序幕
その浪人は酒気を帯びながら、日に日に冷たくなっていく夜風を感じていた。彼は日々の用心棒稼業を終えて、遊女を侍らせ酒をあおり、日銭を溶かして帰路に付いた所だ。彼の歳ならば、家庭を持っておかしくもない年齢だが、「秋の夜と男の心は七度変わる」とは良く言った物だろう。気移りしやすい浪人は根無し草、または浮浪雲というべきだろうか、「定」という字からほとほと縁遠い生き方をしてきた。
しかし浪人自体、そのような物はどうでも良いと思っていた。
――すすきに満月それから酒、それだけで良い。命だの何だのを質に入れ、買い取ったこの剣一本に、生まれて持った腕二本。これさえあれば生きていける。後は度量と度胸で銭を稼いでは女と酒に金に費やす。それだけで良い。
「――おっさん、良い刀持ってるなあ?」
――夜闇から凛とした声が響く。
どきり、と浪人は胸が高鳴ったのを自覚した。彼は腰に携えた刀に手を当てて、声の主が姿を現すのを息を潜めて待った。高鳴っていた胸も徐々に高鳴りを止めて、やがて落ち着きを取り戻す。そうなれば辺りには夜の染み入る静けさとそれを割る鈴虫の鳴き声だけだ。
酒に酔えども、浪人が潜ってきた修羅場の数は伊達ではない、薄い酔いなど直ぐに覚め、意識は既に愛刀と迫る気配に向けている。間合いに入れば羽虫一匹とて見逃さず両断する自信がある。彼が得意とするのは抜剣術、要するに居合抜きである。
抜剣術とは「刀の抜くと打つに間髪入れざりし事、三尺三寸の刀を以って九寸五分で突く前に両断せし事なり」――つまり、距離を詰められれば不利となる長刀で、如何にして短刀で襲いかかる相手に勝つかという考えから生まれた物だ。
――結論は単純だ「抜き様に切る」その動作を極限にまで速くすれば良い。
間合いに入った敵を、叫声すら上げさせずに絶命させる自信が彼にはあった。自分の腕とこの愛刀「胴田貫」ならばやってやれない事はない。安っぽい過信ではない、経験に基づいた確信である。
――「胴田貫」、田に横たわる死体を切れば、胴を突き抜け田を切り裂く。故に字名を「胴田貫」と言う。刃幅広く、切先は大切先、反りは深く、拵えは小板目、刃は丁子乱れ刃、鑢目は筋違だ。三尺六寸、刃渡りにして二尺五寸。重さは二斤半だ。
この刀の全てを浪人は知り尽くしている。幾度となく振り、幾度となく切った。共に死線を駆け抜けた友だ。剣は我流にして、無欠。敗れる理由あらず。
――今か、まだかと浪人は待ち構える。肩と手先には力を入れずに、緊張ではなく集中を足先から頭の天辺まで張り巡らす。
――ざっ、ざっ、ざっ、ざっ。
前方から土を蹴る音が響く、その足音から憶測して、八間程の距離があるだろう。
しかし、相手の行動の真意が解らない。夜討ちであるならば宣言せずに斬りかかるべきであるし、話しかけたと思えば腕利きの浪人にして、冷や汗をかくほどの殺気を放っている。こちらから攻めるべきか否か、逡巡してから浪人は改めて待ち構えるを是とした。相手方の得物を確認せずに動くのは悪手だと考えたからだ。
「誰だ、姿を見せろ。えらく血の気が早いじゃねえか。こちとらお前さんの声にすら聞き覚えがないってのによう。知らねえ相手を切るなんざ人斬りみたいな真似は好まん」
浪人が人を切るのは稼業上の敵か私怨のみだ。意味もなく切って楽しむような、悪趣味な嗜好を持ち合わせてはいない。切るならばせめて、相手に切られる理由くらい持たせて三途を渡らせてやるのが、せめてもの供養だ。
「――おっさん、そっちじゃねえよ。話すんなら人の目え見て話せって、おっかさんに習わなかったかよう? 今時、寺子屋でも教えてるぜ」
――ぞくりという悪寒が浪人の背筋を走る。
振り向き様に抜剣する。鞘内を走り、抜剣された刃は銀光を閃かせる。その様は一匹の飛燕が弧を描くようであった。一瞬、瞬きが終わるよりも速く斬撃が走る。秒となく――まさに刹那であった。秒を七十五に分けてこれを刹那というが、その刹那の閃きだった。
「――浅い!」
浪人は瞬時に視線を前方に向ける。あるはずの手応えが無かったからだ。視線の先には、衣服の胸元を少しばかり裂いて飄々と立つ者が居る。
腰鎧に脚絆、袖なしの打合せの下からは帷子が覗く。腕には篭手を付け、赤いぼろ布を首に巻いて風に靡かせている。背丈は浪人より一回り、場合によっては二回りほど小さい。肉付きは無駄がない、しなやかな筋肉だ。
不気味に葉を垂らす柳の大木の下でその小兵は、笑みを浮かべていた。今まで浪人と敵対してきた人間の多くは、抜剣の剣筋を見ることすら叶わず死んでいった。運良く避けた人間にして顔を青くしたまま、返しの二閃目、袈裟斬りで倒れた。
その抜剣を目にした上で平然と避け、尚且つ小兵は笑っている。
「いやぁ……思ったより速いじゃねえか。びっくりして着物、少し切られちまった。お気に入だってのにどうしてくれんだよう」
――あまつさえ着物の心配などをしている。
「――お前、名前なんて言うんだ、覚えておきたい」
内心、浪人のハラワタは煮え繰り返っていた。自慢の天下無双の抜剣術を避けられた事もあるだろう、それをしてみせたのが元服も済んでいないような餓鬼で、尚且つその餓鬼は抜剣の速さよりも切れた着物が気になるときた。浪人の自尊心は大きく傷付き、目の前の餓鬼への敵愾心が心の内の多くを占めた。
「わしか、わしは武蔵坊、名は鬼若と申す者じゃ。おっさんの刀を貰い受けたいのだが、どうだろうか?」
――武蔵坊、浪人はその名に聞き覚えがあった。
近頃、この秀真の都を騒がせる輩だ。夜な夜な名うての剣客の前に現れては剣を奪っていくという噂話だ。噂では七尺ほどもある大男だとの事だったが、実際は五尺が関の山と言ったところだろう。とんだ、笑い草である。
「ははははは、噂の武蔵坊がこのような小兵とはな! この『胴田貫』を奪いに来たのだろうが簡単に持っていけると思うなよ! よく聞け俺の名前は――」
「――ああもう、うるさい黙れ。『胴田貫』だっけか? その刀の名前だけで十分だよう。お前ら刀のおまけの名前を覚える義理なんざ、毛の先程もねえのさ」
鬼若は唾を吐き捨てると、髪を上下に掻き回しながら、うんざりだと言わんばかりに浪人に向けて言い放った。
それを聞いた浪人の表情は直ぐに豹変した。額の血管は切れんばかりに浮き出て、目付きから何から全てが怒りの色で染まっている。無理もないだろう、暗にお前には名を聞くほどの価値もないと宣言されたような物だ。それは浪人にとっては何よりも許し難く、「殺す」と定めるには十分な侮辱であった。
「その言葉、収めるんじゃねえぞ! お前を殺す男の名前を知らずに悔いて逝け武蔵坊! 我流抜剣術――奥義飛燕!」
飛燕――それはその名が示すように燕を模した抜剣術だ。一閃目の瞬速の抜剣、それで討ち損じた敵を仕留めるための、二閃目の返しの袈裟斬り。――飛燕は二度閃くのだ。彼の抜剣術は全て隙の無い二段構えだ。
「死ねええええええい!」
――一閃、燕が閃く。振りぬいた「胴田貫」の刃は鬼若の肉を切り裂き骨を断ち、浪人の腕に確かな手応えをもたらすだろう。
――がきん。
結果から言えば確かに思い手応えが浪人の右腕を襲った。それは想像していたよりも遥かに硬質で力強い物であった。浪人は大きく目を見開く。その視線の先には大きく弾かれた彼の腕と鬼若が諸手で握る刀の姿があった。
――簡単な話だ、鬼若は浪人が抜剣したのを見てから、その横面を自らの刀を振って叩いたのだ。抜剣術は結局の所、片腕で打たねばならない分軽くなってしまう。諸手で打ち込まれれば容易くはじかれる。理屈は実に簡単だがそこまで容易い話ではない。彼の抜剣術は並の人間では視認できぬ程速いからだ。
「おせえよ、何が『飛燕』だ聞いて呆れるぜ。大体一度避けられた技をもう一度繰り出すっておっさん馬鹿なのか?」
――ありえない。
浪人は驚愕で判断を遅らせる。そこに鬼若は切入る、浪人の懐に入ると見上げるような体勢で諸手握った刀を左に持ち替える。刀の長さは目測で二尺二寸、一般的に打刀と言われる種類だろう。その小回りが効く長さが攻めに守りにと応用が効きやすい。
「二太刀目を忘れてくれるなあああ!」
浪人は気迫の声とともに、諸手で愛刀を握り振り下ろそうとする。
そうして振り上げられた瞬間に、鬼若の右の篭手での一撃が浪人の鼻柱を折った。バキリという嫌な音が響く。斬りかかる浪人の全身の勢いと、迎え撃つ鬼若の拳。二つの真反対の力が相まり、衝撃を生む。
「――だからおせえよ、おっさん」
――秒後、浪人は転がるように後ろに飛んだ。一丈ほど地を転がって、暫くしてからゆっくりと立ち上がった。
――ぽたり、ぽたりと雫が落ちる。雫は赤黒く、地面に落ちては小さな染みを作った。
鼻が折れたのだろう。その表情は酷く憎悪に満ちていて、目の前の鬼若を呪い殺さんという念が浮かんで見える。そんな事も知らずに、月下、鬼若が携える白刃は蒼い光を返してきらめき、ゆっくりと鞘内に収められた。
「冥土の土産だ、本物の抜剣てやつを見せてやるよ」
鬼若は刀に手を当て力を抜き、瞳を閉じる。そこから膝を少し曲げ、低く重心を取って抜剣の構えを取る。
その動きが更に浪人の胸にドス黒い炎を燃え上がらせた。浪人が長い年月をかけて身につけた抜剣、その抜剣を遅いと言ってしめた鬼若が、齢十五にも満たないであろう餓鬼が「本物の抜剣」とやらを見せると息巻いたのだ。
痛覚は猛りで鈍り、刀を振り上げ跳びかかる。そこから間に髪を入れずに目を閉じた鬼若に向けて袈裟に切り下ろす。窮鼠の一噛みと言っても良いかもしれない。しかし浪人は気付くべきであった。
その、窮鼠の一噛みすらも、猫に追い詰められた故に出さざるを得なかったものだと。窮鼠がいくら噛み付こうとしても、それをはたき落としてみせるのが猫である。
――銀光一閃、鬼若の白刃は光る尾を引いて、浪人の腹部に食い込んだ。肉を断ち、臓物を切り、その奥の背骨に当たる。――ごつり、と重い感触が手にかかる。勢いを止めかけた打刀の刃に、前への重心の移動の力を加える。半ば、骨を砕くような手応えと共に、ずるりと背中から刃が抜けた。
「よく見えたかよう、おっさん。地獄でゆっくり練習しな。再試合なら受け付けるからよう」
浪人の上体と下体は別れを告げる。上体は地面に落ちて血だまりに叩きつけられて、ばしゃん、と虚しい音を立てる。下体はその場にしばらく直立して、血を流した後にゆっくりと血だまりの中に倒れる。
――鈴虫が今宵は良く鳴いている。
鬼若は地面に落ちた「胴田貫」を拾い上げ鞘に仕舞うと肩に担ぐ。
――空に満月、地にすすき、歌う鈴虫、光る白刃。
「――良い、良い、最高だよう。今日は満足じゃ」
月明かりに照らされた鬼若は嗤っていた。浪人を切った返り血に濡れながら、浪人から奪った刀に酔いしれ、死んでいった浪人の事を嗤った。刀に憑かれ、剣技に憑かれた剣客は皆揃いも揃ってどあほうで、命知らずの化け物だ。
――今夜もまた一刀、これで千刀までまた一歩近付く。
鬼若の悲願が叶う時もそう遠くは無いだろう。千刀集めしその日には、鬼若の唯一にして最大の願いが叶う。そう思うと鬼若にはおかしくておかしくて、嗤わずには居られない。人の夢と書いて儚いとどこぞの誰かが謳ったが、夢は叶うものぞと鬼若は天に拳を突き上げる。
「――はははははははは! 真に浮世は面白いのう!」
――赤鬼は嗤う、嗤う。