただろうに…。
先ずは頭の運動からだ。
居間に場所を移し、講義を始める事とする。
俺は教材と呼ばれる書物を受け取り、中身を拝借する。
…これは、凄い。
ここまで詳しく簡潔で、尚且つ理解し易い符術に対する書物を、俺は知らない。
これが在れば、符を行使の段階までは事を進められる。
「…お前、これを読んで遠見しか扱えないのか?」
「あ…、……」
鼎は目を逸らし、沈黙した。
この様子だと、読んだことがないのだろう。
嘆息が洩れる。
お題は決まった。
「写しだな」
「はい?」
鼎は怪訝そうな面をして、首をかしげていた。
「用はこの書物の内容を覚えておけば、術力の無い者以外は行使まで踏み込める筈だ。
だから、暗記しろ。
筆と紙でこれを全部写せ」
「…全部暗記する」
露骨に嫌そうな顔をした。
判らんでもないが。
「俺も遣らされた口だ。
阿呆でも出来る符術の覚え方と言われてな」
苦い経験だ。
奥山に隔離された時に、凪穂に散々扱かれたものだ。
「処で、この書物変わった筆でも使われて書かれているのか?」
「変わったですか?」
そうだ。
文字が太くないのだ。
しかも均一な太さでだ。
筆ではここまでの芸当は出来ない。
達筆な凪穂でも、諸手を挙げることだろう。
つまり、筆はこの三百年で進化を遂げたということだ。
「…ああ!
これはボールペンで書かれているんです」
「ぼーるぺん?
奇妙な発音だな。
で、どんな筆なのだ」
「これです」
鼎から差し出された、長細い筒状ものを受け取る。
形状は筆に似ているが、墨を付ける先端がない。
騙されているのか?
こんな物で字は書けない。
「あのですね、蓋がついているんです。
あ、そっちじゃなくて、そうそう、そっちです。
そこを引っ張ってください」
なるほど、鞘に納まっているとは…。
鞘に収めなければならない程、危険なものなのか、このぼーるぺんとやらは?
緊張が奔る。
もしやこの女、見かけに由らず兵なのだろうか?
「…どうしたんですか?
顔が固まってますよ」
「…そうか」
試しているのか?
俺は未知なる物に恐れを抱いている。
覚悟を決めろ!
だが、慎重に、慎重に。
ゆっくりと鞘から得物を抜き放つ。
…槍?
先端が尖っていた。
刺すものだったのか?
「その尖った所からインク、じゃ解らないか。
…墨が出るんです」
…そういえば、これは筆だった。
馬鹿か、俺は。
無駄な緊張をした為、肩に異様な疲れが圧し掛かってくる。
進化した筆は、先端に墨に浸すことなく書ける画期的な代物だった。
しかも、先端の穴から均一に墨が送られてくるらしく、太さを均等にできる。
「おお!
お、お、おおおおお!」
俺は、与えられた紙にひたすら文字を列ねる。
凄い、これは凄いぞ!
三百年は伊達ではない!
興奮の坩堝とはこのことだ。
気が付けば、紙一面を文字が埋め尽くしていた。
…はっ!
何をしているのだ、俺は!
恐らく、嬉々として文字を書いていたことだろう。
筆跡がそれを物語っている。
…慎重に顔を上げる。
そこにあったのは、小さな子供を慈しむような、にこやかな笑顔だった。
「…写し開始だ」
今更こんな事を口にしても、玩具を与えられて無邪気に遊んでいた子供のような印象は払拭できないだろう。
ため息に残っていた興奮を吐き出し、深く反省をするのだった。
さて、符術について、軽く説明しておきましょう。
そうですね、先ずは在り方についてです。
人の体は木、火、土、金、水の五つから成り立つとされています。
これは中国の風水の在り方になぞられています。
詰まる所、これを極めた者は命を創造できる訳です。
符術は人の体に宿る、この五行を引き出し、具現化させるものと解釈してください。
で、符術を発動させるには、流れが三つの工程があります。
先ず、使用する五行の選択。
これは符に刻み込んだ術式により、決定されます。
符を生成した地点で、五行の選択は終わっているものとなります。
次に符を発動する為の燃料、五行の注入。
人の肉体は五行により形成されており、その一部を符へと移す事で機動する為の燃料となります。
術士にはこの五行、命の流れを感知する修練がなされており、この流れを自在に移すことが術者となる為の重要な能力になります。
最後は、発動する為のトリガー。
主に声を使います。
昔から声は力を含む、言霊と称されています。
感情が露出した声が、普通以上に伝わるのはその所為です。
これを思念とし、符へと移した五行の堰を切ることにより符術は完成します。
次は符の作り方についてです。
用意するものは半紙に墨、それに自分の血。
紙を用いるのは、木の性質を考慮しての事です。
生命の流し易い木の特徴が、五行を内から外へと排出する要となります。
言っておきますが、五行の総括、魂は肉にのみ受理されるものなので、簡単に外部へと摘出することできません。
それを可能としているのが符の存在となります。
血は符を己の存在たらしめ、手足の延長上と誤認させることにより、命を外部へと流すことが可能となります。
故に、墨に混ぜ術式を書き上げるのです。
術式については、系統により千差万別なので今回は触れないでおきましょう。
今日の講座はここまで、では。
[解説者、新宮司 仁]
鼻腔付くこの臭いは、少々頂けない。
アルコールとタバコが蔓延し、身体には悪影響だ。
仕事でなければ、酒場などに足は踏み入れないのだが。
ランプの明りがより一層背徳的に、この場を演出している。
滅入ってくる。
酒も飲まず、ひたすらに目標が来るのを待つ。
グラスの中身はミルク。
小馬鹿にしていく不逞の輩しか、この酒場にはいない。
…酒場でこんなもの飲んでれば、自分でも皮肉の一つも零すだろうが。
仕事の選好みをしていては、目的の任務に回して貰えない確率が増えるだろう。
今は我慢の時だった。
自分に言い聞かせ、氷で薄くなったミルクを軽くあおる。
心底不味いと想った。
薄まったミルクはミルクではない。
私の経典にいらない項目が増える。
酒場でミルクを頼むな、だ。
「はぁーい、お一人」
陰鬱なところに、きつい香水の臭いが立ち込めてくる。
アルコールやタバコは許容範囲だが、正直これは許容外だ。
この匂いの元は、カウンターの隅にいる私に声を掛けてきた女からするものだった。
堪ったものでは。
早く離れて欲しいのだが、隣の席を占拠し私ににじり寄ってくる。
「待ち合わせだ、一人にしてくれ」
無難な返事し、ここから立ち去って貰うよう仕向ける。
「あら、もう一時間以上もそこに座っているじゃない。
すっぽかされたのよ」
つまり、この女は私が小一時間ここに座っているのを観察していたらしい。
暇な女だ。
「どう、私と今夜飲み明かさない」
娼婦というわけではなさそうだ。
ただ、誰かと飲みたいだけようだった。
「他を当たってくれ」
「クールなのね。
私、惚れちゃいそうよ」
…こういう人種はよくわからない。
優しく断っても、冷たくあしらっても離れてくれない。
同僚曰く、男でも女でも口説ける顔だから仕方ないだそうだ。
情報収集以外で、この顔が役に立た覚えがない。
羨ましがる連中の心境は理解しがたい。
「ねえ、薄情な人を待つより、私と飲みましょう」
にじり、にじりと身を寄せてくる女。
こんな時、隅の席にしたことを非常に後悔する。
カラン。
ドアの上部につけられた来客を知らせる鐘が、安っぽい音をたてる。
「悪いが、目標の到着だ」
しなだれてくる女を片手で押し返し、席を立つ。
「もう、逃げないでよ」
この女は逃げるための口実だと想っているらしい。
「…その隅で隠れていろ。
神の加護があれば、生きていられるだろう」
裾を掴んでいた女を振りほどき、生き残る方法をアドバイスしておく。
私だって無益に命を摘み取りたくない。
これは慈悲だ。
「何よそれ。
冗談にしては笑えないわ」
だろうな。
冗談ではないのだから、余計笑えない。
「いいわよ。
アンタみたいな甲斐性なし、こっちからお断りよ!」
何故、私が怒鳴られねばならないのだろう。
理不尽なものを感じながら、先程入ってきた男に歩を進める。
深く帽子を被り、コートの襟で口元を隠している。
自分から怪しい装いをしているのだから、この男は相当に間が抜けていると言えるだろう。
更に警戒し、辺りを見回している。
「レオンという男なら、墓の下で永眠していますよ」
「!!」
男の視線が私に突き刺さる。
この反応、間違い無さそうだ。
隠された素顔が驚愕に固まっていることだろう。
さて、問題はこれからだ。
「貴方達の秘薬、いえ、毒薬の在りかをはいて貰いましょうか」
「な、何のことだ」
この期に及んでしらを切るとは、ある意味で感心する。
「ゾンビパウダーは何処にあるんですか?
未だ、散布されたという報告は受けていません」
男が隠し持っているであろう秘薬の名称を口にする。
私はそっと左目を瞑り、眼球を反転させる。
これで準備は整った。
後は相手の反応しだいで行動が定まる。
「…そうか、教会の手の者か」
「ご理解が早くて助かります。
逃げ場はありません。
投降して貰えると有難いのですが」
「い、命は助けてくれるのか!」
命乞い。
それをこの男は何度拒否し、人の命を玩んだのだろうか。
「審判はこの眼が下します」
「どういう意味だ」
私は異物と化した左眼を開ける。
ヒッと、男の上擦った声が聞こえる。
私の左眼には、罪の源流が映し出されていた。男の周囲を渦巻き、悲鳴と苦痛の念を吐き出している光景を。
「貴方の所業は余殃します。
ゾンビパウダーの在りかさえ吐けば、直ぐ神の身元へと旅立たせて挙げましょう」
「こ、殺すのか、俺を」
「罪を贖えと言っているだけです」
この男に同情の余地は無い。
「こんな所で、天才の俺が!」
男はポケットから灰色の粉の入ったビンを取り出し、床に叩き付けた。
「ハッハッハッ、これでこの街も終わりだ!」
あれがゾンビパウダーか。
追い込まれ、とち狂ったというところだろう。
このまま放置すれば、抵抗力のない人間はゾンビと化し、人々を襲い感染を広げていくだろう。
「別に終わりませんよ」
余りしたくは無いが、事態を招いてしまったのは自分自身。
責任は取らないといけない。
左目から脳に直接響く痛みと、熱が送られてくる。
定義を固定し、視野を拡大していく。
「グィリリリィィ!」
目の前の男は、理の感じない声をあげていた。
生と死、聖と魔の書き換えが行われ、急激な変化が男にキテレツな産声をあげさせた。
最早、人としての人格、尊厳は失われ、屍としての生誕、いや、この場合、死誕したのだろう。
愚かな男。
罪に罪を上乗せし、滅びの模索と破滅の火種だけを残して、この世に去るとは。
男の血色は生気を無くし、土色に変貌していた。
正直、ここまで素早い感染が行われるとは想ってもみなかった。
空気感染で被害が拡大する前に、片をつけよう。
「ヌール ジャハーンよ、大いなる慈悲を持ち、闇を照らせ」
その言葉に呼応し、左眼に繋がる擬似視神経が振動してくる。
これは何度体験しても、堪える。
脳が直に揺さぶられている、そんな感覚。
落ちた灰色の粉と、大気中に浮き上がろうとしている邪気を視界に納める。
「ギギギィィィウィィィ!」
ゾンビと成り果てた男の呻きがこだまする。
亡者の皮膚が次第に焼け爛れていく。
床に散らばった粉は色を失っていく。
そして邪気は、光を浴びた闇のように場から消え失せた。
「テルト ゴート、貴方を断罪します!」
左眼の温度が二℃位一機に上昇する。
そうすると左眼から左手の神経をバイパスにして、何かが通り抜ける。
私は左手に微かな重みを感じると踏み込み、亡者との距離を無くす。
一閃。
股間から脳天にかけて、左手から生えている青白い刃を通す。
その瞬間、テルトの名を持っていた男は跡形も無く消し飛んだ。
血痕さえ残さずに。
「あ、あんた、な、なんなんだ!」
バーテンダーが怯えた声をきっかけにして、飲んでいた者達が我先にと出口へと駆け出した。
バーテンダーの大声で緊張の糸が切れたのだろう。
逃げ遅れたのはバーテンダーと先程、私に絡んでいた女のみ。
…女の方は気を失っているだけなのだが。
がらんどうに成ってしまった店内。
「私は教会の執行機関に組する者です」
律儀に質問に答え、懐から証明となる紋章を取り出す。
それは幻獣ユニコーンをモチーフとしたものだった。
「…て、聞いていますか?」
バーテンダーからは反応は無い。
白目を剥き、器用なことに立ったまま気と失っている。
どうやら、懐から得物でも出すとでも想ったのだろう。
早とちりもいいところだ。
これも私が悪いのだろうか?
理不尽なものを感じつつ、カウンター席に腰を下ろす。
瞼を閉じ、左眼を反転させる。
今までの異物感は消え失せ、本来の眼の働きに戻る。
「デミタス、いつまで隠れている気ですか」
「おうおう、流石だねぇ。
で、いつから気付いていた?」
「私が女に絡まれているのを、薄情にも見物していた辺りですよ」
「…初めっからお見通しだったってことか、残念」
背後に気配が現れる。
何とか気づくことが出来ていたが、見事と言うしかあるまい。
これほどの気配を断てる者は、私はこの男以外知らない。
右隣の席に座り、誰かの飲みかけの酒を呷る。
「不謹慎だぞ。
未だ、仕事中だ」
「もう、終わったも同然だろう。
硬いこと言うなよ」
カッカッカッと笑い、カウンターの酒を漁る。
「…判った。
お前の脳がアルコールに犯される前に、報告だけ受けておく」
「優等生だね、エンブリオは。
まぁ、そんなとこはも嫌いじゃないけど」
ゾッとすることを言う。
どうやらこの顔は男にも影響を与えるらしく、連れ込まれかけたことは両手指では足りない。
だから、この男が冗談で言っていても、鳥肌が立つのを抑えられない。
勿論この男、デミタスはそれを知っていて言っているのだから、質が悪い。
デミタスは一変して、真剣な表情になる。
普段不真面目さ表に出しているが、仕事には紳士な態度で臨む男だ。
背中を預けられる戦友。
本人には口が裂けても言えないが。
デミタスと向き合う。
抉られたような痛々しい左眼の傷跡が、私に罪悪感を抱けせ、僅かに表情に浮かび上がらせていた。
「やれやれ、判りやすいなお前は。
会う度にそんな顔をされると、気分が滅入る。
だから、普通に出来なくても、普通していろ」
「…無茶なことを。
済ま、…ありがとう」
「あいよ」
無骨な顔がニカッと歯を見せ、笑う。
救われる。
そこから一変して、顔付きが真剣に戻る。
「テルト ゴートの研究所を占拠。
ワイアード パピルスの奪回に成功。
これでゾンビパウダーの製法が誰かに洩れることは無い」
「そうか、確かに任務終了ですね」
安心し、安堵のため息を付く。
これで、この辺りを賑あわせていた失踪事件と、夜中を徘徊するゾンビ事件は解決を見たことになる。
「それと…」
デミタスが言葉を濁らせるのは珍しい。
今回の件、最悪の事態は避けたはずだが。
「次の任務の指令が届いている」
「続けざまの任務なんてよくある話じゃないか」
私は気を遣わないようにと、軽く促す。
「…お前の待望の任務だ」
デミタスの鎮痛な声音から知らされたのは、羨望。
待望の時。
「テラングィードの消息が分かった」
切望の瞬間。
「任務はテラングィードの抹消」
怒り、憎しみ、そして歓喜。
拳を強く握り、感情の箍を抑える。
爪が肉に食い込み、カウンターに幾つもの赤い斑点が生まれる。
「相棒には俺が立候補しておいた」
「デミタス、お前!」
「しゃあねえだろ。
任務は二人一組なんだから。
…ある程度好き勝手させてやるから、自分を見失うなよ。
それが出来なきゃ、俺様の権限でこの任務からお前を外す。
いいな」
「…悪いな」
「ま、これまで優等生を頑張ってきたのもこの為だろ。
俺もあの聖夜の悲劇みたいなのは、懲り懲りだからな。
…失敗は許されないぞ。
だからこそ、いつものクールな優等生なお前でいろ」
「…努力はするよ。
ま、感情の制御が効かなくなってもデミタスが抑えてくれる。
大丈夫でしょう」
デミタスの気遣いに、軽いジョークを飛ばせるくらいには心境は回復していた。
「まさかテメェ、責任を俺様に被せる気か」
「そのつもりですよ。
貴方ならいつもの事と、本部も諦めてくれるでしょう」
「この野郎が」
デミタスは私の頭に腕をかけ、所謂ヘッドロック仕掛けてくる。
「痛い、痛いですよ」
「安心しろ兄弟。
責任も、仇も、一緒に背負ってやる」
兄弟。
この言葉が何より嬉しかった。
「私はデミタスみたいな、兄は欲しくないな」
軽口を叩いておく。
こうすればデミタスのヘッドロックが暫く緩むことはなく、緩んだ顔を見られる心配はない。
「可愛くねえ、弟だぜ」
わざと振り回すようにヘッドロックをし、ふざけてくれる。
…敵わないな。
「ありがとう、兄さん」
声に出さず、口にしておく。
今の私にはこれが精一杯だった。
記憶の断片が沈み、何度と無く意識が途絶える。
無様に生きているのか。
滑稽どころか、忌々しい。
希望に縋りつくから、いつまでも囚われ、虚空に横たえているのだ。
最早、支えているものは記憶のみ。
だが、逆にそれこそが束縛の要となっている。
この地に留まり、混濁していくあの者を虚ろに見守るのか。
血と肉を持たぬお主には、どれも叶わぬ願い。
それでも、去れぬか。
それも良かろう。
なら絶望に震え、無残に散るがよい。
在るのは記憶。
思い出と呼ぶには遠すぎる、記憶。
懐かしむ感情や尊う感性は有りはしない。
水面下に一握りの花びらが浮き、一つ、又一つと沈殿していく。
記憶の欠片すら、風前の灯。
時間は無い。
だが、私は見ているだけ。
他には何も出来ない。
彼女の言う絶望が眼前に表れても、絶望と認識できるだけの想いは存在しない。
浮かぶもの。
薄れていく中でも鮮明にある名。
唯一の感性がその名に反応する。
地獄の業火にも似た途方も無いほどの負の感情。
怒り、悲しみ、憎しみ、切なさをも凌駕し、浮き彫りにされた只一つの名。
それが、この世と彼女を繋ぐ架け橋。
姿も形も無い幻影に縋るしか、残されたモノはない。
それが本来秘めていたモノとかけ離れ、違う形への再生と歪みを生じたとしても、誰が責めれるか。
それは純粋であるが故に形成されてしまった、悲しき雛形。
また一つの花びらが沈み、歪みが生じる。
これが約束を頑なに守り、願いだけに生きたモノの末路なのかもしれない。
彼女は、こう答えるだろう。
長き年月に消えない想いは、狂っていると。
別に構わない。
それが狂気と呼ばれ、在り方を忘れてもこの約束を守れるなら。
ドク、ドク、ドク、ドク、ドク。
直接響いてくる、心音。
感じているのか、絶望の鼓動を。
ならば、会いにいこう。
貴様に最高の贈り物をくれてやる為に。
お昼過ぎまで写本作業をしていた。
発熱、膨張、暴発寸前。
私の小さな脳は警報を打ち鳴らしていた。
「顔色悪いぞ。
知恵熱でも出たか」
「……」
赤凪さんは、私が与えたシャーペンの分解をしながら尋ねてくる。
…反論出来ない。
「何だ、肯定か。
…日頃遣ってないから、錆びてたんだろ。
其の内、磨ぎ落とされるから、辛抱強く遣りな」
ごむたいな。
自分は嬉々として、現代文化を楽しんでいるくせに!
「…そんな目で見るなよ。
分かった、休憩しよう。
もう、昼時だしな」
それは飯を作れと言っているのと変わりませんが…。
仕方なしに台所に行き、冷蔵庫の中身を物色する。
残り物のご飯、豚肉にベーコン。
玉子に、野菜はタマネギにネギと…。
これはチャーハンを作れとの啓示か?
ま、いいか。
凝ったものを作る気のもなれないし、こんな所でいいだろう。
材料を揃えると、豚肉、ベーコン、ネギを適当に切り分け、タマネギをみじん切りする。
その間に、冷ご飯は軽くレンジに掛けておく。
さて、中華鍋に火にかけ油を少し落とし、肉類に火を通す。
肉汁が程よく出、お腹を刺激する匂いが立ち込めてきたら、タマネギを加え炙る。
ここで塩、コショウを振りかける。
タマネギが茶色く成ってきたら、ネギを先に加え、上から温まったご飯を入れる。
シャモジで解す様にかき混ぜ、水分が飛ぶのを待つ。
ご飯に軽い焦げ目ができたら、中華鍋の端に掻き混ぜておいた玉子を加え、そこでいり玉子をこさえて、全体に混ぜる。
後は塩、コショウに醤油とコンソメスープを混ぜたもので味付けし、粗方の水分を飛ばす。
完成、新宮司風チャーハン!
濃いのは苦手なので、味は薄めにしておいた。
皿に盛り付け、多めに溶いておいたコンソメスープを添える。
…二人分しか作ってなかった。
ま、いっか。
お父さんは自分で作るでしょう。
薄情にもそう結論を出す。
「これで良し。
さて、昼食としますか」
居間のちゃぶ台まで運ぶ。
「…なんだこれ」
奇妙なものを目撃し、忌避したような声を出す赤凪さん。
「米が黒っぽいぞ」
「…そう言う料理です」
「毒じゃないのか?」
「失礼なこと言わないでください!
嫌なら食べなくて結構です」
せっかく調理してあげたのに!
私は座ると、スプーンを掴むとガツガツと口にかきこむ。
ああ、腹立つ!
やけ食いでもしないと気が済まない!
「…おい」
無視し、口へとチャーハンを運ぶ。
「…おい」
うん、我ながら中々。
「あの~、ちょっといいですか」
「…何ですか、要らないなら私が食べますからご心配なく!」
「いや、あの、…食べさせていただきます」
箸を手にし、恐る恐るチャーハンを挟み上げる赤凪さん。
(あ、そう言えば、今まで日本食ばっかりお父さんが作っていたような)
つまり、これが赤凪さんにとって外来食の初体験。
死刑囚が死への十三階段を上がるような顔をしている。
(…失礼にも程があるわよ、それは)
コンソメスープを呷り、据わった目付きで赤凪さんを射る。
「…なんだ」
「無理しないで結構ですよ。
そんな顔で食べられたら気分が悪いですから」
「…食べる!」
怒鳴り返された。
箸ごと食うかの勢いで咀嚼していく。
…これもこれで、失礼だろう。
「…」
「で、感想は無しですか」
収まらない怒りが、追撃のセリフを投げかけていた。
が、無視された。
追撃の追撃を行おうとするが、赤凪さんの行動に遮られてしまう。
皿を持ち上げ、流し込む勢いで食べ始めたのだ。
私は呆然と見ているしかなかった。
米粒一つ残らずに完食すると、やっと息をつく。
「なんだこれ、旨いぞ!」
絶賛されてしまった。
(そ、それは反則だよ…)
気持ちのいい食いっぷりは、下手な世辞より効果的だった。
感想もシンプルでベスト。
…毒気を抜かれたどころの問題ではない。
さっきまでの怒気は完全に失せていた。
「あ、チャーハンです」
気拙くなり、ごにょごにょと答えていた。
「…お替りある?」
「え、…私の食べます?」
「いいのか!」
「はい、どうぞ」
皿をひったくると、怒涛の食い意地を発揮。
(子供だな、これは)
大人びていると思いきや、子供みたいに全体で喜びを表現したりする。
(私も子供だな。あんな事ぐらいで目くじら立てて)
プッハーといった感じで皿を置き、スープを胃に流し込む。
ここまで見事に食べられると、作った者にとって最高の賛辞だろう。
「旨かった!」
「お粗末さまです」
私は思わず、顔が緩んでしまのを止められないでいた。
季節の始まりは、変化の象徴かもしれない。
彩りや状況、何もかもが新しくなり、不変的と想われがちなものまで影響を与えていく。
特に春は良い。
生命の芽吹き、命の胎動をより強く彷彿とさせる光景が広がっている。
季節の巡りは、世界の喜怒哀楽を表現しているようだ。
(まあ、それも間違った認識ではないが)
地球を生命に見立てた理論は、古来よりシャーマンと呼ばれた精霊を祭る者達が唱えたものだ。
捉えられないものを認識に置かない学者には、理解が及ばない分野かもしれないが、魔術や法術を学ぶものにとっては常識とされ、最大の命題とも言えた。
我らを生み出した母なる星。
その神秘に近づこうとするのは、帰巣本能に分類されるものかもしれない。
(それを垣間見たが為の悲劇か、それとも)
結論を急げば、これまでのお膳立てが水の泡に成りうるかもしれない。
慎重に事を進めなければならない。
伝承、鬼、木霊、式神。
これらの用意にどれだけの犠牲を払ったことか。
だが、後悔はしていない。
あの日を境に壊れ始めた感情に、歯止めは効かない。
それに、これは最愛の人に捧ぐ、復讐でもあるのだから。
(壊れている筈が、どうも巧く制御できない。
未だ、狂いきれて無い証拠か)
歪む。
作り物染みた仮面のような表情が、不気味な笑いを浮かべる。
狂気を孕んだ狂喜が小刻みに肩を震わす。
(因果律に支配された、この世の解放の時は来た!
真の理があるが故に悲しみを背負い、もだえ苦しんだ世界を今こそ変えるのだ!)
男は歓喜した。
変貌を遂げるであろう世界と、この時代に産み落としてくれたことに。
得手不得手というもので分けるなら、意外と得手の方だったのかと、鼎は思わず自分に感心してしていた。
あれ程、苦戦を強いられていた暗記が想うように進みだしたのだ。
(これは凄い!)
午前中は僅か五ページとお粗末なスピードだったにも拘らず、午後からは革命が起こった。
術法の図式が頭の中に基本構成されたと思いきや、それを次々に拡大し、肉付けをしていけるようになっていた。
こうなると鼎は、作業に没頭していた。
切っ掛けは赤凪のアドバイスがあった。
「確かに覚えるだけの作業は苦痛だ。
しかも、お前の遣りたいことは覚えることではなく、本質を見極め、自分のものにすることだ。
だから、考え方に根本的な違いが出てくる。
いいか、記憶は構築するものだ。
先ず、形を作れ。
ものを創るのと同じだ。
基本となる土台を形成し、それに必要な機能を付けていく。
こうすれば、矛盾や欠落が生じた時に箇所を認識できる。
修正と再構築を繰り返せば、自ずと完成しているものだ。
そう考えれば、根気はいるが楽しめるはずだ」
というものだった。
「おい、根を詰めすぎじゃないか」
赤凪の一言で、鼎は辺りを見回す。
時は刻まれ、外は紅く染まっていた。
「あ、そうですね。
…ああ!
私の消しゴムが!」
赤凪の興味の対象はボールペン、シャーペン、定規、最後に消しゴムと移っていた。
どれもこれも原型を留めていない。
分解と破壊がなされ、残骸となっていた。
鼎は模写中に机が揺れるな~と想っていたが、消しカスが小山が原因だったようだ。
赤凪は一度興味を引かれたものを、徹底的に知ろうとした。
その結果が、この有様だった。
「酷い、お気に入りのヤツだったのに!」
「…済まない」
怒らせると飯が食べられないと考えたのか赤凪は、素直に謝ってみせた。
外来料理に魅了されたと言ってもいいだろう。
ある意味で、鼎は赤凪の餌付けに成功したと言っていいだろう。
「…ま、いいですけど」
素直は美徳。
誰の言葉か忘れたが、鼎は脳裏にそんな言葉が浮かべていた。
赤凪は、鼎に怒の感情が芽生えたときは、これでいこうと密かに想った。
そんな打算があるとも知らず、鼎は渋々ちゃぶ台の上を片付けていく。
陽光が赤凪の頬を紅く染める。
それが不意に記憶の蓋を、重い音をたてて開いていく。
それは自分の醜さを実感する、赤の欠片。
赤凪にとって、赤は生の実感であった。
それが自分のものであれ、他人のものであれ同じ。
忌み子として生まれ、他から迫害され、生を拒まれた。
故に、他に生の実感を求め、戦に赴いた。
そこには赤い欠片、生の証があった。
奪い、そして実感を得る。
だが、伽藍洞な胸には何も沈殿することはなかった。
そんな愚かなことを繰り返している時、彼女に出会っのだと。
「赤凪さん!
聞いてますか!」
「あ、どうした」
「どうしたじゃありません。
いくら話しても反応しないから」
「そうか、少し魔に当てられたか」
紅は魔に譬えられる。
夕暮れの陽光が、赤凪の心の歪みを浮きぼらせていた。
「はい?」
「何でもない。
それよりどうした?」
「え、ああ、台を拭いといてください。
はい、これ」
鼎から布巾を渡される。
拒否すれば、飯抜きと宣言されかねないので、赤凪は従っておくことにする。
台所に向かう鼎。
「しまった!」
鼎の叫びに、赤凪は何事かと隣の台所と向かう。
「材料が無い…」
後に続いた台詞に脱力を憶える。
「あれ、赤凪さんどうしたんですか?」
「…気にするな」
不思議そうに首を傾げる鼎。
「あ、そうだ。
赤凪さん、これから材料を調達に行ってきますので、留守番をお願いしますね」
そう告げると、鼎は財布を片手に玄関に向かう。
「お、おい。
留守番って、俺を置いていくのか」
「はい。
現代常識が欠落している人を連れていくと、いつ晩御飯ができるかわかりませんから」
「…言うな、お前」
「今日、散々苛められましたから、そのお返しです」
微笑をして、鼎は楽しそうに笑った。
「直ぐに戻りますから、大人しくしといてくださいね」
そう告げると、鼎は居間の箪笥を開け、巾着を取り出し玄関に向かうのだった。
鳥居とそれに続く階段が修繕不能なまでに破壊されている為、鼎は裏手の雑木林の細道から新宮寺を出る。
その頃には辺りは暗くなり、梟の鳴き声がする時間帯になっていた。
(急いだ方がいいかな)
少し小走りなになりながら、商店街に続く降り道を進んでいく。
道のりにして二十分。
鼎はその間に、今日のことが色々と思い出していた。
(そう言えば、こんなに人と話をしたのはいつぶりだろう?)
鼎は友達と呼べる存在を一人も居ない為、ここ最近家族としか喋った覚えがなかった。
別に人見知りが激しい訳ではない。
強いて言うなら、そういった場がないのだ。
教育制度が成り立っていないこの世界では、学校というものが存在しない。
勉強する為の学び舎はあるが、それは個人個人がいくところで、義務は課されていない。
社会がある以上、秩序はあるのだが、知識よりも力が優先される世界構造の為に、学び舎の必要性はそれ程ないと言えた。
鼎は友達を作る場に巡り合うことなく、十四年間を過ごした自分に今更ながら感嘆してしまった。
(よくちゃんと育ったものだな、私。
普通捻くれそうなものだけど)
鼎は自分に自画自賛し、少し不思議に思う。
(それが又、不安の要素なんだよね)
本当の処、鼎は普通に育った。
親に愛情を注いで貰っていたし、不自由を感じた事もない。
故におかしいと。
普通の家系ならいざ知らず、世界のパワーバランスを支える一族の末端である。
それが平凡な現を興じることが出来るだろうか?
(それに私、毒島しか会ったことないんだよね。
一族に繋がりがある人)
鼎は自分が、人に見せない、保管されているような存在であると錯覚したことすらある。
外界から隔離され、何者も自分に危害を加えることが出来ない。
そんな錯覚が、符術を真面目に学ぶ気にはなれなかった理由であった。
(物語の主人公じゃあるまいし、そんなことは無かったな。
ある意味で、今回のことは良い教訓になったかな)
鼎は一つの結論を出し、食料店までの道程に閃きを感じた。
面白そうなイベントが頭を擡げる。
(明日、世間知らずの赤凪さんを町へと連れ出してみよう。
この時代のこと、少しは分かった方がいいよね)
鼎はグッドアイディアと口にし、楽しげに明日の妄想を膨らましていく。
普段なら、人と話ができる買い物は楽しくて仕方のないイベントの一つなのだが、一刻も早く赤凪のいる家に帰りたくて、鼎は薄暗い坂道を駆け出していた。
目的が明確にできた訳では無い。
相変われずの自分は、そこに居る。
自分が此処に居る意味。過去に何があり、こうしているのかを調べる必要がある。
そうしなくては、踏み出すことが出来ない。
幸い、此処は伝承の中核である。
ならば、手がかりの一つや二つは転がっている可能性がある。
そういった意味では、鼎に置いていかれたのは好機と言える。
鼎の帰りを待つ暇を利用し、探索及び調べものをする事とする。
畳から身を起こし、一階から調べる。
廊下を軸に部屋が備えつけられている。
玄関から入り右手に厠、その先に風呂。
少し間をとって居間、その奥に台所があった。
廊下の突き当たり迄いくと、折り返しで階段が設置されていた。
(…突き当りか。
外からだ様子だと、この先がもう少し空間がある筈だが)
その事を頭に止めておいて、一階で調べれそうな居間に行く。
十五畳と二人暮しにしては広い居間だと想う。
片隅に箪笥に目を付ける。
下から順に棚を開いていく。
古い着物、小物、手紙などが仕舞われていた。
(文か。
…手懸りにはならないか)
棚を閉める。
居間には必要最低限のものしかなく、他に目ぼしいものは無かった。
念の為に、台所にも足を運ぶ。
…そこにあった数々のものは、理解の外側にある物ばかりだった。
解ったのは包丁と俎板のみ。
後は奇妙な道具にしか、目に映らなかった。
(この鉄の半月は何に使うんだ?
記号の書かれた湯のみは?
…鉄の花?)
因みに右からボール、計量カップ、泡だて器だ。
興味をそそられたが、誘惑に打ち勝ち、探索を再開する。
(二階に行ってみるか。
あの仁とか言う男の部屋もそっちだろう)
地震の影響で階段に重みが掛かると、ギチギチと怪音を響かせる。
二階の廊下に差し掛かると、壁が見えた。
(結界だと。
やはり食わせ者か、あの男は)
人あたり良さそうなにして、隙を見せない。
会話には、端々に探りを入れてくる。
本人は何食わぬ顔をしながら。
その顔は、悪意や殺意に敏感な俺とって、本性を隠した能面にしか見えなかった。
だから鼎のことも、仁が寄越したものと警戒していた。
…すっかり毒気を抜かれ、警戒を解いてしまっていた。
(流石に結界をどうにかするのは、拙いだろう。
気取られるより、手の出せる範囲で探索するか)
奥の部屋は諦め、手前の部屋へと足を運ぶ。
(呪いの人形か、これは)
最初に目に付いたのは、大柄な人形?だった。
大きさは二尺程で、白い毛皮に纏い丸っこい瞳が貼り付けてある。
短腕、短足、見事な二頭身。
糸で表された口から二つの牙?が覗いている。
極めつけは、これでもかと言うほど巨大に耳。
(…なんだ、この得体の知れないものは。
置物としては、風情が無さすぎる。
感性が推し量れないぞ)
俺には、これが何を模しているものか連想出来ないでいた。
益体のない面だとぼやいてから、物色する目標を定める。
箪笥に手をかける。
又、下から順に検索する。
「手拭いか、これは?」
初めから手拭いらしきものが現る。
手拭にしては短く、吸収性に欠けている。
肌触りは良好。
穴が空いているので、袋ではない。
穴が三つで、一箇所だけやたらと大きい。
色は白と水色との縞模様だった。
(身に付けるものか?)
「ただいま帰りました、赤凪さん!」
(やばい!)
一階の方から威勢のよい、挨拶が聞こえてくる。
素早く棚を閉め、開いている窓から飛び降りる。
階段から降りれば軋む音がして、上から降りてきたことがばれるからだ。
音をたてずに地面に着地し、縁側のから居間へと戻る。
土の付いた足の裏を叩くことも忘れてはいない。
この間、僅か五秒。
これで裏工作は完了した…筈だった。
紙袋に一杯の買い物を携えた鼎が居間にやって来る。
「赤凪さん、戻りましたよ」
「ああ」
呆然と過ごしていたかのように、居間を支える柱に背を預けて座っておいた。
わざとらしくないよう、生返事にしておく。
「赤凪さん?
左手に何を握ってるんですか?」
僅かに左拳から食み出している布切れに、鼎は気づいた。
「まさか、また何か壊したんですか!」
ぶっわと冷や汗が沸いてくる。
(しまった!
返すのを忘れていた!)
「見せてください。
隠し事をすると、夕食の命はありません。
観念して、白状してください」
(手拭ぐらい、大丈夫か。飯が食えないよりは怒られる方が)
もし俺が、一般常識と物の正体を知っていたなら、この後の展開は免れたのだろう。
渋々、鼎の前に行き、謝罪の言葉と手のひらを開いて見せる。
「悪い」
「………キッアアアァ!」
暫しの空白後、鼎の顔が見ると間に赤くなっていく。
悲鳴と共に、大きく手を振り上げてくる。
パンァ!
縞色の手拭いが、空を舞う。
罪悪感が胸を擡げたのか、其れとも場の空気がそうさせたのか。
兎に角、避けてはいけないものだと悟り、平手打ちを甘んじて受けた。
「最低!
ご飯抜きです!」
追い討ちを喰らい、俺は膝から崩れ落ちていた。
「そんな、約束を違えるのか」
強く出れないが反論だけはしておく。
「白状したら飯に有りつけると誰が言いましたか」
鼎の冷たい視線、冷たい口調、冷たい宣告。
(ああ、これ以上逆らったら、明日も飯にありつけない気がする)
俺は自分が何を握っていたのか分かることなく、罰を受け入れるしかなかった。
その日のメニューは、炊き立てご飯に240gステーキと具沢山ミネストローネ、オリジナルドレッシングを降りかけたサラダにデザートが桃風味のババロア。
鼎の渾身の作だった。
赤凪に喜んで貰おうと奮発したが、その本人の口に入ることは無かった。
赤凪は、鼎が完食するまで、目の前で正座をさせられた。
視覚と嗅覚に訴えた拷問は、後悔の文字を赤凪の胸に刻みこんだのは言うまでもない。
…朝を境に、仁の姿はどこにもなかった。
鼎は取分け心配はしていなかったが、時期が時期だけに胸騒ぎがした。
その日、仁は帰宅することはなく、夜が深けていくのだった。