武士は食わねど何とやら
澄み渡る空の蒼と穏やかな風にそよぐ草花、点々と見える丸く形の良い純白の雲。かつて絵本やおとぎ話で見た理想の大自然がここにある。地平線に目を凝らせば褐色のフサフサとした毛並みが特徴の草食動物が穏やかに草を食んでいる。遠距離から見てもかなりの大きさがあるように見え、その体躯はかつて地球上にいた『象』という生物に匹敵するだろう。
「いい天気だなー」
背の低い草むらの中に盛り上がった部分がある。周辺の草を貼り付けて隠匿性を高めた迷彩柄の網を被るものが一人。
「お腹空いたなー」
カモフラージュネットの中の人物はのんきな声を発しながらもその表情には疲れが見え、しかし目線だけは鋭く周囲を警戒していた。手に握る戦地急造型四十四年式歩兵小銃を持ち直しながら額の汗を拭う。遠くで鳥の鋭い鳴き声が響くとビクリと肩を震わせ改めて小銃を握りしめる。
「早く通り過ぎてくれー」
周りに誰もいないというのに気の抜けた空虚な独り言をつぶやく。すると、今まで明るい日差しに包まれていた周囲が一気に暗くなる。雲…ではない。徐々にその陰は背後から迫る形で大きくなる。同時に腹の底に響くような轟音と猛烈な圧迫感を感じるようになる。
この圧迫感は単なる恐怖心からくるものではない。今まさに頭上を通り抜けていく『それ』が空間の物理法則を無視して航行している証である。
ついに視界に映るようになった。『それ』はゆっくり直進していく。低空で飛行しているため視界いっぱいにその腹が映る。黒い、黒い大きな腹だ。影の色ではなく地の色だ。ゆっくりに見えるが実際はかなりの速度で頭上を通過している。だというのに辺りはほぼ無風である。正確には『それ』が起こしているはずの気流の乱れが発生していないのだ。滑るように、滑らかに、しかし確かな存在感だけが今この瞬間この時、この空間全てを支配している。
気がつけば、辺りはもとの静寂に戻っていた。
突き抜けるような蒼い空、土の香のする暖かな風が草花を撫で楽しそうに揺れる。雲はもこもこと形を変え白い羊の群れのようだ。地平線に目を凝らせば草原に点々と赤い花が咲いている。緑の大地とのコントラストはなかなか美しいものだ。褐色の何かと白い何かがところどころに散らばっていて先ほどまで生き物がいたようないなかったような。
「皆殺しですか、そーですか」
カモフラージュネットの中の人物はやおら立ち上がり空の彼方の黒点になった『それ』を力なく一瞥する。理不尽すぎる惨状と圧倒的暴力は何時ぞや自分たちがやらかした意趣返しの様に思えて、この広い世界に逃げ場なんてないのだと絶望…諦め、いや、達観にも近しい感情を抱かせる。
ため息を一つついて、ずり落ちたネットを片付けながら気持ちを切り替える。やるべき事は多い。静かに瞑目しこれまでの事やこれからの事について考えようとするが―――
ぐううぅ…。
腹が鳴ったのでやめた。もとより深く考えるのは苦手である。
おもむろにヘルメットを脱ぎ去ると肩に掛かる程度の髪がはらりとこぼれ、窮屈さから開放されて清々しく風になびく。ぼんやりとして何も考えていなさそうな表情にはあどけなさがあり、まだ十代中頃といった少女らしさがある。
「最後のレーションいただきまーす」
軍用の大型リュックサックから銀色の真空パック取り出し開封すると、中から一食分の小分けされた三つのレトルト容器出てくる。封を切ると即座に温まり、湯気と共に美味そうな匂いが立つ。やや柔らかめの米飯、肉と野菜を煮込んだもの、具が多めの味噌汁、付属のスプーンを突っ込んでさっさとかき込む。
「まずーい、すくなーい、おーしまい」
質も量もお気に召さず投げやりにスプーンを放り投げる。所詮は急造品である。栄養補給の一点にのみ目的が絞られ娯楽としての性質は皆無である。これにて軍より支給された戦闘糧食は底をついた。本来ならば危機的状況に陥っているはずなのだが彼女には焦燥感というものはないらしい。
「まー圧縮栄養剤あるしー、なんとかなるよねー」
最後の頼みの綱、医療品としての圧縮栄養剤に全幅の信頼を寄せて食料確保という問題を頭から排除する。ついには大きなあくびを一つ、リュックを枕に昼寝を始める。先ほどまでのピリピリした空気も忘れて全力でだらける。
「明日からー………サバイバル………がんば…………る」