ドラゴンと、絵と① 1/3
絵を描くことが、好きだった。
自然物を、ただ一心に描き移す時間は、至福であった。
そもそも、考えてもみなかった。
砕いた鉱物で、植物の汁で、布の上に、岩の上に、羊皮紙の上にーー景色を、移す。
降り注ぐ雨を。過ぎ行く雲を。満天の星を。
果てのない蒼天を。芽吹く若葉を。流れる清流を。
とどめることができる。
一瞬を、切り取れる。
時間を、止められる。
なんて素晴らしい。
彼は「描くこと」を覚えて以来、それに夢中になった。
世界を切り取る。
無常の幸福。
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「…おい」
「なんだ、ヒトの子よ。我は今、忙しい。親を待つコマドリの雛たちを描いているのでな」
山と積まれたキャンバス。『描くこと』に興味はあれど、『描いたモノ』には、興味を無くすらしい。
木製の枠に、帆布を張った絵が、何枚も何枚も何枚も…、何百枚も。彼の住まう洞窟の、高い天井のほうにまで、積みあがっていた。
洞窟の天井の一部は、空へと通じており、高く舞う雲雀のつがいが見て取れる。
蒼穹は果てしなくーー、そしてこの彼は、不健康にも、洞窟の中、よく見たいからと、巣ごと取ってきた鳥の巣と、そしてその中で一心にぴいぴいと鳴く、三羽の雛を丁寧に丁寧に、木炭のかけらをその大きな爪で器用につまみ、慣れた手つきで危なげなく、的確な線を描いていく。
その動作にしばし見入っていたもののーーヒトの子、と呼ばれた白い外套の人物は、ふぅ、と息を吐く。
「…ちゃんと後で戻してやれよ。親鳥たちが困っていたぞ」
「大丈夫だ。日が沈む前には、描き上げて返してやろう」
「…ったく」
仕方なし、親鳥たちから預かってきた雛のための何か半消化されたどろどろのモノを、白外套の錬金術師は、指先に乗せて差し出す。
ーーで、指ごと食らわれた。
「いてぇっ!?」
「ーーヒトの子よ」
「あ?」
水彩用の筆を取り出した、「牛を3頭ほど上に積み上げたくらいの」背丈の、滑らかな鱗の巨大な生き物が、重々しく呼び掛け、ーー白外套の人物がそれに応じて振り返る。
「ぱぁすが取れぬ。邪魔だ。そこをどけ」
「雛を殺す気か阿呆」
「…む」
ドラゴンは、牙の生えた口をゆがめ、考え込む。
「陽が中天に来た頃にも、その雛に食餌をやっていたであろう。我らなど、数百年は食わぬぞ。不可解な生き物だな」
ふ、とシルフィドは笑う。
「不可解じゃない生き物がいるのか? ーーおい。このデカいのは大丈夫だからさーーこっちに来るといい」
コトバを介しての理解、ではない。化学物質の操作。「何か」を察したコマドリの夫婦は、羽を動かし、雛たちの元へと舞い降りる。
「む…。親たちも描き足さねば」
ドラゴンが呻く。シルフィドは肩をすくめた。
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ドラゴンらしく、彼の棲み処には財宝が山と積まれていたが、彼はそのどれにも、興味はないようだった。
「内装なんだよ、ヒトの子」
彼はよく、そう言った。
「無いと落ち着かないのだ。だが、それ以上のものではない。それを使って何かをすることはない。ただ、置いてあるだけだ。だが、そこにあってほしいのだ。そういうものだ」
「ふぅん?」
白外套の錬金術師は、興味があるのか、無いのか、曖昧に返した。
「じゃ、こっちの描き終えた絵は?」
「うぅむ」
ドラゴンーーファゴットは、うなった。
「どうなのだろう。考えてみたことがなかった。どうすればよいものであろうな、ヒトの子」
くす、と術師は吹き出した。
「さぁね。自分で考えたらいいさ。ーー時間はたっぷりあるんだろ?」
尋ねると、意外なことに、千年を生きるドラゴンは、首を横に振った。
「描きたいものが山とある。この季節にしかないもの。この瞬間にしかないもの。我は永遠であるのに、皆、あまりに早く変わってしまうのだ。どの一瞬も素晴らしいのに、留めておけぬ。ーーだから、我は描かねばならぬ」
「なぜ?」
尋ねるシルフィドに、ドラゴンは首を揺らした。
「分からぬ。描きたいと思う。だから、描くのだ」
彼は、絵が好きだった。ーーそれだけだった。
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次に錬金術師がその洞穴を訪れた時、珍しいものを目にした。
ーー人物画だ。
農夫なのだろう。帽子を被り、土のついた野良着に、裸足のまま。ドラゴンに怯えてちょっと引きつった笑顔で描かれていた。
「ーーこれは?」
なぜだろう。術師は、不穏な予感に、眉をひそめた。
向こうで、今度は、生まれたてのトカゲを描き移していたドラゴンが、のんびりと答える。
「ニンゲンだよ。君にそっくりだろう?」
「……。」
黙り込んだのは、似ていたからではない。それが"人間"だからだ。
ーーしかし。
シルフィドは自分の懸案を振り払うように首を振った。
ーーそれに。もし彼がーーファゴットが、ヒトと関わることを選ぶのならば、それを止める権利はないーーように思えた。
「ファゴット。そこのかさばるインテリアは、早めにどこかへしまったほうがいいぜ」
「キャンバスのことかい? そうだね。このまま描き続けたら、空へ届いてしまうね」
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