俺は、わらわだった。
時系列的には「五行の才」後となります。
前世の記憶を取り戻した。
その事実は、思っていたよりも重かった。
いや、正確には、重いのか軽いのかすら分からなかった。
だってそうだろう。
自分はファールン皇国南方の大領主、ハヅキ辺境伯家の次女として生まれた少女、テンカ=ハヅキである。
それは間違いない。
母上がいて、父上がいて、姉上がいて、キリカがいる。
この8年間の記憶は、確かに自分のものだ。
だが同時に。
自分は、前世で日本に生きていた40歳のおじさんでもあった。
会社に行き、疲れて帰り、コンビニ弁当を食べ、夜中にゲームをしていた。
そのゲームで、趣味全開のセカンドキャラを作った。
黒髪で、日本刀。
ビルドは、陰陽五行術を駆使して戦う魔法剣士型。
なりきり用の設定はこうだ。
一人称は「わらわ」で、東方の名家に生まれた、気位の高い和風姫武者という設定。
そして、その名はテンカ。
痛い。
今思い出しても、なかなか痛い。
深夜テンションというものは恐ろしいものである。
『いや、なりきり設定まで今世に持ち越すなよ……』
心の奥で、おじさんの声が呻いた。
分かる。非常によく分かる。
しかし問題は、その痛い設定の少女が、今ここにいるということだった。
テンカは寝台の上で、ゆっくりと自分の手を持ち上げた。
小さい。
白い。
指が細い。
前世の自分の手とは、まるで違う。
ごつごつした節もなければ、仕事疲れで荒れた皮膚もない。
刀の稽古で少し硬くなった部分はあるが、それでも年齢相応の小さな手だった。
「……これが、わらわの手」
声に出した瞬間、テンカは固まった。
わらわ。
自然に出た。
あまりにも自然に出た。
『俺が“わらわ”って言った……いや、正確には今までずっと言ってたんだけど!』
頭の中のおじさんが、忙しく騒いでいる。
けれど、テンカとしては違和感がなかった。
なさすぎるのが問題だった。
この8年間、テンカはテンカとして生きてきたので、周囲もそれを当然として受け入れている。
だから「わらわ」という一人称も、背筋を伸ばして話す癖も、身体に染みついていた。
前世の自分が作ったキャラ設定。
今世の自分が積み重ねた8年間。
その二つが、妙なところで噛み合っている。
「……まさか、ここまで馴染んでおるとは」
テンカは額を押さえた。
恥ずかしい。
恥ずかしいのだが、同時に、どこか落ち着く。
わらわとして振る舞うことが、もう演技ではないのだ。
では、自分は何なのか。
俺なのか。
わらわなのか。
テンカは布団からそっと抜け出した。
魔力の暴走で倒れたせいか、身体はまだ少し重い。
それでも、立てないほどではない。
寝台の横に置かれた室内履きに足を通し、部屋の奥にある姿見の前へ向かう。
磨かれた鏡面に、小さな少女が映った。
艶やかな黒髪。
暗い紅玉のような瞳。
幼さの残る頬。
まだ頼りない肩。
寝間着姿のままでも、どこか妙に凛とした顔つき。
テンカはしばらく鏡の中の自分を見つめた。
「……美少女じゃな」
言ってから、顔が熱くなった。
『自分で言うな! いや、事実だけど! 事実なのがまた困る!』
前世のおじさんが頭を抱える。
だが、どう見ても美少女だった。
前世で画面越しに眺めていたテンカの面影がある。
ただし、ゲームのキャラよりも幼い。
8歳の身体なのだから当然だ。
それでも、黒髪と赤い瞳の組み合わせは、前世の自分が好んで作ったデザインとよく似ていた。
いや、似すぎている。
髪に触れる。
さらり、と指の間を黒髪が流れた。
長い。
前世では髪を伸ばしたことなどなかった。
寝癖を直すのも面倒だったくらいだ。
それが今は、毎朝キリカに丁寧に梳かれている。
テンカは髪の一房を持ち上げ、鏡の中で揺らしてみた。
艶があり、光を受けると、黒の中にわずかに青みが浮かぶ。
「……髪とは、こうも手入れで変わるものなのじゃな」
『前世の俺、シャンプー適当だったもんな……』
反省するようなことでもないが、妙に反省した。
次に、テンカは自分の瞳を見た。
暗い紅玉のような赤。明るい真紅ではない。
奥に沈むような、深い赤。
前世でキャラクターを作る時、目の色には随分とこだわった記憶がある。
黒髪に映える赤。
派手すぎず、けれど印象に残る色。
それが今、鏡の中でこちらを見返している。
「……本当に、テンカなのじゃな」
呟いた声は、小さく震えていた。
前世の記憶がある。
だが、この身体で生きてきた記憶もある。
鏡の前に立っているのは、ただの元おじさんではない。
かといって、前世を知らなかった頃のテンカそのままでもない。
俺であり、わらわ。
前世の自分が夢想した少女であり、今この世界に生きるハヅキの娘。
その事実を、鏡は容赦なく突きつけてくる。
『これ、夢じゃないんだよな』
夢ではない。頬をつねる必要すらなかった。
指先の感覚も、床の冷たさも、髪の重みも、全部が現実だった。
テンカは小さく息を吸い、背筋を伸ばした。
鏡の中の少女も、同じように背筋を伸ばす。
すると、不思議なことに、少しだけ落ち着いた。
背筋を伸ばす。
顎を引く。
視線を下げない。
それは、テンカとして身につけてきた振る舞いだ。
「わらわは……」
言いかけて、止まる。
わらわは、テンカ=ハヅキ。
そう言えばいい。
そう言える。
けれど胸の奥では、まだ前世のおじさんが戸惑っている。
ならば、無理に決めきる必要はないのかもしれない。
今はまだ、混ざったばかりなのだ。
俺もいる。
わらわもいる。
どちらも、嘘ではない。
「……俺は、わらわだった」
ぽつりと零れた言葉に、テンカは自分で少し笑った。
変な言葉だ。
けれど、今の自分には妙にしっくりくる。
俺は、わらわだった。
そして、わらわは、俺だった。
鏡の中の少女が、少しだけ困ったように微笑む。
その表情がまた妙に可愛らしくて、テンカは思わず両手で顔を覆った。
『いや、だから破壊力が高いんだって!』
「うるさいのう、前世のわらわ」
思わず声に出してから、テンカは固まった。
前世のわらわ。何だそれは。
自分で言っておいて、意味が分からない。
だが、その響きがおかしくて、少しだけ笑ってしまった。
その時だった。
「姫さま?」
背後から、聞き慣れた声がした。
テンカの肩が跳ねる。
恐る恐る振り返ると、部屋の入り口にキリカが立っていた。
手には薬湯を乗せた盆。
髪を整え、いつものようにきちんとした姿勢で立っている。
だが、その目は不思議そうにテンカを見ていた。
「お休みになっていらっしゃるかと思いましたが……お加減はいかがですか?」
「う、うむ。問題ない」
「本当ですか?」
「本当じゃ」
キリカは盆を机に置き、テンカの前へ歩み寄り、じっと顔を覗き込んだ。
「姫さま」
「な、何じゃ」
「お顔が赤いです」
「なっ」
テンカは反射的に頬を押さえた。
熱い。確かに熱い。
鏡を見るまでもない。
先ほどまで、自分の姿を見てひとりで悶えていたのだ。
顔が赤くならない方がおかしい。
「熱があるのでしょうか」
キリカが心配そうに額へ手を伸ばす。
テンカは慌てて一歩下がった。
「な、何でもないのじゃ!」
「ですが」
「何でもないと言うておろう!」
「姫さま、声が上ずっております」
「上ずってなどおらぬ!」
「やはり熱が……」
「違うのじゃー!」
テンカの叫びが、部屋に響いた。
キリカは目を瞬かせる。
その表情があまりに真剣だったので、テンカはさらに恥ずかしくなった。
前世のおじさんは、頭の中で盛大に笑っている。
『落ち着け、8歳児。いや、中身40歳だけど。いや、今は8歳で合ってるのか?』
ややこしい。非常にややこしい。
テンカは深く息を吸い、どうにか姫君らしい顔を作ろうとした。
「……キリカ」
「はい」
「今見たことは、忘れるのじゃ」
「今見たこと、とは?」
「それを聞くでない」
「承知しました」
キリカは素直に頷いた。
素直すぎて、逆にいたたまれない。
「姫さま」
「何じゃ」
「薬湯をお持ちしました。冷めないうちにお飲みください」
「……うむ」
テンカは大人しく寝台へ戻った。
キリカに布団を整えられ、薬湯を手渡される。
苦い。
思わず顔をしかめる。
するとキリカが少しだけ微笑んだ。
「姫さま」
「今度は何じゃ」
「やはり、姫さまは姫さまです」
その言葉に、テンカは薬湯の器を持ったまま固まった。
「……どういう意味じゃ」
「そのままの意味です」
キリカは静かに言った。
「昨日の姫さまも、今日の姫さまも、わたしにとっては大切な姫さまです」
胸の奥が、少しだけ温かくなった。
前世を思い出した。
自分が何者なのか、まだ分からない。
俺なのか。
わらわなのか。
その答えは、今すぐには出ない。
けれど、キリカはそんなことを知らないまま、変わらず自分を見ている。
姫さまと呼んでくれる。
それが、思っていたよりもずっと心強かった。
「……そうか」
テンカは小さく頷いた。
「ならば、今はそれでよい。ただし…」
「はい」
「先ほどのことは忘れるのじゃ」
「承知しました」
「本当に忘れるのじゃぞ」
「はい」
「絶対じゃぞ」
「はい、姫さま」
キリカは微笑んだ。
その笑みが、少しだけ楽しそうに見えたのは、きっと気のせいではない。
テンカは薬湯を一口飲み、また顔をしかめた。
苦い。現実は苦い。
けれど、不思議と悪くはなかった。
俺は、わらわだった。
わらわは、俺だった。
そして今は、テンカ=ハヅキとして、この世界にいる。
その事実だけは、もう揺らがない。
「姫さま」
「何じゃ」
「まだお顔が赤いです」
「何でもないのじゃー!」
テンカの声が、また部屋に響いた。
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