クリーム色の誘惑
柔らかな日差しが木々の隙間から溢れ、小鳥が会話でもするようにあちこちでさえずっている。林の脇には緩やかに小川が流れ小魚が流れに逆らうよう数匹まとまって泳いでいる。
流れ込む清らかな水は、このエルルトラン地方を囲む標高4000メートル級の山脈から流れ込む雪解け水であり、この地方は飲料に適した水が比較的どこにでも手に入る。もっとも、採水の利便性を考えて井戸を使うのが一般的であるため、今この河原で水汲みをしている少女の姿は珍しいものとして映る。
「―――うんしょ、うんしょ」
やや茶の混じるブロンドの髪を揺らしながら重そうに、水がたっぷり入った木桶を運んでいく。時折こぼしそうになりながら、足場の悪い砂利の上を懸命に進んでゆく。
「―――うんしょ、うんしょ」
少女は小柄ゆえ抱えた木桶で足元がよく見えていない。しかし慣れたもので転ぶことなくどんどん進んでいく。何時も通りなら間もなくほとりの自宅へとたどり着くのだが…。
「―――うんしょ、うんしょ――――――きゃっ!?」
派手に転んでしまって水をぶちまける。何か砂利ではない柔らかいものにつまづいた感触がある。転んだ痛みに顔をしかめながら足元に目をやると…。
「アチャ スパティイ~」
足元に人がいた。周辺の砂利に溶け込むような色をした服を着た人物がいた。片手に水筒を持ちそれを川の中に突っ込んでうつ伏せで倒れている。しかも現地の言葉で挨拶をした。突然の事に混乱して言葉が出ないでいると相手の方から喋り始めた。
「だめなんだよー」
「はい…?」
「圧縮栄養剤と水だけじゃだめなんだよー」
何を言っているのかわからないが何やら悲しそうな表情をしている。怪しい人物に関わるべきではないので早くこの場から立ち去ろうと思い、空になってしまった木桶を拾い立ち上がろうとする。すると、倒れている人物の脇に大きなリュックと棒状のものが立てかけてあることに気付き、ふと記憶にある単語が頭に浮かぶ。
「あの、もしかしてヘイタイサンですか?」
日本語の混じった現地の言葉を聞き、倒れている人物がピクリと反応する。相変わらず生気のない顔をしているが若干口角が上がって笑っているような微妙な表情をする。
「あははー、サンも込みで覚えちゃってるんだねー」
「?」
倒れている人物は川に突っ込んでいた手を引き出し上体を起こす。水筒の水を一口飲んでから、座った姿勢で少女の方に向き直りピンと背筋を伸ばして敬礼をする。
「日本国 隔僻地派遣軍所属 人類統合軍『黄金郷』方面作戦集団に配属 …部隊…階級はいいか、安住千世でありまーす」
前半部分は真面目そうにはっきりとした口調だったが最後は放り投げる形で自己紹介をし、ぐにゃりと力が抜けて横になる。実にだるそうだが質問に答えようとする気概だけは見て取れる。
「えーと、ほら、このエルルトラン地方を占領中の異世界の軍隊ってやつだよー」
「あ、はい…わかります」
「んでー、その一番下っ端ねー」
「ですよね」
流石にこのだらけっぷりを見て責任ある立場の人間とは連想できないだろうなと内心ツッコミを入れつつ、自分で言った肯定の言葉が失礼に当たると気付き小さく謝罪する。彼女…安住千世は全く気にしてる様子はなく手をヒラヒラさせている。
聞きたい事は山ほどあるがそれよりも、このアズミという女性が今にも溶けて砂利の隙間に染み込んでしまいそうな弛緩の仕方をしている事に違和感を覚える。一見、単に行き倒れ掛けていただけのように見えたが肌艶が悪くなっているわけでもない。栄養状態でも外傷が原因でもないとすると思い当たる節がある。
「ちょっとお聞きしたいのですが、道中で食べたもの思い出せますか?」
「たべたものー?」
思い出すのも面倒といった具合であるが安住は回らない頭で必死に記憶を辿る。
「錠剤と水…」
「他には?」
「錠剤と…水…」
「あの、それ以外で…」
「いっしゅうかん」
「はい?」
「うー」
少女は聞きたい答えが得られていないものの自分の予想がおそらく正しいだろうと確信する。そうと分かればこの人を放って置く訳にはいかない。横になっている安住に手を貸して立ち上がるように促す。
「アズミさん、『エイユウゴロシ』を食べましたね」
「んー?」
「弱いですけど、毒のある果実です」
「なるほどー」
”英雄殺し”は平原の低木に成る黄みがかった乳白色の小さな果実。弛緩作用や短期間の記憶障害など直接死に至らしめるような毒性はないが、症状に付随する抑うつ作用が旅人の生命を危険に晒すと言われる。どんなに勇敢な人物でも精神面を切り崩されれば命を落とす…というのが名前の由来だとか。
そんな事を説明しながら、少女は自宅で治療をするので来てほしいと伝える。肩に手を回して支えようとすると安住はやんわりと断る。
「見くびってもらっちゃ困るよー、こちとら腐っても兵隊さんだぞー」
そう言いながら足をガクガクさせ立ち上がり、重いリュックを背負い押しつぶされそうになりながら小銃を杖に歩き始める。ついでに木桶も受け取って水汲みまでやろうとして少女に止められている。結局、おぼつかない足取りのまま半分くらいまでの距離を進んで力尽き、少女に引きずられて到達するのであった。
安住が目を覚ましたのは翌日であった。昨日までの頭のモヤモヤや脱力感が嘘のように消えてなくなり、久しぶりに爽快な朝を迎えることができた。
周囲を見渡すと自分は古びた木造の家にいてそこの粗末なベッドに寝ていたと分かる。なんとなくあの少女の寝床を貸してもらったのだろうと気付き、お礼を言うために彼女を探そうと動き出そうとすると―――
―――ぐううぅ…。
腹が鳴った。猛烈に腹が減った。
膝から崩れ落ちて倒れ込む。
一つの現実を思い出して気が滅入る。やっぱりモヤモヤも脱力感も消えてない気がする。
半べそ状態で突っ伏していると物音を聞きつけて少女が様子を見に来た。
「だいじょうぶで―――って、大丈夫ですか!?」
単に安住が起き出した物音だと思って来てみれば、また昨日みたいなことになっているのである。本気で心配して、昨日の治療が失敗したのかと涙目になっていると、安住は虚ろな目で少女を見据えて言う。
「圧縮栄養剤以外のものが食べたいー」
「またそれですか」
食欲が戻っているという事は健康状態が回復している証拠である。ホッと胸をなでおろすものの、昨日から悪夢にでもうなされるようにエイヨウザイが…ジョウザイが…と言っているのでいい加減うんざりしているのである。
「大丈夫ですよ、朝ごはん用意しましたから一緒に食べましょう」
「―――いいの?」
大したものではないですが…と少女が言うよりも早く、安住は立ち上がり歓喜の涙を流していた。さっきまでの脱力感はどこへやら、雄叫びを上げて全身で喜びを表現する。昨日からの一連の無気力な姿を見てきただけに、この生き生きとした姿には驚かされる…というより引く。
「お、落ち着いてください…ほら、ごはんが冷めちゃいますから行きましょう?」
「うおおおぉぉぅぅぅ…ありがとうぅぅぅー」
感動冷めやらぬ中、安住は食卓へ案内される。寝室を出て改めて見ると、やはり所々ボロボロな木造家屋で生活が厳しいのだろうかと思わされ、少し冷静になる。
小さな窓から差し込む朝の光は決して狭くはないが物で溢れた、生活感のある室内を照らし出している。小さな台所、二人がけのテーブル、埃っぽい本棚、よく分からない液体や干からびた物の入った瓶、暖炉のそばの机には見たことのない道具が散乱、天井は蜘蛛の巣が張っていて少しだけ光の筋が見える。
「汚い所ですみません、お客さんを泊めることなんて今まで無くて…」
少女は少し顔を赤くして恥ずかしそうに謝ると、玄関脇の窓に駆け寄って外へ声を掛ける。
「スフナ!朝ごはん食べるから戻ってきて!」
窓の向こうからは男の子のものらしい返事が聞こえて、それを聞き届けると少女は戻ってきて食器の準備をしながら安住に説明する。
「弟です。ここでずっと二人暮らしをしているんです」
「ほへー二人暮らしかー」
十二、三くらいの少女とその弟、そんな自分よりずっと若い子供が保護者のいない状態で暮らしている。普通に考えてありえない…と、言いたいところだが、こっちの世界においても現在の地球であってもこうした事例はざらにある。だからといってこの子達のサバイバリティに感服しないわけがなく、純粋にすごいと賞賛の言葉を送る。
「若いのに偉いねー」
「お婆ちゃんみたいな事言いますね。」
「弟くんはスフナくんねー、覚え―――あ」
いつもの間延びした言い方から一変、突然なにか思い出したように声を上げる安住に驚き、少女が振り返る。当の安住は申し訳なさそうに頭の後ろを書きながらおずおずと切り出す。
「ごめーん、昨日のやり取りボーッとしててほとんど覚えていなくてさー」
「は、はい?」
「えーと、君のお名前聞いてもいいかなー?」
「―――あっ」
今度は少女が大事なことを思い出して声を上げる。そういえば安住に会ってからこちらは一度も名乗っていないのだ。恥ずかしそうに何度も謝りペコペコ頭を下げると、安住はやはり何てことはないと笑いながら手をヒラヒラさせている。
「リァナといいます。自己紹介が遅れてごめんなさい」
「いいよいいよーお気にせずー」
ようやく恩人の名が知れて嬉しそうな安住は、少女…リァナに向き直り、改めて助けてもらった事にお礼を言う事ができた。
リァナも、初めは安住に警戒心があったものの、少々変わり者だが悪い人間ではないと理解し打ち解けることができた。
―――二人の間に穏やかな空気が流れる朝の一時
―――弟くんが戻るまでこの後一時間かかり、安住をなだめるのに苦労する事をリァナはまだ知らない。