夢見るゼラチンと量子の海
「ちくしょう!まじで出やがったっ」
背の高い、大きな葉を広げる木が生い茂る森の中。今現在は高圧電線と舗装された道路で四分割されてはいるが、基本的に人の手の入らない古い森であり普段は動物たちの楽園となっている。しかし今日この日はネズミ一匹、アリ一匹おらず、やかましいくらいに鳴いていた鳥たちも姿を消していた。
「距離を取れっ、急げ!」
「下がりすぎだ、電気柵に触れるなよ。一瞬で丸焦げだぞ!」
この先のシェルターへ移動するために出来た避難民の行列がぐにゃりと湾曲し、その進行が滞っている。ラタンカランの住民たちは恐怖に顔をひきつらせ悲鳴や助けを求める声を上げている。中には腰を抜かして動けなくなった者、急に人に押されて足を痛めた者もいる。
「うぅぅ気持ち悪いぃ」
「臭ぇぇ」
衛兵たちは必死の形相で住民たちの前に出てその『化け物』と対峙する。大半は弓兵、一部は普段使い慣れない投槍を構えてとにかく至近戦闘を避ける姿勢だ。
大樹が作る木陰の中にそいつはいた。
イボイボとした灰色でいびつな傘、鉤爪の付いた無数の長い触腕、汚らしい液体を垂れ流しながらその場に佇んでいる。それらの触腕は地面には届いておらずこの化け物が条理とは程遠い形で浮力を得ていると示している。ぶっぶっと空気の漏れるような耳障りな音を立てながら、何処にあるのか分からない目で(いやはじめから無いのか、しかしはっきりと感じる)、寒気の走る舐め回すような視線を住民たちに送っていた。
「柵の内側にいるのか、どうやって入ってきたんだ」
「待ち伏せでなけりゃあの小娘が言ってた”跳んで来る”ってやつだ」
衛兵たちもサボっていたわけではない。今日ばかりは皆緊張感を持ってしっかりと職務についていた。だが、もう間もなく目的地に到達するとなるとやはり気が抜けてくるものだろう。先頭集団は気が付かなかったのか…それとも通り過ぎてから”跳んで来た”のか…、いずれにせよ中間部隊は危険に晒される事態となってしまった。
「れ、隷鬼は一体だけです。全員でかかれば仕留められる―――弓兵構えっ!」
慌てた様子で額に汗を流しながら、この避難誘導のために急遽任命された副隊長が射撃準備を促す。命令通り、訓練通り、衛兵たちは慣れた手付きで矢をつがえ弦を引き絞る。副隊長が頭の高さまで手を上げて一呼吸置き、振り下ろす。
「放てっ」
ヒュンッと風を切って、いくつもの矢がその鏃を閃かせる。
硬い短弓、近距離からの複数射。いくら相手が得体の知れない化け物であったとしても威力は申し分なく、まして外すなどありえない攻撃である。その場にいる誰もがこの瞬間、隷鬼が倒れる姿を想像しただろう、しかし―――
「ギイイイィィィィィ!!」
耳をつんざくような叫び声を上げて隷鬼が触腕を振り回した。
だらんと垂れ下がるだけのように見えたそれは思うよりも自由に素早く動き、先端の鉤爪を使って全ての矢を弾いた。触腕を伝う得体の知れない腐臭を放つ液体を撒き散らしながら、更に大きく奇声を上げて衛兵たちに迫る。
「ひいぃ!?」
「い、いやだ!来るなっ」
「たたた助――――」
一人の衛兵が後ずさりながら弓を構えた。恐怖でガタガタと震えもはや狙いなどつけられないだろうが、パニックに陥りながら身を守るために矢を放とうとする。―――が、それがまずかった。
「ぎゃああああっ」
恐慌の中で副隊長がどうにか隊列を戻そうと指示を飛ばしていると、突然一人の姿が消える。
叫び声のする方に視線を送ると、先程攻撃しようとした衛兵が宙を舞っている。その体には隷鬼の触腕が巻きつけられ、鉤爪が鎧を貫いて痛々しいほどにめり込んでいる。衛兵たちと隷鬼の距離はまだ5メートル以上あるが、この距離を悠々と超えて触腕を伸ばしてきたのだ。
「いぎぃ、ひっ、いだ、痛い! 助けっ助けて!」
捕らえられた衛兵がもがく度に空中でゆらゆらと揺れる。
彼らにとってもはや理解の範疇を超えた現実に思考停止寸前となり、副隊長も青い顔をして口をわなわな震わせるだけで指揮官としての能力を失っている。
「副隊長早く指示を下さい!早く!」
部下に揺さぶられてようやく我に返る副隊長だが、もはやどうしていいかわからない。矢が効かないなら投槍だって当てられるわけがない。剣を使おうにも既に自分たちは隷鬼の攻撃範囲内に入ってしまっているので返り討ちは必至。しかし、ここでじっとしていても間違いなく殺される。
「ああ、こんなはずでは」
「副隊長?」
「総員、覚悟を決めて下さい…」
どうせ死ぬなら兵士として兵士らしく、こんな無様であっても兵としての矜持だけはあるようで、スラリと剣を抜きその場の衛兵たちに震える声で抜剣の指示を出す。
「突撃!」
明らかに無謀で無意味な命令を受け、衛兵たちは悲愴な雄叫びをかげて飛び出す。…そして当然のごとく一人、また一人と触腕の餌食となり悲鳴を上げる。残念なことに触腕の数にはまだまだ余裕がありこの場の衛兵すべて捕らえても手一杯にはならないので、まもなく背後に控える住民たちに被害が出るだろう。
「くそっくそっ!離しやがれ!」
「ああああ嫌だぁ死にたくないい」
「怯むな!進め進めすす―――ぎゃあああああ」
空中に何人もの人間が振り回される様をただ呆然と眺めるしか出来ない住民たち。一部の者がこの場から逃げ出そうとして走り出すと、隷鬼は捕らえていた衛兵を投げつけてそれを妨害する。状況は完全に隷鬼によって弄ばれるだけの黒い喜劇となり観客は静かに鑑賞することを強要される。
このまま延々となぶられ一人づつ殺されるのか、辺り一帯に絶望の色がにじむ頃、突然森の中に乾いた大きな音が反響する。
「ギッ――――」
残響が木々に染み渡る中、隷鬼の頭部から大量の体液が一方向に吹き出す。地面にビチャビチャと悪臭を放つ汚泥を撒き散らし大きく体勢が傾く。
続けざま、2回目、3回目、避難民の行列後方から破裂音が響く。頭部と触腕の境目を正確に貫き、最後の一発は何かガラスでも砕くような音を響かせ貫通する。
「ギイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイ!!!?」
3回目の攻撃を受けて隷鬼の様子は一変する。
衛兵たちの必至の抵抗を嘲笑うかのように揺らしていた触腕を全て離し、大急ぎで本体へと巻き戻す…が、その触腕は根本を穿たれ大半が本体から切り離され使い物にならなくなっている。加えて急に浮力を失い、本体も触腕も地面に叩きつけられ苦しげにのたうっている。
「げほっ、ごほっ、い、一体何が……」
勇ましく号令をかけたものの真っ先に捕まっていた副隊長。触腕を切りつけ抵抗していたおかげで汚らしい体液でどろどろになっている状態のまま立ち上がり、虫の息の隷鬼を唖然として眺めている。
「ったくもー、出発前にちゃんと説明したじゃん。何で攻撃したかなー」
攻撃のあった方向から肩で息をしながら、全身暗い緑色の迷彩を纏った少女が小走りで向かってくる。腰の高さで構えていた拳銃をホルスターに戻しながら、息を整えて副隊長をジトッとした目で見つめる。
「あ、安住殿…」
「ぼさっとしない、さっさと止め刺して。これ以上は弾薬がもったいなーい」
「いやしかし、この化け物肉が固くて刃が通らないのです」
「核を砕いたから、もうただの腐肉の塊だよー」
「う、ううぅ」
状況はまだ把握できていない、が、やるべきことが残っている。まとわりつく悪臭には大分慣れたが隷鬼の体に近づくと耐え難い腐臭が鼻を突き吐き気を催す。ぶぶっ、ごぼっと耳障りな空気の漏れる音が風穴の空いた灰色の傘の奥から聞こえ、そこから伸びる太い触腕は弱々しく脈打っている。副隊長は欠けた剣を振り上げる。すると何かと目があった気がして全身が粟立つのを感じた。この気味悪さを振り払おうと突き立てた剣からは生命を奪った感触はなくただ虚無感だけが残った。
「オクトパスじゃなくてよかったねー、あいつは獲物で遊ばないからみんな今頃死んでたよー」
避難民の行列は動き出す。
シェルターは目前だというのにこの体たらく、死者こそ出ていないものの大勢の衛兵が負傷し民間人にも被害が出ている。人手不足のため、住民を守るはずの衛兵が住民から肩を貸してもらいながらノロノロと進んでいる。不安に駆られ、早足になりがちな住民の行列をまだ動ける衛兵がなんとか抑えながら収容を急ぐ。
「おくと……?」
「統合軍の隷鬼に割り振ったコードネームねー。そこで死んでるのがジェリーフィッシュ―――ってそんなことはどうでも良くて―」
副隊長は安住の話を聞きながら自分の傷の手当をしていた。隷鬼の触腕に万力のような力で締め付けられたことで肋骨に強い痛みが残っている。加えてひしゃげた鎧が肉に食い込みあちこち血が滲んでいたり、高所から振り落とされたことで足も痛めている。そんな状態でぼんやりと仲間の働きを見ていると、突然胸ぐらをつかまれる。
「本当はぶん殴ってやりたいけど怪我してるしまだ働いてもらわないといけないから遠慮するけどさ」
そう前置きして安住は副隊長を見下ろす。怒りの表情はないが眼光だけは鋭利な刃物のようで、彼は背筋に氷でも当てられたような感覚を覚えた。
「死人が出てないから良かったって思ってる?一度や二度の失敗は仕方ないっで思う?」
「え、あ、いや………」
「君は”兵士”?それとも”戦士”?」
「わ、私は……」
「急に副隊長なんて役割もらったんだから出来なくても当然?」
「ちっちがうんです!私だって住民の安全のために…」
「違わない。お前は自分が危険に晒されるのが怖くて障害を排除しようとした。で、安直な戦況分析と根拠のない戦力評価の結果失敗した。あたしが事前に説明したこと忘れたのか聞いてなかったのか、いずれにしたって言語道断だけど一先ずそれは置いとく、それよりももっと大きな問題がある」
安住は一度話を区切って深く息を吐く。表情は変わらない、が、手が震えている。静かに瞑目し一呼吸置いた後副隊長を睨みつける。
「お前、考えるのをやめたな?諦めたな?可能性を捨てたな?」
「―――っ」
「何で部下を突撃させた?」
「他に手段がなかったんだ!だってそうでしょう!?一番安全に戦える弓矢が効かないんですよ、長槍を持っているわけでもないし、だいたい部下が勝手に攻撃したことで余計にややこしくなってそれでっそれで……」
「部下を統率するのが指揮官の仕事だよ。出来ないじゃ済まされない」
「うう、私は悪くない、悪くないんだ………」
「勝てない相手なら逃げたらいい。幸いジェリーフィッシュは足が遅いし、ついでに言うとこちらから攻撃しない限り向こうも動かないんだよ、五感はほとんど機能してなくて”闘争”を嗅ぎ分けるだけ―――この説明二度目だよ」
「知らない知らない知らない…」
「話が逸れたね…、で、どうにも出来なくなって勝算なく突っ込ませた挙げ句民間人にも怪我人出したわけだ。人の命なんだと思ってるの?」
いつの間にか腕に力が入り、座り込んでいた副隊長を自分の胸の位置まで引き上げていた安住はその手を離す。まだ若いが自分よりも年上の男が泣きそうになりながら頭を抱えて震えている。
「尻尾巻いて逃げ出すより敵と対峙し続けるほうがよっぽど勇気がいるよ。その点は流石武人だと思うよ。けどさ、君一人で戦ってるんじゃないんだよ。犬死じゃなくて奮戦して華々しく散るって方を選ぶ当たりやっぱり武人だなって思うけどさ、一人でやれよ。やるなら一人で勝手にやって一人で死ねよ」
冷たく吐き捨てられた言葉に副隊長はビクリと肩を震わせた。
「大義だの誇りだの名誉だの、そんなの後から付いてくるんだよ。兵士に必要なのは合理的な勝利と先見性、堅実で大局的な優位、それらを支えるのが兵士の命、それを維持するのが指揮官でその能力、能力の肝は冷静な思考判断、多少経験が浅くても諦めず考え続ければ活路は見いだせる。ベクトルの違う根性論だよ………全く嫌になるね」
安住は深くため息をつく。先程まで射殺すような眼光を受けていた副隊長はおもむろに視線を上げると彼女と目が合う。その目には疲れが見えて何処か遠くを見ているようだった。
「―――指揮官は考えることを止めちゃいけない、最後まで立っていなくちゃいけない。そう、『絶望するな、死ぬな、死なせるな』だよ。覚えておいてね、えーと、サラゥルくんだったねー」
副隊長―――サラゥル士階三位は彼女から差し出された手を取り立ち上がる。責め立てる声から落ち着いたトーンへと変わった事に、怯え混じりで不思議そうな視線を向けていると安住は力なく微笑みながら彼の肩をぽんっと叩く。
「ごめんね。ちょっと八つ当たりが入ってた。説教なんて出来る立場じゃないのにねー」
予想外の謝罪を受けて戸惑う副隊長はどう返答しようか思案する。しかし、声をかけようと口を開いたその時、避難民の行列後方から伝令役の衛兵が走り寄ってきて安住に報告を始めたので伝えることは出来なかった。
「報告いたします。後部守備隊接敵。数8。全て『迷鬼』……ええと、こもんうおおか…?」
「コモンウォーカーね。いいよ無理にコードネーム使わなくても。―――で、首尾は?」
「全て撃破済み、損害は有りません。いつも通りノロマな奴らです。我々の日常業務は奴らを狩るのが主ですから」
「了解。報告ご苦労さまー」
伝令役は報告を終えると安住に敬礼した後、前列の隊長へ報告を上げに行くと言うのでついでに中間部隊のための人手を借りてきてほしいと伝え送り出す。
「さて、あたしも鍵開けに行かなきゃ。その前に二人を迎えに行かないとねー」
「あ、あの、安住殿」
「悪いけど話は後ね、怪我辛いだろうけど後のことしっかり頼むよー。収容完了まで気を抜かないように頑張ってー、じゃあねー」
副隊長の言葉を遮り少女は後列へと駆け出す。サラゥルはしばらくの間、遠くなる彼女の背中を見つめて複雑な心境でいたが、雑念を振り払い自分の仕事に戻ることにした。静かに敬礼し痛む足を引きずりながら仲間の元へと急ぐのだった。
シェルター東門前。
巨大な岩山を丸ごとくり抜いて造られた巨大格納庫の門はそびえるほどに大きい。普段村から出ることのない者たちにとってはこれほど大きな人工建造物を見る機会など無いので皆一様に口をあんぐりと開けて見上げているのだ。
「んーおかしいなー、軍籍コードは認識してるのにー」
巨大な金属の扉の脇、岩肌の中のくぼみとにらめっこしながら安住は首をひねる。
「一体何をしているのだ。鍵を開けるのだろう?何を手間取っている」
「もー知ってるでしょー、あたし達が物理キーでセキュリティ管理してると思うー?」
グルーフ隊長がイライラしたように安住の肩を覗き込むと、そこには当然鍵穴など無い。あるのは角度をつけて取り付けられた光沢のある板で、日本語や英語など様々な言語の情報がびっしりと表示されている。
「……あー、あれか。知っているぞ。ほら、なんといったか、あの、ぱ…ぱす…も…?わ…?」
「パスワード? いやいや、ここでは使わないよー」
うろ覚えの異世界の知識を披露してみたがあっさり否定されてしゅんとする中年男、そばにいるスフナに哀れそうな目で見られている。一方、リァナは安住の脇に立って彼女の作業と操作している機械を興味深げに眺めている。
「何か足りないんですか?魔法石なら少しありますけど」
「え、何に使うの…。いや、そうじゃなくてねー」
統合軍が持ち込んだ車両、機材、装備、その他細々とした道具、そして建造物など、それぞれセキュリティ管理が必要なものには高度な生体認証システムが組み込まれている。主軸となるものは脳波認証とAIによる詳細挙動監視であり、軍に入隊した者ならば個人照合情報を登録されているので階級制限が無い限り特別な操作なく利用、入退室ができる。逆に、登録のされていないものやAIが不審であると判断した場合には確実に弾かれるように設定されている。
「………やっぱ『無印』じゃ民間人扱いかー」
「…?」
リァナの怪訝そうな顔をよそに安住はコンソールを操作し続ける。画面の中央に配置された、統合軍の旗章である五本の腕が隣合う腕を掴み輪を作る形。本来は中心にオリーブの枝を咥えた白い鳩が描かれているのだがここでは一ツ目のアイコンが表示されていて、無機質ながら安住に対して疑わしげな視線を送っている。
「頼むよAIちゃーん、開けてよー、怪我人いるんだよー、緊急事態なんだよ―」
《Error
信用に足る情報が不足しています
中枢AIとのリンクが途絶......正しい個人照合が出来ません
バックアップデータを参照......軍籍コードを確認......推定:安住千世
Error
階級情報に未定義の文字列があります
登録情報に不備がある可能性があります
総司令部に問い合わせ、または、管理レベルⅣ以上の上官を同伴の上―――》
「だーかーらー、もう何処にも連絡できないし上官なんて誰も生き残っちゃいないよー」
何度か同じ問答を繰り返しているが一向に首を縦に振ってくれないAI。行動の原則が”誰も中に入れない”から始まり、”条件付きで入場を許可する”へ段階的に処理していくためどうにも融通の効かない造りになっている。そもそもの話、このAIは軍事施設を守るための高レベルセキュリティを担っていたので融通がきいては困るのだ。まして、大量に連れてきた避難民の安全性であったり管理の責任を、日本軍経由で統合軍に籍を置き、情報に不明点が有り、単独行動をしている軍人…がやるというのだから怪しんで当然。平常運行である。
「あ、あのっ、えーあいさん。わたしからもお願いします!」
安住がごく自然な流れで機械と会話するのでリァナもそれに倣って画面に向かって呼びかける。すると、目のアイコンがぎょろりとリァナの方へと向くので驚いて安住の背に隠れる。カメラやセンサーは別にあるので常に監視されているわけだが視線は嫌でも感じるので気味が悪い。
「AIちゃん絶対外の状況分かっててやってるよ……、あ、そうだ!」
突然大きな声を出してしゃがみ込みリュックを漁り始める安住。いつも彼女が背負っているもので中身が気になるのか後ろに控えるグルーフとスフナが覗きに来る。
「あったあった、認識票ー」
リュックから顔を上げるとその手にはプラスチック製の小さな板状のものがいくつか握られている。ただそれらは所々欠けていたり血がべっとりとついて乾いていたりと実におどろおどろしい様で、覗きに来た男二人は思わずぎょっとする。
そんなことは構わず画面の方へと向き直り認識票の束の中から一つを取り出す。
「これがだめならお手上げだけど…、あたしから出せるのはこれで限界だよーAIちゃん」
安住が画面に向かってかざした一枚は素早く情報を読み取られそこに表示される。
本来の持ち主であった人物 郭志偉少佐 の情報が並び、総司令部陥落以前に死亡していることが見て取れる。
《階級及び管理レベルに不足なし......該当官の信用度十分......但し......
......戦死者からの取得物は信用情報として著しく順位の低いものと断定せざるを得ません
該当官との関連性を検索......貴官の入隊以降の接点と認識できるものが有りません
貴官が該当官より信任を得て依託された物品であると証明して下さい》
「…AIちゃん、本人が死亡した後、第三者が初めて認識票に触れた時間も記録されているはずでしょ。あたしがこの人見つけた時点でもう殆ど白骨化してたよ」
画面の中のアイコンは相変わらず無機質で無表情なまま。人間と楽しくおしゃべりするためのAIではないので当然であるが、心なしか混乱や困惑といったものを滲ませているようにも思える。
安住は手持ちの全ての認識票を画面に押し付ける。先程同様に読み取られた情報がいくつものウィンドウに表示されて戦没者たちの墓標のように並ぶ。
「殆どが知らない人のタグだけどさ、全部見てきたんだよ。どんな風に戦ってどんな風に死んでいったか。回収できなかったものも含めて。あたしはそこにいて、そこで一緒に戦ってたんだ。信用できる情報がないのは重々承知だよ。―――それでも、あたしは兵士だよ」
握りしめた認識票はただの合成樹脂の塊ではない。刻印された氏名や所属を把握するだけの名札でもなければ、内蔵されたチップが記録する位置情報や戦績を知るための道具でもない。機械にとってはただの物でしか無いだろうが、彼女にとっては持ち主の命の一部なのだ。
しばし、AIが沈黙する。初めからそんな機能があったのかは不明だが画面上のアイコンがゆっくりと目を閉る。何を考えているかはわからない、が、何か高速で演算を続けていることはわかる。
《...提示された認識票より戦闘記録を抽出......同一戦域内にて 安住千世 に該当する人物を確認
推定:安住千世 の戦闘記録と照合......97.82%を信頼できるものと判断
貴官の作戦に対する貢献度を鑑み 一定以上の功績があるものとし
十分に兵士としての活動があったものと仮定します......》
突如、地面が少し揺れ何か引きずるような大きな音が響き出す。
シェルターの分厚く重厚な金属の扉が動く。その質量には到底見合わなそうな速度で一枚目、二枚目、三枚目と迅速に開放されていく。
《貴官を暫定的にシェルター利用責任者と認定します
ただし 使用制限を設け管理レベルⅢ以上の.........
撤回します......地下層 施設管理維持区画以外の全てを開放します
貴官の判断と責任の下 民間人の安全管理とのその方針を決定して下さい......
当AIは貴官の決定を尊重します......ようこそ 安住千世 貴官の着任を歓迎いたします》
開門が完了し、後方で待機していた住民たちから口々に感嘆の声が漏れる。護衛を務める衛兵たちも巨大建造物が大口を開いた様を興奮した様子で語り合っている。
「おおおおお、本当に開いたのか、この鉄壁が」
「開かなかったらどうしたんだよおっさん、ていうか開けられないって思ってたのかよ」
興奮冷めやらぬ中、この鉄の巨壁が動くとはにわかに信じていなかったグルーフも素直に感想を述べたわけだが、生意気な小僧にに水をさされてムッとする。しかし相手は子供、魔女の娘の弟だが恐れずに毅然として大人の威厳を見せつける必要がある。大人に対する礼儀を説こうと一歩踏み出すがその前に安住に強めに小突かれる。
「ぼさっとするな!衛兵を動かして住民を中に誘導して、早く!」
「はひっ」
思いっきり情けない声を上げて走り出す衛兵隊長を見送り、安住は腕を組んで難しい顔をしていたがすぐに壁にもたれかかりそのまま座り込む。
「つかれたよー」
急に老け込んだような顔をしながら、だらんと足を投げ出して段々と姿勢を崩していく。そんな様子を見てリァナは河原で安住を見つけた時のことを思い出す。
「大丈夫ですか」
「だいじょばなーい」
「少し休みましょう?これで一段落ついたんですよね」
「それがねーついてないんだよー」
ほとんど仰向けの姿勢で数秒だけ目を瞑った後、ぐっと両足を持ち上げそれを振り下ろす反動と腕の跳ね上げる力で立ち上がる。想定外の運動神経にリァナは目を見開いて驚き、スフナは目を輝かせている。
「すげぇ!今どうやったんだ、教えてくれ!」
「また今度ねー」
「スフナだめでしょ、安住さんは疲れてるんだから」
「いいよいいよー、お気にせず―」
手をひらひらさせて何てことはないと伝える安住。ラタンカランの住民たちが衛兵の誘導でシェルター内へ送られる様子を見ながら、最後のもう一仕事であるシェルターの利用方法や今後の方針について偉い人達との話し合いをするために歩き出す…が、立ち止まり姉弟の方へと向き直る。
「そーだ、めっちゃ大事なことが残ってた」
「な、なんですか、大事なこと?」
「お二人さんのことだよー」
「俺たちの?」
きょとんとして要領のつかめない顔をしている二人。
―――この後、安住の口から軽いノリで語られる、今後の姉弟の処遇について聞き終えると、より一層困惑の表情を浮かべて顔を見合わせる。
「あたしも長居できないからさー、こっちの仕事が終わるまでにどーにか決めておいて欲しいなー、急で悪いねー、それじゃあまた後でー」
安住は申し訳無さそうに苦笑しながらシェルター内へ歩き出した。
ぼんやりとその背中を見送り、姉弟はしばらく動けないでいたが、徐々に彼女が語った意味を理解し始め、ぽつりぽつりと二人で話し合い始める。
―――まだこの幼い姉弟は知る由もない。
―――ここが運命の分岐点、二人にとって激動の幕明けとなることを。