道頓堀殺人事件
それはある晴れた冬の夜のことだった。感染症対策のためか、繁華街に人の姿はほとんどない。かろうじて堺筋と宗右衛門の交わる角には客引きのホストが数人立ってはいるが、前を通る3人の女子大生に声をかけることもなくスマホをいじっている。マスク越しでも聞こえる会話の内容からこちらに興味など持つはずもないことが明白だったからだ。
「ここ曲がってちょっと行ったらもっかい曲がるんよ」
「そうなんや! うわー聖地巡礼テンション上がってきたわ」
「でもなんもないからちょっと見たらひっかけ橋渡るで」
「結局開かれんかった大阪支店見れるんやな……!」
このまま日本橋行くんやろか、と髪を原色に染めたホストは思ったが、時間も時間だ。ほとんどの飲食店はもう店を閉めている夜中の手前といった時間帯、ホストやキャバクラ以外で開いているのはコンビニかペンギンのマスコットキャラが目印の激安ディスカウントストアくらい。話の内容から察するにアニメか何かのモデルとなった土地を巡っているのだろう。暇なんやな、呟いてホストはマスクの下であくびをした。傍から見れば自分もそう思われていることは重々承知だ。
一瞥することもなくホストたちの前を通り過ぎた女子大生たちは宗右衛門に入り、すぐの角を右に曲がった。酔っているのか大きな声できゃあきゃあとはしゃいだ後、再び宗右衛門に戻りそのまままっすぐ戎橋を目指す。外国人観光客でごった返し、何台ものタクシーが通りひっきりなしにクラクションの聞こえた宗右衛門が今ではすっかり静まり返っており、3人が広がって歩く程度では注意するような人もいない。
3人がコンビニで水を買い、店の前で一気に半分ほどあけたときだ。どぽん、という重たいものが水に落ちた音がして、1人の人間が戎橋から走ってきた。3人に気づくことなく御堂筋へと足を引き摺るようにして駆け去っていった人物は、暗がりでよく見えなかったがシルエットは大柄な男性のようだ。
「なんやろ……桐生さんかな」
「えっヤクザ投げ捨てたん?」
「いやそんなん現実であるわけないやん、ロボ課長のぬいぐるみとかやって」
「まあまあとりあえず見るだけ見てみようや、びしょ濡れのおっさん上がってきたらおもろいなあ」
「おもろいかあ? そんなんなったらそこのおまわりさんに通報もんやで」
口々に巡礼しているゲームになぞらえたことをああでもないこうでもないと言っているうちに橋の向こうの大きな看板が見えてくる。数年前まではここで同じポーズを取っている人が大勢いたというのに、時間も相まって今は人っ子一人いない。
「グリコ!」
「左右逆や」
「あっははは! ……え、うわうわうわ、やばいって、そんなんしとる場合ちゃうって!」
看板を背に橋のど真ん中ではしゃぐ2人を笑いながら見ていた1人は、橋から河岸に下りるスロープの欄干に手をかけて道頓堀を見下ろした。途端、裏返った叫びを上げて2人のもとへ足を縺れさせながら走り寄る。バランスを崩したヒールが敷石の溝に引っかかり、乾いた音を立てた。
「どうしたんどうしたん」
「これ、これ!」
「うわ……救急車、あれっ警察? どっち?」
「分からん分からん、あっでもそこ全部ある!」
そこ、と1人が指差した先は戎橋交番だ。隣は大阪市消防局の道頓堀出張所で、橋からは見えないが救急車も消防車もある。混乱しながらも駆け込んだ3人が交番でめちゃくちゃな説明をしている間、道頓堀には1人の男の死体が浮かんでいた。
結局早朝とも言える時間まで女子大生たちは事情聴取された。酔っ払いながら女子大生たちの供述は3人まとめればそれなりにきちんとしたものであり、レシートのおかげで時間もほぼ確実なものが調書にまとめられた。くぁ、とマスクの下でしたあくびを隠しもせずに戎橋交番勤務の警官である熊野は伸びをした。
「おーおー眠そうやな。それあれか、夜中の溺死体の」
「んぁ、ああ増間か。せやで、溺死体かは微妙やけどな」
「は? なんや死体遺棄かいな」
「それも微妙や」
ほら、と同僚の増間に引き上げられたばかりの死体の写真を見せる。仰向けに撮られた死体はその胸に深い刺し傷を負っていた。紫色の下品なスーツの下に着ているシャツは暗い色なため分かりづらいが、傷の周りは血で赤黒く染まっているようだ。増間は眉根を寄せて写真を熊野に返す。
「刺したあとに放り込まれたんか」
「やと思う。まあ溺死かどうかは解剖結果待ちや、捜査員でもない俺ら交番勤務にはもう関係なくなってまうけどな」
俺コーヒー買うてくるわ。熊野はもう一度大きく伸びをしてから増間にほしいものを訊ね、交番を出た。すぐ向かいのコンビニで熊野がコーヒーといくらかの軽食を買っている間、増間はもう一度写真を手にとってよく見てみた。何かが引っかかる。
戻ってきた熊野の手にはレジ袋と、コーヒーではなくエナジードリンクが握られていた。30を手前にした年齢の増間はもうエナジードリンクの甘さがしんどくなってきていたが、同い年のはずの熊野は平気な顔で口にしている。それなりに詰め込まれているレジ袋からミックスサンドを取り出して増間に渡した。
「……やっぱ気になるよなあ」
「ああ、まあ……なんか釈然とせんねんな。こいつあれやろ、村嶋」
熊野は頷く。村嶋とはミナミではそれなりに知られているヤクザであり、違法すれすれの金利で金を貸すことで有名だ。村嶋のせいで首をくくった人間もいるという噂だが、どう脅されていたのか遺書に借金が原因だと書かれていない以上関連づけることはできず、逮捕どころか任意同行にすら持ち込めた試しがない。村嶋の存在を知っている人間は誰しも、いつか刺されるだろうと思ってはいた。まさか道頓堀に投げ込まれるなどとは予想もしていなかったが。
「でもなあ、俺らただのお巡りさんやしなあ。なんもできんし、解決するよう祈っとくくらいがいいんやろうな」
「うーん……それか、俺らで調べるか」
「は?! 熊野お前本気か?!」
大口を開けてマーガリンとメープルシロップを挟んだパンケーキにかぶりつき、眠たげな目を細めて熊野は笑って見せた。どちらがヤクザか分からないと言われがちな大阪の警察の例に漏れず、熊野もそれなりに厳つい顔つきをしている。普段であれば顔が怖いと笑顔も不穏で損やなあ、程度にしか思わない増間だが、これは本当に悪巧みをしているときの顔だと直感する。巻き込まれる予感に冷や汗が滲んだ。
「だぁーいじょうぶやって、俺らはただちょーっとパトロールついでに噂話聞くだけや。町のお巡りさんのお仕事しとるだけやで、なんも怒られることないやん」
「俺なんも言うてへんのに怒られるとか言うてる時点であかんことなん分かっとるやんな?!」
「いけるいける、なんか言われたら市民から情報提供受けて報告するとこでしたーて言うたらええねん」
「ええ、お前……はあ、まあええわ。なんかあったら全部お前のせいにするからな」
「よっしゃ、ほな聞き込み行こかー」
「いや一応パトロールって言えや……」
エナジードリンクとパンケーキという到底おいしいとは言い難い組み合わせを気にもせず平らげた熊野は、頭を抱え大きなため息をつく増間を見て腹を抱えて笑った。
「よう、おっちゃん。たこ焼き2人前ちょうだいや」
「おー熊野さんいらっしゃい。いつものでええんやな?」
「あ、あー……いや、こいつのはノーマルたこ焼きにしといて」
「あいよ。作りたてやるからちょっと待ってな」
パトロールと称した聞き込みで熊野が一番最初に声をかけたのは道頓堀商店街にある創作たこ焼き専門店「たこ踊り」だった。多種多様なたこ焼きを扱うこの店は熊野の行きつけであり、テイクアウトはもちろん店内でできたてのたこ焼きをアルコール含む飲み物とともに楽しむこともできる。
高田と名乗った店主は人のいい笑顔で挨拶をし、たこ焼きを作りながら熊野と雑談をしている。大柄ながら両手で器用にたこ焼きピックを扱う高田の左手は薬指が不自然に歪んでいる。生粋の大阪府民でありながらたこ焼きをうまくひっくり返せない増間は高田の手捌きに舌を巻いていた。
「そういや熊野さん、もうここら一帯で噂になってるけどそこで死体が浮いてたってほんまか?」
「耳が早いなあ。まああんだけブルーシート引かれてたら分かるか。あんま詳しくは話せんけどほんまやで」
「そうか、ほんまなんか……こないだもあったやろ、道頓堀に突き落とされて外国人が死んだ事件。怖いよなあ」
夏頃に起きた事件のことを言っているのだろう、思い出した恐怖からか高田のたこを入れる手はわずかに震えている。生地に入り損ねたたこがころりと転がって鉄板で焼かれた。それに気づかない高田はきれいなたこ焼きピックでくるくると端からたこ焼きをひっくり返していく。増間のものらしいそれが焼けるのを待っている間に、隣の生地にたことチョコレートが入れられた。たこ焼き屋には不釣り合いなにおいがふわりと広がる。
「ちょっ、おじさん……?」
さすがに何かの間違いだろうと声をかける増間を熊野は制した。
「あー大丈夫大丈夫、これ俺のやから」
「は?」
「いや、せやからチョコレートたこ焼き。俺ここ来たらいっつもこれ頼むねん」
「はあ?」
怪訝そうな顔をする増間は熊野の指差すメニュー表に目を通す。創作たこ焼きの名前の通り、そこにはノーマルたこ焼きから始まりねぎたこ焼き、玉子たこ焼き、ウインナーたこ焼き、キムチたこ焼きなどなど、よくあるアレンジから見たこともないようなアレンジがされたたこ焼きの名前が並んでいた。デザートの欄には熊野の言ったチョコレートたこ焼きもしっかり書かれている。
「なんや、お巡りさんうちの店初めてかいな。うちはいろんな具材をたこと一緒にたこ焼きにするんや。たこはたこ焼きの魂やからな」
「はあ、なるほど……?」
ノーマルたこ焼きにはソース、マヨネーズ、かつおぶしと青のりが、チョコレートたこ焼きにはメープルシロップがかけられた。香ばしいたこ焼きのにおいと甘いメープルシロップのにおいのミスマッチさに増間は思わず眉根を寄せてしまったが、熊野も高田も気づいていない。初回サービスやで、と増間のものは2つ多く入っていた。
2本の爪楊枝でチョコレートたこ焼きを食べ、はふはふと熱を逃がしながら熊野は高田に「そんでな、」と話しかける。増間は奥にいたバイトらしい男性に冷たいお茶を2つ頼んだ。
「おっちゃん、この店ひっかけ橋からも近いやんか。変な人見たとか、物音聞いたとか、なんかあったら警察まで連絡してほしいねんか」
「まあ、そらもちろんそのつもりやで。ただ昨日は全然客来うへんから早よに閉めたし、金ないから防犯カメラも故障したっきりでダミーみたいなもんやしなあ……」
「いやいや、おっちゃん儲けてんねんから防犯カメラくらい新しいの買いーや。まあええわ、ほんならおっちゃんはなんも知らんねんな?」
「せやなあ。てか俺よりホストのにーちゃんとかキャバクラのねーちゃんのが知っとんのちゃうか?」
「はーなるほどな、あとで聞きに行こかー増間。ほなおっちゃん、ごっそーさん。また来るわ」
「ごちそうさまでした、おじさん」
「毎度おーきに」
笑顔で敬礼をして2人を見送る高田に返礼し、道頓堀商店街を堺筋に向かって歩いていく。顔なじみの店員に声をかけては回るものの、以前よりも増えたシャッターにパトロールもくそもないな、と熊野は小さくため息をついた。これでは食い倒れようにも到底不可能だ。客引きと外国人観光客でごった返しトラブルの絶えなかったあの頃は忙しく目が回るようだったが、こんな形で何事もない日々が来るなど望んではいなかった。活気あふれるミナミに戻ってほしいと、この街の誰もが思っている。
道頓堀商店街はさほど長くない。相合橋まで来るとよりいっそう寂れた雰囲気が強くなる。もう1つ向こうの交差点にあるかに道楽道頓堀東店のかにがゆったりと動いており、それを遠目に見やった熊野は何か違和感を覚えた。小さな、けれど無視するには大きすぎる引っかかり。熊野は踵を返し、太左衛門橋へと向かう。
「おい、どないしたんや熊野」
「分からん。でもなんか気になるからとりあえず道頓堀交番行くで」
「はあ? そっち行ってどないすんねん、おい、熊野!」
「今でも客引きやっとるホストを教えろ?」
閑散とした宗右衛門ではやはり交番もいくらか手が空いているようだ。いきなり押しかけた熊野に対して怪訝そうな顔をしたものの、道頓堀交番に勤務している警官は仕事をしろと追い返すこともなく教えてくれた。広げた地図の3箇所を指でとんとん、とつつく。
「ようやっとんのはこの3店やな。一応条例違反にならん範囲でやっとるから大目に見とる」
「ほんなら堺筋との交差点で客引きしとったんはこの店やな……」
熊野の呟きに道頓堀交番の警官は苦笑をもらした。殺人事件であるにも関わらず今朝になってやっと捜査本部が設置されたことからも、この事件が異様なまでに重要視されていないことは明白だ。目の上のたんこぶとも言うべき村嶋が被害者だからだろうか、ヤクザが手を出さない程度に捜査の体裁を取りなあなあで済ませようということらしい。それを察している警官は、勝手に捜査をしようとしている熊野にしょうがないという感情を抱く。
警官はメモ帳に携帯番号らしい11桁の数字を書き、破りとって熊野に押しつける。数字の下にある「キサキ」というのは名前のように思われた。
「その店で働いとるホストや。ちょいちょい情報提供してくれる。どうせ夜中の死体遺棄のこと調べとるんやろ? 俺は捜査員ちゃうからなんもしたるつもりないけど、なんか訊きたいんやったらそいつに俺の名前出したらええわ」
「……ええんか」
「あかん言うても無駄やろ。それにあんたがクビなろうが俺関係ないし、好きにしたらええんちゃう?」
他人事極まりない警官の言葉に増間は思わずため息をついたが、それを咎める者はいなかった。熊野にいたっては警官の言葉を後半まで聞いていたかどうかも怪しい。素直に礼を述べて道頓堀交番をあとにした熊野に「お前なあ」と増間は呆れを隠しもせず声をかけるが、続きはうまく言葉にできなかった。
「まあまあ、ええやん。ホストの出勤までまだ時間あるし、勤務交代したら一旦帰ろかー。夕方なったらお前んち行くわ」
「おい今日彼女来んねんやめろや」
「たこパしよな」
「話聞けや!」
増間が熊野の頭をしばく小気味いい音が人の少ない宗右衛門に響いた。
キサキというホストはブリーチを繰り返した白金の髪に赤いメッシュを入れた細身の男だ。もうすぐ出勤なのだろう、セットとメイクを済ませたいかにもホストという出で立ちで、かに道楽道頓堀本店の向かいにある喫茶店併設の本屋の前に立って熊野と増間を待っていた。
「どうもー、クラブ・エイジャのキサキさん? 電話さしてもろた熊野と増間です」
「そっす。すんません、電話もらったとき寝起きやったんで」
「いやいやこっちこそ急にすんませんね。えーと……ここやと人目あるし、とりあえずカラオケでも行こか」
「あーあの人も聞かれる心配ないからってよく連れてってくれんねんな。お巡りさんマニュアルにそう書いてんの?」
「勝手に捜査したらクビとは書いとるな」
やばいやん、と笑ってキサキは2人の後ろをついて歩く。人の少ない道頓堀商店街を歩き、1階にくいだおれ太郎のいるビルを目指す。4階の格安カラオケで受付を済ませて3人は案内された部屋へと入った。強面の男2人といかにもホストといった様相の男1人などという珍妙な組み合わせだが受付の店員は気にした様子もなく、淡々と業務をこなしていた。
職業柄、今のうちになにか腹に入れておきたいと言うキサキに熊野は快くメニュー表を渡した。勤務外でのことなのでもちろんこれは熊野のポケットマネーから支払われる。躊躇う素振りも見せなかった熊野にさすがやなと思った増間だったが、ついでに俺もパフェ食べよーと注文する姿を見てお前も食いたかっただけかいと内心でツッコミを入れた。
「そんでなんやっけ、昨日の夜キャッチしとったやつ? 一応あの辺うちの敷地やからギリセーフちゃうん?」
カモフラージュのために適当な曲を入れた室内で、フリードリンクの紅茶にミルクを混ぜながらキサキはそう言って熊野を見やる。挑発するような視線だ。取り調べでもないのだから勘違いさせたままでいる必要もない。熊野は困ったように笑って両手を上げてみせた。
「ちゃうちゃう、そんなんどうでもええねん。それより知っとるやろ、道頓堀で人が死んどった事件」
「あーなんか警察がうろちょろしとったな。どうせ自殺とか酔っ払いが落ちたとかやろ、それこそ俺ら関係ないやん」
「いやそれがな、どうも誰かに投げ入れられたらしいんやわ」
「はあ? 去年か一昨年もそんなんあったよな、カーネルおじさんの呪いか?」
「それ阪神が優勝でけんやつやな。投げ込んだ犯人やと思われるやつを目撃した人がな、ホストの前通ってひっかけ橋行ったって言うてんねん。せやからなんか知らんかなー思てこうして呼ばせてもろたわけなんやけど」
コンコン、聞かせる気のないノックをしてフードを手に店員がドアを開ける。明らかに誰も歌っていない空気だが、そんなものには慣れているのかピザとパフェを置いて店員はさっさと出ていってしまった。
昨日やろ、とキサキは呟いてピザを片手にスマホを操作する。向かいでパフェに舌鼓を打つ熊野に声をかけようとして、その緊張感のない姿に微妙な顔をしたキサキは増間に向き直った。増間も増間で呆れたような顔をしている。
「何時くらい? シフト確認するわ」
「10時過ぎやな」
「あー……あっキャッチちゃうけど梓さんがアフター行ってるわ。かに道楽行くからって8時半に早上がりしはったし、ちょうど10時くらいに道頓堀おったんちゃうかな。キャッチしとったやつも分かるけどどうする?」
「客引きしとった人は名前だけ教えてくれるか、今度こっちから声かけさしてもらうわ。そのアズサさん、やっけ? 早めに話聞きたいんやけど、今電話とかできひんかな? ……お前もパフェ食うてばっかやなくてなんかしゃべれや」
「ええでー」
口いっぱいにパフェを頬張っていた熊野はなぜか笑顔で親指を立てた。その場で電話をかけ始めたキサキはデンモクで音量を少し下げ、熊野は紙ナプキンで乱雑に口元を拭った。マスクをつけてノーズワイヤーを調整するとキサキがスマホを差し出してきた。
「もしもしー。お電話代わりました、戎橋交番の熊野といいます」
『ああ、エイジャ主任の梓ですけど。昨日のアフターのことって、なに聞きたいんですか?』
「あのですねー道頓堀で上がった死体の死亡推定時刻が夜の10時くらいなんですね。ほんでいろいろ聞き込みしとったら梓さんがその時間帯に道頓堀いはったって話聞いたんで、なんか見てはらへんかなあ思うてちょっとお話聞かしてもらいたいんですね」
事件には興味がないようで、キサキは飲み物を入れに部屋を出た。メモを取ろうと熊野が手帳をテーブルに置いたのを見て、増間は半分も減っていないお互いのアイスコーヒーの結露で濡れないようグラスを自身のほうへと引き寄せた。テーブルに残る水滴も紙ナプキンで拭う。
『言うて10時閉店やからなあ、別になんも……あ、そういや……』
「なんかありました?」
『いや、多分関係ないんやけど……俺ら店入ったん9時前とかなんで他に客おらんくて。もしかしたらいつも人の声とかで聞こえてへんだけなんかもしれないんですけど、なんか……キーキー? キュルキュル? みたいな、変な音がずっと聞こえてました』
「変な音……?」
『はい。でも本店のかにの脚折れてたことあったし、他の脚も調子悪いんかなあって話してそんな気にはしてなかったんですけど』
「ふうん……なるほどなあ」
一言二言礼を述べてから熊野は通話を切った。ちょうど戻ってきたキサキにスマホを返し、熊野は残っていたパフェを流し込む。
「なんか分かりました?」
残っているピザにかぶりつきながらキサキは訊ねる。手元に返ってきたスマホで客の何人かと連絡を取りながら、目線すら寄越さない様子からはいかに無関心なのかがうかがえる。親しい間柄の人間が被害者でないなら当然とも言えるだろう。
「またかに道楽のかにの脚折れるかもなあって」
「やっぱカーネルおじさんの呪いやろ」
増間が思っていたよりもずっと村嶋殺害事件の捜査はずさんだった。事件から数日後、司法解剖が終わってすぐに結果の写しがほしいと言ってあっさりもらえるなど、そして自宅にその書類を持ち帰ることができるなどありえない。それほどまでにどうでもいい事件だと突きつけられているようで、いくらヤクザだとはいえさすがに同情を抑えきれなかった。わざわざ肺水腫の水を成分分析した結果までまとめられているというのに、熊野がいなければこれが活かされることもなかったのだろう。
「ん……?」
ばらばらと流し読みをし、今度はきちんと読み込もうとした増間は水の成分分析結果を見て手を止める。そこに書かれている数値はおよそ信じられるものではなかった。
「大腸菌群が……陰性?」
道頓堀の水質の汚さは全国的にも有名で、かつては「投身しても水死ではなく窒息死する」とまで言われたほどだ。近年では鮎が泳ぐくらいには水質が改善されたというが、それでもまだ人間が泳ぐには安全とは言い難い。生まれも育ちも大阪市内の増間は幼い頃から道頓堀に飛び込むことへの恐怖と憧れを持ち合わせており、いつかあそこでカーネルサンダースと泳ぎたいと小学3年生のとき作文に書いたこともある。脳裏に浮かぶのは数年前、目にした道頓堀の水質データ。桁は忘れたが、あのときの大腸菌群数は5だか4だかから始まったはずだ。
興奮か恐怖か、震える手で司法解剖の結果を読み進める。死亡推定時刻は夜9時から10時。死因は頸部圧迫による絞殺、凶器は直径2センチほどのロープ。頭部に殴打された痕跡があるが軽度の皮下出血で死因には関係しない。胸部の刺傷はアイスピック状の凶器で絞殺直後に刺されできたもの──ではこの肺水腫は?
「っ、熊野、早よ電話出ろや……!」
苛々とした様子でローテーブルをこつこつ叩きながら増間はコール音が途切れるのを待つ。事件が起きた日から何度か公休はあったが、熊野がそのどれもを独自調査に費やしていることを増間は知っていた。いつもであれば3コール程度で出るはずだというのに、一向に繋がらない電話に不安が募る。
いくら小物だとはいえ、村嶋は間違いなくヤクザだ。それが殺されたとなれば所属している組が黙ってはいないだろう。勝手に犯人を見つけて殺されるのはごめんだが、独自調査をしている熊野が目をつけられないという保証はない。
『おーもしもし、増間?』
「は……」
もしかして、と嫌な想像が脳裏をよぎった次のコールでようやく電話が繋がった。安堵のため息を漏らす増間に、そんなことは露ほども知らない熊野は電話口の向こうで怪訝そうな声を出す。
『なんや、どないしてん。用あるんちゃうんか』
「あ、ああ……今日な、村嶋の司法解剖の結果が出たから写しもろてんけど、」
『どやった』
えらい食い気味やな。増間は小さく呟く。
「それが妙やねん。死因は溺死でも刺殺でもなく絞殺、ただ肺の中に水があるから生きとる間に溺水するようなことがあったんは確かや。あと……この水、道頓堀のもんちゃう」
『はあ? ほなどこの水やねん。あ、おっちゃん俺生ハムチーズたこ焼きトマトトッピングな!』
「そんなん分かるわけないやろ。別に俺水の専門家とかとちゃうし。……おいお前今どこおんねん」
よく聞けば熊野の声の向こうに複数人の話し声がする。騒々しいとまではいかないが、うるさくない程度の有線も相まって賑やかな印象だ。熊野の口から出た注文は、増間に以前パトロールという名目の聞き込みで行った創作たこ焼き専門店を思い出させるには十分だった。
『たこ踊りや、たこ踊り。増間も食いたいんか? 明日行くか?』
「いやお前こういう内容はせめて周りに人おらんときに話させーや! なんかあったらどないすんねん! たこ焼きは明日行くわ!」
『あーまあ、こんくらいなら平気やろ。おっちゃーん、明日増間と2人で飯食いに来るわー。……おっちゃんも待ってるって』
「はあ……まあええわ。そっちは? なんか分かったんか」
増間の問いに、熊野はあー、だとかうー、だとか唸るだけで答えない。どないしてん、増間が訊ねるよりも先に熊野は声をひそめて囁く。
『……あいつから借金しとる人を調べ上げた。詳しいことは店出てから言うわ』
「……? まあ、分かったわ。今飯食うてんねやろ、明日でええわ」
『そうか、すまんな。おーおっちゃん、おおきに!』
「……ゆっくり食うんやで、ほなな」
返事も待たずにぶつっと電話を切って増間は大きくため息をついた。心配して損したという気持ちと、何事もなくてよかったという気持ちが半分ずつのため息だった。
「お前なんでこんな必死に調べとんねん」
相変わらず繁華街らしからぬ静けさの中、交番で出前の丼ものを食べながら増間は熊野にそう訊ねた。殺されたのはヤクザで誰からも殺されて当然と思われていたような人間だ。ろくに動いていない捜査本部の捜査員ならまだしも、一介の交番勤務である熊野がここまでして捜査をする理由などないように思われる。しかし増間の問いに、熊野は同じ丼ものをかき込みながらなんてことはない、という様子で返した。
「だって気になんねんもん」
「……はあ?! おま、えっ、お前、ほんまにそんだけの理由なんか?! なんかこう、実は幼馴染やったとか、どんな人間やったとしても殺されていい人間なんておらんねんとか、そういうんがある流れとちゃうか?!」
「あるわけないやろ、給料安定しとるから警察なった人間やで」
「お前ほんまそれ絶対ちっちゃい子の前で言うたらあかんで」
増間が頭を抱えている向かいで熊野は空になった丼を置く。いつもであれば厳ついなりに笑っていることの多い熊野だが、今日はどこか浮かない表情だ。100円玉を自販機の下に落としたときのような、虫歯になりかけているのに気づきたくないときのような、薄ぼんやりとした影がある。
熊野は空になった丼を前に、行儀悪く掴むものもない箸をかちかち鳴らしてここではないどこかを見ている。その箸が置かれてようやく熊野はダブルクリップで束ねられたコピー用紙を取り出した。増間は視線だけでこれが何かを問う。
「村嶋から金を借りて、まだ返せてへん人のリストや。あんま褒められんツテからのもんやけどな。ここ最近の新型ウイルスやなんや言うてみんなようけ借りとるわ」
「見てええか?」
「……ん」
数枚をめくった状態で差し出されたことを疑問に思いながら増間は開かれているページに目を通す。羅列されている名前と簡単なプロフィール、そして借りている金額。中ほどで、覚えのある名前が目についた。
「これ……高田って、たこ踊りの店主ちゃうんか」
困惑を露わにした増間と目も合わせず、熊野は頷いて組んだ手の甲に額を乗せた。
「せやねん。おっちゃん、やっぱり緊急事態宣言とかで経営厳しかったんやって。ただでさえ外国人観光客おらんくなってああいう店は潰れてく一方やったのに、おっちゃんは師匠から受け継いだ店やから絶対潰されへんって……借金繰り返して最終的にヤクザから借りとったらどのみちもう終わりやんな、ほんま……あほやで」
肺を空にするような長いため息。上げられた顔は眉間に皺が寄り、沈痛な面持ちのはずなのに元来の厳つさのせいでメンチを切っているようにしか見えないのが残念だ。それをからかうこともなく増間はめくられていた紙を元に戻して熊野へ返した。
「警察としてはヤクザに金いくようなことは許せんけど、おじさんの店守りたいって気持ちは立派やん。おじさんがちゃんと借金返すためにも事件解決せなな」
「せやなー……チョコレートたこ焼き、おっちゃんとこでしか食えへんしな」
「大阪府民としてはあの店だけでほんまによかったわ」
増間の言葉にひどいなあと笑う熊野はいつもの調子だ。ようやく食べ終わった増間もつられて笑い、本署からの電話に出る。しかし穏やかな増間の表情は次第に緊張したものへと変わっていった。
捜査本部に呼ばれた熊野と増間は防犯カメラの映像を見せられていた。捜査員でもないのになぜ、という疑問はカメラの映像解析をしていた警官により解消される。
「あんたらが勝手に捜査しとうことくらい知っとる。ぶっちゃけこっちとしてもこんな事件はよ解決してまいたいんや。戎橋交番勤務の熊野いうたら道頓堀商店街では有名やんか、この容疑者に見覚えあるんちゃうか?」
複数の防犯カメラの映像がモニターに映し出される。道頓堀商店街から死体を担いで戎橋へ行き、投げ捨ててから御堂筋へと去っていくニット帽を被ったブルゾンとジーンズ姿の大柄な男性。暗くてよくは見えへんかったけど、と証言した女子大生たちが挙げていた特徴とも合っている。しかしこれだけの数があるというのに、男はどのカメラにも顔が映っていない。どこにカメラがあり、どの角度で自分の顔が映るのか把握しているようだ。熊野も増間も、容疑者は道頓堀商店街に長くいる人間だと直感した。
不況の煽りで私設の防犯カメラのいくつかはただの飾りとなっている。そのせいで容疑者がどこから、どのように死体を担いできたのかは映っていないため分からない。節電という名目で人のいない繁華街の街灯は間引いて点灯されており、暗さも相まって余計分かりづらくなっている。
「……映ってる範囲からして、容疑者は太左衛門橋の少し東から戎橋の間で犯行を行ったか、死体を隠してたみたいやな。村嶋はそこそこ体格もええから、いくら大柄な男でも誰にも見られんと担いでいける距離なんてたかが知れとる。足は引き摺っとるけど息も切れとらへんみたいやし、遠くてもくいだおれビルの辺からやろうな」
「よう分かんなあ熊野。俺自販機と比べてやっと身長が180ないくらいやなあってことしか分からんかったわ」
「俺がどんだけ食べ歩きしとるか知らんみたいやな」
「パトロールせえや」
スパァン! と警官はバインダーで熊野の後頭部をはたいた。
「いったいなあ。まあせやけどこんだけやとさすがに分からんわ。帽子もブルゾンもジーンズも特徴ない、しかもあの辺こんな体格のやつなんてごろごろおるで。ガラ悪いからひょろこいやつ長続きせんからなあ」
「……らしいわ。すまんなあ、熊野が分からんねやったら俺にも分からんわ。もしまたなんか分かったら報告させてもらうわ」
「おう。……なあ熊野、ほんまになんも分からんねんな?」
2人をここに読んだこの警官は仮にも捜査一課配属だ。じとりと睨みつける視線の鋭さも相当のものだが、熊野は平然とはたかれた後頭部をなでさする。
「嘘言うてどないすんねん。さっき言うたこと以外はこれだけやと分からん。強いて言うなら通りの北っ側で殺されたんかなあくらいやな。でもこんなん道頓堀行ったことある人間やなくても見たら分かるやろ。悪いけどもうええか、これからたこ焼き食いに行くんや」
熊野の言葉に警官はまだ疑う様子を見せたが、最終的には頷いて部屋から出した。
「たこ焼きばっか食うてんとちゃんとパトロールするんやで」
「たこ焼き以外も食うとるわ」
「そういうことちゃうねん!」
もう一度はたかれそうになった熊野はバインダーを間一髪で避け、これ以上脳細胞を死滅させてはならないと足早に本署を後にする。誰にも気づかれないようされた目配せに、増間もそれと分からない程度に小さく頷いて見せた。
運転席に腰を落ち着かせた増間はシートベルトを締めながら口を開く。周囲に人がいないことは確認済みだが、その声は潜められていた。
「熊野、お前もう分かってんねやろ」
「せやなあ。……まだ、信じられへんけどな」
戎橋交番に戻るまでの増間の安全運転中、熊野はそれ以上何も発しなかった。
創作たこ焼き専門店「たこ踊り」。観光客の激減した今では平日の昼間など閑古鳥が鳴いているが、数年前までは行列ができるほどの人気店だった。客入りが少ないのは夜になっても同じことで、今は店主の高田と唯一の社員である若い男性しかいない。2人はたこ焼きを作り置きすることもなく店内に置かれている小さなテレビでバラエティ番組を見ていた。
「よう、おっちゃん! 約束通り増間連れて来たでー」
「おー熊野さん、いらっしゃい。待ってたで」
「どうもー」
熊野がドアを開けたことでからんからんと入り口のベルが鳴る。時刻は夜の8時、夕食どきだ。ドアの向こうの道頓堀商店街に人通りはほとんどなく、これ以上の客入りなど見込めようもない。高田はどうせ給料は変わらへんねんからと半ば無理やり社員を帰らせた。出際にドアにかかっていたプレートを閉店に変えさせるのも忘れない。
「注文どないするん? チョコレートたこ焼きはあとのがええやろ」
「せやなあ、とりあえず晩飯にええ感じのたこ焼きセット2人前もらえるか。あとジンジャーエールと……増間は?」
「俺は烏龍茶でお願いします」
「あいよ」
飲み物と突き出しのたこの酢の物を先に渡し、高田は店内のカウンターに面した鉄板まで足を引き摺りながら戻る。生地すら作り置きしていないのか、ボウルに小麦粉や食塩などいくつかの材料と瓶に詰められた水を慣れた手つきで混ぜていく。
「瓶の水使わはるんですね」
「せやで、うちのたこ焼きは先代からのこだわりがようけあんねん。水は和歌山熊野のミネラルウォーター、粉は独自の割合で配合が決まっとる。……まあ、粉のほうは中の具材によって変えたりもするんやけどな」
「へえ、先代さんからのお店なんや。すごいですねえ」
ジンジャーエールと烏龍茶と酢の物という、外食にありがちななんともいえない組み合わせで間を保たせながら注文したたこ焼きセットが焼き上がるのを待つ。様々な具材をたこと一緒に焼くたこ焼きセットの中身が何なのか、熊野と増間はソフトドリンクを傾けながらああでもないこうでもないと予想している。濃くなるキムチのにおいが他の食材がなんであるか分かりづらくしているのだろう。
「へい、お待ち。今日は定番メニューからノーマル、ねぎ、餅、キムチの4種。変わり種メニューからクリームチーズ、たくあん、梅干し、納豆の4種やな」
「おーきに、いただこか」
「いただきます」
焼きたてのたこ焼きに爪楊枝を2本刺すと、薄い皮を突き破るかすかな手応えがした。先端がたこにぶつかって止まり、爪楊枝の隙間からとろとろの生地がじわりと滲む。2本の爪楊枝でないと支えられないのはおいしいたこ焼きの証だ。熊野は冷ますのもそこそこにまだ熱いたこ焼きを口に放り込んだ。猫舌の増間はまだ冷ましている。
「はふ、あふ、っあー……いやーあっついしうまいなあ!」
「いやほんまに。こないだ連れてきてもろたときも思ったんやけど、こんだけ外が薄くてカリカリやのに中とろっとろなんさすがですね。俺どうにも焼くんへたくそで……」
恥ずかしそうに笑いながら増間は2つ目に爪楊枝を刺す。まばらに見える緑は大量に入れられたねぎだ。
「なあおっちゃん、どうせやからおっちゃんとこのこだわり全部増間にも教えたってえや。前まで自分でたこ獲っとったんやろ?」
「もう随分昔のことやで」
鉄板の後ろに置かれている、水の張られた大きな鍋で手をざっと洗ってから高田は2人のもとまで来た。そばにあった椅子を引き、背もたれを腹側にして腰かけた高田はどこから話そかなあ、と腕を組み考える。その左手の薬指はやはり不自然に歪んでいる。ケロイド状の傷跡はずっと古いもののようだ。おっちゃんが師匠と会ったとこからがええな。熊野の言葉に苦笑して高田は口を開く。
「昔……俺がまだ17とか18の頃やな。当時の俺は高校中退して、世話んなってた先輩のおる暴走族におったんや。金なかったから後ろ乗せてもらうだけやったんやけど、ある日運転しとった先輩がえらい事故起こしてもうてん。先輩は即死、俺も左半身がぐちゃぐちゃなってもうて、今でも指こんなんやしちゃんとは歩けへん」
左手を掲げて指を見せ、太ももを軽く叩く。よく見れば高田の顔の左半分には皺に混ざって傷跡らしい色素沈着やケロイドの名残の凹凸がある。熊野は黙ったまま頷き、続きを促す。
「当時の俺にはなんもなかった。ほんまになんもなかったんや。先輩が死んでから暴走族とつるむんはやめたけど、失うもんもない俺は毎日ミナミをうろつくチンピラになった。金もなかったけどそんなんカツアゲしたらなんとでもなったしな……この店で師匠と会うたんはそんときや」
椅子の背に肘を突いて頬を支える高田の表情は昔を懐かしむ穏やかなものだ。この店で会ったという言葉の通り、焼けたたこ焼きとソースのにおいすらも思い出を彩るものなのだろう。肺いっぱいに空気を吸い込み、味わうように吐き出す。今ここで高田の記憶に足りないものは、ミナミの活気と師匠の存在だけだ。
「俺は腹が減っとった。カツアゲした金でたこ焼きを買おうとしたんや。そしたら師匠がな『そんな金はいらん』って言うんや。『人を傷つけて得た金を受け取ったら、わしも共犯なる』言うてな……」
『坊主、腹減っとるんやろ。金もないんやろ。わしが食わしたる。金はいらん、いつでも来たらええ。代わりに、悪いことは一切なしや』
『……なんで、そんなん』
『わしは坊主みたいなんをぎょうさん見てきた。みんなそのうちヤクザなってろくでもない死に方をしよる。そんなんもうたくさんや、わしが救えるやつだけでも救いたい。……これはわしのエゴや、分かっとる。せやけどな、救えるやつすら救わんのはいっちゃんひどい怠慢や』
『はあ? なんで急に喧嘩の話になんねん』
『……ええから早よ食え。冷めたたこ焼きはうまない』
「そのたこ焼きのうまいことうまいこと。初めてたこ焼き食うて泣いたわ。俺はその場で師匠に弟子入りさしてもろて、そっからは毎日たこ焼きの修行や。粉の配合も秘伝の出汁の取り方も……それに師匠は自分で釣りするから、釣竿の作り方とたこの釣り方も教わった。今までたこ焼き焼くどころか米すら炊いたことない俺に、師匠はたこ焼きピックの使い方から教えてくれたんや。一人前って認められたときは愛用のたこ焼きピックを譲ってくれてなあ……今でも肌身離さず持っとるんやで」
「……そのたこ焼きピックで、村嶋の死体を刺したんやな」
熊野の暗く沈んだ声に、高田は何も言わなかった。突然とも思える発言だというのにただ穏やかな微笑みを浮かべるだけで、否定しないそれが何よりの証拠だ。ぐっと涙を堪え、熊野は鞄から証拠品袋を取り出す。釣竿のリールを2回りほど大きくしたものと、直径2センチほどのロープ。高田は「見つかってもうたんやな」と呟き、自嘲気味に首を弱々しく振った。
「どないして分かったんか、聞かしてもろてもええか」
「ああ……」
決定打となったのは防犯カメラの映像だ。道頓堀商店街の防犯カメラの角度と範囲を熟知している様子と、足を引き摺る独特の歩き方。この2つが当てはまる人物はミナミどころか日本中探したとしても高田しかいないだろう。借金の取り立てに来た村嶋にひどく怒鳴られているところを見たという証言も聞き込みで得られている。動機も十分だ。
それだけでは死体遺棄の容疑者でしかないが、たこ踊りによく行っている熊野は店内のキッチンに水を張った大きな鍋が置かれているのを見たことがある。村嶋の肺にあった水は道頓堀のものではないと増間が断言した晩、既に熊野は高田が借金をしていたことも知っていたため水をもらうふりをして少量持ち帰っていた。内密に急ぎで成分分析にかけた結果は村嶋の肺にあったものと同一であるというものだった。この時点で少なくとも高田は村嶋の肺に水が入るような行為をしたということになる。
疑ってかかればあっさりと証拠は集まる。ホストの梓が聞いたという異音はかに道楽のかにの裏に取りつけられていたリールとロープからのもので、ロープには高田と村嶋の皮膚片が付着していた。首に残っていた絞殺痕と形状も一致する。
「こっからは証拠から俺が想像した犯行方法やねんけど」
熊野はぬるくなり炭酸の薄くなったジンジャーエールをぐっと煽った。隣で増間はじっと高田を見ている。観察とも、監視ともつかない。
「多分、おっちゃんはずっと前から村嶋を殺そうと考えとったんやと思う。かにの裏にあったリールは脚の動きを利用してロープを巻き取るもんやったけど、あんなんとっさに思いつくもんちゃうしな。……あの日、借金の取り立てに来た村嶋をおっちゃんはまず水の入った瓶で殴打した。脳震盪を起こした村嶋はろくな抵抗もできんと意識を失うまで溺水させられた。そんでかに道楽とびくドンの間の路地に村嶋を隠して、首にロープをかけた。あとはかにが時間をかけて首を締め、おっちゃんがおらん間に村嶋は死んだ。……ちゃうか」
熊野は赤く滲んだ目で高田をきっと睨む。その目に宿るのは怒りではなく、なぜこんなことしたのかという悲しみだった。高田はその目をまっすぐ見つめ返す。
「俺はな、熊野さん。この店を守りたかった……ただ、それだけなんや」
「それやったら!」
熊野が立ち上がった勢いで椅子は倒れた。握りしめられた拳は震えている。
「それやったら……なんで俺らに相談してくれへんかったんや……証拠さえあれば、いや現行犯でしょっぴくことやってできたはずや。おっちゃんが自分の手を汚す必要なんてなかったやん。なんでや、なんでなんや、おっちゃん……!」
「すまんなあ熊野さん……増間さん、警察まで連れてってもらってええかな」
「……20時43分、高田浩介を殺人の容疑で逮捕。熊野、ちゃんとメモ取れや。……ほな高田さん、戎橋交番までご同行願います」
増間は手錠はかけず、高田の背をそっと押した。熊野の静かな嗚咽と場違いなバラエティ番組だけが、店主を失った店内にむなしく響いていた。
3人の女子大生はあれやこれやと中身のあるようでない会話を繰り広げながら行列に並んでいた。行列の先は創作たこ焼き専門店「たこ踊り」である。高田が逮捕されてから数日は休業していたが、唯一の社員である若い男性が高田の跡を継ぎ営業が再開された。新店長となった男性は彼なりに創意工夫を凝らしたたこ焼きを作り、その中でもたこ焼きクレープが若い女性の間で人気となっている。
「新作発売されたらこの店もゲームに登場したりしいひんかなあ」
「いやーありえるで。多分サブクエストでたこ獲ってこいとかなんか言われるやつやわ」
「そんでチンピラと戦闘始まったらお助け武器くれるんやろ!」
「うわーありそう! あっもうちょいで順番来るで」
パトロールを終えて戎橋交番に戻る熊野は、たこ踊りの行列を横目に大きなあくびをした。隣で増間は苦笑いをしている。いまだ道頓堀商店街にかつてほどの賑わいは戻っていないが、たこ踊りの人気はこれから活気を取り戻すであろうミナミの希望にも見えた。
「おじさんの店、人気でよかったなあ」
「あほ、おっちゃんと比べたらあのにーちゃんまだまだやで」
「そんなん言うて、こないだ食べたチョコレートたこ焼きめっちゃうまいって絶賛しとったやんか」
「そやったかなあ。忘れたわ」
高田の刑期は情状酌量により求刑より短くはなったものの、すぐに刑務所から出てこれるほどのものでもない。しかし新店長となった男性は高田が戻ってくるまでたこ踊りを守り続けると高田に誓い、そして熊野と増間にも頭を下げて何かあったときの助力を乞うた。少なくとも、2人が戎橋交番に勤務し続けるうちはたこ踊りが潰れることはないだろう。
熊野はもう一度あくびをして空を見上げた。ところどころを電線で区切られた空は、気持ちのいい澄んだ冬の青空だった。