人魚 前編
師伯は基本的に、しゃべらない。
ーーだって、ほら。
キィ、と かすかに鳴る蝶番は、師伯より、よほど雄弁だ。
帰ってきても、無言だし。
担いできた謎の麻袋は、なぜか死んだ魚のような、猛烈な悪臭を放っているのだけど、なぜだか師伯は、珍しくニコニコしていたから、僕は訊いてみた。
「師伯。何か良いことがあったんですか?」
「ーーあ? 死体安かったから買ってきた」
「へー。死体が安かったんですね」
オウム返しに繰り返しつつ、僕の心はどんびきしていた。なに。何なの師伯。死体が趣味なの? 死体をどうにかするんですか。死体をどうしたいんですか。死体がしたいんですか。
「そうねー。今日、チラシ入ってたものね」
優雅に紅茶を飲んでいたキツネ目女ーー長い金髪で、顔だけなら作り物みたいな美人のトリスティーナという女が、だるそうに言った。
そんなチラシ、僕、見てないです。
「そうなんですか? チラシはあまり見ないもので」
トリスににこやかに応じる師伯の袖を、僕は掴む。
「し、しはくしはくしはく」
「何だよ」
「何で死体を買ってくるんですか。生きている人間の何が不満なんですか。生きてるって素晴らしいことだと思いませんか。思いますよね? 僕は思います」
懇願(?)する僕をよそに、師伯は、謎の茶色い染みのついた、死んだサカナの匂いーー猛烈な悪臭を放つ麻袋の、口を縛っている紐をーー解いた。
解くな。
解くんじゃないです師伯ー!
「た、食べるんですか?」
「あ? まあ、食う奴もいるな」
麻袋の端から、魚のヒレのようなものがのぞいている。サカナか。魚なんですよね、これ。人間サイズですけど、腐ったお魚なんですよね? ね、師伯。そうだと言ってください。
「よ、っと」
途端。冬の冴えた月光のような、美しい月色の長い髪が袋の中から現れました。
「師伯。死体が好きなんですね…」
しみじみと言う僕を、半分だけ振り返る師伯。
「別に好きじゃねえけど?」
台所のテーブルの上に死体を載せた師伯は、--満足そうである。
無表情だけど。いつもの無表情だけど!
満足そう…である。
腐ったサカナの匂い。尾ヒレ。月色の長い髪。ふっくらとしたムネ。ちょっと童顔な、顔。肉食魚にでもつつかれたのだろうか。片方の目玉の代わりに、眼窩がぽっかりと空いていた。
「ぎゃぁぁあああっ、し、死体!!」
うっせえな、さっきからそう言ってんだろ。
そんな目で師伯が僕を見る。
「だって死体ですよ師伯! 息してません!」
「息だけしてたら逆に怖いっつの」
死体を放置したまま、本棚に近づく師伯。死体を放置したまま。
「と、とりす! 紅茶を淹れなおしましょうか、冷めちゃいましたよね!? ねっ!!?」
僕の懇願にも関わらず、トリスティーナは、長い脚を、優雅に組み直した。
そばにある銀製のティーポットから、とぽとぽと中身を注ぎ、いつもの、あおるような飲み方で、一気に飲み干し、また、つぐ。
「人魚ね」
「はっ!? そ、そうですね! 最近は人魚が良く捕れるらしいですね!」
自分でも何を言っているのか分からない。
「えーと。たしか、人魚の神経系の本がこの辺に…」
「なんでそんなもの持ってるのよ、シルフィド」
「暇だったので勉強しました」
「あー。あるわね、そういうの。私も、最近、レース編みとか始めちゃってね。暇つぶしのつもりが、案外、真剣になっちゃったりするわよね」
「ええ。脳の構造が、哺乳類とは違うんですよね。別の構造なのに、結局は同じ機能を実現できるというのが、けっこう面白くて」
マニアックすぎて、とてもじゃないけれど、相槌を打つ気にはならなかった。
戻ってきた師伯が言う。
「トリス。少し下がっていてください。術に巻き込まれる可能性があります」
「わかったわ」
頷く、狐目女。
言われるまでもなく、僕はかなり離れている。
「ローマン、こっち」
「はい?」
笑顔で手招きしないで下さい、師伯。
「見せてやるよ」
「死体なんて見たくないですよッ!?」
僕が逃げようとするので、師伯が近くに来た。来ないで。
いつもは意識の中で処理してしまう術を、わざわざ、空間に描いて展開してくれるーー。とはいえ、描かれる式を見ても僕にはさっぱりだ。
師伯はこれは魔術じゃない、と言うが、僕には、単なる魔法に見える。
青い光で描かれた印が円を作り、それが回転してさらに別の式が生み出され、さらに違う文様を描きながら混じりあい、飲み込まれていく。
その光が影をつくり、部屋の中で陰影が踊っている。
見ていても分からないから、僕は理解するのをあきらめて、ただ、踊る光の列に魅入っていた。
***
術が終わると、そこには「綺麗な死体」が寝そべっていた。
さっきまでと違い、どこも腐敗していないし、欠けてもいない。
完全な体は美しく、人魚ーー。そう。銀の鱗と、月色の髪と、薄蒼い肌。ヒトの耳の位置には、ヒレがある。
腕にも、ヒレ。
あんまり綺麗だったから、僕は少しの間、見とれていた。
それからしばらくの間、人魚姫は眠り続けていた。
ーー塩水の中で。
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