優しすぎる先輩
この作品はサツキ様のボーカロイド曲「メズマライザー」にインスピレーションを受けて制作した作品です。
もし本家様の印象を崩されたくない場合は、閲覧をお控え頂けると幸いですm(*_ _)m
初投稿の作品なので、誤字脱字などがあればお知らせ願います
※登場人物や登場する会社名は実在しない架空の物です
六月の初め、梅雨が近づいていた。雨に濡れたアスファルトの匂いが、朝のオフィス街に漂う。亞北商事のエントランスは、毎朝のように黒いスーツの波で埋め尽くされていた。出戸もその中に紛れながら、エレベーターの鏡に映る自分の顔をちらりと見た。寝不足で少し目の下が重い。けれど、口元を引き締めて、上を向いた。
(今日こそ、美久さんみたいにスマートに仕事こなしてやる。)
出戸は、まだ入社二ヶ月の新人だった。しかし、部署ではすでに“小回りが利く新人”として評判になりつつあった。仕事の覚えも早く、誰にでも気さくに話しかける。その快活さは、職場の空気を少しだけ柔らかくしていた。
ただ、ひとつだけ気になることがあった。美久のことだ。
ある朝、美久はいつものように淡々とパソコンを叩いていた。前の晩は日付が変わるまで残業していたはずなのに、目の下のクマを隠すこともなく、「おはよう、出戸さん」と優しく微笑む。
その笑顔が、出戸にはどうしても不自然に見えた。
「美久さん、昨日、帰るの遅かったですよね?」「ん?ああ、ちょっと資料の修正がね。」「ちょっとって、メール送ったの夜中の二時ですよ!?」「見てたの?ふふ、出戸さんも夜更かしだね。」
冗談めかして笑うその声に、どこか虚ろな響きが混じっていた。
出戸は唇を噛んだ。言いたいことは山ほどあった。けれど、まだ新人の自分が先輩に説教じみたことを言うのも違う気がして、結局いつも通り「無理しすぎないでくださいね」とだけ言った。
美久は微笑んで、「ありがとう。でも大丈夫」と答える。それが、いつもの“会話の終わり方”だった。
六月中旬。営業企画部は大きなプレゼン案件を抱えていた。国内外の取引先との合同プロジェクト。書類の山がデスクの上に積み上がり、毎日が戦場のようだった。
音瑠課長の声が、フロアの空気をさらに鋭くする。
「資料の修正、今夜中に終わらせておいて。明日には提出。」「え、でも今日もう……」と出戸が言いかけた瞬間、「“できない”という言葉を使う前に、どうすればできるかを考えて。」
その一言で、会話は終わった。
出戸は肩を落とし、パソコンに向き直る。隣の席で、美久が静かに書類をまとめていた。まるで、何も感じていないような、無表情な横顔だった。
夜十時を過ぎ、他の社員はほとんど帰っていた。残っているのは、出戸と美久、そして音瑠だけ。外はすっかり暗く、窓に映るオフィスの蛍光灯が冷たく光っていた。
「出戸さん、これ、お願いできる?」美久が差し出したのは、資料のデータ修正。出戸は受け取りながら、ちらりと彼女を見た。顔色が悪い。指先も少し震えている。
「美久さん、顔、真っ青ですよ。」「うん、大丈夫。ちょっと低血糖かな。」「ご飯食べました?」「……食べてないかも。」
その答えを聞いて、出戸の中で何かがプツンと切れた。
「だめですよ!食べないでそんな状態で働いたら倒れます!」声が少し大きくなり、オフィスの静寂が揺れた。音瑠が顔を上げ、鋭い視線を向けてくる。
「出戸さん。勤務中に雑談は控えて。」冷たい声だった。出戸は口をつぐむしかなかった。
美久は慌ててフォローするように笑った。「すみません課長。私が話しかけちゃって。」
音瑠は無言で視線を戻す。その一瞬のやり取りの中で、出戸は理解した。この職場では、“優しさ”が罪になる。
深夜。ようやく帰り支度を整えた出戸は、美久の席を覗いた。彼女はまだモニターに向かっていた。
「美久さん、もう帰りましょう。」「うん……あと少しだけ。」「いつもそう言って、結局終電逃してるじゃないですか。」
出戸が笑いながら言うと、美久は少しだけ目を細めた。
「出戸さんって、優しいね。」「いや、美久さんが無茶してるだけですよ。」「ふふ……でも、優しい人は長く続かないよ。」
「え?」「この会社で、優しい人ほど、早くいなくなるの。」
冗談のように言ったその言葉が、出戸の胸に刺さった。美久は立ち上がり、バッグを手に取りながら微笑んだ。
「今日はちゃんと帰るね。ありがとう、出戸さん。」
その背中を見送りながら、出戸はふと考えた。“優しさ”って、何なんだろう。誰かを助けたいと思う気持ちが、どうしてここでは生きづらいんだろう。
週末、出戸は久々に大学時代の友人・真衣と会った。カフェの窓際、ラテの泡を指でつつきながら、仕事の愚痴をこぼす。
「でさ、うちの課長、マジで氷の女なのよ。」「音瑠さんだっけ?前にも言ってたね。」「そう。で、その下で働いてる美久さんって先輩が、すごく優しいんだけど……なんか怖い。」「怖い?」「自分を犠牲にしてでも他人を助けるタイプ。笑ってるのに、どこか空っぽっていうか。」
真衣は少し眉をひそめた。「そういう人、燃え尽きるよ。気をつけな。」「うん。でも放っとけなくてさ。」
「……出戸、優しいね。」「いや、そんなことない。」
出戸はラテを一口飲んだ。苦味が喉に残った。
週明けの月曜、出戸は朝から不穏な空気を感じていた。フロア全体がざわついている。美久の席が、空だった。
「美久さん、今日休み?」「……倒れたらしいよ。」近くの同僚が小声で言った。「昨日の夜、オフィスで貧血起こして、救急搬送されたって。」
出戸の手から、書類が滑り落ちた。
昼過ぎ、音瑠課長が淡々と話した。「幸い、大事には至らなかったみたい。しばらく休養するそうよ。」その口調には、心配の色はなかった。ただの業務連絡のように聞こえた。
出戸は拳を握りしめた。(“幸い”って……。)
数日後。美久から、短いLINEが届いた。
「迷惑かけてごめんね。出戸さん、いつもありがとう。」
出戸はすぐに返信した。
「全然迷惑なんかじゃないです!ゆっくり休んでください!」
そのあと、しばらく既読はつかなかった。不安が胸を締めつけた。
数日後、ふと見ると“既読”になっていた。けれど、返信はなかった。
翌週、美久は出社してきた。痩せたように見えたが、笑顔は変わらなかった。「ただいま。」その声を聞いた瞬間、出戸の胸が熱くなった。
「もう大丈夫なんですか?」「うん。病院で“ストレスと疲労”って言われた。」「そりゃそうですよ!課長に言って、少し休み増やしてもらいましょう。」
美久は静かに首を振った。「それは無理だよ。誰かがやらなきゃ、仕事が回らない。」
その言葉を、出戸はもう一度聞いた気がした。――まるで、それが彼女の信条であるかのように。
読んで頂きありがとうございます(*´▽`)
是非お時間があれば、第三章もご覧ください!




