感性不備
[11 感性不備]
この空間が如何なる場所に存在し、如何なる目的の元に誰が創ったのかは人の範疇では推し量れない。
その理由は、人の領域に存在しない空間だからだろう。
輪廻の狭間とも言える空間に、一人の男の意識体が漂っていた。
物質界での名をノーストライザ、否、デミタスと言った。
そしてその隣に女の意識体が寄り添っていた。
名はデステーラ。
二つの意識体は互いを必要とするように支え合い、漆黒の闇の底へと堕ちていく。
だが、二つの意識体に怯えなどはなかった。
共にいる喜びに満ちた表情を浮かべていた。
(…まだだよ)
底のない闇に引き込まれようとするデミタスとデステーラに、何かが語りかけてくる。
(彼方たちはまだ来世へと向かうには早すぎるよ)
何者かが落ちていくデミタスたちを引き止める。
(…誰だ。
もう俺達のことは放って置いてくれ)
二人の意識に思念が割り込んでくる。
(…手伝って欲しいことがあるんだ。
貴方たちが、死する全てのものの安息を揺るがさない為に)
(……)
(このままならこの輪廻も崩壊し、全てが混沌に帰す。
安息はこの世から消え失せる)
(無理よ。
そんな大逸れたこと誰にもできないわ。
それに彼方何者なの?
人が、現世のものがここに来るには、死するしかない)
デステーラは思念を否定して警戒する。
(僕はPB。
ちゃんと現実に存在するもの。
生き物かは不明だけどね)
(…話せよ)
(ノースト!)
(聞くだけならタダだ。
まあ、タダほど高いものはないがな)
デステーラに茶目っ気たっぷりな思念が伝わってくる。
肉体があるなら嘆息ものだ。
(…産まれようとしているんだ。
一つの混沌が完成をみれば、他の混沌も目覚めていく。
崩壊の連鎖が始まれば無と混沌しか残らない。
…感じているだろう。
魂が呼応し、混沌を呼び戻そうとしているのを。
{し}の意味を知る者よ)
(何故俺たちが選ばれた?
他にも適任者はいるだろう)
(貴方達こそ適任者ですよ。
死ぬ間際に根源を理解し、そして死したばかりで物質界との繋がりがまだ切れていない。
貴方達だからこそ、この事態を収拾する力となれる)
(何故貴様は崩壊を止めようとする。
抑止力になり、何を成したい)
思念に向かい目的を聞く。
(止めておこう)
デミタスは聞くことを止める。
(…それは物質界の崩壊も意味するのか?)
(はい、全てが元に戻ります)
デミタスは苦笑を浮かべ、デステーラに視線を送る。
それは想いとなり、デステーラに届く。
(はい、はい。
…借りを返したいのね、エンブリオに)
(アイツのいる世界が無くなれば夢もへったくれもないからな)
(……)
(妬くなよ。
お前もアイツも同じ{し}の者だろ。
同志は助け合うものだぞ)
(ふんっ、屁理屈だわ。
どうせ私が断れないことを知っているくせに)
(ホンといい女だぜ、お前は)
そう伝えるギュッと引き寄せる。
肉体がないが、本人がイメージをした姿を取り合っていた。
隻眼で、黒服の男と妖艶な微笑を浮かべる美女が抱きあう。
(嬉しいな。
現実では、抱き合うことなんて叶わない願いだったのに)
頬を染めながら、女は男の胸に顔を埋める。
(俺もだ。
…PBと言ったな、お前の手伝いをしてやるぜ)
(…僕が言うのもなんですが、そんなに簡単に決めていいんですか?)
(なら、聞いてやるよ、お前は何が望みだ)
(変な人ですね。
順序が真逆ですよ。
…見ていたいのかもしれませんね、この物語の結末を。
唯の観客、傍観者としているつもりでしたけど、このままなら結末は混沌に消えてしまう。
初めて心動かされた物語ぐらい、最期まで観賞したいですから)
(…物語ね。
成る程、ガキだな)
(そうね)
デステーラも相槌を打ち、思念が伝わってくる虚空を見つめる。
そしてデミタスとデステーラはどちらともなく笑った。
(何が可笑しいんですか?)
(いや、済まないな。
何処にでもいるんだなと思ってよ)
(ホンと、感情を持つ者って自分の事が一番見えないのね)
(感情を持つ者?
この僕が?)
(だからガキなんだよ。
どれ、おじさんがお子様のお守りをしてやろう。
おばさんも一緒だぞ)
(誰がおばさんですって!)
(俺の三十倍以上地上にいたお人のことだよ、デステーラ)
(真実でも言っても、それを口にするとどうなるか分かってるんでしょうねぇ)
おどろおどろしい思念がデステーラから伝わってくる。
(さて、案内してくれ、PB)
その場から逃げ出し、PBの思念の伝わる方向に移動を開始する。
(あっ、待ちなさいよノーストォ!)
(……)
そのやり取りを傍観しながら、デミタスの言葉を反芻するPB。
そして自分の中に何かが芽生えてくるのを感じるのだった。
事切れたデミタスを横たえ、その掌に遺品を握り締め、エンブリオは一度瞼を閉じる。
数々の思い出が過ぎる。
辛い経験があれば、それを吹き飛ばすように笑い合い、苦い想いをすれば、酒を飲み交わした。
それは全てに色を伴い、熱が失せることなくエンブリオの中で息づいている。
(デミタス、貴方は教えてくれた。
悲しみの舞台を演じている自分の愚かさを。
そしてそれは色褪せた伽藍洞の記録だと。
私はあの日から躍動している記憶を共に歩んできた。
…だから、忘れませんよ。
重荷にはしません。
だけど、責めて背負わせてください。
貴方との歩みが彩られたものだと信じるために)
遺言に叛くことでも、エンブリオは譲れなかった。
これが自分なのだと知ってしまったのだから。
(エンブリオ)
(大丈夫ですよ。
私は立ち上がれます。
そして貴女の支えがある限り何度でも立ち上がります。
さあ、行きましょう。
自分の手で決着をつけないと)
ジッポを腰のポシェットに仕舞い込み、落ちている右腕を拾う。
傷口に着いた土を服に擦り付け、拭く。
エンブリオの着ているデミタスとは正反対の白い服は、赤一色に染め上げられていた。
付け根に右腕を持っていくとヌール ジャハーンが光り輝く。
そして記憶していた形状に腕が戻っていく。
「フウゥ」
流石に失われた血液と、これまで蓄積された疲労感とダメージ。
生きているのが不思議なほど、エンブリオの肉体は限界に達していた。
そして今、ヌール ジャハーンを行使することにより、細胞の寿命が磨り減っていく。
(これ以上は駄目よ!
もう闘える体じゃないわ!)
(…血と肉と魂。
どれもが叫んでいますよ。
マシュカーゼの呪われた運命を己の手で断ち切れと)
(わかってるわ、そんなこと!
でもぉ!)
(死にませんよ。
貴女との約束したでしょ、地獄の底からでも生き抜くと)
一歩踏み出す。
全身を倦怠感が包み込む。
一歩踏み出す。
眩暈が生じ、一度視界が真っ黒になり、回復する。
一歩踏み出す。
息が切れ、胃からこみ上げてくる吐き気を堪える。
肉体は正直に警告してくるが、一歩踏み出す毎にその苦しみすら馴染んでいくのが分かる。
(エンブリオ、信じるわ)
テイヤノーラの声が踏み出す力を与えてくれる。
(安心して、信じて下さい)
エンブリオは己が信念の元、突き進む。
「まさか、ここまでとは」
恐怖が入り混じった表情でと呟く男を前に、赤凪は刀を仕舞い臨戦態勢を解いていく。
「…なんのつもりですか?」
「お前の相手は俺じゃない」
それだけ言い放つと、踵を返しテラングィードから離れていく。
「…この私を愚弄するのか」
「…くっくくくぅっ、愚弄とな。
それではエンブリオに悪いじゃないか」
侮蔑を込めた笑みをテラングィードに投げかけ、戦いを免れたベンチに腰掛ける。
「…混沌の主よ。
それはどういう意味です」
テラングィードから溢れる、怒りに震える声。
「化けの皮が剥がれかけてるぜ。
紳士ぶるのも大変だな」
歯牙にもかけない様子で、赤凪は血に濡れている肩に手を置く。
砕かれた白い骨が、生き物のようにグネグネと伸びて再生していく。
(深いな。
だが、ここで治療をしておかねば)
赤凪は焦燥感に駆られながらも己を落ち着かせ、治療に専念する。
勘が告げている。
歯車は一斉に動き始めたと。
(一秒でも早く、鼎の元に戻らなければ)
赤凪の思考から、テラングィードのことが除外されていく。
骨の再生が完了し、次に骨の上を幾重にも赤や白の線が繋がっていく。
神経や筋肉が右手と本体を繋いでいく。
「…私を舐めているのですか。
そんな隙だらけの状態を私が見逃すとでも」
「言った筈だ、お前の相手は俺じゃないと」
「そうですよ。
貴方の相手は私以外誰がいると言うんですか?」
満身創痍のエンブリオが、全身を引きずる感じで近づいてくる。
歩くのもやっという雰囲気だが、藍色の瞳は戦意を称え、輝きを失っていない。
それどころか、以前感じられなかった芯の強さがヒシヒシと伝わってくる。
「成程、役立たずのノーストライザ死にましたか」
「ノーストライザは私が殺しました。
そしてデミタスを私に殺させる設定を組んだ貴方に、私の心の痛みを教えてあげますよ。
その体に」
「そんなボロボロの貴方が私の相手ですか?
笑い話にしかなりませんね」
「貴方と話していると吐き気が催します。
能書きはいりません。
只、静に殺し合いをしようと言っているんです」
「…小僧が図に乗りよってからに」
エンブリオは赤凪に近づき、小声で用件を伝える。
「行ってください。
心ここにあらず、気配が散漫ですよ。
こちらまで伝播してしまう」
エンブリオは焦りに満ちている赤凪を行くように促す。
「…お前、俺に言ったことを覚えているか?」
「カナエさんに借りを返す、でしょ。
守りますよ」
満足のいく返答を貰い、赤凪は腰を上げる。
そして、一枚の符を取り出すとエンブリオに突きつけ
「追、と唱えれば俺の元に導いてくれる。
遅くなっても構わないから、這ってでも来い。
いいな」
とぶっきらぼうに伝える。
「ええ、必ず」
エンブリオはそれを受け取り、ジッポと同じくポシェットに仕舞い込む。
赤凪は再生の終わった肩を廻し、具合を確かめるとテラングィードに向かい歩き出す。
その無造作な行動にテラングィードは何も出来ないでいた。
真横まで辿り着いた赤凪が呟く。
「もう、お前ではあいつの相手は務まらない」
そして赤凪は、その横を堂々と通り過ぎていく。
(この私が臆しているというのか!)
テラングィードは振り返り、無防備に背を向けている赤凪に攻撃用のルーンを描こうとする。
その時、一陣の閃光が振り上げようとした手を貫く。
「グゥゥッ!」
貫かれた掌から白煙が上がり、テラングィードの細胞を破壊していく。
「余所見は厳禁ですよ、テラングィード。
これが最後通告です」
「き、貴様ぁ!」
振り返ったテラングィードは手を押さえ込みながら、憎しみを込めた視線でエンブリオを睨みつける。
その間に赤凪は速度を上げ、公園から疾走して出て行く。
「余裕のつもりですか、これは」
左掌をエンブリオに翳し、背後から掌しか撃ち抜かなかったエンブリオに問う。
「別に。
不意打ちでは根底から貴方を打ちのめした事になりませんからね」
「…成程、カンフル剤は見事に投与された訳ですか。
なら、貴方は私の新たな力になりなさい。
それが私が貴方に課し、見逃していた理由なのですから」
「優秀な遺伝子を吸収し尽くし、次に貴方が求めたのは、劣悪な環境で生まれる抗体というわけですか。
そしてその白羽の矢が立ったのがマシュカーゼ。
つまり貴方と同じ遺伝子を受け継ぐ私だった。
…愚かな」
「愚か?
現に貴様は見事成長し、熟れた果実となったではないか」
「私は熟れた果実などに成ってはいない。
貴方に敗れた時と違わずだ。
だから、貴方が私の遺伝子を取り込んだところで意味などは無い」
「なに?」
「もう、お喋りいいでしょう。
始めましょう」
話を切ると、エンブリオはテラングィードに近寄っていく。
距離は五十メートル。
鈍足な亀のように、だが威圧的で威風堂々とした歩み。
(なんだ)
テラングィードは、いつの間にか握り締めていた己の拳を開く。
そこにはべっとりと汗を掻いていた。
(なんなのだ)
恐怖や怯えではない。
唯、漠然と押し寄せてくる不安がテラングィードを支配していく。
赤凪に感じたような絶望感は無い。
だが、逃れられない、蜘蛛の巣に捕まってしまった蝶に自分がなってしまったような錯覚に陥る。
(何故、ここまで私が威圧されている!)
逆はあれど、こんな状況に陥っている自分が信じられなかった。
もがく蝶の如く、テラングィードは虚空に{く}に似た字を描く。
「k」
テラングィードの発音がルーンは発動して、Kenazの意味が具現化を果たす。
それがエンブリオに灼熱の炎を降らせる。
(安定化していない意味など、取るに足らない。
現世と幽世の狭間を通過するもの程、その実の定力が薄く、そして脆い)
エンブリオは右腕を炎に翳す。
付け根から激痛が迸る。
完全に形状が戻りきっていなかったのか、筋が悲鳴をあげている。
だが、集中力が乱されることなくエンブリオはヌール ジャハーンの効力を存分に発揮する。
左眼窩から流れ出る力の本流が瞬間で右腕に到達し、眩いばかりの閃光が一帯を照らし出す。
その光がルーンを掠めた途端に、炎が陽炎となり実体を失っていく。
「バカなっ!」
影となった炎はエンブリオをすり抜け、なにものを焦がすことなく現実から消え失せていく。
初めから存在しない蜃気楼のように。
残ったのは、驚愕に染まったテラングィードだけだった。
「なにをした!」
月並みな台詞がエンブリオに送られる。
エンブリオはそれに答えず、三十メートルになった間合いを詰めていく。
戦慄したテラングィードは幾つものルーンを乱雑に書き描く。
「h、w、-ngっ!」
三つの文字が空中に描きこまれ、そこに付加を加えるためにタロットカードを投げ込む。
それに後押しされ、一つの文字が吹雪を巻き起こし、雹を叩きつけてくる。
一つの文字は光を収束させ、あらゆるものを貫き通す光の線を解き放つ。
一つの文字は大地を震撼させ、地割れを起こす。
どれも簡単に人を葬る威力を秘め、エンブリオへと殺到した。
…エンブリオが再び放った閃光は文字を掻き消し、先ほどと同じように雹はエンブリオをすり抜け、光は霧散し、地割れはエンブリオの立ち位置まで到達することなく、揺れが納まってしまう。
「こ、こんなことが」
(楔無きものは、より大きな意志に飲み込まれる)
エンブリオは閃光を放った手を凝視する。
(まだ、いけますね)
全身を駆け巡る違和感。
それは自分の存在が薄れ、この世界から消え失せてしまうような感覚。
それが錯覚でないことを示すように、手の甲が透けて血管が異様なほどにしっかりと青い筋を浮き立たせ、存在を希薄化させていた。
(…苦しみから背けないで)
(テイヤノーラ?)
(もし、このまま苦しみから逃れるような力の行使の仕方をすれば、貴方は現世からも迫害され、幽世に堕ちてしまう。
もし、中途半端な状態が続けば、幽世からも弾かれてしまうわ)
(…判っていますよ。
肉を持ち、血を通わせている私がテラングィードを討ちます。
肉を精に変えたりはしません。
喩え、どんな苦痛が押し寄せても)
エンブリオはグッと拳を握りこむ。
希薄になっていた手がしっかりと存在感を示した。
五感の全てが自分を認識し、それらがこの現実を感じ取っている。
「…ルーンを防いだぐらいでいい気なるなよ、エンブリオォ!」
テラングィードの殺気が膨れ上がり、疾風と化す。
どんな獣より速く、獰猛さを称えてエンブリオを引き裂きさこうとする。
上から振り下ろされる爪。
鉄を紙のように引き裂く、一撃必殺の爪がエンブリオを捉えた。
カンッ!
皮膚と皮膚が叩き合うような音ではなく、鉱物と鉱物がぶつかり合うような甲高い音がエンブリオの頭上で起こる。
「…バ、バカな」
エンブリオが無造作にテラングィードの手首を掴みとっていた。
「私の一撃を受け止めただと」
受け止めたエンブリオの腕から、ギシギシと骨の軋みが聞えてくる。
それこそトラックの衝突にも匹敵する衝撃を受け止めたのだ。
原型を留めているだけでも、奇蹟と呼べた。
エンブリオは腕からくる衝撃と痛みに眉一つ動かさず、痛みが神経の通っていることを確認させ、テラングィードの手首を握り締める。
今度はテラングィードから骨の軋みが響いてくる。
「…ゥゥゥ、これがEDNAの本当の力ですか。
ここまで進化するとは」
握りつぶされそうな圧力を手首に受けながら、テラングィードは話しかけてくる。
「これは私の力だよ、テラングィード。
それに言っただろう、何も変わっていないと」
テラングィードは残っている手で、エンブリオの喉笛を掻っ切りにいく。
エンブリオは手を離し、後方に跳び去る。
その動きは、最期にノーストライザ戦で見せたあの神速の動きだった。
空を切るテラングィードの爪。
それが引き戻される前にエンブリオは地を蹴り返し、相手の懐に潜り込んでいた。
「これは私の街のみんな、両親の分」
拳を硬く握り締め、その胸元を強打する。
胸元に吸い込まれた拳から骨を砕く感触が伝わってくる。
「カハァッ!」
胸を押さえ込み、血反吐を撒き散らしながら後退するテラングィード。
姿を捉え損ねた瞬間に、エンブリオが眼前から失せる。
「そして、これは貴様の欲の為に殺された者達の分」
後頭部に鈍い衝撃が叩きつけられる。
「ガハアアァ!」
意識が吹き飛ばされそうになりながらも、テラングィードはその場に踏み止まる。
「これは貴様に取り込まれ、存在を辱められた者達の分」
脇腹に生じる激痛。
バキバキと何本もの骨の砕ける音が響く。
エンブリオの肘がテラングィードの脇腹に刺さっていた。
「グウウウゥ!」
その攻撃に耐えたテラングィードは、エンブリオ目掛けて肘を落とす。
が、エンブリオを捕らえることは出来ず、脳を揺さぶられる。
顎を打ち抜いた拳を掲げながら、エンブリオは吼える。
「これがデミタスの分だぁ!」
ふらついているテラングィードの眉間に拳がめり込む。
「これが私の分だぁ!」
眉間から皮と骨が砕け、血が鼻筋を通り口元を汚していく。
「ゥゥゥゥリリリリィィィィッ!」
人のとは想えない奇声がテラングィードから吐き出される。
「手加減していれば図に乗りよってぇぇぇぇ!」
そう叫び、テラングィードに体が頭部から水蒸気が上がる。
それに伴いテラングィードが薄らいでいく。
「いくら貴様でも霧は殴れまい!」
嘲る笑い声をあげながら、テラングィードは形を霧散させていく。
「アストラル干渉ですか。
…そのままの死がお好みですか?」
ポツリとそう漏らすエンブリオ。
ヌール ジャハーンが輝きを増し、エンブリオを囲む四角い光のフィールドが形成される。
「EDNAの真骨頂は具現化にあります。
それは物質界に干渉できない幽界を、不可視のものを可視できるように変形させる。
EDNAは繋ぎ。
アストラル(精神)をマテリアル(物質)に挿げ替えることにあります。
もし、私のEDNAの影響がフィールドに反映される空間を創り出せたら、貴方がアストラル状態にいることは何の意味も持たない」
エンブリオの形成した空間に霧が触れた途端、それは形をなり、具現化されていく。
「霧は殴れませんが、肉体は殴れます」
エンブリオはそう告げると、霧が形状を持ちは始めた位置に向かってダッシュする。
意思とは別に具現化させられたテラングィード。
その顔面を、エンブリオの拳が捕える。
「グフウフゥゥッ!」
ペキッと鼻骨が砕ける音とテラングィードのくぐもった声が耳につく。
拳、肘、蹴りをもろに喰らい、変型した肉体。
芸術品の域まで達していた顔は見る影もなく、高い鼻は陥没し、鼻の穴からボトボトと血が滴る。
胸、後頭部、左脇腹、顎、眉間。
どれも急所を的確に打ち込まれていた。
普通の人間なら即死している。
そんな猛攻を喰らいながらも、テラングィードは健在していた。
「…、フッハハハハハハハ!」
突如、高笑いをあげるテラングィード。
狂気を孕んだ笑いが潰れた顔に満ち満ちる。
その高笑いに呼応するように、潰れていた鼻が本来の高さに戻っていく。
鼻だけではない。
陥没している胸や脇腹、血を垂れ流している後頭部、砕かれた顎までもが見る見るうちに元のテラングィードの形状へと再生していく。
想いのままに新陳代謝機能を作用させ肉体の補修させる。
そして異様なまでの順応能力が、肉体に新たな力を宿す。
「その程度の攻撃では私を殺し切れません。
それどころか、私の防御能力を増幅させるに過ぎません」
テラングィードの台詞は虚勢ではない。
喩え、エンブリオが先程と同等の攻撃が五十発以上急所にクリーンヒットしたとしても、テラングィードを死に至らしめることは出来なかっただろう。
それほどまでに、テラングィードの再生能力と順応能力は発達しており、生物の頂点に位置すると言えた。
「無駄なんですよ、エンブリオォ!」
「吠えるな、弱き者よ」
殴りつけた拳は皮が捲れ、肉が露出している。
それ程殴りつけておきながらも致命傷どころか、かえって相手に力を与えてしまった状況で、エンブリオは淡々と罵倒を浴びせる。
「…私が弱いだと」
失笑し、紅い瞳がエンブリオを睨みつける。
蛇のように目を細め値踏みする。
エンブリオはそれを物ともせず、その手に蒼剣を宿す。
「証明してあげますよ。
貴方の死を持って」
「…良かろう。
血は殺した後にゆっくりと啜ることにしよう」
テラングィードは両手の指を真っ直ぐ揃える。
爪が伸びだし、五十センチ強の刃物が完成する。
今のエンブリオは、かすり傷から漏れる出血すら死に繋がりかけない。
それに比べて、テラングィードは肉を刻む程度では致命傷になりえない。
圧倒的不利な状況が、エンブリオの前に展開されていた。
目まぐるしく流れる景色。
通行人達には一陣の風が通り過ぎたようにしか感じなかっただろう。
赤凪は呼吸が乱れない程度の速度を維持しつつ、出来うる限りの速度で疾走していた。
(新宮寺まで後もう少し)
内からこみ上げてくる焦燥感を押さえ込む。
全力で駆け抜けたいが、いざという時に息が切れてしまっていては意味がない。
(…どうやら、俺は鼎にイカれてしまったらしいな)
凪穂以外にそんな感情が持てたことに、赤凪は驚く。
(驚くこともないか)
反語する。
鼎がいなければ、自ら命を絶っていたのは間違いないだろう。
それ程までに、この時代に降り立った時、心は荒んでいた。
凪穂と出会う前に戻った気分だった。
何もかもをぶち壊してしまいたい衝動と、埋めることのできない虚無感だけが全て。
そこから救い出してくれたのが鼎。
凪穂と同じで、荒れた心を均し、種を撒いてくれた。
(それがどれ程救われたことか。
未だ、返しきれてないよな、恩は)
赤凪の視界に新宮寺が見えてくる。
雑木林を駆け抜ける時間が惜しい為に、破壊しつくされた瓦礫の階段を駆け上る。
(結界が解かれている!?)
此処を追い出される前には存在した結界が無くなっており、それが事態が急転していることを告げていた。
(遅かったかぁ!)
鳥居の残骸を跳び越え、寺内に足を踏み入れる。
「御早いお着きですね、赤凪君」
通る声。
そして自分を待ち構えていた事が分かるその台詞が、事態が既に起こった後だということを赤凪に痛感させた。
「仁っ!
鼎はどうしたぁ!」
声のする方向に視線を向け、赤凪は叫ぶ。
グリフォンにより破壊された新宮寺の残骸の上に、腰掛けている男が一人いた。
…そこに表情は示されていなかった。
無表情な男がなんの感慨もなく、こちらを見つめている。
「…父親としての私なら喜ばしく、複雑な気持ちで聞いていた台詞なんでしょうね。
でも、ここにいるのは只の復讐者に過ぎません」
「訊いているのはそんなことじゃないっ!」
「…そうでしたね。
もう、気配を発することもなくなってしまったんですよね」
仁の後ろからヌラリと影が二つの影が立ち上がる。
一つは顔色が無く、一目で生きてい人間でないことを物語った人型。
その顔は鼎によく似ていた。
そしてもう一つは…。
「…裏切ったんだな、鼎の絆を」
悲痛な声が赤凪から吐かれる。
空ろな瞳。
呆然と開けられた口。
ダランと足れた腕。
伽藍洞。
そこには、中身が空っぽになってしまった人形が立っていた。
「絆ですか。
…そうですね。
血縁でなくとも、私達程仲の良い家族をそうなかったでしょうに。
でも、演じていただけのこと」
仁は腰をあげ、ゆっくりと瓦礫の山から下りてくる。
「本来の関係に戻しただけのこと。
人形に感情など存在しないのだから、裏切ったことにはならないでしょう?」
仁の後を、二つの人形がつき従う。
「賭けをしていたんですよ。
貴方が私の動向に気づかなければ、このまま演じていても良いかもしれない…と。
都合のいいことを考えていたんですよ。
それ位、このごっこは幸せだった」
「なら続ければ良かったんだ」
「貴方が目覚めて、目的も目覚めてしまった。
そうしたら、引き裂かれてしまったんですよ、心が」
(…この男、鼎を壊して自分も壊したのか)
「重ねた分、罪が突き動かす。
苦しみを解放しろと」
(…泣いている)
赤凪には、仁が血の涙を流しているように見えた。
「私は犯した罪を抗わなければならない」
(…偽ることの出来ないのか)
「それが五行を集め、根源の扉を開き、混沌に返す。
そんな事が目的なのか?」
全てを混沌に返し、罪も罰も生も死も混在させる。
そうすれば罪は罪でなくなり、罰は罰でなくなる。
生と死が共にある為、喜びも悲しみも生まれない。
苦しみの存在しない世界。
「生憎とそこまで踏ん切りは付かなかったですよ。
私が根源への扉を開きたかったのはアカシックレコードに触れ、世界を改正したかったから…」
そこで一息つき、仁はこう告げる。
「壊したかったのは…感情です」
テラングィード D マシュカーゼ。
伝統あるマシュカーゼ家に生まれ、黄金時代を築いた男。
だが、自分の才に溺れた男は、禁断の魔術に手を染める。
不老不死の夢。
そしてそれに最も近いとされる吸血鬼達を研究し、人体実験の末、新型のエレクシルを完成させる。
この地点で、テラングィードの生命に対する認識が人のものではなくなっていた。
エンブリオ マシュカーゼ.
テラングィードに貶められ、没落したマシュカーゼ家に生まれる。
世間から迫害を受けながらも、両親からの愛に恵まれ健全に育っていく。
だが、テラングィードが引き起こした聖夜の惨劇により、天涯孤独になる。
教会が派遣した者に保護され、復讐という目的を果たす為に教会の武力組織、執行者となる。
同時に地面を抉り、互いに間合いに踏み入れる。
細胞の活性化と脳内麻薬の分泌を調整し、限界ギリギリの身体能力を引き出すテラングィード。
自分を信じ、こちらも限界まで身体能力を向上させたエンブリオ。
どちらも身体に纏わりつく空気の壁にぶち当たり、肉体が軋む。
空気を突き破り、テラングィードの爪がエンブリオの喉元を貫こうとした。
が、そこにはエンブリオの喉はなく、虚空を貫く。
残像を残し消えたエンブリオ。
「任務完了」
テラングィードは、後ろからするエンブリオの声に反応して振り返ろうとする。
だが、体が言うこと利かず、身動き一つとれない。
(私の体はどうしたのだ)
全ての神経が通っていないと勘繰るほどに、指先一つ作動しない。
脳内から指令を発し、何度か振り返ろうとする。
その度にパルスは何処かで途切れ、運動に連動しない。
テラングィードが異変を明確に感知出来たのは、視界の歪みだった。
両目が送ってくる映像が明らかに奇妙だった。
縦にブレが生じて、情景がぼやけていく。
それは次第に大きくなりっていく。
「ワわワわワわワわァぁァぁァぁァぁ!!」
テラングィードは声帯を振るわせ、もてる限りの絶叫を上げた。
その絶叫もブレを起こし、音になる頃には酷い雑音に変わり果てていた。
左の視界が前に倒れていき、右の視界が後ろに倒れていく。
そしてテラングィードの瞳は脳との繋がりを失い、光を取り入れることが出来なくなって闇に閉ざされる。
絶叫も反響させる声帯が中心から別れ、最早空気を振るわせる事はなくなり声は霧散する。
テラングィードの肉体は光の筋を奔らせ、半ばから裂けていく。
テラングィードは己が肉体を必死に活性化させ、細胞を結合させようとするが、脳が真っ二つにされていて思う様に動作しない。
このままでは肉体ごと精神まで朽ち果ててしまう。
(今の体よりも劣るが、致し方あるまい。
命に関わる)
為らばと、精神を研究所に保管してあるスペアボディに移動させようと幽界に逃げ込もうとする。
「無駄ですよ。
私が創り出したフィールドが未だ健在です。
貴方はアストラル界へ逃げ込めません」
霧の肉体を物質に具現化させたフィールドが、テラングィードの幽界への道を完全に遮断していた。
(エンブリオォ!
キサマァァァァ!)
声にならない怒り。
「吸血鬼の殺し方は重々承知しています。
それに一度、貴方を葬った人が言っていました。
『肉体は壊しても、奴は殺せない。
肉体に封じ込め、朽ち果てさせよ』と」
一度の敗北。
自分の力に過信し、教会に手を出した際に現れた男、ゲラート ネオス。
人の身でありながら、人の領域を凌駕した男。
戦慄した。
強さを固まりにしたようなその男は、あっさりとテラングィードの肉を破壊した。
今程でないにしろ、その時分でも其れなりの力は有していた。
だが、余りの力の差に肉体を捨て、命からがら逃げ出した。
それからだった。
より大きな、誰をも跪かせる力を欲したのは。
(ゲラートォォォ!
マタ、キサマガワタシヲォォォォ!)
一度の敗北が暴露した、テラングィードなる者の殺し方。
それを教授され、エンブリオは忠実に実行した。
逃げ場を失ったテラングィードは肉体に留まるしかなくなり、肉体の崩壊に伴い、精神も崩壊の一途を辿っていく。
「貴方の叫びは鎮魂歌になるでしょう」
エンブリオは冷徹にそう言い放つ。
暫く後に、テラングィードの心音が止まり、生命活動は停止した。
エンブリオはそれを確認すると、テラングィードを凝視する。
魔性の肉から聖火が上がり、灰へと変えていく。
「終わりました、父さん、母さん、デミタス」
そう告げると、糸の切れた人形のようにその場にへたり込む。
(エンブリオォ!)
「大丈夫ですよ。
少し疲れただけです」
疲労困憊。
出血は致死量手前。
肉体のエネルギーを使いすぎて、壊死した細胞は数知れず。
生きているのが不思議な程に、エンブリオの体は臨界まで酷使されていた。
「・・疲・れた・・から寝ま・・すね」
まともに言葉を紡げず、肉体が睡眠を要求してくる。
(…エンブリオ)
今にも泣き出しそうな声音が休眠しかけの脳に響く。
「お・きます・・よ。
はって・・でも・やくそ・・・くは・・まもり・・ます」
横臥した状態で、エンブリオは言葉にして言う。
限界まで重くなった瞼が、自然と下りる。
そして、健全な寝息を立てながら暫しの休息を、見る影もなくなった公園の真ん中で貪るのだった。
瓦礫の山から下りた場所で立ち止まり、仁が語りかけてくる。
「貴方が現世に降臨することで、五行は揃いました。
静姫が保有する陽の火、土、金、水。
そして静姫の使役する陰の火、水。
私が手にして陰の金と、この前回収した土。
これらと、貴方の陰陽の木が器に潅がれれば、基盤への道は開かれる」
赤凪は納得した。
仁の後ろに立っている死体が腐らずに、維持されている理由を。
金の五行が、あの式神には宿されているのだ。
赤凪のように特別な人間以外が星の五行を手にすれば、人格が崩壊し、生ける屍と化してしまうだろう。
だが、死した者ならばその心配も無い。
そして金の行、変化の力を用いて肉体の劣化を修正すれば腐り堕ちることは無い。
「この式神は、陰の金行を遣いこなすことが出来ます。
陰璽星瀾と同等。
器にも土行を濯いでありますから、静姫に後れをとることはありません。
勿論、貴方にも」
「…鍵は揃うとういう訳か。
感情を壊したいと言ったな」
鼎に目を配らせながら、赤凪は問う。
「感情なんてものが無ければ、苦しみも悲しみも、全てを認識することなく生きられる」
その台詞を吐く仁の姿は、罪を吐露する罪人のそれだった。
「不完全な世界で、最も不完全なもの。
混沌が生み出せし世界の理の中で、最も醜いもの。
生まれながらにして全て定義が確立された世界。
なのに、不完全なもので彩られている。
こんなふざけた矛盾があっていいものなのかぁ!」
赤凪の前で着けていた仮面を取り払い、仁はその不完全なものを露にして叫んだ。
「……」
赤凪は瞳にある感情を宿しながら、その声に耳を傾ける。
「初めから定まっているなら何故、不完全なものを持たせて生ませたぁ!
この世界は苦悩を詰め込んだ檻だぁ!
…私がここで、混沌に戻したところで、再び世界は誕生し、悲しみの連なりは永遠を紡ぐでしょう。
なら、最も不完全なものを無くしてしまえばいい。
檻の中で生きられるよう、負を蓄積しないよう、只、定めに身を任せられるように、生物から感情を取り除く。
感性無き者達は、欲望や絶望を抱かなくなり、生存本能の赴くままに事務的に生きる。
恐らく、怠慢的になるであろう人類に、二度と改変など推し量る者はいないでしょう」
赤凪は何も語らず、仁を見続ける。
その行為、そしてその瞳が語るものに気がついた仁は、…当惑した。
「何故ですか?
私は鼎を裏切り、そして此れから貴方に宿っている五行を奪い、混沌への扉を開き、根源を改竄しようとしているのですよ。
…なのに、私を憎しまないっ!
蔑まないっ!
殺意を向けないっ!
何故、そんな哀しみに満ちた瞳を向ける…」
最期は弱弱しく吐き出す。
その言葉の通りに、赤凪が仁に向けている瞳には哀れみしか浮かべていなかった。
「……」
「憤怒しないのかぁ!
鼎にこんな仕打ちをした私にどうしてそんな表情をするっ!」
「…聞える、お前の心を引き裂こうとする葛藤が。
…誰よりも苦しんだんだな、この世界の在り方に。
そして感情に」
赤凪は普段遣うことのない言霊を開放し、仁に話しかける。
赤凪は偽りの無い、本音をぶつけていく。
「救われることもなく、救うことも出来ず、絶望だけが募ったのだな。
だが、お前が絶望する前、切っ掛けとなったものは何だ?
それは希望だったから、絶望の淵に陥ったのではないか?」
「希望ですか。
そんなものは無かったぁ!」
赤凪は仁を見、そして鼎に目を移す。
「…鼎は誰よりもお前を信じていた。
お前がテラングィードに拉致された時、悲壮な鼎の顔は見るに耐えないものがあった。
そういった感情までもお前は否定するのか?
お前の事を話す鼎は、いつも自慢げで誇らしげだった。
そんな気持ちすらお前は葬ろうとするのか?」
遣る瀬無い。
馬鹿げている問いだと分かっていながらも、赤凪は仁に問わねばならない。
(この男は馬鹿だ。
そんなに自分を傷つけてまで)
「もう遅いですよ。
鼎はもう戻ってこない。
私に怒ることも、呆れることも、笑顔を向けてくれることも、二度と無い。
私はこの世にある未練を全て破棄してしまった。
此処に居るのは、大切な者の抜け殻です。
私に残されたのは、こんな世を創り出した神と、殺伐とした世界に取り残し、私一人苦しみを残していった瑚乃恵への復讐だけ」
その応えが、赤凪の中にあった決意を固めさせる。
(こんな後悔が滲み出た台詞を吐いておきながら、未だ自分を傷つけるのか)
余りにせつない。
赤凪は鼎の隣にいる亡骸に視線を向け、頷く。
「…残して、置いていったのはそれだけか?
瑚乃恵というのは、鼎に似たその人のことだろう」
「…私の唯一愛した女性ですよ」
赤凪は苦笑してしまう。
「似ているな、お前と俺は。
知っているのだろう、俺の素性を」
「新宮司から歴史から抹消されし者。
二度と世に出ることを許されない天岩戸に幽閉されし魔性の存在。
だが、世間を騒がす鬼を倒すことを条件に下界に降り、見事鬼を討ち取り命を落とした。
そんな危険な条件を飲んだのは、凪穂と言う少女の為。
…そうですね、必要としてくれる者、そして心許せる者の喪失。
我々は似ている」
「俺には鼎がいてくれた。
喪失感に打ちのめされ、もがくことを忘れた俺を救い出してくれた。
…お前は救われなかったのか?
鼎の明るさや、心遣いに。
本当に、この感情に絶望しか抱けなかったのか?
何より、感情を否定することは、愛した者すら冒涜しないのか?」
「私は貴方のように強くなかった。
そして、世間の人々も貴方ほど強くない。
それに、もう崩れてしまったんですよ、私の堰は」
自ら逃げ場を無くす。
その自虐的な行為に、赤凪は仁に哀れみしか向けられなかった。
自責に今にも押しつぶされそうになりながら、それなのに狂えない厳格な人格に血の涙を流している。
(どうして馬鹿な奴が多いのかな、この時代は)
「…賭けをしようか」
「今更、賭けですか?」
(俺も十分馬鹿だな。
俺は…)
「ああ、俺がお前を引き戻してやる。
そして楔を抜いてやる。
…賭けの内容は、俺が鼎を救うこと」
(この親子を救いたいと想っている)
「救う?
最早、鼎にものを認識することすらできない。
人格を私が砕いたんですよ」
「俺が勝てば、鼎の親に戻ってやれ。
俺が負ければ、俺は抵抗もせず、木行をくれてやる。
後は好きにすればいい」
「崩壊した、残っていないものを復活させるなど」
「ああ、俺でも残っていないものなど復活できない。
だが、崩壊しただけなら、残滓が残っている」
(俺なら残っている限り、紡げる)
「確かに…、貴方ならそれは可能かもしれない」
「それに頼まれてしまったからな」
「…誰に、何を」
赤凪は仁から、瑚乃恵に目を向ける。
「死しても尚地上に残留し、見守り続ける健気な母親にな」
赤凪の目には、鼎に抱きつき嗚咽を漏らしている白い影を捉えていた。
「瑚乃恵が!」
「手を貸せ。
愛した女を泣かたままでいるのは、男として最低だからな」
赤凪の言葉に、仁は瑚乃恵を凝視し、驚愕に固まる
(居たのですか!
死んでも私達の傍にいてくれていたのか!
なのに私は!)
瑚乃恵が死んだあの日を境に、何もかもが色褪せた。
そして瑚乃恵が残した依頼だけが、仁の手元にあった。
憎悪が蝕んでいった。
世捨て人として余生を過ごそうとした私を引きずり出し、その上置き去りにした瑚乃恵が許せなかった。
だから、この計画を建てた。
苦しみから逃れる為に。
だけど、本当はそんな事はどうでもいいくらい癒されていたのだ。
いつも傍にいてくれた笑顔に。
「私は、私はどうすれば」
引けなかった。
瑚乃恵を式神にした地点で、大事なものを踏みにじった自分を許すことが出来なくなっていた。
どこまでも悶え苦しめばいい!
地獄の業火に焦がされればいい!
狂ってしまえばいい!
何も感じなくなるその時まで…。
「お前は自分を偽っていただけだ。
最期の一線を引き、心を凍らせていただけだ。
だが、本当は解かされていたんだ、鼎にな」
熱い。
目じりが途方もなく熱く、それに伴いいくつもの滴が零れ落ちる。
私は泣いていた。
「…救えるのか、娘を」
切れ切れになりそうな言葉を必死に繋げ、希望に縋る。
「賭けは成立だな。
今からお前と鼎を紡ぐ。
後は絆を信じていろ」
「絆」
赤凪君は鼎の傍に歩み、その頬を撫でる。
未だ消えきっていない涙の後が、苦しみを象徴していた。
「鼎、苦しんだんだな。
俺がもう少し器用な男なら、こんな事態は招かなかったのに…。
済まない」
「…赤凪君」
「戻って来いよ。
此処には最低でも二人、お前を必要とし、好いている者がいるんだからな」
赤凪君は鼎の手を強く握り、逆の手を私に差し出す。
頷くと、私はその手を握る。
赤凪君は深呼吸し、己が肉体と魂に宿りし木行を高めていく。
そして赤凪君を通して、鼎と私が繋がる。
鼎と仁の深層心理が赤凪の意識が流れ込んでいく。
其処は万華鏡を彷彿とさせる綺麗な場所だった。
色とりどりのガラスのような破片が飛び交い、グルグルと漂う。
だが、それだけだった。
色が絡み合うことはなく、一つ一つが独立し、繋がることも交じり合うことは無い。
色には何かの断片が投影されていた。
膝こぞうを擦りむいて、ワンワンと泣きはらしている場面。
今日の出来事を大きなウサギのぬいぐるみに話しかけている場面。
料理のレパートリーが少なく、献立に四苦八苦している場面。
どれも、一人の女の子の記憶。
砕けた記憶は彷徨う。
記憶は人格を形成する最も重要なもの。
それが場面場面で点在している。
この記憶の持ち主は、人格も砕けていた。
(わたしはだれ)
主人格となる、記憶の塊が自問する。
(わたしはなに)
答えなど持ち合わせているはすの無い断片に、その問いを解く式などありはしなかった。
永遠に解けない自問を繰り返し続ける。
(わたしはだれ)
(新宮司 鼎。
それがお前の名だ)
破片に反響する若い男の声。
幾つかの破片はこれに反応を示したが、主人格となるこの破片は何の反応も示さなかった。
(あなたはだれ)
(赤凪、今はそれだけでいい)
反響する声が光となり、主人格の破片の前に収縮して形をなす。
(あなたがしゃな)
(ああ)
人の形を成した光は、次第にハッキリとした姿をとる。
肩までかかる黒髪、頬が少しこけた輪郭が浮き彫りになっており、鼻はやや低い。
鷹のように鋭い眼つきに、皮肉げに上がった口元が、近寄りがたい雰囲気を醸し出す。
(自分が何者か知りたいか?)
自問を繰り返していたのだ。
その問いはどんな誘惑にも優る、魅力を秘めていた。
(わたしをあなたはしっているの)
(俺は知らない。
だが、ある男がお前を知っている)
それが男の答えだった。
破片である人格に感性などと言う大層なものはありはしなかったが、この男に引かれる何かがあった。
(お前は知れなければならない。
その男の苦悩の日々を。
そして、自分の出生を)
(うまれ)
主人格でありながら、何の情報も持たない破片はその言葉に引っ掛かりを感じる。
触れてはならない、奥底から拒絶したくなる反応が生じてくる。
(しりたくない。
わたしはなにもしりたくない)
一変して、魅力を吹き飛ばす拒絶が空間を満たす。
そこらに散らばっている破片が嵐に巻き込まれたように荒れ狂い、赤凪と名乗った男に襲い掛かる。
(拒絶するなぁ!
お前は辛いことに目を背け、引き篭もる気かぁ!)
その叫びは嵐に掻き消される。
それが主人格の意思を代弁するように。
破片の群れが男に襲い掛かり、その身を切り刻む。
幾つもの破片が顔面に突き刺さり、そして胴体を切り刻んだ。
腕は剥げ、足はズタズタに引き裂かれる。
それでも男は微動にせず、ジッと主人格の破片を睨み続ける。
その片目に破片が飛び込み、眼球を貫いた。
…刳り貫かれ、眼球が収まっていない筈の眼窩に竦み上がるような光が未だ灯り続けていた。
それが不意に消え、包み込むような優しさに変わる。
(壊れそうに辛いなら、俺が傍に居てやる。
お前が俺にしてくれたように)
その言葉が空間に沁み渡り、破片が動きを止める。
男に刺さっていた破片は抜け落ち、又虚空を彷徨いだす。
男の周りを寄り添うように。
(あなたは)
(赤凪だ。
さあ、来い)
男は、原型を留めていないほど破壊された手を差し出す。
それが元の逞しい腕に形を換え、差し伸べられる。
何と言う精神力だろう。
この空間の支配者であるものの意思をも受け付けぬ、確立された一個体。
主であるものの排泄しようとする想いをも受けきり、己を誇示していた。
羅刹が赤凪の肉体を乗っ取る際に、自分の内であることを理解することで、圧倒的な立場を手にした。
その後、羅刹は抵抗する間もなく八つ裂きにされ、精神の底を彷徨う羽目にになった。
それを思惟すれば、この男は人の中にいながら、持ち主と変わらぬ立場を確立していた。
見る見る内に元の形に、人の姿を取る。
主片は怯えていた。
だが、この腕は何者からも守ってくれるという確信を抱かせてくれる。
(わたしは)
(鼎、行こう)
ガラスの破片を彷彿とさせる形は光り輝きだし、光の玉に形状を変えて赤凪の腕に吸い込まれる。
感覚などは存在しない空間で、光の玉は確かにこの男のぬくもりを感じた。
求めて已まなかった温かさが沁みこんで来る。
怯えは失せ、恐怖に抗える何かが沸きあがってくる。
破片が一つ、光の玉に飛び込んでくる。
一つの記憶が繋がり、先程の感情が勇気だということを思い出した。
切れ切れになっていた形が完全に元に戻った赤凪は、上下などない空間を光の玉を抱いたまま、飛んでいく。
(どこにいくの)
(お前が知るべき男の過去にだ)
赤凪に付いて、残りの破片が付いてく飛んでいくのだった。
少年は呆然と立ち尽くしていた。
「…乳母さん」
胸に抱いている者が物に変わってしまい、震える手で、力の入らぬ腕で、頼りなくそれを支える。
目の前の惨状から目を離せず、鼻に付く血臭がこの現状が真実だと物語っていた。
(このこは)
(こいつは仁。
お前の生みの親だ)
赤凪から微妙なアクセントを乗せた台詞が吐かれる。
(伝わってくるだろう、この無力感に苛まれた少年の叫びが)
一面の赤い海に足を突っ込みながら、少年は吐き気に耐えていた。
支配者が気晴らしに開いた狂気の宴。
血の海で舞う、一人の美しき女性が宴の主催者。
「のう、そんな隅で縮こまっておらんと、御主も堪能せよ」
「…何故こんな事を」
直ぐ横にある熱を失っていく者の顔を、首を傾けて見る。
二度とものを喋らぬ口から未だ紅い液体を流し、仁の衣を汚していく。
視線を女性の奥にある壁に向ける。
壁に打ち付けられたに肉塊から垂れ流される液体が、血臭をより濃いものへとしていく。
「…そうじゃな、強いて言えば憂さ晴らしじゃな」
「なぁっ!」
「どうした、何か可笑しなことでもあるのか?
こやつ等はわらわの為に、生きておったのだから。
変なことはあるまい。
寧ろ、わらわの心を晴らしてくれたのじゃ。
良い働きじゃぞ」
「そんな理由で、荒弦さんや乳母さんの命を奪ったというのかぁ!」
仁はどうしようもない憤怒で気が狂いそうになる。
「くっくくく、良いのう、その表情。
今日は機嫌が良い。
少しの無礼が許そうぞ」
「ふざけるなぁ!」
仁にもたれかかっている屍を丁寧に床に横たえ、憎悪をふんだんに含んだ瞳で睨みつける。
懐から素早く抜き出した符を狂っている女に突き出し、開放する。
「戦焔円陣ぃ!」
仁は自分の持てる最大の攻撃力を誇る符術で、この宴ごと女を焼き払いにいった。
符から吹き出る劫火に、新たに取り出した符を重ねる。
「重戦焔ぁ!」
最初の符が女を中心に炎の円陣を作り上げ、二個目の符でその円陣が炎の壁と化し、天井を焼く。
そして三枚目の符を取り出し、再び符を重ねる。
「爆輯天焔ぁ!」
炎の壁が球体に姿になり、内部で連鎖的に爆発が起こる。
仁が創り上げたオリジナルの符術。
二つの符でフィールドを形成し、内部の敵を塵すら残さず焼き払う符術、三戦焔。
四聖獣を扱えなかった仁が、己の力でそれに近付く為に創り上げた苦心の符だった。
…驚愕した。
三戦焔が爆発し、砕けた。
正確には内部から圧力が掛かり、球体を保っていられなくなったのだ。
「何と脆弱な五行じゃのう。
こんなものでわらわの髪の先端すら焼くことも出来ぬわ」
青白い壁の中で、女は仁を嘲笑った。
自動的に張り巡らされた結界が、仁の三戦焔を弾き返し、その範囲を膨らませ三戦焔のフィールドを砕いたのだ。
「よく覚えておけ、小僧よ。
主らはわらわに生かされていることを。
…糧にならぬようなら、生きる資格は無いと心得よ」
そう告げられると、結界が膨張を続け、近場にあった壁の肉を潰す。
それを見た仁は、床に置いた屍を急いで抱えようとする。
だが、結界の膨張は予想を遥かに超えており、仁がしゃがんだ時には床から血飛沫が顔面へ降りかかっていた。
「乳母さあああぁぁぁ!」
結界は直ぐに仁の元まで届き、弾き跳ばされた。
壁に打ち付けられ、仁の意識が途絶えていく。
それに伴い、辺りが暗く閉ざされる。
次の瞬間、瞼が開くと辺りに光が灯り、情景が映し出される。
「…此処は」
鈍痛な頭痛がし、しかめっ面になりながら自分の状態を探る。
「仁様、ご無事で」
仁の靄の罹っていた思考が一機に戻ってくる。
「瑚乃恵、私は!」
勢いよく上半身を起こすと、眩暈が起こし、視界が真っ暗になる。
「駄目です!
頭を強く打ってるのです。
安静にしておいてください」
咄嗟に背に手を添えて貰ったお陰で、仁は崩れ落ちることはなかった。
(頭を打った?
…私は、!!)
「あ・・ああああ・・あ」
蘇ってくる記憶。
目の前で弾けた乳母の肉片が降り注いだ記憶。
鼻腔に生々しい臭いがしてくる。
それが自分の体からしているのに気づいて、仁は声が張り裂けんばかりの悲鳴をあげた。
「わっ、わあああああ、あああ、ああああああああああああああああああああーー!!!」
「仁様っ!
気をしっかりして下さい!」
瑚乃恵を払い除け、仁は走り出した。
気が狂いそうだった。
昨日まで微笑みながら世話を焼いてくれていた乳母が今日、目の前で弾け飛んだのだ。
社から飛び出すと、そこにあった池に飛び込んでいた。
「あああ・あああああ・・ああああ」
体の隅々から立ち上る生臭い血の匂いを必死に洗い流す。
「仁様ぁ!
落ち着いて下さい!
誰かっ、仁様を!」
瑚乃恵の指示で取り押さえられた仁に針が打ち込まれる。
鎮静剤を注入された仁は、再び闇の中に落ちていく。
仁の記憶を辿っている為に、仁が見ていない記憶は闇に閉ざされる。
パチパチ。
瞬きをするように闇が点滅し、光が満たされる。
「…仁様_お目覚めですか?」
仁は思考が定まらないまま、その問いに頷く。
…鎮静剤が残っているのか、今回は取り乱さずにすんだ。
瑚乃恵の瞳が赤く、充血しているのが見て取れた。
「…そうか、夢ではなかったのですね」
「はい」
仁はその返事が引き金となり激怒した。
身を起こし、瑚乃恵を睨みつける。
「何故そんなに冷静にしていられる!
荒弦さんもっ!」
「父は、職務をまっとうしただけです」
それが強がりであることなど一目瞭然だった。
泣き腫らした跡や、憔悴しきって、痩せた頬。
瑚乃恵が人形ではなく人間だということを、仁は誰よりも知っていた。
にも拘らず、仁はそんな台詞を口にした瑚乃恵を罵倒していた。
「何が職務だ、ふざけるな!
あんな無駄な死に方に、殺され方に何の意味がある!
あの女はこう言ったんだ!
憂さ晴らしと!」
それは口にしてはならない言葉だった。
「…そう想わせて下さい。
お願いします」
唯、怒りを吐き出した仁はその言葉に打ちのめされた。
二人っきりの部屋に嗚咽だけ満ちるのは、時間は掛からなかった。
私は一人、現実に押し潰され、逃避の道を選んだ。
呆然と立ち尽くす瑚乃恵を置き去りにし、只、抗う力を欲した。
私を庇って死んだ乳母の姿、余り好きでなかったが、任務に忠実で融通の利かなかった荒弦さんの死。
そして、誰も支えてやることも出来ない無力感。
傍にいれば、傷つけることしか出来ない自分に失望した。
誰よりも辛いのは彼女だというのに。
それに追い討ちをかけるように、私は逃げだした。
瑚乃恵が漏らした言葉。
「これは定めだったんです」
私にはそれが許せなかった。
生まれ持ったもので運命が決まっているなら、何の為にこの世は存在するのだろうか。
私はそれを否定したくて、新たな知識を詰め込んだ。
だが、それは余計に定めを肯定するものばかりだった。
そして私は絶望した。
私は逃げ続けた。
だが、運命は最愛の者を姿として現われ、私を現実に引き戻すこととなる。
幾つかの破片が球体に吸い込まれた。
(…どうした)
腕の中で震える球体。
(わからない。
わからないけど、つぶされそう)
(苦しいのか)
(くるしい。
…これがくるしいということなの)
(恐らくそうだ。
お前がこの男に対して感じているのは、悲しみ。
そして、それを受けお前が苦しみを抱いているんだ)
又、破片が球体に入り込み、震えが増す。
そして腕から逃げ出そうともがきだす。
(くるしい、くるしい、くるしい。
こんなところにいたくない)
癇癪を起こし、球体は腕の中で暴れだす。
赤凪は放さず、ジッとその暴力に耐える。
それどころかより抱きかかえ、逃れられないようにする。
胸が陥没し、腕がもげそうになりながらも、決して放そうとしない。
(………)
震えが次第に弱まっていく。
それは抱かれながら伝わってくる波動が、自分のものと酷似していたからだ。
(あなたもくるしいの)
(…)
(かなしくて、くるしいの)
(…)
赤凪は何も答えない。
伝えてしまえば溢れたしまう想いを押し殺しながら。
球体は腕の中で、その暖かさに落ち着いてくる感性に身を任せてみる。
(わたしだけじゃない。
あなたもくるしい)
(俺のことは気にするな)
そう云うと、少しだけ破顔した赤凪。
それを見た途端、大量の破片が球体に飛び込んでくる。
そしてこの男に抱く感情がハッキリとしてくる。
(あなたがいれば、もうしこしがんばってみる。
だから)
単語ではなく、会話らしい台詞になってくる。
(だから、そばにいて)
捨て猫のように、悲壮感が溢れる声で訴えてくる。
(ああ、お前の辛さ、俺が分かってやる。
傍にいてやる)
(ごめんなさい。
…ありがとう)
相反する二つの言葉を赤凪に送る。
場面は歴史を進んでいく。
仁を迎えに来た瑚乃恵。
それを拒絶する仁。
相容れぬ二人は衰弱していき、瑚乃恵の姿を見せなくなる。
それが切っ掛けとなり、仁は己の心に蓋をすることが出来なくなる。
「すっかり、体調は戻ったようですね」
「仁様が看病して下さったお蔭です。
有難うございます」
横を歩く瑚乃恵は、そっと腹部に手を添える。
服の下には、一週間前に塞いだばかりの傷が存在した。
「…それは良かった」
複雑な表情をした仁に、瑚乃恵は不安を覚える。
「どうかしましたか?
私、何か気に障るようなことでも」
「いや、…綺麗な肌に、傷が残ってしまったなと」
腹部にある十字の切り傷。
病院でもない、何もない片田舎。
殺菌された機材があるわけでもなく、あるものを代用して終えた手術。
お蔭で、瑚乃恵の腹部には醜い傷痕が残ってしまった。
「べ、別に、そんなことは!
元々傷だらけの体ですし、気にしないで下さい。
それに、助けて頂いたのですから」
生傷の耐えない生活をしていたとはいえ、自分で傷つけたものとは訳が違う。
(私がもっと早く決意していれば)
「もう、そんな顔は為さらないでください。
私はこの日を楽しみにして、体を治したんですよ。
…そんな日に、沈んだ表情では悲し過ぎます」
「そうですね、済みません。
…もう直ぐ着きますよ」
頬を撫でる風が強さを増し、地面が途切れる場所にたどり着く。
「わあぁぁ!
凄いですね」
瑚乃恵は受けた印象をそのまま体で表す。
一面の翠の森が崖下に広がり、何処までも続いていた。
「これが仁様の仰っていた、絶景の谷ですね」
目を奪われ、暫し無言で二人はその景色を見入る。
「…瑚乃恵」
「…はい」
俯き加減で、瑚乃恵は此方に姿勢を向ける。
「顔を上げて」
それに促され、瑚乃恵は真っ赤に染まった顔を上げる。
「その、何だか照れますね。
こういうのは」
仁も釣られて顔が上気してくる。
「…こういうのに憧憬してました。
私には似合わないとは思いますけど」
普段の瑚乃恵から想像もできない、乙女チックな言葉。
目を逸らしたくなる衝動に駆られながら、仁は瑚乃恵を見詰める。
「…苦手ですよ。
こういう告白を本気で言うのは初めてですから」
「…少しいいですか?」
「はい?」
急に空寒くなる雰囲気に包まれる。
先ほどまでの甘い空気は吹き飛んでいた。
「今までにも、そう言った台詞を誰かに語ったことが御ありなのですか?」
寒い。
背筋に氷柱を直接突っ込まれた位に。
「…瑚乃恵さん?」
「答えてください」
下手な返事をすれば命に関わる、そんな声音で尋問が下る。
「そのぉ、まあ、世間を渡るにあたって、そんな事を口走った記憶はありますけど」
「そうですか。
で、その口走った相手とはどうなったんですか?」
(拙いです!
非常に拙いです!)
この場は誤魔化すべきか、それとも真実を話すべきか。
葛藤している内に、カチッと鍔から抜かれる刀の音がする。
重火器及び、鈍器や刃物のスペシャリストがゆらりと得意な武器を片手に、仁に立ち塞がる。
「そうですか。
その沈黙が答えですね、…ふっ、ふっ、ふっ」
壊れた声が、音量よりも大きく仁には聞えた。
「ま、待ちなさい!
瑚乃恵、なんで刀なんて持ち歩いてるんですか!」
「自衛の為ですよ。
持ち歩いていてよかった」
キッと瑚乃恵が睨みつけてくる。
「話し合いで解決しましょう!」
「私は一途に想っていたのに!」
ザンッ。
仁の居た場所を切り抜き、地面を抉る。
「死にます!
そんな受けたら死にますよ!」
ギリギリで刀をかわした仁は涙目で訴える。
「安心してください。
直ぐに後を追いますから」
正眼に構えた。
堂の入った構えに、生命の危険が一気に膨れ上がる。
(どうしろと言うんですか!)
その日は、日が暮れるまで鬼の形相をした瑚乃恵に追い回され、告白どころの問題ではなかった。
結局、病み上がりで無理をした瑚乃恵がダウンするまで追いかけっこは続いた。
まあ、そのダウンして弱っているところに付け込んで、優しい態度と甘い言葉で懐柔することで、この危機を回避したのだった。
(おとこのひとは、こんなことばかりしてるのですか)
(……)
俺にどう答えろと言うんだ内心で毒づきつつ、飛び火を喰らった赤凪は渋い顔で情景を眺める。
情景は移り、仁が寝座にしている倉庫に居た。
そこら中に乱雑に置かれた荷物の一つを椅子代わりにして、仁は神妙な表情で、事の発端を尋ねる。
「瑚乃恵さん、そろそろ教えて欲しいのですが。
此処に来る切っ掛けにになった事情を」
「…静姫を、いいえ、凪穂様をお救いください」
「話が見えません。
凪穂とは誰です?
…それに、何故あの女を救わねばならない!」
感情の起伏の少ない仁が見せる怒り。
それを見て悲しそうな表情を浮かべる瑚乃恵は、強い口調で訴える。
「違います!
…順を追ってお話します。
父の死により、私が繰り上がりで近衛長に任命された事はご存知ですね」
「ええ」
それがあの一族を捨てる発端となった出来事。
「私は静姫の警護と、もう一つ、新宮寺の管理を任されたのです」
「あの、オンボロ神社ですか?」
仁には、その話が意外だった。
あれでも新宮司の元本家に他ならない。
それを付き人に託すなど、前代未聞の出来事だろう。
だが、仕方ないかもしれない。
仁が新宮司を捨てた後、後継人を失ったことにより、内部紛争が起こった。
静姫を頂点とするヒエラルキー。
その次席を狙って、本家と分家の間で争いが勃発した。
その為に、新宮寺の方に気を回している余裕がなくなり、付き人の家系である、筧家に話が回ってきたのだろう。
「はい。
それが始まりだったと言えます。
あそこには樹齢何千年もの巨大樹があり、それを御神木としています」
「知ってます。
忌々しいですが、私はこれでも新宮司の者ですからね」
仁は反吐でも吐き捨てるように言う。
「それに短い間でしたが、あそこの管理をしていたのは私ですよ」
「あ、そうでしたね」
十四歳になった時、次期頭首として名高かった仁は、本家に管理職に付いていた。
だが、それから六ヶ月、あの惨劇が起こることとなる。
「それに気がついたのは、新宮寺に住み込むようになって三日目のことでした。
庭先から、しゃがれた声がしてくるのです。
気のせいや、風の音かと思ったのですが、違ったのです」
いきなり怪談染みた展開に話に、路線換えされていた。
「…桜の下には死体が、なんて落ちは止めてくださいよ」
「あの、真面目な話をしているのですが」
「そうだったのですか?
てっきり場を和ます為の手法かと」
「仁様は、怪談で和める変人だったのですね」
「…続きをどうぞ」
思わぬ反撃を食らい、仁は頭を垂れながら促す。
「私も新宮司縁の者ですから、それなりに超状現象については心得ているつもりでした。
ですが、まさか御神木が話しかけてくるとは想いもしませんでした」
「…はい?
御神木が何と」
「…どうせ与太話とか想っていらっしゃるんでしょう」
「まあ、幻想的ではありますが。
…あっ」
思い当たる節があり、仁は素っ頓狂な声を上げていた。
「どうしました?」
不思議そうに尋ねてくる瑚乃恵に、仁は意気込んで話し出す。
「伝承、そうです!
あの神社には、御神木に鬼の伝承が付属してました。
確か、『十万と九千五百の陽、十万と九千五百の陰が別ち日、我らが神木に祈りを捧げよ。
さすれば、神木より人型の手現われ出でる。
大いなる力求め者、この手を掴み受け入れよ。
木の理を秘めし鬼が開眼するであろう』、でしたね」
仁は伝承をスラスラと口にしてみせる。
わりとこういったものは忘れていないものだと、自分に関心しながら。
「凡そ三百年。
伝承の発祥を推測する情報がありませんが、感覚的には近いのかもしれませんね。
眉唾物ぽいですからね。
鬼なんて」
呆然と此方を見詰めている瑚乃恵。
「どうかしましたか?」
「いえ、その、流石というか、何と言うか。
私が伝承に辿り着くまで結構時間を費やしたのですが」
「ぷっ」
仁はその反応に、思わず噴出してしまう。
「何が可笑しいのですか?」
瑚乃恵は仁の反応に、怪訝そうに眉を顰める。
それが余計に仁の笑いを触発する。
暫し、腹を抱えながら、声を殺して笑っていた。
「…はあ、済まない。
伝承に関する資料が保管されていた場所、よく見つけられたな~と思って」
「そうなんですよ。
新宮寺の何処にも伝承に関わる資料が見つからなくて、蔵から屋根裏まで探しに探して…。
って、何でそんなこと知ってるんですか?」
「察して下さいよ。
私が丹精込めて考え上げた隠し場所なんですから」
「なっ!」
「いやあ、あれには苦労しました。
普通に探しても見つからないようにした上で、新宮寺中にヒントを散りばめました。
本当に探している人でなければ、挫折すること請け合いの一品です」
「なっ、なっ、なっ!」
「てっことは、やれやれ、管理職でありながら御神木の根元を掘り返したのですね。
悪い人だ」
「なんて事するんですか!
私、見つからないように夜中に隠れて掘り返したんですよ!
それはもう、ビクビクしながら!」
「まるで埋蔵金を狙う、コソドロみたいですね。
滑稽、此処に極まるですね」
仁がこんな性格だったことを瑚乃恵は思い出した。
「まあ、金庫にいれて埋めましたから、書物は無事だったでしょう?
いやあ、あれを見つけるとは、考案者冥利につきますよ」
絶句している瑚乃恵に仁は追い討ちをかける。
「仁様ぁ~」
「瑚乃恵さんを弄るのは十分堪能しましたから、本編に戻りましょう」
「私の苦労は全てこの人の所為」
放心して呟く瑚乃恵を微笑ましく眺める仁。
(なんて男だ。
…鼎も苦労したんだろうな)
端からその記憶を眺めながら赤凪は呟く。
(わたしがくろう。
…そんなきがします)
破片の人格にまで同意される。
情けなさを感じながら、続きに耳を傾ける。
「それで、その声の主とは?」
「あ、はい。
庭に出ても誰も居ないのです。
ですが、日に日に大きくなる声。
不愉快な感じではなく、そうですね、私に近い、そんな雰囲気を感じるんです。
だから、探したのです。
そうしたら、声が御神木からしていたのです」
「ホラーですね。
やはり、死者の雄叫びでしたか、南無」
「真面目に聞いてください」
「済みません。
もう茶々は入れません」
「その声の主は万と名乗りました」
「…新宮司の守り神の名が出てくるとは、伝承に少し信憑性が出てきましたね」
頷く瑚乃恵。
「本人は神ではなく、天の氣を継ぎし大地の精と名乗っておりました」
仁は思惟する。
(天の氣。
詰まるところ、陽の者か。
確かあの女が所有するものも天の氣だったな)
「続けて下さい」
険しい顔をした仁に気圧されながら、瑚乃恵は深呼吸してから話を続ける。
「万様は、ある少女を助けて欲しいと懇願してきました。
その少女の名は凪穂」
「私の記憶にはありませんね。
新宮司の縁の者ですか?」
「仁様も知っておられます。
現代では混沌の巫女、静と名乗っておられますから」
(!!)
赤凪は誰よりその真実に驚愕した。
抱いている球体にも、動揺している男の気配がヒシヒシと伝わってくる。
「それに中って、如何しても伝承に触れて貰わなければならないのです」
仁の記憶の瑚乃恵が真実を語ろうとしていた。




