イギリス紳士の優雅な朝食 〜シンガポール出張篇
俺の名はロバート、ロバート・フォークナー、37歳。
シンガポール支社へ転勤になって早いもので1週間が経つ。慣れないことも多いがせめて食事だけは充実させたいと、毎日、いろんな店を渡り歩いてきた。
休日の今日はちょっとだけ足を延ばして、隣町のホーカーズまでやってきた。
ホーカーズというのは、屋台街のことだ。
シンガポール独自の料理はもちろん、中華系、インド系……などアジア各国のさまざまな料理が味わえる。所詮屋台と侮るなかれ。数あるホーカーの中には、なんと、ミシュランの星が与えられた店だってあるのだ。
どれ、ひとつ入ってみるか……
「いらしゃーい」
店先に顔を出すと、カウンターの向こうの若い娘が、シンガポール訛りのある英語で答えた。
「おすすめは?」
「オケ、カヤトーストにコピねー。おいしいヨ。コレ、ワタシのおすすめネ」
なに。
トーストにコーヒーだと?
イギリス人の理想の朝食じゃないか。
ちょうどいい。最近、故郷の味に飢えてきていたところだ。
よし、ここにしよう。
「じゃあそれをひとつ」
久しぶりに故郷の味が食える。
そう思って意気揚々と注文した私だったが、少し甘かった。
そう。甘かった。
まずトースト。
スライスされたバターが挟んであって、まあそれはいいのだが、問題はジャムの味だ。これは何のフルーツだろう?食べたことのない味だ。なぜか温泉卵が添えられているのも気になる。温泉卵?目玉焼きではなく?
そしてコーヒーだが、これが、かなり甘かった。
砂糖も、ミルクだってまだ入れてないのに、なんだこの甘さは。これはコンデンスミルク?底のほうに何やら固まっている。
と、ここで、カップの脇に置かれた小さなスプーンに気づいた。なるほど。これは底に溜まったコンデンスミルクをかき混ぜるためのものだったのか。
「……ん?」
ふと店のほうに目をやると、先程の若い店主が何やら合図を送っているのが見えた。
なんだって。温泉卵……を、トースト、に、絡ませて食べる?
そうか。この温泉卵は、そのようにして食べるためのものだったのか。
私は彼女に教えられたとおり、トーストに温泉卵を絡ませて食べてみることにした。
うまい!
なんだこれは!?
カリカリのトーストに温泉卵が絡み合い、バターの風味も相まって、舌触りを滑らかにしてくれる。独特だと思っていたジャムの味も、不思議と、気にならなくなった。
あっという間に完食してしまった私は、店主にお礼の挨拶をした。
「ありがとう。おいしかったよ。故郷の味とは違うけれど、これも悪くないね」
「カヤトースト、コピ。シンガポールのソウルフードね」
娘は、トーストではなくカヤトーストだと、そしてコーヒーではなくコピなのだと強く言った。
「カヤ、トースト……?」
私が言うと、彼女は忙しなく動かしていた手をぴたりと止めて、それからゆっくりと話し始めた。
「昔、中国のヒト、イギリスの船で働いテタ。イギリスのヒト、朝ゴハン、ジャムとバター塗ったサンドイッチ食べタイ、言ッタ」
イギリスでは定番の朝食だ。きっとその船乗りも、長い船旅で急に母国の味が恋しくなったのだろう。
だが、旅先で母国の味に出会うということは、そう簡単なことじゃない。
「船の中、フルーツジャム、ナイ。フルーツ、高い、難しいネ。中国のヒト、砂糖、卵、ココナッツミルク、パンダンリーフ、合わせる、『カヤジャム』、作る」
「パンダンリーフ?」
「ハーブのコトね」
ああ、なるほど、ハーブの一種なのか。だとすると、先程感じた独特の香りもこのハーブのせいなのかもしれない。食べ慣れないので最初はぎょっとするが、なあに、慣れてしまえば平気なものだ。
「できたカヤジャム、トースト、塗る。出す。イギリス人、喜ぶ、中国のヒト、嬉しい。ヨカッタ、ヨカッタねー」
女店主はまるで自分のことのように、手を叩いて喜んだ。可愛いお嬢さんだ。
「レシピ、評判なる、中国人、マレー半島、住む。シンガポール、マレーシア、中国のヒト、多い。カヤトースト、広まるネー、国民の味、みんなが知っテる。ソウルフードね」
そうか。それがつまり、カヤトーストのはじまり、というわけか。
「と、すると、このコーヒー……いや、『コピ』にも似たような歴史があるのかな?」
「そーね。中国とか、マレーシア、影響受けテるね。東南アジアに広く伝わる名物だヨ。甘いコーヒー、コピ、最高ね。ワタシも好きだヨ」
店主は笑いながら、甘くないのが好きなら『コピ・オー・コソン』と言えばミルク砂糖なしにできるよ、とささやく。
まさかそんな方法があったとは……!
練乳入りのコピも悪くはないが、今度来たときは試してみよう。あれは私には少々甘すぎる。
「また来るよ」
若い女店主にそう告げて、私はその場を去ることにした。
さて、明日は何を食べようか。
参考:
ヤクンカヤトースト
https://yakun.jp/
カヤトーストの起源 (たびこふれ)
https://tabicoffret.com/article/77418/
シンガポールの公用語は?シンガポール英語「シングリッシュ」の特徴 (kiminiブログ 学ぶ楽しみ、身につく英会話)
https://kimini.online/blog/archives/20425