あの日の思い出(2)
目を覚ますと、レイアはソファの上で横たえていた。
どうしてこの状態なのかと、起きていた時の記憶を遡ってみる。
するとゼリスさんの言葉が面白いように蘇ってきて、私を追い詰めてくる。
現実は私を逃してくれなかった。
夢であってくれないかなと何度想像したことか。
本当に悲しい時、絶望を感じた時、涙も出なければ声も出ないことを知った。
なぜなら、脳が状況を理解することを拒むから。
しばらく横たえたまま、天井を見つめていた。
すると、母とベッドで寝転んでいた時に見上げたエリーフ家の天井を思い出した。
(木目を辿って迷路をしてたっけ。でもゴールする前にいつの間にか寝ちゃって、母が寄り添ってくれているだけで、何も考えずに安心して眠れたな…)
レイアには隣に母がいる感覚が染み込んでいた。
ふと、添い寝する時にいつも母がいた左側を向いてみる。
ソファに横たえていたレイアの視界には、見慣れないソファの背もたれの布地が間近にあるだけだった。
あぁ、母はもういないのか。
すごく遠いところへ行ってしまったのか。
会いたくても会えないのか。
これからずっと1人で寝るのか。
父にも兄にも、もう絶対に会えないのか。
(私は独りになっちゃった。)
落ち着いて、理解できるようになってしまったら、悲しみが波のように押し寄せてくる。
涙がどんどん溢れてきて、呼吸が追いつかない。
息苦しくて苦しくて、でも悲しくて、寂しくて、嗚咽のように泣きじゃくる。
その声を聞いた台所にいたゼリスが急いでレイアのそばに来る。
「悲しい、悲しいよな…。うん、うん…。大丈夫だよ。ゼリスさんが君を1人にはしないから。大丈夫、大丈夫だからな。」
ゼリスさんも一緒に泣いてくれた。
しばらく2人とも涙が止まらなかった。
ゼリスがギュッと抱きしめらてくれたのに、安心できなかった。
母に抱きしめられた時は、眠くなりそうなくらい穏やかな気持ちになるのに。
今はまるで何も感じない。
つい昨日まで居たあの家はもうない。母との会話は行ってきますで終わってしまった。
父は仕事で家を出ていて、兄は部屋で勉強中だったな。
この世をいくら探しても、何を犠牲にしても、もう会えないのか。
そんな後悔を考えても、泣いても、無駄だと分かっているのに、涙は溢れていつまでも止まってくれない。
私は何に縋り、何を思って、どう生きていけばいいのか。
私だけが生き残っちゃった。
みんな、まだまだ生きていたかっただろうに。
まだまだやりたいことがあっただろうに。
その人たちの分を背負って生きていかなくてはいけないんだ。
みんなの犠牲の上に私は生きている。
みんなの命と引き換えに生きてるなんて申し訳なくて、まるで自分が罪人のように思えてしまった。
だから、自分本位に生きていくことは傲慢で、許されることじゃないんだ。
幼いながらに、そうやって自分自身に罪を刻み込んだあの日の出来事を思い出し、荷物をまとめる手を止めて、部屋で静かに、レイアは泣いていた。
ーー
それから、ゼリスと暮らすまでのことも思い出していた。
レイア・エリーフは事実上は死亡になっている為、戸籍が無かった。
けれど、ゼリスを正式に養父とする手続きを踏んだ方が、後々都合が良い。
したがって戸籍上は養子という形にするために、レイアは一旦孤児院へ預けられることになった。
孤児院では身元不明の幼児が集まることは珍しくないので、特に怪しまれることなく新たに戸籍を作成してもらえるだろうと踏んだのだ。
「いいかい?何を聞かれても"わからない"と答えるんじゃ。決してエリーフの姓も名乗ってはダメじゃからな。…大丈夫。すぐにゼリスさんが迎えに行くから。」
そう言って、孤児院から少し離れた場所からゼリスに送り出された。
本当は"レイア"という名前も改名した方が良かったと思うが、残してくれたのはゼリスさんの慈悲だろうか。
孤児院に着いたレイアはどうしたらいいのかわからなかったので、入り口にポツンと立っていた。
すると施設の人であろう中年女性が気づいて声をかけてくれた。
「あら?!あなたどうしたの?どこから来たの?」
どうやって来たの?ご両親は?何歳?…
様々なことを質問されたが、名前がレイアであること以外は全て分からないと答えた。
本当は分かるのに分からないと言って心配させてしまっている罪悪感から、自然と声は小さく、悲壮感の滲んだ表情になっていた。
その様子を見て、孤児院の先生方は何か悲惨な出来事のせいで精神的にダメージを受けていると判断したようだった。
「大丈夫よ。これから此処で私たちと暮らしましょう。」
にこやかにそう言って優しく手を繋ぎ、院内へ案内された。
孤児院で暮らしたのはほんの数日くらいだったと思う。
エリーフ家で暮らしていた時は、社交の場に出て行くことも同年代の子供たちと遊ぶ機会もほとんど無かった。
だから輪に入るにはどうすればいいのか分からず、ずっと1人でいた。
(みんな、楽しそう。)
広いホールのような場所に集められた同年代の子供たちは、玩具や遊具を使ってはしゃいでいた。
数人ごとのグループで遊んでいるようで、一人ぼっちの子なんていなかった。
自分だけ取り残されたような、やるせなさと心細さを感じていたそんな時、
「一緒に遊ぼう。」
女の子4人グループの先頭に立つ少女がレイアに声をかけてくれた。
けれど、突然すぎて状況を理解できなかったし、集団に飛び込む耐性が無いレイアは咄嗟の言葉も出て来なかった。
(遊ぶ…?何して遊ぶんだろう?けど、その前に名前を言った方がいいのかな、でもなんか怖いな‥)
なんて答えたらいいのかわからず、おまけにやけに堂々とした少女たちの圧に緊張し、キョロキョロと目が泳いでしまう。
「え、何この子全然喋らないじゃない。つまんない。」
「えー無視するなんてありえない。」
「何様のつもり?」
「1人が好きなんだよきっと。」
4人は蔑むような目でこちらを見ながらレイアに聞こえるように話す。
違うのだと弁解したかったが、4人は足早にどこかへ行ってしまった。
吐き捨てられた言葉は、レイアの脳内をしばらくこだましていた。
まさかそんなことを言われてしまうなんて思っていなかったため、驚きと悲しみが心を萎ませていく。
(違うのに‥違う、そんなこと思ってない‥)
それ以降、誰もレイアに声をかけてくれることはなかったし、レイア自身は人に話しかけるのが怖くなってしまった。
一人で食事をして、一人で本を読む。
「あいつの髪色、くすんでない?」
「もしかして風呂に入ってないとか?」
「汚ねえー。バイ菌がうつるぞ。」
聞きたくもないけれど、耳に届くのはそんな悲痛な声だった。
人と話すのは難しいし、怖い。
そんな悲しい教訓を植え付けられたとても長い数日だった思う。
2日後、孤児院へゼリスが来た時、レイアは泣きそうだった。
やっと会えたという安心感なのか、この場所から抜け出せるという嬉しさなのか、よく分からなかったけれど泣きたくなった。
しかし泣いてしまったら、顔見知りの関係だとバレてしまうと思ったので懸命に堪えた。
院長と何かを話しながら、ホールで遊ぶ子供たちを眺めているゼリスを見ると、本当に自分を選んでもらえるのかと不安になった。
(私の髪の色はくすんでるし、思ったことも口にできないし、意気地の無い泣き虫だし、いいところがないダメな人間だから…。他の子の方が良いって思っちゃうかもな…。)
自己肯定感を削がれたレイアには、絶対に選んでもらえると思い込むことはできなかった。
けれどゼリスは初対面ですという小芝居を打って、しっかりとレイアを選んでくれた。
“選ばれないかもしれない“と思ったレイアは“どうしたら選んでもらえる子になれるだろう”と考え始めていた。
冷静になって思い返せば、個性を無くそうとしていた自分に気がついた。
ここにいる子供たちは、見た目やなんとなくいい子そう、地頭が良さそう、という里親のあやふやな基準や好みに振り回されている。
選ばれるために、よく見られようと自分を大きく見せたり、偽ったり。
自分の価値を決められて、子供として、もしくは人として否定されているような、選ばれない惨めさに何度も打ちのめされているのだと心が痛んだ。
ありのままを好きでいてくれる、ありのままを愛してくれる存在なんて夢のまた夢だ。
自由奔放に振る舞って、時には泣いて怒って我が儘を言って、それでも愛を与えてくれていた家族の尊さを実感した。
でもその存在はもう居ないのだ。
だからゼリスさんに、そして関わる全ての人に嫌われない良い子でいなければと心に刻んだ。
ーー
ゼリスは、“知識は一生の宝だから“と言って、家から1番近いところにある小さな街の女学校にも通わせてくれた。
今まで何不自由ない生活をさせてもらっていたことを振り返ると、自分は何も返してあげられていないことに気づく。
何度ゼリスの優しさに助けられ、今まで生きてこられたのだろうかと。
ゼリスには沢山の親愛を注いでもらったことに改めて深い感謝を感じる。
(私は与えてもらうばかりで、何もゼリスさんに返せていないけど、せめて感謝は伝えたい。)
そして、レイアは机に向かって手紙を書き始めた。