少しばかりの追想
今宵は満月。何者も侵略を許すことのない優しき光がこの大地を包み込む。
シャルルは簡易浴場へと足を運び、己の体を清める。この行為は満月の日のみに行うもので、その意味とは自身の中にある無駄な魔力を月に与えるというものだ。
実は、月女神である彼女は月に与えた魔力を自身に返還させることで本来の戦闘力を発揮するという権能で、与えた魔力が多いほど強くなり、下手をすれば最強と謳われる太陽神のヘリオスですら凌駕すると言われている。
グラフェルが目を覚まし、本当のことを話して泣き疲れたあと、どうやら眠ってしまったらしく、外はすっかり日が落ちていた。なんで起こしてくれなかったのかと彼に問いかけたところ、あまりにもぐっすりと寝ていたものだからと。憑き物が取れたかのようないい寝顔をしていたし、何より幸せそうだったからと。
彼は別に悪戯心で彼女を起こさなかったのではないと理解はしているものの、なぜもっと速く起こしてくれなかったのかととも思ったが、それは後回しにしなければならなかったため、精々両方の頬を膨らませるだけにすることにした。
張られたテントの外に簡易浴場があり、そこで戦いの疲れを少しでも取ろうというグラフェルの配慮で作った。勿論、更衣室は男女別で。
彼女はまず、体についている汚れを落とし、髪をまとめ、お湯に浸かる専用の湯浴み着を着用し、それを終えてようやく湯船に浸かる。
両手を前にし、手のひらを上に向け、貢物を献上するかのようなポーズをする。その直後に、彼女を覆い隠すように白い球体が現れ、湯船の底に魔法陣が浮かび上がる。これでようやく第一段階は終了した。
続く第二段階は、手のひらに魔力を集め、自身を中心に半径三メートルの白い柱となって空に優雅に漂う満月に静かに注ぐ。無駄な魔力とはいうが、それは一体何なのかというと、通常、人や動物、果ては植物にも微弱ながら無駄なものがあり、それはいわば精神力だったり、体力だったりと個人差があるが、彼女の場合は魔力である。神の中で魔力の最大量が多いのは彼女であり、魔力のコントロールも極めて優秀で、魔法に関しては超一流である。
「・・・ふう。やっと終わった。」
月に魔力を注いだ後、実はかなり疲労が蓄積してしまうのだ。かなり面倒だがこれをやらなければならないというのが彼女が月女神として君臨し続ける証だ。そのため怠るという選択肢は彼女の選択肢には無く、
仕方なくといった感じでやり続けている。ちなみにヘリオスにはそういったものがあるかと言えば答えはイエスでありノー。
「お疲れさまです。おばさま。やはり、女神というのはそれほど大変なのでしょうか?」
彼女が湯船から上がり、更衣室へ入ろうとすると、レティシアが待っていた。
「あら、レーちゃん。それがね、レーちゃんが思っているものよりももっと大変なのよ。聞いてくれる?」
「え、ええ。ぜひお聞かせください。」
この二人は血は繋がっておらず、またレティシアの母親であるヘラとも繋がっていない。しかし、二人はお互いを姉妹のように接していたため、レティシアも幼い頃からシャルルとの面識はあった。
「ほんとにね、きついのよね女神の義務って。肩はこるし、湯船に浸かなければ駄目だし、お風呂の時間も満足に楽しめないのよ。ひどくない?」
「ひ、ひどいなんてものじゃありませんよ!お風呂は楽しめないなんて、そんなの・・・そんなの・・・、ゆるしましぇん!」
「・・・噛んじゃったわね。」
「・・・噛みました。ああ、恥ずかしい・・・。」
顔が真っ赤になり、耳までも赤くなってしまう彼女を、シャルルは宥めるために頭を撫でる。
「あ、あのおばさま。その・・・えっと、頭を撫でるのはちょっと・・・。」
「気にすることはないのよ。あなたも私の娘みたいなものだし。それに・・・」
「それに?」
「いいえ、何でもないわ。さ、みんなのところに戻りましょ。」
言いかけたのはヘラのことがあるからだ。彼女にとって姉であり母親のような存在だった人で、彼女が病でとこに伏せている間、レティシアの面倒を見ていたし、最期を看取った後もしばらくは我が家で暮らしていたので、本当に娘のように可愛がっていた。
ゼウスのことも、多少なりとも理解している。ヘラが亡くなった後、人格が変貌してしまうほど彼の心は大きい穴を残した。
「・・・まだなのね。」
「何か言いました?」
「いいえ、ただの独り言よ。気にしないで」
小言でぽそりとこぼしたその言葉の真意は、彼女のみぞ知る。