黒ビール、そしてニボシ
(参考にはしていますが、このお話に登場するのは架空のチェコ、プラハ、錬金術そしてルドルフ2世です。実在の観光名所『黄金小路』とは、実際には関係ありません。筆者の想像にすぎないものであることを、ご了承下さいませ!)
中欧ーーチェコ、首都プラハ城の中には、『黄金小路』なる通りがある。当時まだ、その辺りが神聖ローマ帝国と呼ばれていた頃。
16世紀後半。当時のルドルフ2世なる統治者は、芸術家、錬金術師、占星術師(天文学者)たちをこの街に招いたのだと云う。
街中では、人形遣いたちのマリオネットがヒトを演じ、黒ビールがヒトの胃袋を絶え間なく通りすぎ、彼らの耳にはアコーディオンの音色が届くーーそんな街である。
赤というよりオレンジ色の屋根がどこまでも連なり、曲がりくねった細い通りが、何本も走る。
そして、幅わずか1メートルほどの黄金小路。
狭苦しい建物の戸口には、いちいち番号がふられているーー、その、一室からは、さきほどから、血でも吐き出さんばかりの盛大な咳が聞こえていた。
「…ぐ、ぅっ」
というか実際に吐いていた。
なんつーか、上司は人使いが荒いのである。不老不死の秘薬の完成のためなら、何人が死んでもいい。そんな勢いでこき使われるのである。
むしろ普通に死にたい。不老不死の秘薬なんかいらないから、せめて人並みに死なせてくれ。
ーーそれが、この城下にて研究を続ける錬金術師たちの間で交わされる、いつものジョークなのであった。
「黒ビールの飲み過ぎだね。胃が悪くなっているよ」
ふわふわの猫の尻尾が、すこし曇ったフラスコ(とても変わった形だ)の隣でゆらゆらと揺れ、それが映り込んだものもまた、フラスコの側面でゆらゆらと尻尾を振っている。
纏う衣装は黒がベースで、白いフリルが、いちいち袖だの、裾だのに、二重にも三重にもついている。
けれどスカートではなく、はいているのは黒いショート・パンツ。
猫の顔と、猫の耳。ふわふわの白い毛の獣人が、つまらなそうにオレンジ・ジュースをすすっていた。(ちなみにここではオレンジは、遥か南のイタリアからしか輸入されない、高級フルーツである。)
「誰だね君は」
壮年の研究員は、ドイツ語で訪ね、胡散臭そうに眉をひそめた。
くく、っと喉の奥で小さく笑い、猫の獣人は答える。
「ミアキス・オルヴィエート。機巧師さ」
ラテン語だった。研究員は、さらに眉をひそめる。
神学者や、役人たちの大好きなあの言語。
神、神、神。
「猫の娘さんが、神学者ーーか。役人ってことはないだろう。なぁ、娘さん。神はヒトに永遠を望んでいると思うかね?」
「さてね。神の望みは、神のみぞ(知る)。そういうものじゃないかい?」
どこから出したのか、今度は彼女は、何か黒色でコーティングされたものを、ぽりぽりとさも美味しそうにかじっている。
研究員の喉がごくりと鳴る。研究で忙しすぎて、ここ数年、マトモに眠っていないし、食べてもいない。
黒ビールを喉に流し込み、白ソーセージをかじってーー、実験、実験、実験…、そしてまた黒ビール。
ここにくるとき、カレル橋の上で踊る、ガイコツの人形劇を見たのを思い出す。ときどき、今の自分は、あのマリオネットと同じではないか、と思う。
誰かに操られて、踊っているだけの。
「食べるかい? "錬金術師"さん」
その言い方に、どこか引っ掛かるが、なんだかうまそうな食べ物だ。黒ビールに合うかもしれない。
「ーーまったく。そんな不摂生では、秘薬の前にキミが死んでしまうよ」
猫の娘が、くっくっと笑う。
ふと、窓の外から鮮やかに西日が差し込み、室内を照らし出した。
「惑星が廻るのと同じくらい、確かなことだ。人間は"永遠"にはなれない」
どんな確信があるのか、猫の娘は、唐突にそう告げた。
「試してみなければわからんではないか!」
向きになって、研究員は反駁する。
「同僚は、あともう少しだと言っている! 私だってそうだ! この研究を完成させないことには、死んでも死にきれない!」
それには答えず、猫の娘は、西日に、眩しそうにまばたきする。
「……ああ、きれいだな。ねぇ、そうは思わないか? キミ?」
「…な、なんのことだ」
「太陽さ! 誰にも操られないのに回っているね。ああ、なんて不思議なんだろう!」
「ティコ・ブラーエか。先月死んだ」
(当時、大地=聖地が中心で、太陽はその周囲を回っているとされた)
「私の人生が無駄だったと思われないことを望むーーか。ねぇ、研究員さん。キミの人生は、そうなれそう?」
くっくっ笑う猫の娘のヒゲを引っ張ってやりたい衝動に彼は駆られた。
「そうならないことを望む人間など、いるものか!」
猫娘は、今度は、ぽりぽりと、懐から取り出したニボシをかじるばかり。
答えなんか教えてやらない、そんな顔で。
そして、にこりと目を細める。
「チェコには、マリオネットの見学に来たんだ。とっても有意義だったよ。ーーキミも永遠になれますように」
そして、彼にニボシを差し出す。
「まぁ、ひとつどうだい? カルシウムってなかなか、悪くないものさ」
西日は沈み、宵闇が辺りを染め上げ。
チェコの家々には、灯りが点り始めた。
黒ビールとニボシで、夜通し猫の娘と語り合う。そんな日があったのもーー、今は、遠い昔。
黄金小路の壁は今や、明るくカラフルに塗り分けられ、観光客が連日押し寄せる。ーーまぁ、どっちにしても、にぎやかな場所である。
もし、どこかにニボシが落ちていてもーー、あんまり気にしないで下さい。
なお、黄金小路に並ぶ小さないくつもの部屋は、兵士や召使の部屋だったという説もあるそうです。




