校舎の窓から手を振ってくれる特進クラスの天才少女
俺──稲山広輔は地元の学校に通う平凡な男子高校生だ。友達もそこそこいて、勉強は平均レベル。容姿体型も特に優れているわけではない。
「コースケー、帰ろーぜ」
「ん」
部室にて。
友人の裕翔に短く俺は返事をする。
俺はサッカー部に所属している。
プロになるつもりなんてないし、大会に出て優勝しようなんてやる気もない。ただ仲間たちとゆるーくボール蹴って遊んで、なんとなーく過ごしていればそれでいいと思っている。
「喉乾いたなー。なんか自販機で買って帰ろうぜー」
「今日は裕翔が奢ってくれよ。俺今日めっちゃゴール決めたし」
「クッ、確かに今日のお前の活躍はヤバかった。しょーがねーなぁ。コーラでいいか? てかコーラでいいよな。コーラにするわ」
「コーラへの執着がパないんだが……」
裕翔と他愛ない話をしながら自販機に向かい。
コーラを奢ってもらったあとそのまま玄関を抜けて真夏の外に出る。ミンミンとセミの鳴き声が耳に悪い。セミというのは不思議だ。夏の間はあれほどやかましいと感じるのに、時期が過ぎ声が聞こえなくなると無性に寂しいと感じる。嫌でも時の流れを感じるからだろうか。
「暑すぎー! マジで暑いわ……明日も学校あるとかマジでないわー」
「俺のコーラ飲むか?」
「要らんわ! てか自分のあるし」
そう言って裕翔は片手に持っているペットボトルの緑茶に口を付ける。ただのジョークだっての、本気にすんなよ。
……でも、確かに暑いな。そういや朝にテレビで言っていた。今日は過去最高気温らしい。どうやら地球は俺達人間を殺しにきているようだ。
「あ……」
「どした?」
「……いや、何でもない」
俺の高校では2年次から普通クラスと特進クラスに分けられる。とはいっても生徒の九割は普通クラスを選び、そのまま卒業していく。
いや、正確には選ばざるを得ないのだ。特進クラスに行くためには滅茶苦茶に難しいテストを受けて合格点を取る必要があるし、クラスに入ったあとも生徒同士で競い合わされるからだ。噂だとそのせいで心を病んだ人もいるとかなんとか。
……そんな特進クラスの女子生徒が俺を見ていた。選ばれた者だけが立ち入ることを許された校舎の二階の窓から。俺を見て、そして手を振っているのだ。
「なんだよ、特進クラスの校舎なんか見て」
「……別に」
「そうかぁ? ……でもデケーよなぁ、この校舎。特進クラスの為だけに作られたんだよなぁ。こんな綺麗な建物の中でアイツら授業受けてるんだろ? そりゃ勉強も捗るわ」
「いやお前、校舎が変わっても勉強しないだろ」
「あ、バレたー?」
裕翔はケタケタと笑い。
再び緑茶に口を付ける。
まだ女子生徒は手を振っている。
俺は裕翔にバレないように振り返してみる。
するとその女の子は俺の行動が予想外だったのか、サッと身体を隠してしまった。変なことしちゃったかな。
(すげー可愛い子だったな)
遠くからだったからよく分からなったけど、相当な美人だった。俺のクラスの女子なんて無駄に髪染めたり無駄に化粧してるのに、あの子は髪も染めていないし、身だしなみもキチンとしていた。流石は特進クラスの女子といったところか。
「コースケ、行こうぜ」
「おう」
もう窓から姿を見せてくれなくなった女の子を残念に思いながら。俺は裕翔の呼び掛けに応じ、校門を出るのだった。
※※※
今日は映画鑑賞会の日だ。
体育館に全クラスで集まって、戦争に関する映画を観る日だ。目の前には大きなスクリーンにパソコンの画面が映し出されており、先生達が忙しなく準備をしていた。
体育館には特進クラスの姿もあった。俺は自然と彼女を探していた。あれから何度か校舎の窓から手を振ってくれる、例の女の子を。
「今日は午後の授業ないからラクだよなー」
「毎日これだったらいいのに」
「ボクは月に一回くらいでいいかも」
俺達二年三組は二列に並んで座る。
近くに座っている友達がそんな風に話していたが、俺の心は別のところにあった。あの特進クラスの女の子が気になる。……制服のスカートの色から、同じ二年生だというのは分かっている。……我ながらストーカーみたいでキショいな。
──そんな時だった。
周りの男子生徒達が騒ぎ始めたのは。
「わー、見ろよ。めっちゃ可愛い子いるぞ」
「どこどこ? うわ、確かに可愛いな」
「特進クラスの子じゃん。やっぱ頭いいんだろーな」
男子生徒達の視線の先にいた人物。
──彼女だった。紛れもなくあの子だった。
いつも特進クラスの校舎の窓から手を振ってくれる。あの女の子だった。
「俺あの子知ってるかも」
「まじー?」
「まじまじ、確か──」
考えるより先に行動に出ていた。
俺は『彼女』を知っているという友人にこう訊いた。
「あの子を知ってるのか……?」
「あれ、もしかしてお前あの子に興味ある系? 女の子とかに興味ないと思ってたんだけど」
「別に……ただ、最近よく……」
「よく?」
「ん、いや、何でもない」
「そうか? まあ、何でもいいけどさ、狙ってるならあの子は止めたほうがいいぞ」
「な、なんで」
友人は口元に手を添え。
コソコソと内緒話をするようにこう言う。
「いや、アイツ──宇佐美陽真はあの競争率の高い特進クラスで常にトップの成績を維持してる超天才らしい」
「そんなに勉強ができるのか」
「ああ、他の生徒が競うのを諦めるくらいにはな。宇佐美はいつか日本を飛び出して海外の大学に行くなんて言われてる。だからさ、アイツは俺達とは別の世界の人間なんだよ。関わるのは止めとけ」
「まじ? あんなに可愛いのに頭もいいってか? 絶対俺らのことバカにしてるよね」
「いや裕翔、お前は普通クラスのヤツらにもバカにされてるだろ」
「ちょ、それゆーなっ!」
話を聞いていた周りの生徒が裕翔をイジる中。
俺は先程の会話の内容にモヤモヤしていた。
『自分達とは別の世界の人間』
『他の生徒をバカにしている』
……違う、と思った。だって、校舎の窓から手を振る彼女の表情はどこか寂しそうだったから。
まるで鳥かごに押し込められたひとりぼっちの小鳥みたいな顔だった。鳴くことも許されず、あるいは鳴いても無駄だど学習しているような、そんな様子だったから。
そんな時、辺りが薄暗くなり、正面のスクリーンが明るくなる。どうやら映画の上映が始まるらしい。
──上映開始から三十分ほど経過して。
俺は恥ずかしながら尿意をもよおした。
挙手をして先生を呼ぶ。そしてその旨を伝えると、席を立ってもいい許可が降りた。俺は駆け足でトイレへと向かう。
(こういう時に限って行きたくなるんだよなぁ)
映画館に行った時などでよく起こる現象だ。
上映前に何度もトイレに行ったのに、何故か映画が始まるとまた行きたくなる。誰か科学的に解明して欲しいものだ。
パッパとやることを済ませ、手を洗う。
──すると、近くで物音がした。
何か大きなものが倒れるような、そんな音だった。不思議に思った俺は物音がした場所に向かってみる。すると、そこにいたのは──
「え……」
宇佐美さんだった。
廊下の角で倒れており、息が荒い。
一応運動部に入っている俺は即座に理解した。これは熱中症だ。
「大丈夫っ?」
「あ……ぅ」
「保健室行こう。ちょっと身体触るね」
宇佐美さんを持ち上げ、そのまま背中に担ぐ。
彼女はすごく軽かった。俺と同じ人間とは思えないほど。それに柔らかくて、どこ触っていいか分からなくなる。どこに触れてもセクハラになるのではと思ってしまうんだ。
「あ、君、かぁ……」
「喋らなくていいよ。保健室で手当てしてもらおう」
「え、へへ……ごめん、ねぇ……」
「うん、大丈夫だから……あ、てかごめんね? 普通に俺、君のこと担いじゃってるけど。嫌じゃない?」
「うん……大丈夫、だよ。かいてきーってかんじ」
「そ、そう?」
意外と余裕あるんだな。
あるいは無理をしているか。
きっと後者だろうな。
取り敢えず急ぎ足で保健室まで運ぶ俺だった。
※※※
「取り敢えずここに寝て」
「うん……」
「水でも持ってくるね。てかなんで保健室の先生いないんだよ……」
稲山広輔が保健室に入ると、中には誰もいなかった。取り敢えず宇佐美陽真をベッドに寝かせ、冷蔵庫にあった麦茶をグラスに注いで彼女に渡してあげる。すると両手でグラスを持ち、コクコクと飲み始める宇佐美だった。
「ん、ん、はぁ……ごくらく」
「まだお茶いっぱいあるよ。もっと飲む?」
「だいじょーぶ。でも、なんか冷たいもの食べたいな」
「そういやアイスが冷蔵庫にあったな。食べる?」
「でもそれ先生のじゃ……」
「大丈夫大丈夫、いない先生が悪いんだから」
「そ、そかな……」
稲山は冷蔵庫の中にあったチョコアイス(カップのやつ)を宇佐美に渡す。彼女はそれを手に取り、小さな口でもくもく食べ始めた。
「つめたーい。私チョコアイスすきー」
「あ、これ結構高いやつじゃん。先生め、生徒に隠れてこんな贅沢品を……」
「はは、先生も人間だねぇ」
そんな話をしばらくして。
アイスを食べ終えた宇佐美はベッドに寝そべる。
そして心配そうな表情の稲山をぼんやりと眺める。
「どうしたの」
「いやぁ、やっと会えたなって」
「……宇佐美、さんで合ってるよね」
「宇佐美でいーよ。私は君のことなんて呼べばいいかな」
「稲山でいいよ」
「そか。稲山くん」
何がそんなに嬉しいのか。
宇佐美はずっと頬を緩ませていた。
それにしても──宇佐美はあまりにも整った顔立ちだった。パッチリとしたアーモンドアイは知的な印象を受けるし、潤んだ唇は妙に色気があるし、それに──結構胸も大きい。稲山は恥ずかしくなり目を逸らす。すると宇佐美はくすくす笑い。
「緊張してる……?」
「え、と……」
「あははっ……なんかそういう反応新鮮かも」
「そうなの?」
「うん。クラスのみんなは私のこと好きじゃないから」
特進クラスの生徒が競うのを諦めるほど優秀な頭脳を持つ宇佐美。他の生徒は彼女を嫌い、ある者は勝てない恨みを陰口で晴らし、ある者は将来性ある彼女に媚びを売ろうと下心を持って話しかけてくる。
……だから、純粋な好意を持って接してくる稲山が宇佐美にとっては新鮮に映ったのだ。
「ねぇ、稲山君……」
「ん、どうした」
「もう帰っちゃう?」
「……いや、まだ帰らないよ」
「そっか……良かったぁ」
ホッと安堵した表情を見せる宇佐美。
ふと、彼女の手が稲山の手に触れる。
思わず握り返してしまう稲山である。
「稲山君……なんか私、頭がふわすわする」
「熱中症なんだよ。寝てなって」
「いや、それもあると思うんだけど……多分これは別のふわふわだと思う」
「別のふわふわ?」
「うん。別のふわふわ」
宇佐美はクスリと妖美に笑い。
ほぉ、とため息をついた。
二人の手はまだ繋がれたまま。
「ねぇ、稲山君」
「ん?」
「私ね、来年から日本にいないんだ」
「え……?」
寂しそうな顔で。
宇佐美は言葉を続ける。
「海外の大学に行くことになったの。だから、稲山君より一足先に大学生だ」
「それは、宇佐美が望んだ道なの?」
「……ううん、先生やお母さん達が勝手に決めたんだ。アナタにとってそれが一番幸せな道なんだって。バカみたいだね」
宇佐美は稲山が羨ましいのだ。
普通に友達と遊んで、部活で汗を流し、普通に青春の日々を送る稲山広輔が、キラキラ光って見えたのだ。だから校舎の窓から手を振った。
キラキラ光っている普通の高校生に、自分の存在を認知して欲しかったのだ。
自分はここにいると、大人達に押し込められた鳥かごの中で必死に生きていると、彼に知って欲しかったのだ。
「稲山君が羨ましいよ。友達と普通に話して、笑い合って……私も友達が欲しかったな」
「宇佐美」
「別の国なら友達もできるのかな。私、ちょっぴり不安だ」
「宇佐美……っ」
「わっ……」
稲山は宇佐美の手をギュッと握った。
そして、彼女のまん丸な瞳を見つめながら、こう言った。
「友達になろう」
「──っ」
「俺、宇佐美と友達になりたい。ダメ、かな」
宇佐美は泣きそうな顔で。
「いいの? 私、来年から遠いところに行くんだよ。稲山君が大人になる頃には、きっと忘れてるよ」
「忘れないよ。絶対覚えてる」
「忘れるよ。いつか、稲山君にも好きな人が出来るんだよ……? そしたら、絶対私のこと、覚えてない」
「……宇佐美、俺」
稲山の辛そうな顔を見て。
宇佐美は優しく微笑んだ。
そして、彼の頭を撫でてこう言った。
「ありがとね。嬉しいよ」
「……宇佐美」
ある意味で宇佐美は他の生徒とは違うようだ。
同じ高校生なのに、1歩も2歩も大人なのだ。
後先考えず『忘れない』と言葉を発する稲山を、優しく受け入れてくれる宇佐美。彼女はこう思っている。彼があと何年か経てば自分のことなど忘れてしまうのだろうと。
「よっと……そろそろ体育館戻ろっか」
「身体は大丈夫なのか?」
「うん、もうへーきだから」
「そっか……」
二人は手を繋ぎながら。
体育館まで戻る。
宇佐美は握られた手の温もりを忘れないように一生懸命記憶に留めようとしていた。10年も経てば稲山は自分のことを忘れているだろうから。そしたらもう手を繋いでくれないだろうから。
二人が体育館前まで行くと。
教師が二人を見つけ、中に入るように言う。
宇佐美は稲山を見て、最後に一言。
「じゃね、稲山君」
「宇佐美、またな」
「また、か……うん、またね」
どこか寂しそうな表情の宇佐美だったが。
教師に促され、体育館の中に入っていくのだった。
(宇佐美、俺は絶対、お前のことを……)
忘れない。忘れられない。
何がなんでも忘れない。また宇佐美と話したい。
稲山は珍しくやる気になって、興奮冷めやらぬ心の内を映し出すように、離れていく彼女をただひたすらに真っ直ぐ見つめるのだった。
※※※
セミが鳴いている。
セミが鳴いているということは夏が来たということだ。あの茹で上がるように暑い夏が。
「あっちーなぁ」
俺──稲山広輔は平凡なサラリーマンだ。そこそこの企業で働き、そこそこお金がある。そこそこ人間だ。今年で27歳になる独身男性だ。
見上げると真昼の太陽の光が目に刺さる。
今日は取引先の企業を何十軒も訪問して、酷く疲れた。しかも今日は過去最高気温らしいし。どうやら地球は俺達人間を殺しにきているようだ。
それにしても暑い。40度くらいはあるんじゃなかろうか。死んでしまう。早く家に帰って涼みたい。
……ふと、道行く通行人がクネクネと曲がっているように見えた。おかしい。何かがおかしい。頭がふわふわして意識がぼんやりする。
(あ、これヤバイ……倒れ──)
よろめいて倒れかける俺。
すると、誰かにぶつかった。
その人は俺を見て、こう言う。
「やほ、稲山君」
「あ、君、かぁ……」
「熱中症には気を付けなよ?」
「アイスが食べたいな。チョコアイスがいいや……」
「今度は人のじゃないのにしようね」
「ああ、そうだな」
ぼやける視界の中で。
10年経っても変わらないあの子を俺は見ていた。
忘れるわけがない。愛しの女の子だ。
「はい、チョコアイス。あとお茶も」
「サンキュー」
「水分補給はしっかりしなきゃダメだよー? 前にアフリカ行った時なんて、ガイドさんに──」
「後で聞くよそれは……」
「そう? まあ、いいけど」
俺は自動販売機前のベンチに座り。
彼女が買ってくれたペットボトルのお茶を飲む。
そんな彼女の名前は──
「ね、稲山君」
「ん?」
「あのさ。これだけは言っておこうと思って」
「なにかな」
コホン、と咳払いをして。
隣の彼女──宇佐美陽真は恥ずかしそうに言う。
「私を、忘れないでいてくれて……ありがとうね」
「だから言ったろ、忘れないって」
「うん、言ったね」
静かに頷く宇佐美の手を俺は握り。
彼女にこう返す。
「俺を忘れないでいてくれてありがとう」
「……ホントはさ、あの時信じたかったんだ。だから、時間が経って大人になっても君のこと忘れられなかった。だって嫌じゃん、君だけ覚えてて、私が忘れてたら……」
「宇佐美なら覚えてると思ってたよ」
「まあね、一応私、天才だし」
「自分で言うのか」
「事実だからね」
セミが鳴いている。
今日は一段と騒がしい。
まるで、天才の帰国を祝うかのように。
でも俺は知っている。彼女が本当はただの天才なんかじゃなくて、普通の女の子だってことを。他の人と違う考えかたをしているわけでも、他の人をバカにしているわけでもない。
普通に友達と話して、普通に恋をして、チョコアイスが好きな普通の女の子。それが宇佐美陽真なんだ。
俺はペットボトルのお茶を傾けながら。
隣に座る宇佐美をぼんやりと眺めるのだった。
俺達の手はまだ繋がれたまま……。