8話 魔獣3
「逃がして、どうする……」
蒼玉宮の壁にぽっかりと空いた巨大な穴を見つめて、アルフレッドは部下に向かって呟いた。
しかし そうは言っても、この狭い室内空間で 瘴気を発するタイプや 高熱の炎で焼ききらねばならぬ魔獣と 対するのは得策ではない。
幸い、王宮と神殿一体は魔術結界が張られているから、市街地へ逃げ出すことはないだろう。
が、いかんせん結界の範囲が広い。
神殿の森に逃げ込まれたら、山狩りにどれくらいの人員が必要になるだろう……
只でさえ魔道騎士団は訓練の為 必要な者以外は全て王都から出払っているというのに。
その手間と時間を考えると、つい 逃がさず処分したかったと言いたくなるのも 仕方の無い事だ。
アルフレッドは、手早く 念話で主要な部署へ連絡を済ませると カノンの元へ取って返した。
アルフレッドの駆け寄るのを確認した衛兵が スッとカノンの前から脇へ身を除けた。
3人の衛兵が盾のように守っていたカノンは、突然目の前が開けた事に目を見開き、胸の前で両手を硬く握りしめながらも、気丈に立っていた。
真っ青な顔色のカノンを気遣い
「カノン? 大丈夫? 怪我はない?」
アルフレッドが優しく問い、そっと手を肩に回すと、カノンは急に力が抜けたように カクンと膝を折り 崩れた。
アルフレッドが慌てて抱き抱えると、カノンは激しく震えていた。
「大丈夫。怪我はしていないの。 ちょっと、びっくりしただけ……」
それでも、自分を落ち着かせようとするかのように カノンは大丈夫と繰り返した。
「カノン…… すまない。 怖い思いをさせてしまったね……」
アルフレッドは力一杯 カノンを抱きしめた。
「よかった…… カノンが無事で。 本当によかった……」
カノンが生きているのが嬉しくて、温かさを感じていたくて 思い切り腕の中へ閉じ込めた。
もぞっと カノンが身じろぐ事すら喜びで、ついには
「――――アル――――苦し……」
カノンに弱々しい 悲鳴を上げさせてしまった。
慌てて力を緩めると カノンはハアハアと大きく息をつき、ジロリとアルフレッドを睨み上げた。
「折角助かったのに、アルに殺されるところだった」
カノンはむくれながらも少し照れた顔で文句を言い、ふと 消えた2体の魔獣が居た場所に目をやった。
何かを喋ろうと息を吸い込んだ時、何か喉に引っかかった様に コホコホと咳き込んだ。
それを見たアルフレッドの表情から甘いものが引き カノンの鼻と口を片手で覆った。
「カノン。 手で口を押さえて、なるべく息をしないように」
そして、アルフレッドは空いた方の手で 部下と衛兵に撤退のサインを送る。
カノンの口元の手を除けると、彼女は自分で さっと口を押さえる。
その子供っぽい仕草に アルフレッドの頬が緩みかけたが、彼女の全身に目がいくと、眉間に皺が寄った。
カノンが今夜身に着けている夜着は白い薄手の物で 彼女の柔らかい体の線をくっきりと浮き上がらせ、先ほどの恐怖で潤んだ目元と相まって 何とも言えぬ艶かしさを醸し出していたのだ。
アルフレッドは無言で自分の纏っていたマントを肩から外すと カノンを包み込み、彼女の膝裏に手を入れ 横抱きに抱え上げた。
カノンとアルフレッド、衛兵達は 無言のままで 素早く廊下へ出た。
廊下は 衛兵からの通報とアルフレッドの念話により駆け付けた者達で 騒然としていた。
アルフレッドらが部屋を出るのを待ち構えていた騎士団の調査班が部屋を封鎖し、別室では救護班が傷を負った衛兵を治療していた。
「本隊から呼び寄せたのか? にしても、早いな。」
訝るアルフレッドの問いに
「師団長より、またとない実地訓練の機会を 余す所無く活用してこい と厳命が下ったんですよ」
答えたのは、副隊長のセシルだった。
「お前まで来てたのか……」
「隊長の報告に師団長、盛り上がってますよ。 今から魔獣狩りだぁ~とか言い出して、訓練内容変更するそうです」
「王宮の結界内に 部隊を展開させる気か?」
「気ですね」
「モメるぞ」
「モメますね。 王宮警護の近衛あたりとは、まあ、確実ですね」
アルフレッドは盛大に溜息をつくと、今だ彼の腕の中にいるカノンに向かって、心底申し訳なさそうに告げた。
「カノン。 すまない。 行かなくてはならなくなった」
カノンは下を向いたまま、アルフレッドの上着を ギュッと握り締めている。
普段の彼女からは想像できない その姿にアルフレッドはハッと息を飲んた。
そして、部下の前では絶対しないと決めていた普段の口調に戻り、彼女にだけ聞こえるよう小声で言った。
「ごめんね、カノン。 傍にいてあげたいんだけど、揉め事が起こりそうなんだ。
なるべく早く戻るから……
そうだ、神殿に行く?」
アルフレッドの問いかけに カノンは俯いたまま、頭を横に振る。
「神殿は嫌い…… アル、アルが一緒にいて」
小さな声だった。
今までカノンの口から発せられることのなかった、気弱な言葉。
小刻みに震えるカノンに、アルフレッドの心は揺れた。
今、この手を放してしまうと 二度と会えなくなりそうな……
そんな危うさをカノンから感じて、アルフレッドは躊躇した。
「カノ……」
アルフレッドが口を開きかけた時
「お取り込み中申し訳ありませんが、隊長。 黒い方が『赤の庭』に出ました」
副隊長セシルの緊張した声が アルフレッドの言葉を遮った。
セシルの声はカノンにも届いたらしく、一瞬体を強張らせた後、彼女は握り締めていたアルフレッドの上着を手放した。
そして、身じろぎをしてアルフレッドの腕の中から、廊下へ降り立った。
ふらつく足を踏みしめて、青ざめた顔で彼の顔を見つめると
「また、誰かが襲われるの?」
確認するように聞いた。
「心配しないで。 みんな警戒しているし、第2師団が戻るそうだから、すぐに捕まえられるさ」
「アルも戦うの?」
「多分。 実物を見ているし……」
「アルが怪我したりするのは、嫌なの」
「大丈夫。 僕は強いよ? でも、気を付けるよ。 ありがとう」
ニコリと微笑むアルフレッドを見て カノンは彼の中の騎士としての誇りと自信、隊長としての責任感のようなものを感じたのか、それ以上何も言う事はしなかった。
「必ず、無事に戻るから…… 神殿に行かないなら、僕の寝室に居てね、カノン。 あの部屋が、この宮の中では一番頑丈に造られているから。 エマ、カノンを頼んだよ」
アルフレッドは侍女のエマにカノンを託すと、魔獣と師団と衛兵が待つであろう『赤の庭』へ急いだ。