記憶、買い取ります
高い高い、山の上。あるいは深い、海の底。
ひとのたどり着けない場所に、その街はあるのだという。
錬金術の都、ハーフエメラルド。
「記憶、売ります」
そんな怪しげな看板を見つけて、彼は立ち止まった。
「売ってくれるなら、買ってくれるかもしれない」
ドアを開けて、店の中へ。
「こんにちは」
「こんにちは、お客様。本日は、どのようなご用向きでしょうか」
「あの…」
「はい」
「お恥ずかしいのですが、私の記憶を買い取っていただけないかと思いまして…」
「ほう!」
ネズミの顔をした獣人の店主は、小さな丸い眼鏡を光らせた。
「ほうほう! それで、どのような記憶を!!?」
「あ…、あの。私、事業に失敗しましてね…。長年付き合っていた女性にもフラれてしまいまして…。それで、その。その記憶をですね…」
「はぁ、やり直したい?」
「そう。そうなんです。みんな忘れて、また新しく、やり直したい」
「なるほどなるほど、よござんすよ。そういうお客様は、たまにいらっしゃいます。何もかも忘れ、新天地へ。新しく始めたい。忘れたい。そういう、心機一転の切り替えは大事でございますね」
男は、ほっと胸をなでおろした。そんな記憶はいらないと、言われなくてよかった。
「それで、あの…」
「はい、はいはいはい! そちらの椅子にかけていただいて!」
古びてはいるが、ふわふわの、一人掛けの深緑色のソファを店員が指さした。
「リラックス、リラックスしながら、忘れたい記憶を、思い出してください」
客は、失敗した事業のこと、付き合っていた女性のこと、今朝食べたトーストと、飲んだコーヒーのこと、読んだ新聞のことなどを思い出す。
店員が慌てて言う。
「関係のないことは、思い出さなくてよろしいのです。みんなこの瓶が吸ってしまいますからね」
「は…はい」
男は頷き、そして、もう、それらのことが思い出せなくなっているのに気が付いた。
閉じていた目を開く。
「あ…あの、私は」
「はい! はい、もうよござんすよ。お疲れさまでした。少々お待ちくださいね。買取金額はーー、はい。金貨30枚でいかがでございましょう?」
「何を買い取っていただいたか思い出せないのですが、そんなに高く…!?」
「はい、はい! このような記憶を好まれるお得意様もいらっしゃるのでね。このような記憶は、高く買い取らせていただいておりますよ」
「そ、そうなんですか…」
男は不思議に感じつつも、店員の差し出す金貨の袋を受け取った。ずしりとした重みが、手に伝わる。
ああ、これで何か、事業でもはじめようか。
素敵な女性との恋も、始まるかもしれない。
「いらっしゃいませ」
記憶屋の店主は、いつもの上客を迎え、知らず、揉み手をしていた。
丸眼鏡の奥の目が、小さく細まる。
太ったカイゼル髭の紳士は、ステッキをコツコツとつきながら入ってきて、いつもの深緑色のソファに落ち着いた。
「いつものを、頼む」
「はい、はいはい。失敗の記憶、でございますね、お客様。今日も、よい失敗を取り揃えてございますよ。どれにいたしま…」
「全部だ」
「全部!? 家がまるごと買えるほどの金額になってしまいますが…」
少し焦ったように、チョッキを着たネズミの姿の店員。
「かまわん。失敗の記憶も、成功の記憶も、辛い記憶も楽しい記憶も、--いくらあっても、困らん」
「左様でございますか」
店員は、にこりとほほえんだ。
「記憶は、本当に大事なものですね」
「ああ」
紳士は頷き、ネズミの持ってきた瓶の中身のもやを、ストローですすっていった。
「不思議なのですが…」
店員は尋ねる。
「お客様は、かなりの財産をお持ちです。新聞にもたびたび載るような、名士でもあります。なのに、どうして失敗の記憶などお買い求めになるのでございましょうか?」
「好きなのだよ」
「…は?」
天井と壁の境 辺りに視線をさまよわせ、紳士は応じた。
「色んなーー記憶がね」
店員は、にこりとほほ笑んだ。
「左様でございますか」
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