(15)賢者の石⑪
最終的に、ABCの方は全文覚える羽目になったが、こちらは一息、いや二息で言い終えることができるので、言い間違いはまず起こらない。
ただし、覚える段階で楽をしたのと引き換えに、ABCよりも遥かに高い集中力を必要とした。
土台になる概念の型もなく、カレンの集中力1つでかけるからなのだろうか、今日も頭の中が吸い出される、とカレンは眉間に皺を寄せながらボウルの縁を摘まむ。
そのまま瞼を閉じて、思考も感情も仕舞いこみ、眼球の裏側に、魔法を操る自身の意識を全て集結させられるまで深呼吸を繰り返す。
思考を仕舞っているため十分だという時機は決められない、決めずとも時が満ちると勝手に口が開くのは自分でも不思議だった。
"The uppermost is from the lowermost"
"and the lowermost is from the uppermost"
一言ずつ区切って、丁寧に押し出すように対句を呟く。
成功していれば、最後の発音を待たずにして、眼下から微かに爽やかな風が吹き上がる。
どういう仕組みでそうなるのかはカレン自身にも知る術がないが、目を開けると、ボウルの中には白ワインのような液体が普段通りにひたひたと揺れていた。
これが全ての始まりになった、とカレンは液面に映る自分の顔を見つめた。
ものづくりを仕事にできるという自信を生み、そして職人の仕事を擱かされる原因になろうとしている。
開業当時はほとんど依頼が来ず、職員組合から小さな仕事を何とか回してもらっていたのが、次第にぽつぽつ依頼が舞い込むようになり、依頼者がこんな職人がいると人伝てで存在が知られていき、案件が重なって忙しくなり、この始めの一歩が、賢者の石由来だったことはすっかり頭から抜けていた。
カレンは勝手に材料を真似ただけであり、今見下ろしているものは石ではなく液体だ。
この液体はカレンのものづくり魔法を助けてくれるだけで、金を精製したりはしない、そんなことは試したこともないし、試そうと思ったことすらない。
ただ、成功してしまったゆえにあまり気にしてはいなかったが、カレンがこの液を作るのに、容れ物の縁に触れ呪文を唱えているだけで、魔法陣も特段の道具も使わず、対象には触ってすらいない。
それなのに何故この液体精製の魔法が成功するのか、カレンはふと考えかけてが、すぐに止めた。
カレンがその仕組みを、理由を知らなければ、誰に詰問されても嘘は吐かなくて済む。
でももしかすると、全文唱えたら賢者の石が精製されたりするのだろうか、そういう思い付きを、カレンはまだ消せないでいた。
問題はこれからだ、とカレンは唇を噛み締めた。
これからどうするかを考えなければならない、すぐにでも。
査察の段階では、鍋の段階では平常心を保てていなかったが、あの2人には特に疑いをかけられたりはしていなかったはずだ。
液体のことを水など、と嘘を吐いたので、警察の方は賢者の石の知識など持っていないだろうし、あの組合職員も知っているか疑わしく、まだ嘘を見抜かる段階にはないはずだ。
しかし、もし国が、鍋以外の全工程を調査をするようにと申し渡すなどしたら、その時点で職人としての人生は終わりを告げる。
捜査として、例えば素材屋の取引履歴を調べれば、虚偽も、液の組成も、すぐに明るみに出る。
虚偽申告に目を瞑る代わりに、賢者の石の研究に協力せよという強制もあり得る。
そうなる前に、自由でいるためには、カレンはもう逃げるしかなかった。
でも、逃げると言ってもどうすればいいのだろう。
バーミアを離れて家族のもとに戻るのはただの移動であって、他の土地でも同じことだ。
根本的に解決するなら、職人を辞めるしかない。
窮した国が、廃業した職人の情報まで調べ始める恐れはあったが、最善はそれしか思い浮かばない。




