美織と茉奈のハッピーエンド
何度目かの欠伸を経てようやくベッドに潜り込むと、丁度いい微睡みが頭を撫でてくる。そうしていつの間にか夜が明けるのが私の理想的な睡眠なのだが、最近少し困ったことが――
ピリリリリリ。
消灯した枕元で白色のライトが私を起こす。時刻は日付を超えている。細めた目でスマホのロック画面には『美織』という見知った名前が表示されている。
体も起こさず電話に出た。
「あぁ出てくれた……ごめん夜遅くに……茉奈、寝てたよね?」
「ん、どうした? また何かあったの……?」
「あのね智也からDMが来て、それで怖くなって。茉奈の声がどうしても聴きたくて電話しちゃった……」
「……そっか。元カレ、しつこいね」
「何回も嫌いって言ってるのに、『まだ俺のこと好きなんだろ』って……でも茉奈の声聴けて落ち着いた! ありがと!」
「ううん、全然いいよ――またなんかあったら、……いつでも電話してよ。すぐ出れないかもだけど」
「本当にありがとう。またね〜」
「はい、おやすみ」
通話を終えるとすぐ電源を切った。しょぼつく瞼の裏に長方形の残像が揺らめく。空気が短く唇をすり抜けた。
美織は私の親友だ。といっても大学からの付き合いだから4年くらいの仲。ふんわり長い黒髪と人形みたいに大きな瞳。健康的な体つきと庇護欲をくすぐる愛らしさ。、大学入学時から危ない男がホイホイ寄って集った。たまたま知り合った私や同級生は放っておけない彼女を守るべく日々奮闘していた。彼女と親しくなるのに時間はかからなかった。2人や皆で遊んだり悩みを聞いたりする間柄だ。
美織はとってもいい子だ。私が保証する。ただやはり、というか異性との相性はすこぶる悪い。天然キャラと外見だけで説明できないくらいガラの悪い男が近づいてくる。なのにふわふわ系の本人は危機感が薄いため勘違いさせる仕草を平気でやってしまう。
大学4年の秋、そんな美織に彼氏ができた。
私は事前に彼女から相談されていた。「智也くんに告白されたんだけど、どうすればいいかな?」と聞かされた私は非常に悩んだ。智也はやんちゃ気質の陽キャでゼミの中心にいるが恋愛となると良くない噂も聞く。
彼女と智也をくっつけていいものか……悩んでいたが、美織も大人だ。これまで誰とも付き合ったことはない彼女をこのまま社会人にさせるほうが危ないと思った。仮に痛い目を見ても私達がいるし、そうすればもっと私を頼ってくれるだろうと彼女の背中を押した。私の中の二面性はこの頃顔を出し始めた。
2人はまもなく付き合い出したわけだが、1週間も持たず美織が私にまた相談してきた。
「茉奈どうしよう! 帰り際に突然ハグされた……それに毎日距離が近くて、もう無理……」
「え……あーそうだね。急にはビックリするよね? でも付き合ってるんだしハグくらいいいんじゃないかな。もちろん嫌なことはちゃんと断らないと駄目だけど」
「別に嫌じゃないの」
「ならいいじゃん、ハグされても」
「だって恥ずかしいんだもん!」
この時吐いた私の特大溜め息を誰かに聞いてほしい。
付き合い始めてからこんな調子でしょっちゅう電話をかけてくる。頼られるのは好きだけど頻度が高すぎる。しかも深夜帯の電話ばかり。私はじわじわ睡眠時間を削られ疲弊していた。
美織と智也は3ヶ月で別れた。フッたのは美織からだ。聞かされた理由は「飲み会後にホテルに連れ込まれていた」から。ついにきたかと。いつかは通るこの関門を2人……否、美織が平気なままでいられるとは思えなかった。私は別れたいという彼女に賛同した。そして安易に交際を勧めたことを謝罪した。逆に彼女は泣きじゃくりながら電話越しにスピーカーが壊れそうなほど私に謝ってきた。
別れたことで断りづらい電話から開放される私としては頼られなくなるのではという複雑な心境もあった。
平穏な日々が戻ってくると、そう思ったのは束の間だった……。
自室で1人だらだらバラエティ番組を見ていたら、美織から久しぶりの電話がきた。
楽しみを邪魔され思わず舌打ちをしてしまった自分を戒めてから電話に出た瞬間、初めて聞く震えた声で、普段からは想像できない早口で喋りだした。
「茉奈!? たすけて! と、智也がうちに来て、ドアがドンドンって……キャー!!」
「ちょっ、美織落ち着いて! 智也がいるの? 家に!?」
美織は呼吸を乱しながらも、
「智也がいる! ヨリを戻そう開けろって言ってる! たすけて!!」
「わかった! 警察呼ぶからそのまま家の中で待ってて! 絶対でちゃダメだからね!?」
初めて110を押す指は極度の緊張で上手く動かなかった。
警察より先に美織の家に着いたとき、智也の姿はなく、彼女は警察が来ても私が呼んでも閉じこもり、部屋の鍵を開けるのに数十分かかったが私の顔を見た途端、玄関で気を失い顔面から倒れた。
智也には警察から接近禁止命令が出された。
しかしそれで収まらなかった。
美織のSNSに見知らぬ人物からDMが飛んできた。
『最近野菜ジュースばっかり飲んでるね。体重を気にしてるのかな?』
共に送られてきた画像はその時彼女が毎日買っていた野菜ジュースの空の容器だった。送り主は智也だった。彼はゴミ袋を漁っていたのだ。ゴミを漁るなんて現実にする奴がいるのかと驚愕した。やがて何度も彼女を尾行したり、同じ講義の座席で彼女の真後ろに座ったり私を含めた友人にまでしつこく声をかけるようになる。ストーカーと化した彼の行為は警察では止まらずエスカレートしていった。
それと比例するように美織からの電話は再び頻度を増した。昼夜関係なく私が何をしていようがお構いなしに着信音が鳴る。彼女の精神状態は悪化していたが引き摺られるように私の精神も確実に病んでいった。
彼女は何があろうと大切な唯一無二の親友だ。
ただ私にも大切なプライベートがある。起床から就寝までさえも超えて私の生活に侵食してくる彼女からの電話を無視するようになったのは警察騒動から1ヶ月経った頃だ。私の精神が限界を迎える前に予防措置をとった。しかし今度は出られるのに出ない電話に罪悪感を覚えるようにもなった。悪いのはストーカーの智也であって彼女ではない。わかっているが私が智也をどうにかできるわけではない。考えるほど負の螺旋に囚われ思考の沼にはまっていく。
でも着信無視を続けていたら、やがて美織から連絡が来なくなった。私は少なからず安堵し、一方で寂しさを感じた。私がいなくても美織はやっていけると思うとやるせなかった。電話を無視しておいて自分に都合あってほしいと考える自分が嫌いになる。
「自分を嫌いにならないで、茉奈は良い人だよぉ」と心の中で美織が甘えるような声で私を慰めた。クッキーみたいに粉を零しながら心が割れた気がした。
それからさらに1ヶ月後、美織が大学に来なくなった。
距離の離れていた私がそれに気づいたのは友人伝てに聞いてからだった。
ずきん、と胸に痛みが走った。
同時に強烈な不安が目の前を覆った。
美織の身に何かあったのではないか?
脳裏に否定しきれない最悪の陰がちらつく。友人に話を聞くと最近は智也の姿も見てないという。彼が美織をストーキングしているのは学内で公然と広まっている事実だったが彼は気にしていなかった。今になって人目を嫌がっているのだろうか。
いや違う。勘でしかないが、彼の執着は人並み外れていた。少し前に学内で彼を見た時、呂律は回らず黒目は光を失っているのに私を見た途端、美織を思い出したのか激しく暴れて奇声を発しながら逃げた。異常という言葉がよく似合う、人間の怖さを見た。
罪滅ぼしの感情に突き動かされるように私は美織のアパートを訪れた。
インターホンを押すのを数瞬、躊躇った。今更どんな顔して会えばいいのか。
そんなこと気にしなくていい。美織にはやっぱり私がいてあげないと駄目なんだ。ぬかるみ澱んだ感情が胸に渦巻いていた。
ボタンを押してすぐ、まるで来訪者が私だと察知したかのように中からドタバタとドアに近づく足音がした。少なくとも美織の無事を確認できて一気に肩の力が抜けた。
「茉奈! 急にどうしたの?」
「うん。突然ごめんね。大学も休んでるし、ほら色々あったから大丈夫かなって」
「え〜!心配して来てくれたの? 嬉しい!! ほらほら、中入ってよ!」
「ありがとう……お邪魔します」
美織は驚くほどいつも通りだった。落ち込んでる様子もストレスが溜まっている感じでもない。
しかしドアの内側へ1歩踏み入れると考えが変わった。
衣類やゴミが散らばる玄関、廊下からリビングまでも異臭を放つゴミ袋とダンボールなどの荷物で埋められていた。綺麗好きな美織の部屋とは思えない。
彼女は普通に見えるだけなのだ。内心は傷だらけだろう。
「美織……本当に大丈夫? 智也のこととか、色々あったけど……私にできることがあれば何でも言ってね?」とゴミには触れないように声を掛けるが、彼女は笑った表情のまま、
「大丈夫だよぉ、茉奈が毎日お話聞いてくれて代わりにやらなきゃいけないことをやってくれたり……こうやって家にも来てくれてるし! ほんとうにありがとね〜」
「――え?」
毎日? 聞き間違いか?
いや過去のことを言っているのかもしれない。私はこの1ヶ月は美織と通話してないし会えてもなかった。聞き返すのは何だか怖かった。
平気なように過ごしているが彼女は不安定だ。余計なことを言って心身を悪化させたくない。
「ちょっと座って待ってて。お茶入れてくるね」
指示された場所はゴミの上にほつれたクッションが乗っかった床。そっと腰を下ろした。
私は早くここから出たかった。けれど美織を助けるためには今ここで行動しなければいけないとも感じていた。具体的な方法は何もないまま……。
じっと待っていると突然着信音が部屋に響いた。汚れたローテーブルの隅で美織のスマホが震えていた。
意図せず見てしまった着信画面には『茉奈』と表示されていた。
咄嗟に自分のスマホを開く。発信していない。当たり前だ。ここに来てから1度も触れてない。
美織のスマホに向き直る。やはり私の名前が映っている。
キッチンから美織がゴミを蹴散らしながら走ってきて電話に出た。私は黙っている。
「茉奈! ごめんね、すぐに出れなくて……えっほんとに!? ありがと〜!! すっごい助かるよぉ。これでもう怖い思いしなくていいんだね!」
何が起きているか理解できない。美織は『茉奈』からの着信に出て、通話相手を「茉奈」と呼んでいる。
でも茉奈は私で、今ここにいる。彼女に他に『茉奈』という知り合いがいるとは聞いたことがない。
美織は『茉奈』と親しげに話している。私と同じくらい仲良さそうに――同じ?
そのとき、美織の言葉がすっと自然に耳へ入り込んできた。
「――感謝しきれないよ! 茉奈がわたしの代わりに智也を殺してくれるなんて……」
立ち上がった私は反射的に美織のスマホを取り上げた。驚き戸惑う目線の彼女を横目に画面の向こうへ疑問をぶちまけた。
「あんた誰!? 私が茉奈、本物は私なの! 智也を殺すわけないでしょ! 冗談で美織を振り回すな!!」
「ちょっと茉奈、どうしたの? 急に怒ったりして」
美織の声は聞こえてなかった。黙り決め込む相手への怒りが噴き上がる。
「なんか言ったらどうなの!? 私になりすまして美織を騙すなんて、許せない。美織を支えられるのは私だけ、私以外いないのに……あんた、どこのどいつよ!?」
私が息切れを起こすと部屋は静まり返った。小さなノイズだけが聞こえていたスマホから声が流れた。
「お前だよ」
聞き慣れたその声が耳に届いた瞬間、猛烈な気持ち悪さが込み上げてきて美織のスマホを手放しキッチンに駆け込んで流し台へ胃の中身を全部吐き出した。
「え! だ、だいじょぶ!?」
何が起きたかわかっていない美織が私の背中をさする。
私の本能がその声を拒絶した。
普段聞く声とは違い歪んで聞こえるが直感的に分かる。スマホの向こうに私がいる。『茉奈』は私と同じだと悟った。
美織はこの1ヶ月間ずっと『茉奈』と通話し相談相手になってもらい心の平穏を保っていたのだ。
美織の中で私とスマホの向こうの『茉奈』はどちらが本物なのか。同じ人間が2人同時に存在しているのになぜ違和感を感じないのだろう?
嘔吐後の虚ろな意識で考えている場合ではない。早くここを出ないといけない。甲高い警鐘が脳内にこだました。
早く、早く出ないと、私から生まれたあいつが――
玄関チャイムが鳴った。
「あ、はーい! 今いきま〜す!」
「まっ、まって!!」
止めるより先に溌剌とドアを開けた美織。彼女の前には、黒ずんだ包丁を握り、白のシャツを返り血で染めた私が立っていた。
「茉奈〜! お疲れさま、大丈夫だった? 怪我してない?」
「大丈夫だよ。ちょっと汚れちゃったけど」
「じゃああとでお風呂入ろ!」
「あ。でもその前に――」
膝から崩れ落ち頬が引き攣る私を見て、もう1人の私は粘着質に微笑みながら美織を抱き締めた。獲物を締め上げ丸呑みするように美織に絡みつく私の姿を見て、音もなく涙がこぼれ落ちた。
「もうひと仕事しなきゃいけない。汚れちゃうからね」
そっと美織から離れた私は包丁をしっかり握り直し、私に向かってきた。非現実な光景が酷く現実的な死を運んできた。私の心から生まれたもう一人の私。
口を開くよりも思考するよりも速く長さ20センチの刃が私のみぞおちへ滑り込んできた。じんわり広がる熱と内蔵が裂ける痛みを感じその場にうずくまった。蛇口からお湯が流れるように体から血が出ていく。
「美織は私だけのもの。私だけを頼ればいい……ずーっと一緒だよ」
「えへへ、わたしも茉奈と一緒で嬉しい!」
別れを告げる力はもうなく、頭上で展開されるハッピーエンドをただただ聞いていた。