ありきたりの貧窮の物語
一
夜歩きの癖ができたことは自分でもひどく厄介だった。目をつぶる。まんじりともしない。ある叫び出したいほどの衝動があって、しかし同時にそれらは私にとって今更驚くに値しないのだ。知性と狂気は矛盾しないである。とは言え、寝なければ仕方ないので、自分で気も済むまで夜道を歩くか、という気分になる。布団をはねて電気の眩しさに眼を明滅させながら、もう布団をはねたのだから着替えて出なければ仕方ないと考える。寝巻を焦燥気味に昼間の服に着直す。
大問題がぶら下がっていて、当今の問題を片づけてしまう。同じ回答しか出ず、自分はその前でぐずぐずしている自覚がある。
夜道で街灯に照らされて、とにかくずんずん歩く。目的はあらかじめ、近所のコンビニなんかに定めてしまうのだ。時間潰しが終われば、寒くなって家に帰って寝るだろう。明日もずんずん歩くかもしれないが。土台週一で徹夜していた宵っ張りに、いきなり十二時に寝ろ、というのは無理なのだ。
タバコ銭も馬鹿にならないと考えながら、結局くわえることになる。六年間で沁みついたのはこれだけ。人気のない深夜の林は昔ほど恐ろしくもなく、こんな当てもない人間を抱える。歩きながらも右耳を塞ぐような耳鳴りは止まらなかった。
コンビニで求人誌を貰うのも二ヶ月目になった。バイトが決まれば、こんな思いせずに済むのだと思えば、些少のことは我慢できた。それでも、僕という人間はその中に、自分の時間の都合がつき、当座自分一人養えるほどの高給を見つけられないでいる。週三日ぐらいからなんとかならないかと思う。そんな事を言ったら、人に怒鳴られた。
この辺は不良の中学生たちが自尊心をもってたむろしている。いっそ、その群れに加われたら、と思わないではなかった。パーカーを着た彼等は、最初から学校なんかに我慢ならなかったのだ。しかし、声をかけることは恐ろしくてできなかった。
自分は十年先か二十年先かわからないが、野たれ死ぬだろうことが考えから消えない。それもひどく立場的に追い詰められて。看取ってくれる人もいない。自分が軽蔑し続けてきた地位みたいなものに、とうとう見放されたと考える。私はそれらにどうしても納得がいかなかったのだ。子どものような気持ちになり、同時に「ここまでされるほどの事を俺はやっちゃいない」という自己憐憫じみた感情。「全て失ったのだ」と言う絶叫が自分の声なのに他人の声のように聞えた。わずか二年ばかりの必死の院生生活――それはナポレオンにとっての軍隊のようなものだ――は遂に破綻に終った。しかし、自己の死も栄誉もなんとはないことだった。ただ、この生が赦されるかどうか知りたかった。
コンビニにも神社にも居場所はなかったので、近所のドブ川を眺めることがこの夜歩きのお決まりだった。ある日は、「自分は書きたいことの四分の一も書いちゃいないんだ」と憤怒しながら家に帰った。それだけの活力がこの身体のどこから湧いたのか。あるいは「一粒の麦もし死なずば」ということが真剣に考えられた。ドブ川はあちこちに汚損したペットボトルやスチロールなんかをひっかけていた。棲む魚もいない。ベトンで水底は固めてある。
その時、突然「フィガロの結婚」が聞えはじめた。それは突飛なイマージュだった。私は近所のドブ川を覗きこみながら、その僅かな音源を想像で補いはじめた。それはすぐにいい加減な音楽になって、記憶だけの一連のメロディーを再生しはじめた。多声の楽器の重厚なシンフォニーが耳鳴りを押し退けるようにして、頭の中でむくむくと領域を拡大した。それは勿論自分の頭の中だけに鳴り響いているに違いない。しかし、その異様に明るい音調と多幸感は、自分の生活にいかにもそぐわないコラージュだった。脈絡のないその音楽は自分に過去の、もう何度も繰り返した快癒の恩寵を思い起こさせた。それらは二度と拠って立ってはならない考えだったし、現に今の閉塞を打破するに全く足りなかった。それにしても、何故音楽によって思考を表現し得るのか、どうしても想像できなかった。人目をはばからず、鼻歌をふんふんと歌い、振ったこともない指揮棒を振り回す。自分は上機嫌に見えたかもしれない。「フィガロ」の序曲にしたところで、どうせCD音源の劣悪な演奏しか聞いたことはないのだ。奇妙な脳内交響曲が鳴りやまないうちに、寒くなってそろそろ寝巻に着替え直したくなった私は、足早に下宿に急いだ。右手でとる指揮棒のリズムが夜風を切ってびゅんびゅんなった。私はこの期に及んでも、世界は美しいという考えを忘れずにいた。
二
ベルグソンが読みたし 腹も膨らましたし
貧窮するにつれ、生活が叙情的になっていくのは仕方なかった。夭折した詩人の考えていることが、すんなり分かるような気がしていた。「若年寄」と年配の人間に言われたのを思い出した。それでも老成した自分に己惚れるより、もうあんなエネルギーは自分の中に無いし、実際に年をとった人間からも死ぬ間際の人間の没落を自分の心境が思わせるか、と考える悲しみが勝った。
ある日、私は壊れかけた自転車を押して家路につきながら童謡を口ずさんだ。それらは親の子どもを思う気持ちを歌ったもので、ここで引用するにしても俗悪すぎるものだった。どうかすると田舎が恋しくて堪らなくなる時があったが、妹が就職してきちんと社会人としてやっているらしいので、母親に電話するのはためらわれた。いのちの電話には何度もかけたが、死にたい深夜にかかった試しはなかった。また、後で考えると、これだけ文学に漬かった人間たちに解けない難問が、ボランティアのおばさんに解決できるとも思えず、電話した自分は些か滑稽だった。
最初のバイトの面接に落ち、酔っ払った調子で応募した治験のバイトは、向うの都合で上手く進みそうになかった。どうかすると、福井県まで飛ばされかけた。治験参加のために、健康を偽らなければならず、向精神薬を飲んでいることは隠していた。もう一つの難問は「健康」を呼称するには、自分の体重が規定に達していないことだった。ネットで調べると、案外太りたい人間も世の中にはいるらしい。アドバイスに従って、私は工業用ブロックみたいなカロリーメイトをむさぼり、コーラで流しこんだ。私は大学の保健センターで時々BMIを測定した。身長がどうかすると、以前計った時より1cmも高い時があって、簡単に上下した。体重もこんな貧乏暮しでは増えそうにもなかった。カロリーメイトも値段的に馬鹿にならなかった。
二度目のバイトの面接に合格した私は、六年間もろくに働いてこなかったツケを思わずにはいられなかった。およそ学歴だけで重ね、ろくに身体が動かない私は痴呆みたいに見えた。電話一本責任上取れなかった。
それでもバイト同士の人間関係にはスイスイ慣れていくような同期もいて、うらやましかった。個別塾講師のバイトだったが、生活を成り立たせるほどにはシフトには入れて貰えなかった。毎日毎日よくミスをした。塾は二十四歳ぐらいの女性が教室長として切り盛りしていて、明らかに人手不足だった。ミスをするたびその女性に怒られる自分は馬鹿馬鹿しかったが、プライドが傷つくというよりは、バイト故に不真面目にしか聞かず、成長もしようと考えない自分は申し訳なかった。使いにくいだろう。バイトは山ほどいるのに、社員が少なく、企業の悪質さが想像された。しかし、バイト故にどうやっても彼女の仕事は軽減できそうもなく、そんな立ち回りもできなかった。むしろ足を引っ張っていた。
あれ程怠惰な学生生活にうんざりして、恋憧れた社会生活も大したものには思えなかった。フルタイムで働かないからだろう。塾は学校が終わってからであり、所詮昼からの職業だった。午前に起きている人間は総じてロクなものではない、とブコウスキーは書いていたが、私は午前に生活を改めることにし、それには成功した。ある午前は河べりで山桜を眺めるのに費やした。アルバイターが午前から起きても、やる事はあまりなかった。さほど暇でもないのに退屈だと感じられるのは、自分の人生が無目的かもしれないからだ。今までのように読書することも、当初は考えられなかった。裁判の傍聴とカトリック教会に行きたかった。しかし、前者は抽選待ち、後者は本心から神に祈れるか自信が無かったので、客人として行くこともはばかられた。
ある日は私は「なんちゃあないね」と考えながら、やくざにネクタイを緩め、解放感に浸った。時給換算から逃れるのはそれでも嬉しかった。どちらが本来なのかを人気の少ない夜のバスの中で私は確認した。林芙美子「放浪記」を読むと、芙美子も事務員や女中みたいな、昭和年代の仕事がろくに十日も持たず、それを見ると深く考えるべき案件でもない気がした。ここ五年の芥川賞を順番に読んでいくということをやったが、頭にちらつくのは現代にしたところで男の作家は土方か教師、女の作家は派遣事務で食っているのではないか、などという下世話な想像だった。何の職業にしたところで、一皮剥けば河原乞食のように思えてならなかった。
ある時、「そんな人間が生きていけるのか」と私に尋ねた人がいた。私は一しきり公の場で、地獄も随分見たし、それを解決するような恍惚についても、言葉を費やした後だった。それの悪魔主義的折衷案についても私は既に語っていた。この期に及んで、私は「生きていけるのだ、それが!」と強く言いたかったが、何か自信が湧かない気がした。赦されさえすれば生きていける。そして、ゆめゆめ赦されていないわけでもないでしょう? と問いたかった。その頃、夜歩きの問題の知性は自分の中で頂点に達していた。
「それはそんな人間は生きていけないという詠嘆? それともそんな人間は生きていっちゃいけないという断定なのか?」
私の返答は狡猾だったが、的は外れていた。「お前がそんな人間を知らないだけさ。みんな、そうさ。」と私は考えた。しかし、正確な彼の意図は「生きていけるとはとても思えない」という感想だったのだ。深淵と恍惚を長く見つめすぎた人間はいつか気が狂ってしまう。それでも、私は人間を全ての苦痛から救ってやりたかった。それがもし考えられないなら、世界は規定コースをとっくの昔に外れていて、破局に向って突き進んでいるらしい、という事だった。私が愕然としたのは、今現在のマルクス主義を標榜している人の中でも、「革命」という共同体の改変を志している人は、実は少数派であるということだった。「進歩」が振り捨てられて、どれだけ経ったろう。
どうやら死後の和解は存在していないらしい。世界に調和は訪れていない。ただただ、この後はバラバラになった感情を感情もできないものが、欲求も欲求できないものが、自分の前に転がっていた。自分は狂い続けていくのだという確信は恐ろしい程リアルだった。地獄でもない場所にただ一人自分を置かなくてはならない事にようやっと、私は気付いていった。