神は人を愛せない
ここは、人間が住まう地上よりはるか高度にある、「天界・ヘブリエーム」。ここには、神をはじめ、天使やエルフ、オークや蜥蜴人などのたくさんの亜人種が暮らしている。ここの四季は、地上と何も変わらず、夏は涼しいが冬は凍えるような寒さになる。とてもすごしやすく、多数の亜人種がいるので入国制限はほとんどないといってもいいほどだ。
そんな中、「中央区」と呼ばれる場所には《花園》という、文字通りたくさんの花が咲いている場所に、男が一人仰向けになって寝ている。彼はグラフェル。親しい者からはグランと呼ばれている。白に近く、プラチナにも似た輝きを放つミスティックホワイトの髪と、まるで宝石を埋め込んだかのような紫色のアメジストパープルを瞳に持ち、顔だけ見れば女性か男性か見分けがつかないほどの整った顔立ちをしている。
空からゆっくりと降りてくる影がひとつ。背中に翼を持つ天使だ。
「陛下、そろそろ休憩終了の時間になります。執務室へお戻りくださいませ。」
そう話してきたのは護衛天使が一人、ゼルエルである。見た目は10代後半から20代前半の女性の天使。彼女はグランの生まれながらの世話係で、いわゆるベビーシッターである。しかし、グランが成長しても、彼女がいないととてつもない泣き声をするので役割は継続され、彼の身の回りを整えるのが彼女の仕事である。彼の護衛天使は10人いるが、その中でも彼女は姉のような存在であり、グランはたいそう気に入っているらしい。彼女もまた、グランを弟のように思っており、大切にしている。だが、公共の場では「陛下」、彼女をよく知っている者の周りだけでは、「坊ちゃん」と呼んでいる。とても仲がよいことがわかる。
しかし、なぜ彼が「陛下」と呼ばれているのか。それは彼の出自に関係する。
彼の両親は二人とも神である。父は太陽神のヘリオス・メギドーナ、母は月の女神のシャルル・ルティリシーアという、最高位の神から生まれた子供である。が、母親のシャルルは、元々は人間であったがヘリオスと結婚し、当時空席だった月の神の座に自動的に腰を下ろすことになった。
この世界では、太陽と月は表と裏、光と影のようなものであり、これまでそうしてきたので珍しくもなかったが、彼女は元が人間であるため、講義が頻繁に行われたという。しかし、彼女の放った一言で、すべてが解決された。「まぁ、私が悪いの?それはすこし不愉快ですわぁ。でも、あの人が私を選んだのは事実。それをないがしろにするなどあの人が許さないし、私も許さないわ。なんなら、今から実力を行使しても?」
その言葉に誰もが冷や汗をかいた。太陽神の力は絶大で、ほかの神々が挑んだとしても余裕で相手ができるし、下手をすれば、傷ひとつすらつけることができずに敗れ去ってしまうほど、天と地ほどの差があった。だが、それに唯一対抗できるのが彼女だ。彼女の力は元人間でも、すさまじい戦闘能力を持ち、先述の彼によくて相打ち、悪ければ彼女が勝ってしまうのだ。それは神ですら、戦慄を覚えてしまうほど。
そんな二人の間にグランは生まれた。が、二人とはまったく異なる姿形を持って生まれてきてしまった。
ヘリオスは山吹色の髪に碧眼、シャルルは黒に近い群青色の髪に紅い瞳で、二人の外見的特徴はまったくといっていいほど似ていない。しかし、たとえどんな子供が生まれてきたとしても、一生を懸けて愛し、育てると心に誓った。それからというもの、すくすく成長していったグランは、親である二人からはとてつもなく愛され、護衛天使たちですら同じように、いやそれ以上という、なにかしらの魅力があった。しかも、それだけでなく、出会った者、目と目を合わせた者まで彼へいわゆる保護欲が爆発するという事件が起きるほど。要するにめちゃくちゃ可愛かったのだ。
そのグランだが、二人の間に生まれたので、自動的に神という肩書きはあるものの、どちらかのというと実はまだ決まっていないらしく、どう呼べばいいか会議をした結果、「陛下」と呼ばれるようになった。これは彼がまだ完全に力の全てを把握しきれていないがためにとられた措置である。
「ここにいては風邪を引きます。睡眠をとられるのであれば、自室でお休みになっては?」
「いや、もともとこういう場所でこうやって空を見ながら寝るのが大好きなんだ。」
(そうだ。いつもこのお方は自由気ままに生きていらっしゃる。しかし、仕事はきちんとやってもらわねばいけませんね。)
彼女は心の中でそう思う。両親以外で彼のそばに一番長くいたのはゼルエルである。彼は性格上、肩書きなどどうでもよく、自由気ままにのんびりと過ごすのが性にあっているのは確かで、良くも悪くも彼の意思を尊重しないわけにはいかない。しかし、だからといって疎かにしてはいけない。
「それはよく知っています。旦那様と奥様以外で、一番傍にお仕えしていたのは私なのですよ。ですのであなたの体のほうを心配して言うのです。少しでもいいので仕事の続きをお願いします。坊ちゃん」
「坊ちゃん」そう呼ばれるのには慣れてはいるものの、やはりどこかこそばゆい感じがする。
「・・・はぁ、分かったよ。で?後の仕事はなにがある?」
そう返事をすると、なぜか訝しげな顔をするゼルエルを見て、グランは思う。
(あぁ、人間どもの件か。全くくだらん報告ばかりよこしやがって。どいつもこいつも、自分のいいようにやりやがって、次は滅ぼす。)
黒いオーラがかすかに迸る。それはすべてにおいて「殺気」と呼ばれるもの。彼が放つ殺気は、どんな苦境を乗り越えた者がいても、それを見ると腰が砕けてしまうほどで、下手をすれば、あたるだけで死ぬというケースも。ゼルエルは冷や汗をかきながらも、グランの背中を見続ける。
(なぜこの方が辛い目に会わなくてはいけないの?)
彼は人間が憎い。だがそれと同時に愛してもいる。複雑な感情を持ちながらも必死に抑えようとしている彼の背中は、時折小さく見えてしまう。人間が彼に何をしたのかは聞いている。天使でありながらも、殺意に駆られてしまいそうだった。一番近いところにいたのに、それだけは彼女には分からない。