崩れていく日々
この作品はサツキ様のボーカロイド曲「メズマライザー」にインスピレーションを受けて制作した作品です。
もし本家様の印象を崩されたくない場合は、閲覧をお控え頂けると幸いですm(*_ _)m
初投稿の作品なので、誤字脱字などがあればお知らせ願います
※登場人物や登場する会社名は実在しない架空の物です
六月の終わり。亞北商事のオフィスは湿気を帯びた空気に包まれていた。エアコンの冷気が届かない隅のデスクで、美久は黙々と作業を続けていた。指先の動きは相変わらず正確だが、その瞳には焦点が合っていなかった。
出戸は隣で、その様子を横目に見ながら心がざわめくのを感じていた。
(もう、何かが壊れてる気がする。)
美久の机の上には、無数の付箋が貼られている。「納期確認」「資料修正」「クレーム対応」。どのメモにも、美久自身の名前が書かれていた。他の誰かに任せられる仕事が、もう存在していないようだった。
その日の午後、音瑠課長が部下たちを集めた。「来月の販促キャンペーン、全体の再構成を行います。 スケジュールはこれ。」
ホワイトボードに書かれた予定表には、真っ赤な文字でこう記されていた。
『納期:今週末まで』
「え……?」誰かが息を呑んだ。
音瑠は淡々と説明を続ける。「上層部の意向で決まりました。外部広告代理店との連携も再調整です。 各自、自分の担当範囲を見直して報告してください。」
美久が小さく手を挙げた。「課長、それは……現実的に、難しいのではないかと。」
音瑠は一瞬、微笑んだ。その笑みには温度がなかった。
「美久さん。あなたなら、できるでしょう?」
静まり返る会議室。出戸は机の下で拳を握りしめた。
(それは“信頼”なんかじゃない。ただの押しつけだ。)
美久はうつむき、かすかに頷いた。「……わかりました。」
それからの一週間は、地獄のようだった。
毎晩、終電を逃した。コンビニで買うおにぎりが夕食で、デスクの下で仮眠を取るのが日課になった。
出戸は次第に、何が正しいのか分からなくなっていった。怒るべきなのか、泣くべきなのか、それすらも麻痺していく。
唯一の救いは、美久の存在だった。彼女はいつも静かに隣にいて、気づくと出戸の分まで仕事をしていた。
「美久さん、私の分までやらないでくださいよ。」「大丈夫。私は、やってる方が落ち着くから。」
それは本心のようで、本心ではないようでもあった。彼女の声には、どこか“終わりの匂い”が混じっていた。
ある夜。二人でビルを出ると、外は土砂降りだった。
「うわ、最悪……。」出戸が小さく呟くと、美久は傘を差し出した。「一緒に入ろう。」
二人は肩を寄せ合いながら、無言で駅へ向かった。街の灯りが雨粒の中で滲み、アスファルトが鏡のように光っていた。
「美久さん、最近あんまり寝てないですよね。」「うん。寝ると、夢を見るの。」「夢?」「仕事の夢。終わらない資料の山。 朝になっても、それが現実になってるの。」
出戸は言葉を失った。
「美久さん……もう限界ですよ。」「限界って、どこからがそうなんだろうね。」美久はぽつりと呟いた。
その言葉が、雨の音に消えていった。
週末。出戸は休日出勤を命じられた。もちろん、美久もいた。
オフィスの蛍光灯の下で、二人だけがパソコンを叩いている。外は真昼なのに、窓の外の光がやけに遠く見えた。
「ねえ、出戸さん。」「はい?」「もし、全部を捨てて生き直せるとしたら……あなたはどうする?」
突然の問いに、出戸はペンを止めた。
「……そんなの、できたらいいですけど。現実は無理ですよ。」「だよね。」美久はかすかに笑った。
「でも、もし“できる”って言われたら、私は迷わないと思う。」
出戸はその言葉の意味を考えようとした。だが、怖くて踏み込めなかった。
翌週の月曜。朝礼の時間になっても、美久が来なかった。
始業ベルが鳴っても、音沙汰がない。出戸は不安になって、スマホにメッセージを送った。返事はなかった。
昼を過ぎたころ、音瑠課長が出戸を呼んだ。
「出戸さん、美久さんと連絡取れないの?」「はい。朝から連絡がなくて……。」「体調不良かしら。最近、少し疲れてたみたいだから。」
その言葉に、出戸は胸がざわついた。(“疲れてたみたい”じゃなくて、壊れかけてたんですよ……。)
午後三時。美久からようやくメールが届いた。件名は「ありがとう」。
本文は、たった二行だった。
出戸さんへあなたと出会えて、少しだけ救われました。
出戸の心臓が、音を立てて跳ねた。
すぐに電話をかけた。呼び出し音が三回鳴って、留守番に切り替わる。もう一度、かけた。同じ結果。
出戸は立ち上がり、鞄を掴んだ。「課長! 美久さんの家、行ってきます!」
音瑠が何か言ったが、出戸はもう聞いていなかった。
電車の中で、心臓の音が耳の奥で鳴り続けた。夕方の光が窓を赤く染めていく。
(大丈夫。きっと、大丈夫……。)
そう自分に言い聞かせながらも、胸の奥で何かが冷たく固まっていくのを感じた。
美久のマンションに着いたのは、夜の七時過ぎだった。呼び鈴を押しても反応がない。郵便受けには新聞が数日分溜まっていた。
(まさか……)
出戸は震える指で管理会社に電話した。そして、十分後。警察と一緒に扉が開かれた。
その瞬間、出戸の視界がゆらいだ。
部屋は整頓され、机の上には一通の封筒が置かれていた。表には、丁寧な字で「出戸さんへ」と書かれていた。
出戸は震える手で封を開けた。
ごめんね。もう、何も感じなくなってしまったの。でも、あなたと話す時間だけは、本当に生きてる気がした。ありがとう。
その文字が滲んで、読めなくなった。
どれほど時間が経ったのか分からなかった。気づけば、出戸は警察の質問に何度も頷いていた。音瑠課長が現れたのは、夜中近くだった。
「……出戸さん、帰りましょう。」「課長、どうして止めなかったんですか……?」
音瑠は一瞬だけ目を伏せた。そして、静かに答えた。
「私も、あの人を救えなかったの。」
その声は、初めて人間のものに聞こえた。
翌朝、オフィスは何事もなかったように動いていた。デスクには新しいアサイン表が配られ、美久の名前はそこから消えていた。
出戸は席に座り、パソコンを開いた。画面の隅に映る自分の顔が、誰か別人のように見えた。
ふと、机の引き出しを開ける。そこには美久がくれた古いボールペンが入っていた。銀色のインクが擦れて、名前の刻印がかすかに残っている。
出戸はそのペンを握り、息を吸い込んだ。涙は出なかった。ただ、胸の奥で何かが静かに崩れ落ちる音がした。
夜。会社を出て歩く帰り道、街の灯りがやけに滲んで見えた。信号待ちの間、出戸はスマホを開いた。送信できなかったメッセージの画面が、そこに残っている。
「美久さん、また明日も頑張りましょうね。」
指が震えた。“送信”ボタンを押すことはできなかった。
雨が降り出した。傘を持たずに、出戸は空を見上げた。頬を伝う雨粒のひとつが、涙に似ていた。
読んで頂きありがとうございます(*´▽`)
是非お時間があれば、最終章もご覧ください!




