ヌヌ、出会う。
神の恩恵を受け、剣と魔術の盛んな世界。人と魔物が対立するなか、ある日魔物に絶大なる力をもつ王が生まれた。魔王とその配下の暴虐により、多くの町村が焦土となり、多くの人間がいたずらに殺された。世界は混沌の最中にあった。しかし魔王らを討つべくして、女神の啓示により人の勇者が選定された。勇者は立ち上がった。その力は強力であった。
配下である魔物は次々とこの勇者によって倒され、勢力を落としていた。
────そのような世界情勢の中、ある辺境に小さな森があった。幼子が自由に出歩いても生きていられるくらいは、穏やかなところであった。
幼いヌヌはこの森で、病気の祖母の為に薬草を採っていた。
両親を早くに亡くしているヌヌにとっての祖母は、唯一の家族である。しかしヌヌの幼気な献身虚しく、病は日に日に老体を蝕んでおり、先はもう永くなかった。魔術に優れた彼女によってつくられた、魔物の忌避するこの平穏な森は───ゆっくりとだが、彼女の命に呼応するように元の荒れ地へと侵食されつつある。
いつもの薬草の匂いに混じり、鉄の異臭がヌヌの鼻にツンと入った。一体何だろうかと気になったヌヌは、匂いの元に向かうことにした。
茂みを抜ける。むこうの木の下で、ヌヌの何倍もある身体の大きな黒い鎧の魔物が、力なく凭れていた。放られた右腕の鎧は砕けており、黒い生身の部分からは、どくどくと黒い鮮血が生々しく流れている。
ヌヌはこの時、初めて祖母と自分以外の生き物を見た。ヌヌはこの鎧の魔物を、絵本で読んだ王国の騎士様に違いないと思った。絵本で見た銀色の鎧とは色が違うけれど、形はよく似ている。国や民を守っていてくれる騎士様が怪我を負っている。ヌヌは薬草を渡そうと魔物に近づいた。
「きしさま」
魔物は近付いてきたヌヌを、血の流れていない方の腕で羽虫を追いやるように払った。魔物の大きな手が容赦なくヌヌの腹部を突く。
払われたヌヌは後ろに飛ばされ、尻餅をつき、腹の痛さで踞った。その場から動けなくなった。薬草の沢山入っていた籠はヌヌの手から離れ、虚しく地面に散乱している。
ヌヌが起き上がれたのは、それからしばらく経ってからだった。
起き上がったヌヌは、土に汚れてしまった服を叩いた。散らばってしまった薬草を拾い集め、祖母の待つ家に帰ることにした。
あまり賢くはないヌヌだが、魔物がヌヌに近寄って欲しくないことは何となく分かった。
ヌヌは小さな小屋に帰ると薬草を鉢で磨り潰し、磨り潰したものを湯と蜜で溶かし、カップに注いだそれを持って祖母の寝るベッドに向かった。ヌヌはカップをベッドの下に置き、耳を祖母の胸にあてた。祖母から教えて貰った“生きている音”を確かめるためだ。
薬草を採りにいくまでは、確かに、ゆっくり、ゆっくりとだが、トクトクしていた。
しかしヌヌが待っても、一向にトクトクの音は返ってこない。
ヌヌは皺だらけの祖母の顔を見つめた。数日前から口はだらしなく開き、白目になっている。そっと顔に触れてみると、ぞっとするくらい冷たかった。
ヌヌの祖母は死んだ。
辺りは真っ暗で、丸い月が出ていた。森は騒めき、緑は徐々に徐々に闇へ取り込まれていく。
なかなか眠りにつけなかったヌヌは、気付けば布団を被り、さっきの魔物の所に向かっていた。
魔物は相変わらず木の下で身体を休めていた。そして相変わらず、ヌヌが近づけば動く方の手で払った。尻餅をついてヌヌは倒れる。しかしヌヌは、今度は帰らなかった。
コロンと倒れたまま、ヌヌはそこで眠りにつくことにした。そしてそれは、いとも容易く叶った。とても無防備に手足が曝け出されていた。魔物は鎧の隙間から赤い目で、寝息を立てるヌヌを無言で一晩凝視し続けていた。
静かな夜だった。
■
生前の祖母の言いづけどおりに、ヌヌは遺体を小屋の裏に運んだ。食事も満足に出来なかったため、皮と骨だけになってしまっていた身体は、小さなヌヌでも運べるほど非常に軽かった。
そこに土葬すると、驚くことに森の騒めき───侵食は、ピタリと止まった。森は既に元の広さの三割まで減ってしまっていたが、三割は残った。祖母は残そうと考えてくれていたのだろう。ヌヌは祖母の墓に、毎日花を捧げることにした。
そしてヌヌは、魔物の傍で過ごすようになった。家でぐちゃぐちゃに下手なご飯を作っては、魔物のところに持ち寄って食べた。魔物の隣にある木に紐を吊し、洗濯物を干した。夜には桶に貯めた湯で身体を綺麗にしてから、布団を持って、魔物の近くで寝た。ヌヌは魔物を、祖母の代わりとしていた。
一定距離以上近付かなければ魔物は何もしないので、これ幸いとヌヌは魔物の傍で思うように過ごした。生きている魔物の近くは心地が良かった。魔物は黙ってそんなヌヌを見つめていた。
ヌヌが魔物の所へ行くに連れて少しずつ少しずつ魔物の腕の傷は自然治癒によって塞がっていく。完治も目前であった。
ヌヌが魔物の傍で過ごすようになってから、5日が経過しようとしていた。
その夜中のことであった。
ヌヌが魔物から少し離れた所で眠っていると、影から大柄な人間の男が息を切らして現れた。黄ばんだ服を身に纏い、浅黒い体からは酒や香水、葉巻、汗などが混じった悪臭が漂っている。
男は眠るヌヌを見つけ、はじめは驚き、次に下衆めいた笑みを浮かべた。男は奴隷売人であり、逃げた女奴隷を追い探していたところである。そんな折りに都合よく無防備なヌヌを見つけた。ヌヌの見目はよくないが、奴隷は資本、探せばいくらでも買い手はある。
男がヌヌを捕らえようと縄を懐から取り出したところで、それまで気配を消していた魔物が声を発した。
「それを捕えるのか、人間」
低い声だった。男はそこで初めて魔物の存在に気が付いた。
視界に入った鎧の異形に身が一瞬竦み上がるが、動かない様子を見て、機嫌のいい男はその問いに答えてやることにした。
「そうとも、捕まえて奴隷にするのさ。自警がねぇこんな田舎まで探しに来たってのに一人逃がしちまってよ、足りねぇんだ。ちょうどよかったぜ」
「奴隷にしてどうする」
「そうだな、この顔とガリガリの身体じゃあ、きったねぇ売春にしか使えねぇだろうな。男のマラを銜え込む公衆便所にでもさせるさ」
「そこに寝ているそれの性は未熟だ」
「関係ねぇよ。餓鬼だろうが未通だろうが、女は女だ」
「そうか」
「ああ、そうともよ」
話が切れたので魔物から目を離し、男は布団を乱雑に剥ぎ取ると縄でヌヌの口を、それから腕を、足を縛った。
ヌヌは目を覚ました。自分の身に何が起こっているのか分からないまま、ヌヌは男の肩に担がれ、魔物から遠ざかっていく。
魔物の赤い目は連れ去られていくヌヌを見ていた。ヌヌの黒い目もまた、見えなくなるまで魔物を見ていた。
それだけだった。
■
遠くに、それは遠くに移動した。ヌヌの短い足では、とても帰れそうにない距離だった。
転々と移動を重ねていくうちに、ヌヌを連れていく男も変わっていった。時々他人から与えてくれる水と食料と排泄の時間を、奇妙な気分でヌヌは受けていた。
最後にヌヌが連れて来られたのは、廃屋のような木造の古い館であった。蜘蛛の巣くうその館の広い一室に、ヌヌのように縄で猿轡をされ手足を縛られた若い女が、何十人と集められていた。ヌヌ以外は皆青ざめ、震え上がり、中には失禁している者もいた。
一人、また一人と体格のいい男に外に連れていかれ、数が減っていく。猿轡越しに泣き叫ぶ者がいた。暴れて抵抗する者がいた。
そうしたもの達は怒鳴られてより身体を縛る縄が多くなっていくので、ヌヌは何もしないで静かに横たわっていた。
中は暗く、時の感覚が分かりにくかった。今が朝なのか、昼なのか。夜かもしれない。
やがてヌヌの番が訪れた。
連れて来られた先には、中年辺りの太った男が待っていた。ヌヌは足の拘束と猿轡を外され、太った男と薄暗い密室に二人きりにされた。
男はヌヌに近づくと、いきなりヌヌの頬を強く殴った。床に倒れたヌヌの腹に馬乗りになりながら、ハズレだなどと不満を漏らし、苛立ちを露にしながらその腕を上から振り下す。ヌヌは何故自分がこのような目にあっているのか分からなかった。
服や下着を荒々しく剥ぎ取られ、裸に剥かれる。男はヌヌの裸体を見て舌打ちし、ヌヌの太ももを爪が食い込むほど強く掴んだ。
股を無理に広げられ、男の手が股の間を荒くまざくる。ヌヌは震え上がった。生理的な嫌悪感で、抵抗をした。
足を蹴りあげて暴れるヌヌを、男が再び殴りつける。ヌヌの口の中は切れ、すっかり血の味で満ちていた。目が熱くなり、涙が頬を伝ってポタポタと冷たい床に落ちた。
「きしぃ、はま…」
騎士様。騎士様。騎士様。騎士様、助けて。ヌヌは呂律の回らなくなった舌で、懸命にあの魔物を呼び求めた。
「きひ、ひゃまぁ…」
たすけて。
ズプリ、何かが刺さる音がした。
ヌヌの頬に生温かな血潮が降り掛かる。
ヌヌの腹を跨ぐ男の胸は、鋭い何かによって一突きにされていた。コポコポと男の口や胸から血が大量に溢れ、瞬く間に男は絶命した。 傀儡のように身体の力が抜けた男が持ち上げられ、宙に放られる。
目前に現れたのは、あの魔物───黒い鎧の騎士の姿だった。
魔物はスピアに付着した血をふるい落とし、ヌヌを見下ろす。
ヌヌは言葉にならない嬉しさを感じていた。
ヌヌが震える身体をゆっくりと起こし、歓喜のあまり魔物の足に抱き付いても、今度は払われはしなかった。
「きしひゃま、きしひゃま…!ありあとう!ありあとう…!」
「───単なる騎士ではない。我こそは魔物の長に君臨したる魔王が右腕、魔騎士である」
「きしひゃま…」
「魔騎士だ」
「まきひ?」
「否、魔騎士だ」
「まきひ」
「……もうよい。その口では言えまい」
魔騎士はヌヌを片手でつかみ上げ、その顔についたアザを観察した。スピアを脇に差し、鋼の指先でアザをなぞる。加減しようとしているのか、その指先は震えていた。
触れられた痛みに、ヌヌは顔を歪めた。
「痛むのか」
「うん」
「治るのか」
「たぶん」
「そうか」
それから魔騎士はヌヌを肩に置き、闇に消えた。
部屋には男の死骸のみがぽつりと残っていた。