(1)ガラスの靴④
魔法のガラスはレコードのように回り続けており、その中央で急激な凝固が始まっているようだった。
とりあえずは成功っぽい、と胸を撫で下ろし、近くで覗こうと首を伸ばして
「あっつ!」
水ではないため湯気こそ出ていなかったが、大鍋自体が非常に熱くなっていたのに今更気が付く。
魔法はもう終わったので、火かき棒でおき火を砕いて散らす。
屈んでいると、カレンは自分が空腹で喉も乾いていることに気が付いた。
始めた時点では夜になったばかりだったが、今何時くらいだろう、相当に遅い時間だという予想はしたが、台所には時計を置いておらず、懐中時計は作業部屋に置いて来てしまった。
一旦時間を見に戻ろうかと身体を起こしたところで、立ち眩みを起こしてその場に踏み止まる。
昼食らしきものを食べたのは正午になる前だった気がする。
そこから補給なく他の依頼の下調べをし、手紙を4通書き、この仕事に取り掛かった。
時間経過で体力が削ぎ落された上に、この魔法で気力も持って行かれている。
ただ、疲れていても意識は冴えわたり、ちゃんと完成したかを確認せずに切り上げる選択肢は用意されなかった。
鍋が触れるくらいになるまで待っていないといけないのか、とカレンは溜め息をついて、陶器の瓶を片付け、その隣からミルクのピッチャーを取り上げて、テーブルに置いた。
台所唯一の椅子を引っ張って来て腰を下ろし、朝のお茶の後そのままに忘れていたカップにミルクを注いで飲み干す。
注ぎ足しながら、籠に放りっぱなしの丸パンをちぎらずに齧る。
1個では足りずに、もう1個と手を伸ばした。
何時か分からないまま、こんな時間に食べていいものか、と悩みながらミルクも飲む。
いくら仕事でも、また気乗りする依頼でも、寛ぎの時間を割いて、生活リズムを崩すのは主義に反しているが、満足の行く出来栄えになっているか、自分の魔法が依頼に合った造形を生んでいるかを確めたい欲の方が遥かに強かった。
万が一失敗していたらやり直しだし、と嫌な思いつきに、是非とも今晩中に成功を確認するぞ、ととうとうパンを咥えながら、手持ち無沙汰にテーブルを片付けたり棚の中を並べ直したりした。
(流石にもういいのでは……)
何度目かで鍋に爪で触り、指でも大丈夫なことを確かめてから、カレンは大鍋用のレードルにボウルを抱え、鍋を底から掬った。
何かが"乗った"のを感覚で掴むと、ゆっくりと真っ直ぐに引き上げる。
同じ作業をもう一度繰り返し、受けたボウルをランプのごく近くまで運び、手や袖が濡れるのも構わず、掬い取ったものをじっくりと見た。
艶のある表面に光がくっきりと走る。
ガラスゆえより煌びやな光が踊っている。
底から立ち上がりヒールに至るまでの曲線は優美そのもの、ヒールは気取りを失わないまま実直に、トゥの形は心にくく。
カレンの手の相が透けるほどの純度であるのに、中に指を差し込むとベビーブルーが視認を躱す。
摘まんで引き、少し伸びる手ごたえを感じてカレンは思わず歓声を上げて両腕を振り上げ、成功の代償に靴が纏っていた液を頭から被った。
ちょうどその頃、作業部屋ではカレンの懐中時計が3回、チャイムを鳴らした。
*
細い緩衝材が詰まった無地の紙箱には、1足の瀟洒なガラスの靴が身を落ち着けている。
カレンは、クリーム色の便箋に添え文を書いている。
"御注文の品をお届けします。
御依頼の内容と齟齬はないものと認識しておりますが、万が一不具合等ございましたら、お手数ですが御一報ください。"
支払の方法や期限を記した後ろに、心のままに
"作り手の心も踊るものを御注文いただき、忘我の喜びでございました。"
と書いたものの躊躇し、悩んだ果てに便箋をもう1枚出して支払期限までを書き写して、忘我云々は削って
"引き続きどうぞよろしくお願いいたします。"
と締めた。
相手は仕事の依頼人だ、気安いのは良くない。
署名した添え文を丁寧に2つ折りにし紙箱に入れると、カレンは箱を丁寧に梱包した。
包装紙の上に遠慮なく『Handle with care!』と赤字で書き付け、箱を捧げ持って玄関ホールに出、ミニテーブル上の包みをその上に乗せて、窓口が開いたばかりの郵便に配送を頼むべく外に出た。
9時過ぎの日は明るく高く、空は穏やかに、昨日の返送状の苛立ちは、もはやどうでも良くなっていた。
さらに言うと、ガラスの靴ももう過去の成果になっていた。
また次の造形に専念する時間が、今日もまたカレンを待っている。