表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ハヅキ辺境伯家の五行姫  作者: あの夏と勇者
第1章 黒き鬼と緋色の姫
13/18

緋色の姫

 テンカは水行の感覚を薄く広げた。


 森の中を流れる空気。

 踏み荒らされた土。

 黒きオーガの巨体が動くたびに押し出される瘴気。

 傷口から溢れ、周囲を取り込み、肉を再生させる黒い魔力。


 すべてが乱れている。

 だが、乱れの中にも流れはある。


 水が岩を避けて流れるように。

 風が木々の隙間を抜けるように。

 黒きオーガの動きにも、わずかな前兆があった。


「右、来る!」


 テンカが叫ぶ。

 直後、黒きオーガの腕が前衛を薙ぎ払った。


 盾兵が身を沈め、槍兵が半歩退く。

 直撃は避けたが、それでも風圧だけで数人が体勢を崩す。


「押さえろ!」


 サイゾウが低く叫んだ。


 第三討伐隊が動く。


 盾兵が左右へ割れ、黒きオーガの進路を絞る。

 槍兵が足元へ穂先を集中させる。

 弓兵が目と喉へ矢を放ち、術士たちが符を重ねて瘴気を押し返す。


 黒きオーガが吠えた。

 咆哮というより、地鳴りだった。

 周囲の空気が押し潰され、黒い瘴気が波のように広がる。

 だが、第三討伐隊は退かない。


「術士、もう一枚!」

「はい!」


 白い符が宙を舞い、黒きオーガの周囲で淡く光った。

 瘴気が一瞬だけ揺らぐ。


 ほんの一瞬。

 だが、テンカには見えた。黒きオーガの傷口を覆う瘴気が、白い光を嫌うように退く。


 そこへサイゾウが踏み込んだ。

 低い姿勢。無駄のない足運び。

 刀が走る。


 黒きオーガの脇腹に、深い傷が刻まれた。

 裂けた肉が蠢く。

 黒い血が泡立ち、その奥から新たな肉が盛り上がり再生が始まる。


「今です!」


 術士が叫び、別の符が光る。

 傷口の周囲の瘴気がわずかに退いた。


 テンカの腹の底で、押し込めていた熱がざわめく。

 だが、まだだ。


 火を放つなら、一撃で深く焼き込まなければならない。

 再生を止めるだけでは駄目だ。

 黒きオーガの命脈そのものを断たなければ、すぐにまた動き出す。


 テンカは奥歯を噛んだ。

 今ではない。まだ、視る。


「姫さま!」


 キリカの声が飛んだ。

 

 黒きオーガが、唐突に進路を変えた。

 狙いは術士たち。

 瘴気を抑え込もうとしている彼らを、先に潰すつもりなのか。


 知性は低いはずだ。

 だが、本能で理解している。何が自分にとって邪魔なのかを。


「術士を守れ!」


 サイゾウが叫ぶ。


 盾兵が割り込むが、黒きオーガの突進は止まらない。

 巨体が盾兵を弾き、槍をへし折り、術士の陣へ迫る。


 テンカは水行で流れを追った。


 進路。

 足の運び。

 瘴気の渦。

 次の一撃。


「左脚を止めよ!」


 テンカの声に、槍兵が反応する。

 左右から槍が伸び、黒きオーガの左脚へ突き立つ。


 一瞬だけ動きが鈍る。


 その隙に、サイゾウが飛び込んだ。


「おおおっ!」


 初めて、サイゾウが声を荒げた。

 刃が黒きオーガの胸元へ走る。


 深い。


 今までで最も深い一撃だった。

 黒きオーガの胸に、大きな裂け目が生まれ、その奥に、黒い瘴気の塊のようなものが見えた。


 脈打っている。心臓ではない。

 魔核か。

 それとも、変異の中心か。


 テンカには分からない。

 だが、そこだ。

 あそこを焼けば。


 そう思った瞬間、黒きオーガの腕が動いた。


「サイゾウ!」


 テンカが叫ぶ。

 サイゾウは刃を引き抜こうとした。

 だが、黒い肉が刀身に絡みつく。

 再生しながら、刃を捕らえていた。


 黒きオーガの腕が振り下ろされる。

 サイゾウは刀を手放し、身を捻り、直撃は避けた。

 だが、肩をかすめただけで、彼の身体が大きく弾き飛ばされる。


「「隊長!」」


 旅団員たちの声が重なった。

 サイゾウは地面を転がり、片膝をつく。

 立ち上がろうとするが、動きが鈍い。


 黒きオーガが、ゆっくりとサイゾウへ歩み寄る。


 胸の傷はまだ塞がりきっていない。

 黒い瘴気が傷口の周囲で蠢き、再生しかけた肉が泡立っているが、黒きオーガは止まらない。


 濁った黒い眼が、片膝をついたサイゾウを見下ろす。

 裂けた口元が、笑みのように歪んだ。


 遊んでいる。

 そう見えた。


 テンカの頭の奥で、理性が警鐘を鳴らす。


 ―危険だ。


 だが同時に、テンカは視ていた。


 胸の奥に残る裂け目。

 まだ完全には閉じていない傷。

 瘴気が乱れ、再生が追いついていない一瞬。

 今を逃せば、もう視えない。


 テンカは息を吸った。


 腹の底に沈めていた熱が、静かに立ち上がる。


「キリカ」

「姫さま?」

「皆を下げよ」


 キリカの顔色が変わった。


「まさか――」

「案ずるでない」


 テンカは刀を握り直す。

 自分でも驚くほど、声は静かだった。


「わらわが斬る」


 キリカが息を呑む。

 だが、次の瞬間には叫んでいた。


「全員、姫さまの前を空けてください!」


 その声に、第三討伐隊が反応する。


 盾兵が負傷者を引く。

 槍兵が左右へ退く。

 術士が符を構えたまま距離を取る。


 サイゾウがこちらを見た。

 何かを言おうとしたのかもしれない。


 だが、テンカはもう動いていた。


 水行で足運びを流す。

 金行で刃筋を整える。

 そして、腹の底に封じていた火行を解き放つ。


 瞬間。


 世界が、緋色に染まった。

 黒髪が根元から色を変えていく。


 艶やかな黒が、火を孕むように朱へ。

 さらに深く、鮮やかに。

 夜明けの空を裂く緋色へ。

 テンカの髪が、燃えるような色に染まった。


 刀身に赤い紋様が走る。


 鍔元から刃先へ、ひび割れるように光が広がる。


 熱い。


 手のひらが焼けるようだった。

 刀が悲鳴を上げている。


 分かっている。


 この刀では耐えられない。

 だが、今だけでいい。

 この一太刀だけでいい。


 テンカの口から、自然と詠唱が零れた。


南天朱火(なんてんしゅか)、禍ツ血潮を焼き祓え」


 声には幼さが残る。

 だが、その響きは不思議なほど澄んでいた。

 火の気が刀に集まる。


 黒きオーガの瘴気が、明らかに後ずさるように揺らいだ。


「此の身、此の太刀、紅蓮の理に捧ぐ」


 足元の下草が灰となり、周囲の葉が熱に巻かれて焦げ落ちる。

 空気が歪み、緋色の陽炎がテンカの周囲に立ち上った。


 黒きオーガがこちらを向いた。

 濁った黒い眼に、初めて明確な反応が宿る。


 恐怖。あるいは、本能的な拒絶。

 黒きオーガが腕を振るう。


 遅い。


 今のテンカには、その動きがあまりにも遅く見えた。


 水行が流れを示す。

 金行が刃筋を通す。

 火行が瘴気を焼く。


 五行の内、三つが一瞬だけ噛み合った。

 テンカは踏み込む。


 緋色の髪が、炎の尾を引くように揺れた。


「――火行・緋皇断華(ひおうだんか)


 一閃。


 刀が、黒きオーガへ吸い込まれる。

 先ほどサイゾウが開いた傷。

 再生しきっていなかった裂け目のその奥に潜む黒い塊。

 テンカの刃は、そこへ届いた。


 斬った。


 そう思った瞬間、焔が走る。

 刃の軌跡に沿って、緋色の炎が黒きオーガの体内へ流れ込んだ。


 黒い血が沸騰する。

 瘴気が燃える。

 再生しようと盛り上がった肉が、火に触れた端から炭化していく。


 黒きオーガが咆哮した。

 それは怒りではなかった。

 痛みでもない。

 大魔境の森そのものが悲鳴を上げたかのような、重く、歪んだ断末魔だった。


 テンカは刃を振り抜いた。

 黒きオーガの胸から脇腹へ、緋色の線が走る。


 次の瞬間、その巨体が内側から燃えた。


 黒い瘴気が噴き出す。

 だが、すぐに緋色の炎に呑まれる。

 傷を塞ごうとする肉が、再生するより早く焼け落ちる。


 黒きオーガが膝をついた。

 地面が揺れる。巨体が傾く。

 なおも立ち上がろうとする。


 だが、もう遅い。


 胸の奥にあった黒い塊が、緋色の炎に包まれて砕けた。

 黒き鬼は、最後に低い唸りを漏らした。

 それは咆哮ではなく、消えかけた地鳴りのようだった。


 やがて、巨体は前のめりに崩れ落ちる。

 地面が大きく震えた。


 沈黙。

 森から音が消えた。

 誰も動けなかった。


 滅魔旅団も。

 キリカも。

 サイゾウも。


 ただ、緋色の髪を揺らす小さな姫だけが、刀を振り抜いた姿勢で立っていた。


「……討った、か」


 テンカは呟いた。

 その瞬間。


 ぴしり、と。


 刀身に亀裂が走った。

 鍔元から刃先へ。

 蜘蛛の巣のように。

 細く、深く。


 テンカはそれを見た。

 手の中の刀が、限界を迎えている。


 無理をさせた。

 そう思った。


「……すまぬ」


 テンカは小さく呟く。


「そなたには、無理をさせた」


 次の瞬間、刀身が砕けた。

 澄んだ音を立てて、銀の欠片が宙へ散る。


 火行の緋色が消えていく。

 髪の色が、ゆっくりと黒へ戻っていく。

 身体から力が抜け、膝が折れる。


「姫さま!」


 キリカの声が聞こえた。


 遠い。


 サイゾウが何か叫んでいる。

 旅団員たちが駆け寄ってくる。


 だが、もう目を開けていられない。

 魔力を使いすぎた。


 身体が熱い。

 指先が痺れる。

 胸の奥が空っぽになっていく。


 それでも、テンカは最後に()()()を見た。


 巨体は動かない。再生もしない。

 緋色の炎に焼かれた傷口から、黒い瘴気が霧散していく。


 ―終わった。


 そう理解した瞬間、意識が闇へ沈み始めた。


『いや、これ絶対あとで怒られるやつだろ……』


 前世のおじさんの声が、遠くで聞こえた気がした。

 テンカは、ほんの少しだけ笑った。


 そして。


 ハヅキ辺境伯家の次女は、砕けた刀の柄を握ったまま、キリカの腕の中へ倒れ込んだ。

評価やブックマークで応援いただけると、執筆の励みになりますのでよろしくお願いいたします!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ