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ハヅキ辺境伯家の五行姫  作者: あの夏と勇者
第1章 黒き鬼と緋色の姫
13/133

黒き鬼

長めとなります。

 黒きオーガが、森の奥から姿を現した。


 通常のオーガよりも一回り大きく、黒ずんだ岩のような皮膚は所々がひび割れている。

 その隙間から、黒い瘴気が煙のように漏れ出していた。


 腕は太く、脚は丸太のようで、肩は異様に盛り上がり、背は歪んでいる。

 だが何より不気味なのは、その目だった。


 濁った黒い眼。


 知性があるようで、ない。

 獣のようで、獣ではない。

 ただ目の前にある命を踏み潰すことだけを望んでいるような、底のない眼。


 テンカは息を呑んだ。

 通常のオーガとは違い、明らかに変異している。


「……総員、警戒」


 サイゾウの声が低く響く。

 滅魔旅団第三討伐隊の者たちが、即座に陣形を組み直した。


 盾兵が前へ。

 槍兵が左右へ。

 弓兵が木上と後方へ散る。

 術士たちが符を広げ、結界の準備に入る。


 さすがは滅魔旅団。

 黒きオーガを前にしても、誰も硬直しない。

 だが、空気は先ほどまでと違い、通常のオーガ集団を相手にしていた時とは、緊張の質が違う。

 あれは危険だと、誰もが理解しているのだ。


 サイゾウが片手を上げた。


「まずは足を止める。槍、膝を狙え。弓は目と喉。術士は瘴気を抑えろ」

「「了解!」」

「姫さま」


 サイゾウが振り返らずに言った。


「後方へ。キリカ殿、姫さまを」

「承知しました」


 キリカがテンカの前へ半歩出る。

 だが、テンカはその場を動かなかった。


「サイゾウ」

「何でしょう」

「わらわは隊列中央に残る。前には出ぬ。だが、感知は続ける」

「……危険です」

「承知しておる。だからこそじゃ」


 テンカは黒きオーガを見据えた。

 水行の感知が、あの黒い瘴気に触れるたびに乱され、気持ちが悪い。

 まるで澄んだ水の中に、腐った泥を流し込まれるような感覚。だが、視なければならない。


 あれが何なのか。

 どこが弱いのか。

 どうすれば止まるのか。


 今のテンカにできることは、斬り込むことではない。

 ()()ことだ。


「足手まといになるなら、すぐに下がる」

「その判断はこちらでします」

「うむ。任せる」


 サイゾウは短く息を吐いた。


「分かりました。私が下がれと言ったら即座に下がってください」

「約束する」

「キリカ殿」

「はい」

「姫さまから目を離さないでください」

「命に代えても」

「命には代えなくてよい」


 テンカは思わず口を挟んだ。


「そなたが死んでは、わらわが困る」


 キリカは一瞬だけ目を丸くし、それから真剣な顔で頷いた。


「はい。では、生きてお守りします」

「うむ。それでよい」


 そのやり取りの直後、黒きオーガが動いた。


 遅い。


 一歩目だけを見れば、そう思えた。だが、違った。

 黒きオーガの巨体が、地面を抉る。次の瞬間、その巨体が跳ねた。


「来るぞ!」


 サイゾウの声と同時に、黒きオーガが前衛へ突っ込む。


「止めろ! 通すな!」


 盾兵が構えた次の瞬間、巨体が叩きつけられ、森に轟音が響いた。


「ぐぅ! 受け切れん……!」


 盾兵は踏みとどまろうとしたが、黒きオーガの膂力はそれすら許さない。

 二人の盾兵が、盾ごとまとめて後方へ弾き飛ばされた。


「槍!」


 左右から槍が伸びる。黒きオーガの膝、脇腹、肩へ穂先が突き刺さる。

 だが浅い。厚い皮膚が、刃を拒んでいる。


 それでも滅魔旅団の槍兵は怯まず、一人が穂先を押し込み、もう一人が引っ掛けるようにして脚を崩しにかかる。

 そこへ弓兵の矢が飛んだ。


 狙いは目。


 だが、黒きオーガは顔をわずかに傾けただけで矢を受けた。矢は頬に刺さり、黒い血が飛んだが、気にした様子もない。

 喉奥から漏れる低い唸りが、空気を震わせるが、痛みに怯むのではない。怒りに昂ぶるのでもない。

 ただ、前へ進む。それだけだった。


「術士!」

「封じます!」


 術士たちが符を投げると、白い符が黒きオーガの周囲を舞い、淡い光の糸が絡みついた。

 動きを鈍らせる封縛の術。通常のオーガであれば、数秒は動きを止められる。


 そのはずだった。


 黒きオーガが、腕を振るうと、それだけで、光の糸がぶつりと千切れた。


「なっ……!」

「怯むな!」


 サイゾウが叫ぶ。

 彼はすでに黒きオーガの懐へ踏み込んでいた。低く沈み、膝裏へ刃を叩き込む。


 深い。


 今までの攻撃よりも、明らかに刃が入り、黒きオーガの脚が揺れる。


「今だ、崩せ!」


 槍兵が合わせる。盾兵が体勢を立て直し、横から黒きオーガの巨体を押す。

 すると、黒きオーガが片膝をついた。


 いける。


 テンカがそう思った瞬間。

 傷口が、蠢いた。


「……何じゃ、あれは」


 思わず声が漏れた。


 サイゾウが斬った膝裏。

 そこから黒い血が流れている。だが、血は地面へ落ちない。

 傷口の周囲で泡立ち、肉が盛り上がり、裂けた筋が寄り合わさっていく。

 普通のオーガにも再生力はある。浅い傷なら短時間で塞がる。


 だが、これは違う。


 深く斬られたはずの傷が、目に見える速さで塞がっている。

 いや、塞がるどころではない。

 黒い瘴気を吸い込みながら、傷をなかったことにしている。


「サイゾウ、傷が!」

「分かっています!」


 サイゾウは即座に後退した。


 その判断は正しかった。

 黒きオーガが膝をついた姿勢のまま、腕を振り回し、丸太のような腕が空気を唸らせた。

 近くにいた槍兵が吹き飛ばされる。


「ぐっ!」

「回収!!」


 旅団員二人がすぐに動き、吹き飛ばされた仲間を後方へ引く。


 黒きオーガは立ち上がった。

 先ほど斬られた膝に、もう損傷は見えない。


 テンカの背筋に冷たいものが走る。

 再生力が異常だ。あれでは、いくら傷を与えても意味がない。


「首を狙え!」


 サイゾウが叫ぶ。


「浅い傷は捨てろ! 動きを止め、急所を断つ!」

「「了解!!」」


 滅魔旅団が再び動く。

 恐怖に呑まれていない。


 黒きオーガの異常性を見ても、すぐに戦術を変える。

 テンカは、その練度に息を呑み、同時に理解する。


 自分はまだ、彼らの域にはいない。


 水行で受け流し、隙を作ることはできるかもしれない。

 金行で刃筋を補助し、浅い傷をつけることもできるかもしれない。

 だが、黒きオーガを倒すだけの決定打はない。

 内心で、前世のおじさんが盛大に叫んだ。


『いや、無理だろ!』

『通常オーガでも十分ボス級なのに、なんで変異種まで出てくるんだよ! こっちはまだ11歳だぞ!?』


 そう。自分はまだ11歳だ。

 前世の記憶があっても、身体は子供。

 経験も足りないし、魔力制御も未熟。


 だが、だからといって何もしない理由にはならない。

 テンカは息を整えた。


「キリカ」

「はい」

「わらわが感知する。そなたは、わらわの死角を見よ」

「承知しました」

「前には出ぬ。だが、視る」

「はい、姫さま」


 水行を巡らせる。

 深く、静かに。


 黒きオーガの瘴気に直接触れすぎれば、感覚が乱される。ならば、触れない。

 周囲の流れを見る。

 黒きオーガが動くたび、空気が押し出され、瘴気が渦を巻く。足元の草が倒れ、土が沈む。


 水のように視る。

 動きの前兆を。

 流れの乱れを。


「右腕が来る!」


 テンカが叫んだ直後、黒きオーガの右腕が振るわれた。

 前衛が回避する。完全には避けきれなかったが、直撃はしない。


「助かります、姫さま!」


 槍兵の一人が声を上げる。

 テンカは頷く余裕もなく、次の流れを追った。


「左脚、踏み込む!」


 黒きオーガが地面を蹴る。

 サイゾウがそれを読んで横へ飛び、膝下を斬りつけた。

 今度は深追いしない。斬った瞬間に離れる。


 黒きオーガの反撃が空を切った。


「よし、続けろ!」


 サイゾウの声に、旅団員たちの動きがさらに鋭くなる。

 テンカの感知が加わったことで、黒きオーガの攻撃を受ける前に避けられる場面が増えた。


 水行で流れを読む。

 それだけなら、今のテンカにもできる。

 できることをやる。それが今の役割だ。


 だが、黒きオーガは止まらない。


 傷を負う。再生する。

 また襲いかかる。


 槍が脇腹を裂く。すぐに肉が盛り上がる。

 矢が目元を抉る。黒い膜のようなものが傷を覆い、視界を取り戻す。

 術士の封縛が絡む。瘴気がそれを腐らせるように食い破る。

 サイゾウの刃が肩を割る。骨まで届いたはずの傷が、数呼吸のうちに塞がる。


 異常だった。

 あれでは、どれだけ戦っても削り切れない。


「隊長!」


 術士が叫ぶ。


「瘴気濃度が上がっています! 一帯の瘴気を取り込んで再生している可能性が!」

「ならば結界で遮断しろ!」

「試みています! ですが、抵抗が強すぎます!」


 黒きオーガが吠えた。咆哮というより、地鳴りに近い。

 森の奥底から響くような低音が、周囲の空気を押し潰す。

 瘴気が黒い波のように広がった。


「下がれ!」


 サイゾウの号令。

 前衛が距離を取る。

 しかし、一人の槍兵が遅れ、黒い瘴気が腕に触れる。


「ぐあっ!」


 槍兵が膝をつき、鎧の隙間から黒い煙が入り込むと、皮膚が焼けるように変色している。


「キリカ!」

「はい!」


 キリカが袖口から簡易符を抜き、槍兵の腕へ貼り付けた。

 符が淡く光り、黒い煙を押し返す。


 完全ではない。

 だが、侵食は止まった。


「後ろへ!」


 旅団員が槍兵を引きずって下がる。

 キリカもすぐにテンカの横へ戻った。


「無事か、キリカ」

「はい。ですが、あの瘴気は危険です。触れただけで魔力を乱します」

「うむ。見れば分かる」


 テンカは唇を噛んだ。

 再生力だけではない。瘴気そのものが武器になっている。


 近づけば侵される。

 離れれば再生される。

 封じようとしても瘴気に食われる。


 厄介どころではない。通常のオーガとは、格が違う。


「姫さま、後退を」


 サイゾウが言った。


「ここで削り切るのは危険です。一度距離を取り、隊を立て直すべきです」

「その間に、あやつが第三結界柱へ向かえばどうなる?」

「……」


 サイゾウは答えなかった。


 テンカにも分かっている。

 ここで無理をすれば全滅する。

 だが、黒きオーガをこのまま進ませれば、第三結界柱が危ない。

 結界柱が破壊されれば、外縁防衛線に穴が開く。


 その先には、開拓地がある。村や街があり、人がいる。

 最悪だ。


 前世でゲームをしていた時なら、こういう敵には攻略法があった。

 弱点属性。部位破壊。ギミック。

 はたまた、イベント演出。


 けれど、この世界はゲームではない。

 目の前の黒きオーガに、親切な攻略表示など出ない。


 それでも。


 テンカは黒きオーガの傷口を見た。

 裂けた肉が蠢き、黒い血が泡立つと、その奥から新たな肉が盛り上がる。

 周囲の瘴気を吸い込みながら、傷口が塞がっていく。

 異常な再生だった。


 だが、ただ再生しているわけではない。


 先ほど、術士の符が一瞬だけ白く光った時、傷口を覆っていた瘴気が、わずかに退いた。

 黒きオーガは、浄化の力を嫌っている。

 ならば、ただ斬るだけでは足りない。

 傷口ごと、瘴気を焼き祓う必要がある。


 テンカの腹の底で、押し込めていた火行の熱が、静かにざわめいた。


 ――火行は、まだ使ってはなりません。


 今の刀では耐えられない。

 今のわらわでは、火勢を完全には御しきれない。

 一歩誤れば、黒きオーガではなく、味方を焼く。


 分かっている。

 分かっているのに。


 目の前で黒きオーガが再び吠えた。


 負傷した槍兵が後方へ運ばれていく。

 盾兵の腕が震えている。

 術士の顔色が悪い。

 サイゾウの肩にも、黒い血が飛んでいた。


 自然と柄を握る手に力が入る。


「いかぬ」


 小さく呟く。


「呑まれるでない、わらわ」


 火行の衝動に呑まれるな。

 恐怖にも呑まれるな。

 怒りにも呑まれるな。


 まだ視る。

 まだ考える。

 斬るべき時を、間違えるな。


「サイゾウ」

「何でしょう」

「あやつの再生、瘴気を取り込んでおる。傷口を焼けば、止まるやもしれぬ」

「火術ですか」

「おそらくは。ただし、普通の火で足りるかは分からぬ」


 サイゾウの目が細くなる。


「姫さま」

「分かっておる。わらわは火行を禁じられておる」

「いえ」


 サイゾウは黒きオーガから視線を外さずに言った。


「使うな、とは申しません」


 テンカは息を呑んだ。


「サイゾウ?」

「必要なら使うべきです。ですが、今ではない」


 彼は刃を構え直す。


「我々が、まず隙を作ります。姫さまは、それまで待ってください」

「……わらわに()()と?」

「姫さまが言ったのでしょう。焼けば止まるかもしれない、と」

「可能性の話じゃ」

「大魔境では、可能性を拾えぬ者から死にます」


 サイゾウは淡々と言った。


「ただし、無理はさせません。こちらで決めきれるなら、それが最善です」

「できるのか?」

「やります」


 サイゾウが前へ出た。


「第三討伐隊、再編。盾は左右に割れ。槍は足を止めろ。術士は瘴気を押さえ込め。弓は目だ。狙い続けろ」

「「応ッ!」」


 滅魔旅団の返答が重なり、崩れかけていた隊列が再び形を取り戻していくと、サイゾウは刀を構え、低く告げた。


「黒きオーガ……いや、黒き鬼を、ここで止める」


 その声には、迷いがなかった。

 黒き鬼を前にしてなお、サイゾウは隊長として揺らがない。

 その背は、確かに頼もしかった。


 だからこそ、テンカも己の役割を間違えない。

 腹の底で燻る熱を押し沈め、代わりに水行を巡らせた。


 視る。

 流れを視る。

 黒きオーガの動きを。

 瘴気の流れを。

 再生の瞬間を。


 そして、火を放つべき一瞬を。

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