あの日の思い出
レイアが侯爵家へ向かう日までの日々は、普段と変わらないものだった。
いつも通りに家事をして、薬作りを手伝って、喫茶店の店番をして…
至って普通だった。
いや、普通で居ようとしていたのかもしれない。
16年過ごしたこの家を出ると考えると、寂しくなってきそうだったから。
出発の日の前日、レイアは荷物をまとめていた。
数少ない服を詰めてから、沢山ある本はどれを持っていこうか選別する。
「これは忘れてはいけないわね。」
瞳の色を褐色に変える薬。
飲み薬と目薬をボストンバッグに忘れずに入れ込んだ。
自分の大切なものたちをカバンにしまうたび、もう此処から離れるんだという現実味を感じ、切ない気持ちになる。
ふと、より一層簡素になった部屋を見渡しながら呟いてみた。
「16年間、お世話になりました。いつかまた帰ってくるだろうけど、その時はまたお世話になります。」
ぼーっと部屋を見渡していると、様々な思い出が蘇ってくる。
つらくて、悲しくて、もう何も考えたくなかった6歳の私。
この部屋で何度涙を流したことか。
レイアは初めて此処に来た時を思い出していた。
ーー
「ゼリスさんこんにちは!!」
「おぉ!よく来たなぁ、レイア。」
「ねぇ見て見て!これ、ヘンルーダでしょ!レイアが見つけたから、摘んできたの!」
「お?ヘンルーダなんて良く知ってるなぁ!レイアは本当に覚えるのが早くて、賢いなぁ。」
「これで薬作れる?」
「もちろんだとも。これは人の腸の調子を整える薬の素となる薬草なんじゃ。この草で、お腹が痛くて困ってる人を救えるんじゃぞ。」
「わぁ、すごい!!!レイアすごいの見つけたんだね!」
「ほんとじゃな!では、今日は何を手伝ってもらうとするかな。」
6歳の頃、レイアは度々ゼリスの家に遊びに来ては薬研究の見学をしたり、簡単な手伝いをさせてもらったりしており、遊び感覚で様々な知識を自然と吸収していった。
元はといえば、レイアの父が森の中にポツンと佇むゼリスの家に行くと行った時に、興味本位でついて来たのがきっかけだった。
優しいゼリスに遊んでもらうのが楽しくて、いつの間にか父がいなくても1人で遊びに行くようになっていた。
レイアの家はゼリスの家から見て東の方の小丘にあり、少々離れていたため、必ず護衛兵と共に行き来していた。
事故があったその日。
日が沈む前には護衛兵が迎えに来るはずになっていたのだが、日が暮れかかっても迎えは来なかった。
「迎えが来ないなんて、どうしたんじゃろうな。ではゼリスさんが送ってやろう!」
「やったー!夜のお散歩だ!レイア先に外に出てるね!」
薄暗くなってきた時間に外に出ることは滅多になかったので、ゼリスと一緒に夜の散歩ができると嬉しくなったレイアは、玄関を飛び出した。
すると、ふと空を見上げたレイアは彼女の生家「エリーフ男爵家」がある方角だけ空が明るいことに気がついた。
最初は夕日だと思った。だけど何かが違うとすぐにわかった。
夕日に煙は出ない。
夕日は煙で空を濁さない。
(燃え、てる?)
何かが、燃えてるんだ。…火事だ。
そう思った瞬間、駆け出したいのに体が震えて動けなくなった。
鼓動は早くなるばかりで、呼吸が整えられず苦しくなる。
何が起きているのか幼いながらにも頭では理解している。
でもその理解は間違っていてほしいから、思考を止めようとする自分と最悪の場合を思い浮かべる自分に追い詰められる。
あちらの方向に家は一つしか無い。
きっとじゃなくて絶対に、私の家が燃えている。
(お父様は無事?お母様も?お兄様も大丈夫だよね…)
(迎えに来なかった兵士さんは助けに行ってくれてるよね、きっとそうだ。だから迎えに来れなかったんだ。)
なんとか自分を安心させようと、現実を受けつけないようにと、頭の中は混乱していた。
だから、無意識に家の方へ少しずつ歩き出していたことに気づかなかった。
(早く、行かなくちゃ。)
そう思った時、
「レイア!ダメじゃ!帰るな!!」
背後からぜリスさんの声に突き抜かれ、我に返った。
ゼリスは駆け寄ってレイアの両肩を掴み、目を見つめてゆっくりと言った。
「よく聞くんじゃ、今レイアの家の方角で火事が起きている。今帰ったらレイアも巻き込まれてしまう危険がある。だから今は帰ってはダメじゃ。」
ゼリスさんは自分と私を懸命に落ち着かせるようだった。
その意見は最もだと思ったけれど、簡単に頷けるほど素直になれる状況じゃなかった。
「でも…お、お母様が…お父様も…」
今すぐ家族を助けに行きたいと、無事であることを確認しに行きたいと言いたかった。
なのにまだ震えが止まらなくて、口は思うように動いてくれなかった。
「心配なのはよく分かる。でも今は家族の無事を祈ってここに留まってくれ。落ち着いた頃に、わしが様子を見に行ってくるから、な?」
私の肩を抱えるゼリスさんの手に少し力が入る。そして少し震えている。
自分も私と同じくらい不安を抱えているのに、懸命に不安と恐怖を隠して私を安心させようとしてくれている。
そんなことを思ったら、何を言っても無駄な気がしてきて、反発する気は失せてくる。
「わかった…」
わかりたく無いけれど、そう言うしかなかった。
ーー
次の日、ゼリスは日が昇る前からどこかへ出かけた。
出かける前に机に何かメモを書いて残していったようで、机の上には紙切れが置かれていた。
レイアは眠れず、ソファで毛布に包まって寝たふりをしていただけだったので、ゼリスが家を出ていくのに気がついていた。
きっと、エリーフ男爵家の状況を見に行ってくれているのだろう。
起き上がって、机の上に置かれたメモを見る。
『少し留守にするけれど、絶対に家からは出ないこと。そして、もし誰かが来ても無視をして、絶対に鍵を開けないこと。』
どうしてだろう?とは思ったが、体が鉛のように重たくて、動く気にもなれなかった。
もし、お父様もお母様もお兄様も無事じゃなかったら。
でも、無事かもしれない。
もし、家が全部焼けてしまったら。
でも、私の家が火事だったわけではないかもしれない。
頭の中は最悪の状況と、そうでない都合の良い状況とを繰り返し巡る。
考えたって意味がないのは分かっているけれど、願わずにはいられない。
見えない結末に関してもう何も考えたくなくて、無理矢理に目を瞑ると真っ暗な暗闇の中を深く深く落ちていく気がした。
いっそのこと、落ちてしまいたい。
そんなことを考えていると、いつのまにか眠りについていた。
目を開けると視界にゼリスが入る。
レイアの眠るソファの下のカーペットに座り込み、ソファにもたれかかっていた。
「起きたかいレイア。」
その声質は優しかったけど、無理矢理穏やかさを作っているようでいつもとは何か違うような気がした。
けれどそんなことよりも気になる事がある。
「家は、どうだったの?」
横たわっていた体を起こし、ゼリスに詰め寄った。
ゼリスは真剣な面持ちで、隠しきれていない悲しい目を向けて、レイアの眼を見つめていた。
少しの沈黙の後、ゼリスは何かを決意したように口を開いた。
「落ち着いて聞いてほしい。君の家は、昨日の火事で燃えてしまって…。そして、今のところ生存者は見つかっていないそうなんじゃ。つまり、その、…君の両親と兄は亡くなった可能性が高い。」
ゼリスの言葉は耳に入っているが、頭が全く働かない。
まるでどういう事かを理解させないようにしているみたいに。
まだ分からないのにどうして決めつけるのか、どうして希望を持たせてくれないのか、意味がわからなくて、頭に血が昇ってくる。
けれどゼリスの言葉は止まらなかった。
「護衛兵も侍従者も全滅なんて、不思議だと思うんじゃ。これは誰かが意図的に火事を起こしたんじゃと思う。冥還魔術に批判的な人物とかな。分からないことだらけじゃが…とにかく。レイアはもうエリーフを名乗ってはいけない。絶対に。その理由は複雑だから、また今度落ち着いたらもう一度しっかり説明する。
…そして、父のエルウィン、母のセレーナ、兄のマーロンが実の家族であるということも絶対に人に話してはいけない。」
ゼリスも詳細に事態を理解できているわけではないが、事実を包み隠さずレイアに話した。
子供だからと言ってここで優しい嘘をつけば、後々レイアがもっと悲しむことになると思ったからだ。
「君は今日からレイア・オルゼット。私の娘として生きていくんじゃ。」
その一言だけがレイアの耳に届いた。
すぐそばでかけられた言葉のはずなのに、その他の言葉はとても遠くから言われたように聞こえた。
(ゼリスさんが何か言っている。わからない。なに?どういうこと?あぁ、もう何も考えたくない。いやだ。)
状況を理解したくても、できないし、したくない。
すると、レイアの張り詰めていた精神の糸はプツンと切れてしまった。
その途端、彼女は意識を失った。