それぞれの杞憂
主人の執務室から退出すると、バロンは咎めることも理由を言及することもせず「大丈夫ですよ。」とだけ言って微笑んでくれた。
どういう意味の大丈夫なのかはよくわからなかったが、自分の失態は大丈夫なことではないとレイアは思っていた。
その後バロンは何事もなかったように屋敷内を丁寧に案内してくれた。
いくつもの客室、広い食堂、大広間まで、これは本当に家なのかと疑ってしまう広さに圧倒され通しだったし、一通り見終わるだけでも随分時間がかかったような気がする。
屋敷案内を終えると、後ほどコルネールを向かわせるので夕食を一緒に取るようにと提言してくれた。
コルネールと一緒にしてくれたのは、レイアの心中を察したバロンの気遣いだろう。
「ありがとうございました。あの、先程は本当に申し訳ありませんでした。これから、沢山ご迷惑かけてしまうかと思いますが、明日から一生懸命頑張ります。よろしくお願いします。」
初日早々、主人に失礼な態度を取ってしまった失態と、これからの不安を胸にレイアは頭を下げた。
「最初から上手くいかないことは当たり前です。なので、沢山迷惑かけてもらって結構ですよ。明日から、楽しく頑張りましょうね。」
ほっほっほと微笑みながらバロンは言ってくれた。
レイアは、どんよりと沈んだ気持ちをバロンの優しさで掬われ、ほんの少しの暖かい気持ちを抱えながら自室に戻った。
ーー
ハインズに紅茶を届けに来たバロンは、執務室に再び訪れた。
紅茶を入れ渡すと珍しくハインズが尋ねてきた。
「彼女に何か言ったのか?」
ハインズから話しかけられることが珍しすぎて、一瞬だけ彼女とは誰のことだろうかとバロンは考えたが、すぐにレイアのことだと分かった。
「何も申しておりませんよ。付け加えさせて頂くと、彼女はハインズ様の見目も噂も全く知らずにここへ来ました。」
「そんなの、嘘に決まっている。」
ハインズは顔に笑顔はないものの、自嘲気味に鼻で笑ったように言った。
たしかに、普通に生きていれば嫌でも耳に入るような有名な噂話なのかもしれない。
しかしバロンは、続けて事実を述べた。
「彼女は人里離れた田舎で暮らしていたようですからね。噂も耳に入らなかったのか、それとも単に本人が全く興味を抱かなかったのか…私は後者だと思いますがね。」
レイアが涙を流した時、最初はハインズの態度と瞳に慄いた恐怖で泣き出したのかと思い、バロンは(あぁ、やっぱりダメだったか。)と落胆しかけた。
しかし、彼女の表情を見ると恐怖なんて文字はこれっぽっちもなかった。
ハインズの瞳をじっと見つめる眼差しには、同情や憐れみを彷彿させ、救い出したいと願うような慈しみさえ感じられた。
そして、弁明の口を開いた彼女からはまさにその通りの言葉が吐き出された時は衝撃だった。
しかもそれが嘘を並べたようには聞こえなかった。
ハインズは黙った。
一点を見つめて、何かを考えているようだった。
そして、口を開くと言った。
「なぜ、泣く必要がある。初めて見るこの目がそんなに恐ろしいか。」
「いえ、恐ろしさ故の涙ではなく、むしろその逆の涙であると思いますがね。」
(ハインズ様も分かっているだろうに、私に言わせるなんて疑り深い人だ。)
とバロンは内心で呆れていた。
しかし同時に、バロンに言わせることで確信を持ちたかったのかなとも思う。
他人のことについて、こんなに喋るハインズは珍しい。
人に興味関心を抱かず、周りのことはどうでも良いというスタンスがいつもの彼なのに、と少々違和感を感じる。
きっと、人から避けられ、罵られ、蔑まれて生きてきた彼にとって、初めて出会う類の人だったからではないだろうかとバロンは思う。
人々は恐れて、蔑み、離れていくのが当たり前で、孤立した者に近づこうとする物好きなんていない。
涙を流す者がいるとすれば、恐怖や気味悪さ故だった。
でも、彼女が泣いた理由は違った。
瞳を美しいと言ったその上で、ハインズを蔑む者への怒り、そしてハインズ本人が背負って来たであろう悲しみを汲み取ろうとする同情。
そんな涙からは絶対的に味方なのだと伝えられた。
第三者のバロンでさえ心に沁み渡ったのだから、ハインズ本人からすれば余程の衝撃だったのではないだろうか。
突然現れた、今まで彼が喉から手が出るほど望んだ言葉をさらりと言いのける存在。
それで心が動かないことがあるだろうか。
だから、違和感を消化したくなった故に、いつも固く閉められた口を開いてわざわざバロンに問いかけたのではないだろうか。
そして同時に、ハインズは態度や表情には全く表さないが、ちょっと嬉しいのではないかというのもバロンは感じ取っていた。
その証拠に、書類をめくる手は止まっており、仕事もあまり手についていないようだ。
伊達に長年仕えている訳じゃないんだぞ。というような少々得意げな気分だった。
ーー
「レイア〜!ついに来たのねー!‥って、え?どうしたの。来て早々、なーに暗い顔してるのよ!…まさか、もうホームシック?!」
ノックの音と同時に、勢いよくレイアの部屋のドアを開けて入ってきたのはコルネールだった。
それではノックの意味が無いではないかと思ったが、今のレイアにそれを口にする気力はなかった。
親友はレイアの顔を見るなり直ぐに落ち込んでいることに気がついたようで、隣に座って顔を覗き込んできた。
さすがと言えるのか、よっぽどレイアが落ち込んでいたのか。
「ちがうの。あのね、私、侯爵様の前で失礼な態度を取ってしまったの。傷つけてしまったかもしれないし、怒らせてしまったかもしれない。…私って本当にダメね。」
「え。何したの?」
レイアが他人にいきなり失礼な言動をするなんてあり得ないと思ったコルネールは、少し笑いながら尋ねた。
「私、ご主人様の瞳が青いってことを知らなかったの。だから初めて目が合った瞬間、なぜか突然昔の悲しい思い出が蘇って来てしまって。図々しくも、きっとご主人様も辛い経験されて来たんだろうなって思ったら、余計悲しくなってしまって…泣いたの。」
しょげたようにレイアは落ち込みの理由を口にしたのだが、コルネールからの返答は無かった。
いつもなら間髪入れずに喋り続けるのに、どうして黙ってしまったのだろうと不思議に思ったレイアは俯いた顔を上げ、コルネールの方を見た。
するとコルネールは顔を伏せ、肩を小刻みに震わせていた。
そして堪えられないというように顔を上げると
「この国にたった1人の群青色の瞳って超有名な話じゃない!それも知らなかったなんて、レイアはどこの箱入り娘よ〜!」
と、ケラケラと笑っていた。
笑われてしまって良い気分はしないが、コルネールはレイアの言った“昔の悲しい思い出“には触れないでいてくれたのは彼女なりの優しさだろう。
「もう〜、笑いごとじゃないんだから。初対面の方の目を見た瞬間泣き出すって、相手をまるで卑下しているようでとても失礼なことだわ‥。」
卑下しているつもりなんて微塵も無いが、相手にはそう思われてしまい、傷つけてしまっていたらどうしようとレイアは気にしていた。
けれど、ひとしきり笑い終えたコルネールはレイアを真っ直ぐ見つめると、優しく慰めてくれる。
「レイアがご主人様の目が“怖い“とか“気持ち悪い”と思って泣き出したなんて多分思ってないわよ。理由は上手く説明できないけど、レイアからは、こう、誠実さ?というか慈しみというか‥。自分のことをすごく考えていてくれるんだなっていうのがいつも相手に伝わる感じなの。」
だから、きっと大丈夫よ!とコルネールは笑顔でレイアの背中をポンッと叩いた。
そしてコルネールは矢継ぎ早に“もうこの話は解決!だから終わり!“と言って急に話を変えた。
「実は私の部屋ね、レイアの向かいの部屋なのよ〜?これでいつでも直ぐに会えちゃうんだから!」
コルネールはこのことを早く言いたくて仕方がなかったというようにはしゃぎながら教えてくれた。
「えぇ!それは心強いわ。コルネールが近くにいてくれると思うととっても安心する。」
そのことを聞いたレイアは緊張による肩の重荷が少し軽くなったようにホッとした。
「私もとっても嬉しい!この部屋はずっと空き部屋で埃まみれだったんだけど、レイアが来るって決まった時から、使用人の皆さんが色々準備してくださったのよ!しかも、私と近い部屋の方が安心するだろうって言ってね!」
「そうだったのね。こんな素敵なお部屋を用意してくださってとてもありがたいわ。お礼を言わなくちゃ。」
「そうね。これから一緒に頑張りましょうレイア!そして、そろそろ夕食に行きましょう?案内するようにバロンさんから言われているから!あ〜もうお腹ぺこぺこよ〜」
そう言って、コルネールは地下にある使用人たちの食堂へ連れて行ってくれた。
本当に嵐のように話題が変わっていく忙しない人だと、いつものように呆れながらコルネールに着いて行ったレイアの頭に先程の失態の杞憂さはいつの間にか忘れられていた。
ーー
執務室で溜まった書類の確認がひと段落したハインズは、すこし冷めた紅茶を口に運ぶ。
紅茶の香りに癒されていると、ふと先ほどの新人侍女のことを思い出した。
大して興味は無かったが、どんな人物が来たのか一応見ておこうと目線を書類から離して彼女を見ると目が合った。
その瞬間、彼女は瞳孔を大きく開いた目でこちらを見つめたまま、何かの衝撃を受けたように固まった。
人々は好奇の目で自分のことを見るが、その目つきとは何か違う。
恐怖に慄いた訳でもなさそうだった。
すると、彼女の開き切った目から大粒の涙が流れ落ちた。
一粒落ちると枷が外れたようにポロポロと流れてくる涙。
社交界で出会う、嘘泣きをして気を引こうとする令嬢たちとは違った。
俺の心の中を覗き見て、同情しているように見える悲しげな表情。
不思議にも、その表情からは恐れや拒絶は感じなかった。
自分と目が合うと、恐怖で泣き喚く子供たちとは違った。
まるで自分のことを心配しているかのような感覚が不思議と伝わってくる。
彼女は言った。“お辛い経験をなさってきたのかななんて”と。
なぜ目を見ただけで、そんなことがわかる?そして、なぜそんなことを想って涙を流せる?自分の過去など知らないはずだ。
もしや新手の魔術持ちなのか。
いやしかし、目は褐色であったからそれはあり得ないと思う。
そしてこの瞳を美しいと言った。
そんなはずがあるものか。
なんなんだ。彼女は。何を考えているんだ?
もしかすると、どこかの貴族や国の廻者だったりするのかもしれない。
俺を騙し籠絡して、この屋敷に潜伏して、使用人たちを懐柔して、情報を盗みに来たのか?
彼女は何がしたいんだ?何が目的なんだ?
いつも使わない思考を使ったからか、一気に疲労感に襲われた気がした。
そして、ふと我に返って思う。どうしてこんなことを考えているのだろうと。
全てのことはどうでもいいのではなかったのか。
あの日、全てを捨ててきて、諦めてきたはずなのに。
「はぁ…。」
ひとつため息をついたハインズは、
信じたいのに、素直に人を信用できない自分に虚しくなって椅子の背に凭れかかった。