11話 魔獣6
花音がエマに刻限を聞いてから およそ半刻後、不意にエマが立ち上がり、花音の座るソファが揺れた。
物思いに耽っていた花音は驚いたようにエマを見て、エマの視線を追った。
すると、その先にある寝室と書斎を繋ドアが開いており 書斎からの明かりに照らされた長身のシルエットが佇んでいた。
その影は無言で寝室に入り、今にも走り出しそうな勢いで ソファまで来ると、花音の前にフワリと跪いた。
逆光で影になっていた顔が、吸い寄せられるように花音に近づく。
アルフレッドだった。
髪から、雫が滴っている。
よく見ると、アルフレッドの全身は激しい雨に打たれたのか 濡れていた。
アルフレッドは花音の手を取ると、手の甲に自分の想いを込める様に そっと口付けを落とし
「カノン……傍に居てやれなくて すまなかった」
と心より詫びた。
金の前髪から 雨水の雫が花音の手にかかる。
花音は空いている方の手でアルフレッドの目に掛かる前髪を横へ撫でつけると そのままアルフレッドの胸に倒れこんだ。
「アル。 アル。 無事でよかった」
花音は自分の夜着が濡れるのも気にせず アルフレッドの首にしがみついた。
「アルにもしもの事があったら どうしようって……私 すごく、怖かった」
「ごめん」
アルフレッドは花音を強く抱きしめた。
「襲われて、死ぬのかと思った」
いつもの勝気な花音からは考えられない 儚げな声だった。
「僕も心臓が止まるかと思った。 でも、もう大丈夫だから……」
だから、安心して……と アルフレッドは花音の背を擦った。
花音の体温を感じてアルフレッドもまた やっと張り詰めていた神経が緩むのを感じた。
自分の首筋に額を着けたまま じっとしている花音の頭に手を伸ばすと、滑らかで絹糸のような髪が いつもと同じに指に触れる。
花音の体温。
花音の匂い。
抱きしめたやわらかさも、声も、眼差しも。
ちょっと気が強くて、愛情に餓えている事に気が付いていなくて 傷つきやすい心も……
もう少しで 永遠に失くしてしまうところだった。
アルフレッドは 震えて頭が真っ白になるほどの恐怖を感じたものの正体を理解した。
自分にとって、花音の存在がどれだけ大きなものであるのかを 彼は、今日初めて体感したのだ。
首に幽かに感じる花音の吐息。
その愛おしさに甘い痺れが彼の中に広がる。
花音はアルフレッドに 抱きしめられたままで
「アル。 死ぬと思った時、私の頭の中に浮かんだ事……何だと思う?」
くぐもった声で問いかけた。
「……何だろう……家に、帰りたかった? こんな恐ろしい国が嫌いになってしまった?」
アルフレッドは ひどく辛そう答えた。
「ううん。 違う」
花音は顔を上げると、今度はアルフレッドの目を見つめて言った。
「自分が もう死ぬと思った時に、思い浮かんだのは 家族や子供の頃からの友達や、好きだった人の顔でもなく、あなただった。
アルの顔しか浮かばなかった。
アルにもう一度会いたかったの」
「本当に?」
アルフレッドは信じられない気持ちで 聞き返した。
「本当に。
アルは来ないと分かっていたはずなのに、アルに助けて欲しくて ずっと心の中で叫んでた。
助けてって……
だから アルの声が聞こえた時、夢を見ているのかと思った……アルに抱きしめられて、このままずっとアルの腕の中に居たいと思った」
花音の頬は 心なしかほんのりと色付き、潤んだ瞳と相まってアルフレッドの理性を激しく揺さぶった。
「ずっと……ずっと僕の腕の中に居たらいい」
彼は驚異的な自制心をもって己の衝動を押さえ込むと、花音に対する想いを素直に告げた。
「もう二度と怖い思いはさせないと誓うから……カノン。
僕が君を守る。
君のことが好きだ。
だから、僕の傍にいてほしい」
花音の視線の先には、アルフレッドの決意のこもった瞳が強く光っていた。
「でも……私 ただの女の子だよ? 巫女の役割だって果たせてないし、アルの役に立たないよ……」
アルフレッドの勢いに押されてか 花音の言葉は弱々しく口の中に消えた。
そんな花音に
「役に立つ立たないの問題じゃない」
アルフレッドがピシャリと言った。
「カノンはそんなもので好きになったりするの?」
アルフレッドの澄んだ青い瞳に見つめられて カノンは思わず目をそらした。
「そんなので好きにならない」
花音は 口を尖らせて ぽそりと呟いた。
「僕もだ。
僕の欲しいもの、何か分かる?」
アルフレッドが 片眉をわずかに上げて微笑んだ。
「?」
花音の目が分からないと開かれる。
「僕の欲しいものは、家族。
普通の家庭が欲しい。 愛する人に囲まれて暮らしたい。
好きな人を愛して愛されて、結婚して、子供が生まれて、家族になる……僕の憧れだ。
もうずっと諦めていたんだけどね」
そう言ったアルフレッドの目は 過去の何処か遠くを見ているようで、花音の心を締め付けた。
「僕は王家に食い込む為の手段であり 贅沢をする為の財源としか見てもらえなかった。 僕自身を認めてくれたのは王立魔道師養錬所で一緒だった数名と、第2師団の連中くらいだ。
だから、国民の為になればいいと 召喚者になったんだ。
もちろん、喚んだ巫女のことは大切にしようと思っていたよ……ほら、こっちの事情に無理やり巻き込むことになる訳だし……
カノンを一目見たとたん、そんなこと頭から飛んでしまったけどね」
「正直に言うよ」
いつになく照れくさそうに、しかし真剣にアルフレッドは居住いを正した。
「一目惚れしたんだ。
召喚で喚び出されるのは召喚者の運命の女だっていう意味を分からせられたよ。
正に心臓を鷲掴みにされた感じかな? カノンが綺麗で可愛らしくて目が離せなくなった。
何より、僕を見つめる カノンの真っ直ぐな瞳に 魂まで奪われたよ。
こんなに人を欲したのは初めてだ。
カノンが欲しい。
カノンと一緒にいたい。
カノン。
愛している。
ゴメン。
元の世界に帰してあげられそうにない。
カノンと離れたくないんだ
カノンと家族になりたい……」
最後の方は、彼の本心を搾り出したかのように声がかすれていた。
「家族……」
花音はうわ言のように呟いた。
「そう。
カノン―――――」
アルフレッドは花音の両手を自分の手で包み込むと、花音の目を見つめて僅かに躊躇した後
「僕と、結婚してほしい」
一息に告白した。
続きます