夏空 ~少年の空~
Seen.ⅰ
打って
どうか 打って
バッターボックスで素振りの確認をする4番打者に強く願いながら、私は食い入るように3塁に居た純を見ていた。
夏季全国高校野球甲子園大会決勝、9回裏2アウト、2ストライク2ボール、緊張の抜けないカウントだった。マウンドでは相手チームのピッチャー とキャッチャー、それに内野手が集まり作戦を確認していた。
0対1。
3塁に居る純が帰ってくると、同点となり、今バッターボックスにいる彼も帰ってくることが出来れば、逆転、それで終わりだけれど、とにもかくに も今はまず1点、彼に帰ってきて欲しい。
俊足を買われた1番打者は、バンドや犠牲打に助けられて大切に3塁まで進んできた。
そしてバッターボックスに立つのは、超高校級とすでにスカウトの面々の目が光る怪物。
どうか、打って。
そして、彼を帰して。
2アウトになっている今、犠牲フライなんてできない。ほしいのは明確なヒットだ。
どう、でる?
私は食い入るように敵チームを見つめた。
今相手チームが考えられる作戦は二つ。
一つはうちの超高校級の4番打者と正面対決をすること。2打席目、3席目とヒットを打ちタイミングを絞ってきている今、ぜひともこのまま勝負しても らって、打って欲しい。
だが。
選んでほしくないのは、この投球勝負を捨てることだ。つまり敬遠して今打席にいる小野寺君を歩かせあいている1塁に進ませて、うちの5番と仕切りなおすということ。今日のうち5番打者は相手投手と相性が悪いのか全打席三振と、かなり分が悪い。
今も次の打席を待っている彼は、緊張した表情でバッドを抱きしめていた。その表情には緊張のあまり『もう無理です』とでかでかと書いていた。
ここまできておきながらそんな小さな肝っ玉でどうする、そう思った。
しかし、こんな場面だからこそ、緊張もするだろう。
私が敵チームの監督なら、4番敬遠、5番勝負を迷わず選ぶ。
散会して再び守備位置に付く相手チームが取った作戦は、どうやら私がもっとも選んで欲しくないと思った敬遠策のようだ。
ボール、審判のコールがあったとき、うちの4番と3塁にいた彼がぎりっと唇をかんだのが、ここからでもはっきりとわかる。
4番の彼はぎゅっとバッドを握ると、次、明らかなボール玉を高らかに打ち返した。
あっ!?
皆がそのボールの行方を追う。
あと数センチずれたらホームランになっていたそれは、わずか、この球場特有の浜風に煽られてファールになった。
惜しい。
周りで一瞬落胆のため息が洩れた。
しかし、そんな吐息は一番漏らしてはいけない。
私は3塁にいる純を見つめた。
この1年、キャプテンとしてチームを率いてきた。守ってよし、打ってよし、そして中学時代はピッチャーとしてならした(今だってピッチャーの控え選手だ)強肩と誰よりも早い俊足で、第二のイチロー候補とも言われてき ていた。
超高校級といわれる小野寺君が居るため、影が薄いけれど、純だって十分バケモノ高校生だと自他共に認識されている。
打席と3塁に居ながら二人は頷きあって、何かを確認していた。
その、なにか……。
私は手をぎゅっと握った。
私ができるのは、彼らを信じ、祈ること。
敵チームのキャッチャーは立ち上がり、再び打ち返されてはたまらないと、明らかに、そして決してバッドの届かないところまで大きくずらしたボー ルを要求した。相手ピッチャーが頷きボールを放つ。
瞬間。
3塁にいた純が猛烈に進みホームを狙う。
一応警戒していたのだろう、キャッチャーの反応は早かった。しっかり握ったボールをこぼさないように、すばやくホームベースを守る。
ただ、彼の足はとても速かった。ホームベースに向かって懸命に手を伸ばしヘッドスライディングをする。
普通だったら完璧にアウトだっただろう。しかし、ほぼ同時に彼の手もホームベースを触っていた。とてもきわどいタイミングだった。
どっちだ?
どっちが早かった!?
紙一重の攻防を見極めることが出来なくて、皆しんと静まり、審判のコールを待った。
どれほど待っただろう、ほとんどかかっていない時間のはずなのに、やけに長く感じた。
ごくり、硬くなった唾を飲み込んだその時、審判の手が無情にも縦に振られた。
あああ……。
純はその場で仰向けになった。
私も後頭部を後ろにだらんと下げた。ベンチのひさしの向こうに空が見える。
ふわふわと水分を多く含んだ雲を浮かべた空は青くて、今の瞬間までの極限まで張り詰めた緊張を一瞬できれいに払拭してしまった。
終わった……。そのことだけがきれいにすとんと心を埋めた。
ゲームセットのサイレンが鳴り響く。
相手チームは全ての選手が喚起の声をあげてマウンドのピッチャーめがけて集い、それを傍目にバッターボックスに居た小野寺君が純をひっぱり起こした。ぽぽんと肩を叩きあい、こちらに戻る。
「申し訳ありませんでした」
純がヘルメットを取り、監督をはじめみなに謝罪した。
誰も彼を攻めたりしなかった。なぜなら、彼にそれを望んでいたのは皆同じだったからだ。
4番を封じ込められたあの場面で、全員が彼にその仕事を望んでいた。そして同時にわかっていた。あの瞬間、純の足は誰よりも速かった。彼に出来なかったこと、他の誰もできようがない。
ちゃんとわかっていた。
もしかすると後で誰かが言うかもしれない。5番の彼が打てたかもしれないじゃないかと。でもあの時、サークルでバッドを抱え、緊張のあまりすっかりすくみあがった姿を見れば、どうすればよかったのかなんて誰もいえない。
純は主将としての仕事を、ちゃんと果たしたのだ。
敗北したけれど。
この瞬間3年間の夏が、終わってしまった。
「でも……普通に甲子園の準優勝ってすごいよね」
ぽそって私が言うと皆はっとしたように私を見た。
あまりに敗北という言葉にとらわれて、皆忘れていたらしい。
「そうだな。予選の時、負けてたら、甲子園でも最初のほうで負けていたりしたら、俺たちは家でこの試合を見ていたかもしれないんだな」
憧れの舞台。憧れの試合。
大きなすばらしい舞台で、普通に第三者的に見れば、十分立派過ぎるほどの成績だ。
試合に負けたら悔しさで、涙が出るだろうかと思ったのに。
私たちは笑っていた。
最後の礼をした後、勝者はグラウンドをかけていく。
敗者になった彼らも、応援団の前にお礼に向かう。
「マネージャー」
純に呼ばれて私は立ち上がった。遠いこの地まで応援に来てくれた人たちに、私も選手と一緒に並んで感謝の礼をした。
空はやけに青くて 暑くて。
蜃気楼がたっているみたいに、景色を陽炎で包んでいた。
Seen.ⅱ
あの日を限りに、私たち3年生は部活を引退した。
はずだった。
けれど。
新学期が始まり、受験勉強もそろそろ本腰入れなきゃなーって思っていたある日の朝。降りしきる雨の中、グランドの周りに人だかりができていた。
色とりどりの傘を掻き分けて、グランドを見れば、そこで彼が寝転んでいた。
……あの、試合の最後の時のように。
何事!?
思わず駆け寄ろうとして、別の手に止められた。
うちの元4番、小野寺君だった。
「……あれ、生きてるの?」
小さく問うと
「ああ。今頃になってキてるんだ。頭冷やしてるだけだからほうっといてやって?」
こういうときの男の友情って、私には理解できない。
周りは怪訝そうな目で純を遠巻きに見つめ、学校内に入っていく。
私もそうすればよかったんだろうけど。
なんとなく離れがたかった。
あんな彼の姿を見るのは初めてだった。
ずっと、ずっと長く一緒にいたのに。
私と純はいわゆる幼馴染という仲だった。
小さい頃、近所の子供たち皆集まって、男女もなく野球をして遊んだ。
中学生になるとちょっとくらいは距離をとるかな、って思ったんだけれど、純の態度は純のままだった。
高校生になって、私に野球部のマネージャーをやれっていったのは、純だった。
別段他にやりたい部活はなかったし、何気なく引き受けた仕事だったけれど、誘ってくれたことを感謝している。
なにより、ずっとそばにいれたし、ね。
私はじわりと胸をくすぐる感情を噛み潰した。
ただ、時々こんな風にまだ知らない彼の面があったのかと驚くくらいで。
「……アレは大丈夫なのか?」
噂を聞きつけたのか、顧問が心配そうに私たちのところにやってきた。
「大丈夫ですよ」
小野寺君がしれっと笑う。「それより、こんなところに監督が長居すると、それこそ風邪引きますよ?」
そういうと彼は監督をくるりと反転させて校舎に向かった。
「ここはマネージャーに任せて、僕らは授業授業。監督は主将とマネージャーのサボりの理由をそれらしく担任に伝えることに全力注いでく ださい」
そういうと、こちらをちらりと振り返り、意味ありげにウィンクをして中に入っていった。
なんじゃ、それ。
私は背後を振り返り、小さく息をついた。
予鈴がなったことで、物見高かった見物客もどんどん中に入っていく。
私はネット裏で彼に背を向けるとぼんやりと空を見上げた。
灰色に折り重なった雲は、どこが継ぎ目かもわからない。
暗いかな、いやそうでもなく、意外に空の色は明るい。
薄く全体に雲が広がっているけれど、太陽の白い丸は雲を透けて向こうに見えていた。
じきに雨も上がるだろう。
あー、あの日の空とは違うなー。
ぼんやりとそう思う。
雨水が傘の骨を伝い、先にぷっくりとしずくを膨らませる。それが重力に逆らえなくなり地面に落ちていく様子をじっと見つめて、私は背後の彼を待っていた。
……正直、小野寺君に感謝していた。
彼の傍にいたかった。
こんなとき何をして良いかわからないけれど、でも傍にいないと落ち着かない。
小さい頃から、ずっとそうだった。
親同士が仲良かったこともあったし、小さい頃から自然に一緒にいるから、今じゃすっかり付き合ってるなんて言われているけれど、本当はぜんぜん違う。私の片思いだった。
それでもいい。
こういうときだって、誰かに彼の傍にいることを許してもらえるなら、喜んでその役目を買いたい。
それなりに必要にされてるってわかっているから、私はささやかながら幸せだった。
「風邪、ひかないのか? んなところで突っ立ってて」
いつの間に浮上したのか、ずぼ濡れの泥水まみれの彼が私にそんなことをいった。
あまりにもちぐはぐなせりふについ笑ってしまう。
「大丈夫よ。そっちほどじゃないから。シャワー浴びるでしょ? 部室、行こうか」
私はそういうと率先して先を歩いた。後ろから彼が付いてくる。
部室奥のシャワールームに消える彼を見送って、私は湯を沸かした。
しばらくして、湯のはじく音が聞こえる。よしよし、十分に温まってから出てこいよ?
そう思いながら私はふと時計を見た。
とっくに1時間目は始まっている。
でも誰も私や彼を呼びに来ないところをみると、どうやら顧問がうまくいってくれているらしい。
まず一杯、自分がぬくもるためにカフェオレを入れて、湯気をあごに当てていると
「マネージャぁ」
情けない声を出して彼がカーテンの向こうから顔を出した。
「なに? 今更パンツ一丁で出てきても恥らわないよ?」
この3年でイヤというほど鍛えられてしまったからね。
男子しかいないとこういうところ困る。
カフェオレを飲みつつ私が言うと、彼は苦笑いした。
「やー、さすがに、コレはグロいんで……その、そっちにある予備パンツを一つおろしてもらえないかと……」
……はぁ。
まぁ、アレだけ泥水の中に居たら、そりゃー、パンツも使えない状態になってるでしょうねぇ。しかも引退したら、そこまでの予備なんて持ち歩かな いでしょうし。
私は部活の予備備品の中から、新品トランクスを1枚取り出し、カーテンの隙間から手を出す彼に差し出した。
背は私よりずっと大きくなって、体つきだってたくましくなったのに、こういうところ昔とあんまり変わってないな。
備品記録に書き込みを入れながら小さく苦笑いした。
「お? カフェオレ?」
着替えるのだけは早い彼が、学生服のズボンをはいただけの状態でカーテンの向こうから出てきた。 毎度のことながら、上着は汗が引いてからじゃないときたく ないらしい。
「うん。新しいの入れ……それ、私の飲みさしだけど?」
新しいマグカップをとってインスタントのコーヒーを入れようとしたとき、さっきまで私が飲んでいたそれを彼に奪われていた。
一気に煽り、ごくごくと喉を鳴らせて、中身を飲み干す。
……おいおい。
子供の頃ならいざ知らず、今更そんなのなかっただろう?
目を丸くしていると
「なぁ」
彼がコップを戻し、窓の向こうを見ながら私を呼んだ。
「うん?」
聞きながら、コーヒーはいいの? って尋ねたら、わたしのコップを差し出して、おかわりって手で合図をする。仕方ないのでそれをうけとった。
窓の外は、もう雨が上がっていた。
さっきまでは見えなかったのに、もくもくとした雲が山のふもとにも広がっていた。
「今決めたんだけど」
純はそう前置きをして続けた。「オレ、大学行かずにプロ行くわ」
普通に聞けば爆弾発言だっただろう。
しかし私は頷いた。
小野寺君はもちろん、純だって今度の甲子園大会でベストナインに選ばれて、連日いろんな球団のスカウトが何人もやってきていた。
いくつも名刺を貰ってるの、私は知ってる。
その中に国外のものが混ざってるのも、知ってる。
「うん」
私はコーヒーを入れながら頷いた。
プロの選手、か。
そうしたら、きっともう今までみたいに傍にいられない。
私は奥歯をかんでいた。
私が手に持って、彼に渡せずにいたコーヒーカップを、ひょいと手を伸ばした彼が奪う。
「でも……」
彼は私の手から奪ったコーヒーカップを飲むわけでなく、机に置くと私の髪を顔の横で引っ張った。
つられて顔を上げると、すぐそこに彼の顔があった。
「お前はずっと、マネージャーやってくれないか?」
は?
意味がわかんなくて、私は首をかしげた。
だって、甲子園が終わったのと同時に私たちは引退した。
今からは受験勉強に本腰入れなきゃいけない。
彼と違って私は大学に行って、そしてささやかながら堅実に収入を得なければならないのだから。
それを、マネージャーを続けろとはどういうことだ? 卒業するなってことか? 高校留年なんて、ここまできてそれはきつい。
私の百面相を彼はどう受け取ったのか、小さく噴出した。
「相変わらずだな」
そういって、私のすぐ顔の前で、今度は私の前髪を引っ張った。
「だって、意味がわかんないよ」
そういうと彼はくつくつと笑った。
「ずっとオレ様専属のマネージャーやって欲しいっていうことが、そんな難しいことか?」
言われて、カッと全身赤くなった。
こいつは
この人は
ここで、そういうことを言うか!?
なんだか無性に腹が立った。
でも 同時に喜んでいる自分も居る。
だって その役目は誰にも譲りたくなかった。
外では夏を惜しむせみの声が響いていた。
「あの日から、繰り返し夢を見たんだ」
純が窓の外を見ながら呟く。「何度やっても、俺の手はキャッチャーミットの上に滑り込むんだ」
それは、先日の甲子園の最後の記憶だろう。「こんなんじゃ、プロはおろか、大学に行っても野球なんか出来ない、そう思った」
私は純を見つめた。
そこまで彼が自分を追い詰めているなんて想像もしていなかった。
ただ、そこまで突き詰めてる姿勢は、純らしいといえば純らしい。
「でも、さっきお前の傘見てたらさ」
突然彼はくすりとわらって肩を震わせた。
私の傘?
首をかしげると
「お前の言葉を思い出したんだ。準優勝でも十分すごい、って」
ああ、言ったねぇ。えらそうに、そういうこと口走っちゃったわ。
私が頷くと
「俺、わかったつもりでいたんだけど、やっぱわかってなかったんだよな。けど、よくよく考えたらさ、今のプロ野球で第一線で活躍してる人たちのほとんどは、甲子園優勝した人間は数えるほどもいないんだよな」
純は何で忘れてたのかなって苦笑いしながら呟く。
そうだね。
決して、甲子園で優勝した人ばかりの集団じゃない。甲子園に出場していない人だって、その世界で活躍している。
「だから……」
純は私をまっすぐに見つめた。
「もう二度と自分に負けたりしない」
夏の終わり、再び勢力を取り戻した太陽に照らされて、彼はひそやかに誓った。
ああ、後光が差してるみたい。まぶしさに目を細め私は小さく頷いた。
きっと、それが何よりも大事な気持ちだろう。
夏が終わっても、きっと。
高校生活が終わっても、きっと。
「だから、お前にはずっとオレを見届けて欲しい」
彼の願いに私は涙が溢れた。「俺の弱い姿も、情けないところも、おごってるところも、全部叱咤激励、たまには飴を与えながら傍で見届けて欲しい」
なんで、心をくすぐる願いだろう。
「そっちがもう必要ないっていっても、傍にい続けてあげる」
私が言うと彼は肩をすくめた。
彼の背後の空は、夏の終わりの入道雲を浮かべていた。
ただ、空の色はもう高く清んだ青を浮かべていた。
夏が、もう終わる。
そして私たちは新しい季節に歩き出すのだ。
共に。
はじめまして。
竹尹光と申します。
このお話は初投稿するに当たってのテスト投稿として、自サイト(Simple Song++)にも掲載しております夏空を投稿しました。
至らない点もありますがどうぞよろしくお願いします。