人魚 後編
毎朝、彼女を眺めるのが僕の日課になっていた。
だって、とっても綺麗なんだ。
「ヘンタイ」
僕の背後で、ぼそりと師伯が言う。
「死体だったときは、嫌がってたクセに…」
「死体を買ってくる師伯のほうが変人です」
「知らないのか? 人魚の肉ってのは、食べると不老不死になると言われていてな。時折、闇ルートで取引されている。付き合いのある商人が、今回は腐らせちまったらしくて、格安でくれるというからな」
「だからって、もらって来なくてもいいと思いますけど…」
僕の返答に、師伯は肩をすくめただけだった。
人魚は喋らない。
人魚は笑わない。
ただ、水の中で眠っている。
***
何てことはなかった。ある日彼女は目覚めていて、だけど相変わらず、しゃべらない。
師伯に尋ねると、悲しげに笑った。
「脳っていうのは、臓器の中でもかなり繊細な器官なんだ。1秒間、酸素の供給を遮断しただけで、かなりのニューロンが死に絶える。」
「は…はぁ」
要領を得ない僕に、師伯は、さらに言う。
「彼女の元の人格は保持されていないし、記憶もない。--ごくごく一般的な『人魚』に共通の機能しか、持っていないよ。あとは、学習による神経系の発達に頼るしかない」
「え、ええと、つまり…?」
「彼女は、ほんの子供と変わりないってこと。何も知らないし、何もできない。--大切に扱えよ」
彼女は塩水の中で、月色の髪をゆらゆらさせて、ぼんやりとこちらをーー見ているのか、いないのか。
僕は水槽の硝子に手を触れた。
肌から熱が奪われる。人魚たちの住まう、北の海の温度に合わせてあるんだそうだ。
(なんで師伯、人魚なんて買ってきたんだろ…?)
ちらりとその横顔を覗き見るが、小さな机の前で、難しそうな分厚い本を真剣に見つめているばかりだ。内心は読めない。
***
北の海。空はあいにくの灰色で、冷たい風が吹いている。
「王子に恋をした人魚」
「はい?」
海辺の岩にばちゃばちゃと寄せる海水に、意味もなく手を浸していた僕は、師伯のほうを振り返る。
「童話のアレ。--ひどい魔法使いもいたもんだ」
「ひどいですか?」
「ひどいね。恋なんて、基本、一方通行なものだろ。だからこそ、想いが通じるのは奇跡だ」
「は…はぁ」
師伯がそんなことを言うのが、なんだか可笑しくて。だけど意外すぎて。
「なぜ、脚を与えた? なぜ、声を奪った?」
ウチで飼っている人魚は、海の中を楽しげに泳いで、子供みたいにはしゃぎまわっている。
「彼女が彼女であるために必要なものは、脚じゃなくて歌だったはず」
「恋っていうのはそれくらい、盲目なものだってことじゃないですか?」
「…理解できないね」
僕はふと、疑問に思う。
「師伯。誰かを好きになったこと、あるんですか?」
「さあね。ーー当ててみたら?」
「…はく」
ーーえ。
聞こえた、かすれた声に、僕はびっくりする。
だって、その声はーー。
「しはく」
人魚が、師伯を指さしてにっこり笑う。
(わぁあああーー! かわいい!!)
「オレはシルフィド。こっちはローマン。--耳は良いから、聞こえているよな?」
人魚は笑顔のまま、こくこくと頷く。
そして、彼女は自分を指さして、首をかしげる。
「あっ、--名前! ええとーー」
「どうせ海に帰すんだから、名前なんかいらないだろ」
「えぇぇえ」
「シーリア」
「?」
「あの人魚に関する本の著者の名前だが」
僕は良い名前だと思ったし、彼女も気に入ったみたいだった。嬉しそうに尾びれをゆらして、海面から跳ねて、宙返りを決めた。
月がゆらゆらと揺れていた。
夜の海は黒く。しかし、空の星たちを映して瞬いている。
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とくにオチはありません。そう、ないのです。
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