都市にかかる
ネモフィラの花が風にそよぐと、その花を踏んでしまわないように、そっと一人の少女が降り立ちました。幼い顔立ちのその少女は、険しい顔をして都市部を見ています。
「舞うとするかの」
深く息を吐いて7秒止めて、一尺はある扇子を広げて少女は舞い始めました。
見据える先には次々と壊れていくビル街。暴れる狸の置物が大きくなったり小さくなったりして、あらゆる野菜を貪り回っています。
ここ1000年近くこのような機会はなかったので、昔を思い出しながらのあやふやな足取りに、ネモフィラたちはそわそわしながら見守っています。
「そんなに心配しなくても、記憶力はまだまだ衰えておらんよ」
確かに祝詞ははっきり唱えられていますが、取れにくくなった足腰にネモフィラたちは一緒に踊って彼女の記憶を手助けしてくれています。
ここ数年都落ちしている間にすっかり邪悪なるものに染まってしまったその都は、昼間だというのに薄暗く影が降りていました。
ネモフィラたちがカンニングさせてくれるおかげもあってか、だいぶ舞いの記憶の戻ってきた少女は背筋にじんわりと汗をかきながらも舞いの段階を登っていきます。
その間にも狸の置物は大きく伸びて高速道路を三つ粉々に砕いてしまいました。
幼い子供の声が甲高く、野太い声は携帯電話に向かって、ひたすらに声を張り上げています。看板が7階から落ちて倒れると、スーツを着た人たちが3人巻き込まれて死んでしまいました。
祝詞が終わるまで、狸の置物による犠牲者はますます増えていくことでしょう。
彼女は狸の置物のことを気にしながら、しかし舞いを間違えてしまわないように、焦りを抑えてその様子を眺めています。呼吸が上がってしまうのを抑えて、月明かりが影を都へ落とそうとする頃には、狸の置物の周りに薄紫色の結界が張られていて出られなくなってしまっていました。
狸の置物が日没まで暴れた割には壊れた建物はそう多くなく、だんだんと縮小していく結界にもたれかかって、壊れてしまった右の頬を押さえて労っています。
ダメかと思われたその舞いを間に合ったと評価するのかはともかく、ひとまず狸の置物の行いを止めることができたその少女、隠せなくなった両耳のふさふさした狐の耳、三角形の輪郭を両手でなぞりながら、ネモフィラの花畑の真ん中でうずくまって呼吸をしておりました。
数年前、ネモフィラの花畑に隣接しているあぜ道、野菜をみんなで食べましょうと書かれた看板が立っているその脇に、ポツンとその狸の置物が置かれていました。少女の思い出せる限りでは、初めて会ったのは、自分が激怒していた時です。その頃の自分も、今日よりも未熟に花に囲まれて踊っていました。空もいたずらに高いところまで晴れていて、まだ咲いていないネモフィラの花がまだ冷たさの残る風にそよいでいました。
その日は朝から自分の住まいを掃除した後に散歩をしていた狐はその狸の置物に出会ったのです。あぜ道を行く先に佇んでいた狸の置物は自分よりもはるかに背が大きくて、その大きなお腹に小さな手をすり寄せると、本当にたくましく思えました。お役目を務める以外の日々は本当に切ないほどに一人でいた自分にとって、それ程の逞しい存在は一方的に親愛の情を感じるのも時間の問題でした。
朝早く起きては一人でお勤めを終え、そこから散歩に行って狸の置物のお腹を触る日々は、毎日一人であるということを実感させられる寒色の毎日に、ささやかな暖かさをもたらしてくれました。ネモフィラの花が咲き始める頃になると、狸の置物の周りは賑やかというよりはうるさくなり始めます。唸りを上げる大きな重機がネモフィラの花を熱心にたおりながら、自分の畑を耕していくのです。
その頃のキツネも昼間は狸の置物の近くに行けなかったけれども、時間をずらしては狸の置物に触りに行く日々が続いていました。重機の出番が少なくなって、今度は小さな円盤が活躍するようです。畑の上を縦横無尽にビュンビュンと飛び回りながら霧を撒き散らし、畑に栄養を与えているようです。その霧が狸の置物にかかってはずぶ濡れにさせて、そのぬるぬるとしたような甘苦く嗅覚を刺激する液体をかわいそうに思いながら一生懸命拭いてあげていました。
「狸の置物に農薬をかけてみた」
ある日やってきた、男ばかりの集団はそう言いながら、そのうちの一人の男はカメラを回します。あと二人の男は片方が変な顔をしながらカメラに近づいたり遠ざかったりしつつもう片方の男が円盤を操作して、あからさまにその円盤を狸の置物の上に滞空させると、霧を重点的に狸の置物にかけて行きました。
その様子を物陰から見ていたキツネは彼らがどうしてそのようなことをするのかわからず、いてもたってもいられずにそっと近づいていきました。
じりじりと近づいていく最中にも、狸の置物の右頬をハンマーで打ち砕き、その辺にすてて、空いた空洞にカメラを差し入れます。
「どうして、そんなことを……?」
結界に丸く収まった狸の置物は無表情にカンカンとあちこちを叩きながら、喋ることができないので、どうして自分を捕まえるのかと音で抗議をしています。
お前も同類じゃないのか。そうやって問いただしているようです。
右側半分がすでに壊れてしまった彼を、結界の上から撫でます。
瓦礫の中からは、彼の体はもう見つからないだろう。
人がいない瓦礫の真ん中で、キツネの少女はそう思いました。あのふくよかなお腹も、今はもうひび割れています。
「お前が暴れたい気持ちも分かる」
狸が音を立てるのをやめました。
「でもなあ、こうやって力で暴れたところで何人の人間に復讐することができたのじゃ?」
狸の置物は残った左手の指で数えようとしましたが、すぐ止めてしまいました。
「数える気が起きる程度の人数を殺めたところで仕方あるまい。」
狸の置物はうなだれます。
「全く、私のためにやってくれたのは分かる。ありがとう。」
狸の置物は反省したかのように、静かに体を投げ出しました。
「やめろと言って止めているわけじゃない。そうではなくて、やるんだったら徹底的にやらなければな」
誰も近づかない瓦礫の山で、キツネは一尺の扇子を開きます。遠くにいる、ネモフィラの花たちがまた風にそよぎつつも、キツネの動きに呼応して舞いを始めます。
月の影はだんだんとその濃さを増し、あらゆる街灯を淡い色に染めていきます。その影は、道路も壁もかまわずにとてつもない速さで這い周り、あらゆる穀物や野菜の中にずるずると入っていきます。
「この力を得るまでのあいだに少しだけ待っていて欲しかっただけなのじゃ」
狸の置物は目を丸くすると、ほんの少しだけ赤くなって、さらに体は小さくなって狐の上に乗りました。
空が白んできて人々が瓦礫の山に近づいてくる頃には、二つの影はもうありませんでした。
人々は、安心して朝ご飯を作り始めました。
ネモフィラの咲く花畑で、欠けた狸の置物のお腹を、狐の少女が撫でています。
あの日、あの後の記憶が鮮明に今でも蘇るのです。
―声が聞こえたのかカメラが狐を向き、3人の男たちがアイコンタクトさえせずに笑顔を作り、こっちに来るように手招きします。
「ご説明させていただきます!」
明るく男が言ったので、むしろなにか重要な意味合いがその行為にあったのではないか。
あっと思ったときには、腰を抱きかかえられて、男は叫びました。
「狐のしっぽ、切ってみた!」―