(15)賢者の石⑮
母はふうんと不満そうに息を漏らして、「あんたの部屋せっかく掃除したのに。そんなにバタバタしなくてもいいんじゃないの、今日帰っても後は寝るだけなんでしょ」と窘める調子で言った。
「いや、寝ないと思う」
「え、帰ってからまだ仕事するの。そんなに忙しいの」
「うん、まあ。立て込んではいる」
嘘ではないが正確な話をしていないことは、他人は誤魔化せても身近な者には伝わりがちで、カレンの場合は両親がそうであり、昔から隠し事ができた試しがなかった。
ゆえに、この誤魔化しも効いていないだろうなと母から目を逸らしていると、そこへ、玄関でドアの音がして、父がリビングへと入って来た。
実家を離れて以来、初めて見る父は、母ともども元気そうで、カレンは胸を撫で下ろしたが、父もまた皺が増え、髪はところどころ白く、少し額が薄くなって来ていた。
父はカレンを認めたが驚きはなく、軽くおどけたような表情をした。
「おやカレン、お帰り」
「ただいま」
「お父さん、カレン今日中に帰るって言ってるんだけど」
荷物を運んで行った台所から、「何でまた」という問いが聞こえた。
「気ぜわしいな、今日くらいは泊まって行ったらどうだ。明日早い時間に帰ればいいじゃないか」
「いやまあ、いろいろやることがあって」
「仕事か?どうなんだ、職人は。依頼の数は右肩上がりなのか」
「そうでもないかな、いつも同じ数じゃなくて、むらがあるっていうか、集中する時はすごく集中するかな」
「へえ。じゃあ今は繁忙期なのか」
「えーと、今は普通期かな……」
泊まりたくないわけではなく、今日中に出さないといけない手紙も、仕上げなければならない依頼もない。
今夜中にバーミアに帰り着いたところで、今日から勉強を始める予定は立てておらず、やるべきことの準備くらいはできるだろうが、今日中に片づける必要はないと言えばない。
だからと行って、明日の朝早く起きて活動を開始するかというと、断固としてそういう意思を固めているわけではなく、また遅寝遅起きのカレンがいきなり早起きというのは難しいと思っていた。
だが、これから険しい道を走るための覚悟を決めるという意味で、今日はバーミアに帰っておきたかった。
カレンは、これから両親にしようとしている相談を改めて頭の中に据えた。
そうすると、一度手紙で帰ると断言しておきながら、勧められて簡単に翻すのでは自分を甘やかしすぎだという自制心が働き始めた。
それから、勧められられるほどに断りたくなる天邪鬼も顔を出す。
一方で、今日のカレンは両親にお願いをしに来ている身であり、あまり頑なに拒むのは良くない結果を招くのではないかと考え、すぐに、家族に対してそういう損得ずくめの考えを持ち出したことが情けなくなって打ち消した。
バーミアで腹を括った時は揺るぎなかったはずなのに、その決心に自分以外を関係させることへの躊躇いで、結び目は固いままではいられなくなった。
しかも相手は親であり、しばらく帰っていなかった負い目もあって、我を張り切れるものではなかった。
「今日帰るなら酒が飲めないじゃないか。せっかく買って来たのに」
「ローズの顔見ないで帰るの?今日は最終の馬車便まで帰って来ないよ。そんなことしたら、あの子絶対に怒ってバーミアに押し掛けるわよ」
強要も懇願も含まない、ごく平穏な範囲の促しに重ねて、ローズの話を持ち出されては、娘は抗しきれるものではなかった。
着替えを持って来ていないと一応抵抗はしてみたものの、あるからと胸を張って言われてはどうしようもない。
「泊まっていくでしょ?」ともう一押しされたカレンは、「いきます」と降参せざるを得なかった。
「あのさ。それで話したいことが、あるんだけど」
泊まるところは折れたが、元々の予定は遂げなければならないと、カレンは両親に声をかけたが、2人とも深刻な娘とは裏腹に、片づけてからね、まずは休憩しなさいと口々に軽くリビングから出て行ってしまい、カレンは独り取り残された。
どうすればいいか分からず佇んでいるカレンを、父が部屋を覗き込んで、
「お前もう30代なんだったか。何かちょっと老けたな」
と生真面目な顔で言った。
反論する前に、台所で水や食器の音をさせている母が、含み笑いの声で、
「あらお父さん、年頃の娘に老けた何て失礼ねえ。私でも言うの止めたのに」
と加勢した。
「老けたというか、痩せたか?ちゃんと食事はしてるのか?」
「老けたし痩せたのよ。食べないとダメよ、この前みたいに熱出すといつまでも治らなくなるわよ、たたでさえ年を取って来てるんだから」
両親の軽口は微かに弾んでいて、カレンは貶められていながら不思議と悪い気分はせず、
「そんなに年取った?職人界隈ではまだ中堅扱いなんだけど」
「中堅でしょ、若手じゃなくて」
「経験年数だよ、年齢の話じゃないよ」
「いやいやいや。親が言わなければ誰も言えないからねえ」
と母がこともなげに首を振り、「いいじゃないか、仕事の中で若いって呼ばれるのは、未熟だと同義のこともあるんだから」と父がフォローにならない言い添えをして、カレンは家族の変わらなさに苦笑いした。




