迚もかくても、鳥は語らぬ
001
十四歳の少女、千鳥薫子は、絶対的にことなかれ主義の人間であった。
紛争は回避。平穏を優先。トラブルは隠蔽。
そんな日本人に多い気質を受け継ぎ、特別目立った悪行もなく、すくすくと中学三年生の現在に至るまで過ごしてきた千鳥は、現在、いままで遭遇したことのない〝紛争〟を目の当たりにしていた。
そう、紛争である。文字通りの。ついでに武力と前置きでついてしまうような。彼女がいままで避けに避けていたそれの、まさしく本物が、そこにあったのだ。呆然と腰を抜かしている千鳥を、誰が責められよう。
「だから、ぼくはやだったんだよ。こんなとこであいつらとドンパチなんて、こういうことになるに決まってんじゃん。馬鹿なのお前、ねえ馬鹿なの」
「はいはい、俺が悪かったよ」
動けない千鳥の前に、ふたつの人影があった。
千鳥が視認できる狭い範囲における、唯一と言ってもいい、自分以外の〝動いているもの〟である。しかしここが路地裏だとか廃屋だとか、そもそも人がいないことを前提としている空間というわけではない。ファーストフード店内である。通常ならば店員は元より、昼時のいまならば人で賑わっているであろう場所なのである。いや、確かに賑わっていた。ついさっきまで。床に拡散したものは、ほんの数秒前まで千鳥と同じように生命活動をしていた人間たちなのである。
死んでいるのは、一目瞭然だった。
頭部を撥ね飛ばされた人間が生きていられるなど千鳥の常識にはなかったし、事実、店内のほとんどの人間が死んでいた。千鳥と――この事態を引き起こしたであろう二人組を残して。
「だいたいなんだよあいつら、あの虫野郎。ぼくを前にして尻尾巻いて逃げやがった。巻く尻尾なんてないくせに。ないくせにっ」
「わかったから、落ち着け『鶏』」
呆然というよりは、現実逃避のように眼前の惨劇を意識外に押しやっていた千鳥は、その『鶏』という、なんとも聞き覚えのある家畜の名で自己を取り戻した。あだ名にしては微妙だと思ったからだ。同時に、殺人事件に出くわした恐怖に細い悲鳴を上げた。
件の『鶏』が、ぐるんと目を巡らせて、千鳥を見る。続いて、もうひとりも。
相手の唇が音をかたち作ろうと、動いた、その瞬間。
「ごめんなさいっ!」
条件反射の如く、千鳥は素晴らしく美しい土下座を繰り出した。額を店内の磨かれた――けれど血塗れになってしまっている――床に擦りつけながら、あたかも呪詛であるかのように、誰の干渉も許さないと言わんばかりに。「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいっ!」と。息が続く限り、二十一回、謝罪の言葉を叫んだ。喉が潰れるくらいに。大量殺人犯が訳もわからずぽかんと口を開けてしまうくらいに。
千鳥は謝罪で場が収まるなら、土下座すら厭わない。頭を踏みつけられても文句は言わないし、それで相手が満足するならば靴を舐めたっていい。
それくらいに、平穏というものを好んでいた。大好きだった。愛していた。
少なくとも、この場面において千鳥の性分が発揮されたのは、幸運だったと言っても構わないだろう。
「なにに対して謝ってんの、お前。ちょっと名前を言ってみなよ、気持ち悪い記念に覚えて帰ってやるから」
言葉とは裏腹に、顔面に喜色を浮かべた『鶏』に、名を問われたのだから。
そして千鳥は、今日ほど自身の名字が『千鳥』であったことを感謝したことはない。これが田中だとか佐藤だとかの、よくある名字であったなら、千鳥薫子という十四歳の中学生が生き延びることはなかったろう。
いや、死が延びたと捉えるべきか。
大量殺人犯のアジトに連れ込まれるという、結局のところ危険と隣り合わせの状況であるのだから。千鳥が殺人現場を目撃してから、およそ一時間。ファーストフード店での虐殺を思い出さないことに決め、ひたすら眼前の存在に集中した。一方に集中すると他方が気にならなくなるのは、悪癖でもあり役立つ技でもあった。とにもかくにも、『千鳥』という名字であっただけで人拐いの如く連れ込まれた千鳥は、『鶏』へと意識を集中させたことで、ことなかれ主義が何処まで通用するのかと些かずれた方面での心配にそわそわしていた。
「ようこそ、始祖鳥へ」
聞き取れなかった。困惑の視線を送ったが、『鶏』はどうも親切なタイプではないらしく、まあ座れよ、と千鳥へソファーを勧めただけだった。
外装は普通のマンションだった。いや、普通よりは豪華な類いに該当する、新築であろう十三階建てマンション。その1301号室。とはいえ、十三階には一部屋しかないうちの1301号室なのだから、その規模も驚くほどでかい。下の階の何部屋分かはぶち抜いたようなフロアのソファーに、千鳥は恐る恐る腰をかけた。オフィスらしき場所が見えぬよう間仕切りはあるが、奥からは隠すことなく人の気配がしている。確実に、アウェイだ。千鳥には選択肢がなかったとはいえ完全に退路を塞がれたであろう状況に、ストレスを感じ始めた頃。
『鶏』が、どすん、とソファーに座った。
そこで初めて、千鳥は『鶏』が女であることを認識した。視覚情報としては入ってきていたのだろうが、いまのいままで、意識すらしていなかった。
さっぱりした短髪と中性的な顔立ちで、少年らしい印象を受ける。カラーコンタクトでも入れているのか、目は赤かった。ロングTシャツにサルエルパンツ、突っ掛けサンダルというラフスタイル。首のチョーカーが多少浮いて見える。その肩には、黒い布袋が引っ掛けられていて、服装には合っていないが竹刀袋のようだった。無論千鳥は、この少女がその袋から抜いたえげつない武器で人を血祭りに上げるさまを見てしまっていたのだけれど。
そう、少女だ。千鳥より二、三歳上だろうと思われる、女の子。
そんな子が、殺人鬼。
日本の教育はどうなっている、と。千鳥はくらくらし始めた頭で、他人ごとのように、そう思った。
「で、千鳥ちゃん」
少年のような少女の発した、あまりにも空気を読まない親しげな物言いに、千鳥は絶句した。大量殺人の目撃者を連れ込んでする話のトーンでは、決してないと強く思った。だが、思っただけだ。何故なら千鳥はことなかれ主義である、やぶ蛇になるようなことは、絶対にしない。
「お前、ぼくらと一緒に気持ちの悪い虫どもを踏み潰さない?」
あまりに軽い誘いだった。
意味のわからない、勧誘だった。
千鳥は迷った。それはもう、盛大に。ここで断れば、たぶん自分は死ぬだろうということは理解していた。要求を受け入れない目撃者など、生かしておく価値はない。だがしかし、受け入れることは殺人鬼の仲間になるということのはずだ。そこに平穏はあるのか。心穏やかに、中学生らしく生きられるのか。けれど死んでしまえばすべてが〝どうしようもないこと〟になってしまうというのも、千鳥はきちんと把握していた。
悩んだところで、選択肢はひとつしかないのだということも、悲しいくらいにわかっていたのだ。
002
師首ヒビキ。
『鶏』という殺人鬼の、本名である。当たり前といえばそうなのだが、彼女にも普通に名前があった。そもそも『鶏』というのはコードネームであり、千鳥が目撃してしまったようなときでないと呼び合うこともないのだと聞いた。生返事をしながら、千鳥はもうあんな場面が来ないことを祈った。無駄であろうことは察していたが、それでも全力で祈っておいた。
師首ヒビキは人を簡単に殺すが、それでも、悪い人ではないようだった。
「ぼくらは、まあなんつーの、陣地取りをしてるわけ。追い払ったり追い払われたり、そういうゲームをしてる。ぼくらが始祖鳥、あいつらが軍蟲。どっちかが勝つまで、終わらないゲームだよ」
ゲームには駒がいる。戦力が。千鳥を勧誘した師首だが、彼女の実力はなかなかのものらしい。ただ、加減ができない不器用さがあるため、殺人現場にいたもうひとり――甲斐階というらしい――は彼女のストッパー役として同行していたようである。師首は認めたがらないが。ことなかれ主義を貫く千鳥には、物事を察する能力と齟齬をそのままにしておくことのできる能力が備わっていた。ゆえに暴走列車の如き師首ヒビキ相手でも、穏やかに会話が進行していた。
「こっちの陣地に踏み込んだ馬鹿は率先して殺してもいいけど、あっちの陣地でぬくぬくしてる虫どもには手を出せない。これは基本のルールな。でも、ぼくらがあっちの陣地に踏み入って攻撃を受けた瞬間、やり返すという意味を帯びてのみ、あっちを殺せる。紛争になった地点は、そのときそこで闘って勝ったチームのもんだ。そうやって陣地を取り合って、最終的にすべてを手中に納めた方の勝ちってわけ。おっけー?」
神妙に頷く、千鳥。
しかしそこに〝何故〟はない。
問うてもよいものかと視線をさ迷わせていると、唐突に千鳥の視界にティーカップが現れた。リチャードジノリ。紅茶派の千鳥は有名な陶磁器メーカーのそれに目を奪われた。師首が、ああ、と気の抜けた声を上げる。
「甲斐。さんきゅ」
「駄目だろヒビキ。客人にはお茶くらい出さないと」
「逸材を見つけたっつー興奮で忘れてた」
「ごめんな千鳥さん。お茶菓子もあるから遠慮せず食べて。ああ、おかわりもあるから」
甲斐が微笑む。まさしく好青年である。師首よりもいくつか上か。真っ直ぐ伸びた背筋や清潔感のある髪。シャツにベストといったシンプルでいてお洒落な出で立ちも、千鳥に与える印象に一役買っていた。殺人鬼の仲間には到底見えない。しかしそれを言ってしまえば、少年のような師首も、殺人現場に居合わせておいてなお、そういうものには見えなかった。
千鳥は、ここで口をつけた方が穏便に進むだろう、という理由だけで紅茶を持ち上げた。いくら紅茶好きでも、こんな場面で心から喜べない。言われるままに手をつける千鳥に、甲斐は師首をうろんげに見つめた。
「なんだよ甲斐。目線がうるさい」
「あのな、ヒビキ。確かに新しいメンバーを探すのも必要なことだが、この子がほんとうに、逸材か?」
「ぼくを疑うのかよ」
「ヒビキじゃなくて千鳥さんを、だ」
いちおう気遣うように千鳥に視線をくれたが、それだけ。見た目通りの好青年ではあるが、甲斐のなかの優先順位が決まっている限り、発言には遠慮ない部分もある。
「確かにアレのなか生き残る運はあった。あの惨事を前にして謝りはしたが、それこそ一般的な反応とは違ったと言える。ヒビキが興味を持ったというのも、わからなくもない。だから口出ししなかった。だけどなヒビキ。それは無理だろう。そういう使い道はないんじゃないか。――人が殺せると思うか、この子に」
千鳥は俯いた。固く拳を握る。
人を殺せるか、なんて。千鳥にはわからなかった。そもそもそれは、人生における最終手段というやつではないのか。始祖鳥という謎の組織の陣地取りで、その最終手段を用いなくてはならないのか。千鳥はまだなんの実感もなかった。既にあの首を撥ねられた死体たちは、千鳥の思考の蚊帳の外である。意図的にそうしたとはいえ、実感が湧こうはずもない。
師首はしかし、笑った。
『鶏』は、その疑問を一笑に付した。
「だからお前は馬鹿なんだよ甲斐」というおまけをつけて。これには千鳥の方が面食らう。
「そういうのを探してんなら、最初っから人殺しを見つけてくるさ。ぼくが探してんのは才能だ、才能。人を殺せる玄人なんかお呼びじゃないんだよ、人を殺すための才能に溢れた人間、それを孵化させるのが目的なわけ。人殺しには人殺しの才能はないかもしれないけど、人殺しの才能があるやつにはある。たとえいままでそのちからを振るったことがなくてもだ」
ひどく偉そうに、師首はそう言って。
「千鳥ちゃん。お前の名前を聞いとき思ったよ。この〝鳥〟なら孵化させてやる価値があるんじゃないかってな。魔が差したように、そう思ったんだ」
ふん、と鼻を鳴らした。
「ぼくがちゃんと孵してやるから、心配しないくていいよ」
千鳥は、人殺しの仲間になった。
人を殺したことはなかったけれど。
なにひとつ千鳥の心を打たなかったのに。
それでも、翌朝目覚めたときに「ああ、あの人の仲間になってしまったのは現実のことなんだな」と理解できるくらいには、この師首ヒビキという殺人鬼を認識してしまっていた。
言うまでもないことだが、千鳥の人生というものを目に見えるかたちにひん曲げたのは、師首ヒビキその人である。無論、古今東西、物事がそう廻っていたように、彼女はその責任を取らされることになるのだが。
003
千鳥は中学生である。
それゆえ、学校というものに通っている。
いくら昨日人殺しの仲間になってしまったとはいえ、千鳥薫子という少女は中学校に行かねばならない。普段より十分遅れて登校した千鳥は、それでも普段通り、真面目に授業を受け、すぐさま帰路についた。部活は休むことにした。後ろ髪引かれる心境ではあったが、師首から「学校が終わり次第来い」と言われている。殺人鬼の要求を無視すれば確実に平穏が終わる。それだけは避けねば。
件の、師首と千鳥が知り合うはめになったファーストフード店。待ち合わせ場所として指定されたその正面まで行き、千鳥は息を飲んだ。店が、なにもなかったように営業されていたからだ。師首が斬り荒らした土地の面影すらない。
「びっくりしたか? 千鳥ちゃん」
師首が立っていた。気配など感じなかったのに。昨日と変わらないラフな服装に同じチョーカーをつけていたが、靴だけは黒の編み上げブーツになっていた。千鳥は師首と店を交互に見やる。師首が得意げな表情を浮かべた。
「うちはただの陣地取りをしてるんじゃない。この土地を、修復という点において他の追随を許さない神秘を、我がものにしたくて殺し合いをしてるんだよ」
修復する、土地。
確かに、元通り、なんの変化もない。
首を撥ね飛ばされた従業員たちは、客は、やはりいなかったけれど。
「土地はいくらでも修復される。ぼくらが殺し合った末になにが壊れようとも。この土地はぼくらのちからを吸い上げて、自分の養分にしてしまう。ここはそういう土地なんだよ」
ちから――瞬く間に人の首を落としたあれだろうか。師首がヘルメットを投げ渡して来たことで、そんな千鳥の思考は遮られる。
「ほら、お前後ろな。飛ばすからちゃんと捕まれよ」
言って、少女には似合わぬ大型バイクに跨がった。千鳥は師首のバイクに乗せられアジトに着く頃には、半分魂が抜けたような状態だった。もう絶対に後ろに乗らない。ふらふらになりながら、千鳥は決心した。
アジトには、甲斐がいた。
奥から人の気配はしたが、やはり出て来るつもりはないようだ。その方が千鳥としても嬉しい。殺人鬼は師首ひとりでお腹いっぱいだ。
甲斐はホチキスで止められた紙の束を、千鳥に差し出した。束とはいっても、三、四枚である。白い表紙を飛ばして捲ると、写真の貼られた調査書のようなものだった。一枚目は風景の写真。千鳥も知っている映画館だ。確かこの辺りから電車で二駅くらいさきの。二枚目は周辺施設の情報だ。これも記憶にある建物ばかり。三枚目、これには男の写真が貼ってあった。目つきが爬虫類じみた、頬の痩けた男である。年は千鳥の三倍はいっていようか。事実書類には四十三歳とある。コードネームまで、ある。
「『虻』か。こいつがここに?」
手元を覗き込んできた師首が呟く。頷く甲斐。言葉少ななのは千鳥を気遣ってか。それでも書面に起こされている『虻』の情報を、千鳥のために言葉にしてくれた。
「うちの陣地に『虻』が潜んでいるという情報が入ってな。彼自身はさほど強くない。だが、やはりそれでも人殺しだ。真剣マニアで無数のコレクションがあるらしいから、気を抜かない方がいい。そのなかにはおかしな刀もあるらしいから、千鳥さんには重い相手になるだろう」
千鳥が始祖鳥の一員でいられる条件――なんとか平穏をあたためながら生きていられるための、試練。陣地取りゲーム。千鳥はそれに勝利せねばならない。
青ざめる千鳥に、師首が犬歯を光らせる。
「ちょっとくらい手伝ってやるよ、千鳥ちゃん」
退路は、やはり何処にもなかった。
千鳥の祈りは何処へも届いていなかった。
004
千鳥薫子には、父がいない。兄弟は、元よりいない。母ひとり子ひとりの母子家庭で育った千鳥は、父親に当たるであろう年齢の男を前にして困惑していた。ただひたすらに、困惑を、していた。
――土下座である。
奇しくも千鳥が師首ヒビキに向けて行ったその行為を、中年の男が、軍蟲の『虻』という人殺しが、たかが女子中学生の千鳥に行っている。戸惑わないわけがなかった。師首から借り受けた大振りのサバイバルナイフが、頼りなげに手のなかにある。こういうときどうすべきか、師首に答を仰ぎたかったが、彼女はそこまで手を貸してくれるつもりもないようだ。映画館まで一緒だったのに、いつの間にか消えていた。
「ゆ、許してくれ! 頼むから、頼みますから、見逃して欲しい!」
額を擦りつける、『虻』。映画館のトイレにて、男は頭を下げ続けている。丁度上映中のため、周囲に人はいない。この陣地取りゲームでは目撃者は殺してしまえというスタンスのようなので、千鳥としては『虻』が人気のない場所にいてくれたことに安堵していた。けれど、千鳥の顔とナイフを見るなり、この状態だ。口を開きかけて躊躇う千鳥に喋らせる暇を与えず、相手は畳みかけた。
「私は望んでこのゲームに参加したわけじゃない! 妻も子もいるんだ! 頼む、見逃してくれ、頼むよ『鶏』」
千鳥は驚きに目を剥いた。いま『鶏』と言ったかこの男。どうやら千鳥と師首を取り違えているらしい。決定的な情報不足だ。元々は師首がこなすはずのゲームだったのかもしれない。そこでやっと相手が下手に出ている理由がわかった。あの殺人鬼相手では勝てないと思っているからだ。ここで千鳥が新入りだと露見すれば、男は忽ち態度を変えるだろう。千鳥の生存確率はぐんと下がる。否定も肯定もせず、千鳥はサバイバルナイフを固く握り締めた。
紛争は回避。平穏を優先。トラブルは隠蔽。己のことなかれ主義を胸のなかで唱える。そう、回避できる紛争は、回避すべきだ。この男が降参し、この地をから出て行けばすべて丸く収まるだろう。千鳥は男の前にしゃがみ込み、戦闘を放棄する意思を示すためにナイフを床へ置いた。それでも顔を上げようとしない男へ、手を伸ばした。
とん、と柔らかく肩を叩いた。その瞬間。
千鳥の細い身体は、衝撃をもろに食らって吹き飛ばされた。トイレの壁に強かに背を打ちつけ、よろめいて廊下の方へ倒れ込んだ。痛い。突かれた腹が自分のものではないみたいに、熱くて熱くて、痛かった。
「くはっ」
笑い、声。
「くくくっ、ははっ」
トイレの壁に反響し、大きくなる。
「はははははっ! 新入りは馬鹿な小娘だなあ、ぎゃははははははははははは! ひひっ」
生理的な涙で視界が歪んでいたが、気を失うほどではなかったし、むしろ痛みで気を失えない状態であった。千鳥は人が変わったように哄笑する男を睨もうとして、失敗する。微かな身動ぎで吐き気が込み上げた。
「『鶏』の顔を知らないわけねーだろ! お前らの陣地じゃ攻撃されるまで手ぇ出せねえからなあ、攻撃されたと判断できる接触を得るためのカモフラージュだよバーカ!」
ぜんぶ、嘘だったのか。千鳥は噎せながら思う。
トイレの個室から、『虻』は日本刀を取り出した。個展などで飾られていそうな、美しい造形である。しかし千鳥には美を鑑賞している余力はない。鞘がトイレの床に放られる。千鳥は動けない。
平穏という単語とこの状況は、あまりにも異なり過ぎていた。師首といたときよりも、さらに。千鳥の小柄な身体でどんどんストレスが蓄積してゆく。もはやそれは、千鳥自身が抑えきれないまでになっていた。
「新人くーん、君は馬鹿過ぎるなあ」
ねちっこい、男の声。
刀を閃かせる。トイレがまるで豆腐かなにかのように、いとも容易く切断されてゆく。千鳥がこうなることを知らしめるように。
「そのちっこい身体を斬って斬って斬って斬って斬って斬って斬って斬って斬って斬って斬って斬って斬って斬って斬って斬って斬って斬って斬って、細切れの肉塊にしてやろう」
振り上げられた、刀。日本刀の煌めき。
『虻』は慢心していた。もう勝ったつもりでいた。このコードネームも知らぬ少女を、既に殺し終わった心地でいた。
ゆえに、いや、だから――馬鹿なのは、『虻』その人だった。
「わたしの家は、母子家庭で……父親がいたのは、わたしが小学三年生の夏までだった」
千鳥は譫言のように、喋った。
師首に謝罪したときから、ようやく、喋っていた。
「父親は、おとうさんは、わたしが小さなときからわたしのことを殴った。ひどくひどく殴った。わたしは殴られたくなかった。平穏に、痛い思いをせず、暮らしていたかったのに。でも殴るの。おとうさんは、それを回避させてくれなかったし、平穏なんて何処にもなかった。だから、もうひとつだけしか残ってなかったの。ひとつだけしか」
千鳥は『虻』を見た。
父親くらいの年の差がある、男を。
「トラブルは隠蔽するしかないの。ぜんぶやって駄目だったら、もうそれしかない。だから、わたしは隠した。わたしを殴るおとこのひとを――おとうさんを」
「隠したって……お前、なにを」
黙って千鳥を斬り捨てればよかったのに。
男は、『虻』は尋ねてしまった。それ以前に、聞いてしまった。千鳥の独白を。罪の告白を。平穏を愛する少女が、その害になるものを〝隠して〟しまわないはずがなかった。
「隠すの。誰にも見つけられない、ずっとずっとずっと、深いところに。おとうさんは二度とわたしを殴らなくなった。家に帰って来なくなった。だってわたしが隠してしまったから。平穏がやってきて、ほんとうにわたしは嬉しかった。殴られないから、痛くないから。でも、いますごく痛いの。ねえ、『虻』さん。あなたがわたしを殴ったんだよ。おとうさんみたいに」
こいつは、狂っているのか。
『虻』は後退りした。これなら『鶏』を相手取った方がよかったのでは。一瞬その考えが過った。けれど、結局は人殺し。狂っていようがなんだろうが、殺してしまえば仕舞いだと。『虻』は千鳥を真っ二つに割ろうとした。そう、割ろうとは、したのだ。割れなかっただけで。
「は……?」
闇が、『虻』の身体を食んでいたから。
千鳥は人を殺したことがなかった。隠したことは、あったけれど。
005
千鳥のちからのトリガーは、ストレスと痛みにある。絶対的なことなかれ主義を脅かされるストレス、それがトラブルは隠蔽せねばという主義の最終段階まで落ち込み、人から暴力を振るわれるという過去のトラウマが合わさることで、千鳥は意図的に人を〝隠す〟ことができる。現象としては、いわゆる『神隠し』だ。
師首は千鳥を勧誘したその日に、彼女の生い立ちから所持を疑われているちからまで、すべて把握していた。千鳥のちからこそ、師首が人殺しの才能と呼んだものだった。人を殺せる人外のちから、それを秘めたる原石を己の嗅覚で見抜いたというのは、師首にとって誇れることである。師首にも不可思議なちからはあるが、人殺しの才能とまで呼べるものではなかったからだ。ちからのせいで人殺しをしているにしても、だ。
ただ、ひとつ誤算があった。
師首ヒビキは鼻のきく殺人鬼であるものの、千鳥薫子の才能について、すべてを嗅ぎ分けることができるわけではない。
この土地はちからを吸い上げて修復を行う。それは師首のでも甲斐のでも構わない。使えばなにかしら痕跡が残り、そこから土地は栄養を得る。だが、千鳥の隠す才能は、ちからを使ったという事実まで、隠してしまう。ゆえに、修復されない。『虻』も結局なんのちからも発揮してないわけだから、あの場で流れたちからはゼロである。破壊されたトイレ。修繕費用は、師首のポケットマネーから支払われることになった。当然彼女にとって痛手である。千鳥を引きずり込み、隠していた秘密を暴いた報いを、師首は受けていた。しかしまあ、この程度でよかったと安堵すべきか。千鳥を目に見えるかたちに歪ませた責任が、これで取れたというのならば、だが。
父親の失踪は、千鳥の所業である。
これは千鳥を始祖鳥という組織に縛りつける材料になるだろうが、師首はそれを為すつもりはなかった。そうせずとも、千鳥は〝平穏を手に入れるため〟という理由によって、ここに居続けるだろう。千鳥の『神隠し』を組織の人間が呼び起こさない限り、彼女は従属し続けるだろう。ことなかれ主義を掲げたまま。
千鳥に孵してやると言ったが、それは誤りだった。既に卵は孵っていた。師首はそれを目に見えるかたちにしただけに過ぎない。
人殺しの才能とは、勝手に芽吹くものなのである。
師首はそれを知っていた。
006
それから、一週間。
千鳥薫子に平穏が戻ってきた――というのは、彼女の希望的観測が表に押し出され過ぎた発言だろう。千鳥に戻ってきたのは一時の平穏である。見事『虻』を退けた千鳥は、正式に始祖鳥のメンバーとして認められた。師首ヒビキという殺人鬼に殺されるという危惧は、過ぎ去ったと考えてもよいだろう。
活動がなければ、いままでのように。
呼び出されれば、平穏を守るために。
しかし千鳥は師首にすら、己のちからのことを話していない。バレているかもしれないが、自らそれを振るつもりはなかった。そもそも、千鳥は喋らない。二十一回謝ったっきりだ。師首がお喋りということもあり、語らなければならない場面に陥ったことがまだないのである。口下手な千鳥にとって、組織における師首の存在は大きなものとなっていた。
千鳥は流されるように組織に組み込まれてしまったが、そこに彼女自身の意思がひとつもなかったわけではない。父親を隠した、あのちから。どのような要因がなければ発動しないのか、今回のことで粗方掴んだように思う。師首に孵してやると言われた、あのとき。このちからをコントロールできるようになれば、と。確かにそう思ったのだ。
ちなみに。
師首はなかなか情にほだされるところのありそうな少女だが、千鳥は違う。捨てるときは捨てる。無駄なものは取って置かないタイプだ。それゆえ、だぶん。いずれちからのコントロールをマスターした暁には、師首に、いや、千鳥を平穏へ完全に返してくれない組織そのものに〝噛みつく〟だろう。そう千鳥は自己分析した。十四年間付き合ってきた自分のことだ、それが確実のことに思えた。
平穏を脅かすものは、隠してしまえ。
師首も、甲斐も、誰も彼も。隠してしまえば、千鳥はいとおしい平穏をいま以上に愛せるに違いない。でも、だから、これだけは言っておかねば。
「ごめんなさい」
だがしかし。ひとまずは。
千鳥はなにも語らない。
囀ずることはあるだろうけれど。
いずれ来るであろう、そのときまでは。