第二章3 『13』
数学の問題に没頭していたために気づかなかったが、時刻はすでに六時を過ぎ、帰ってもいい時間になっていた。
タロットカードの本を読みふける逸美ちゃんはまだ帰らないようだったけれど、俺はここら辺で帰らせてもらおう。
席を立って大きく伸びをすると。
そこへ。
所長が悠々とした調子でやってきた。
「やあ。逸美も開くんもまだいたか。御苦労だ」
「所長。いま帰りですか?」
「いや。残念ながら、急な案件が入ってしまってな。これからまた出かけるのだ。それまでに一度、開くんがサボって帰ってしまわないか、見にきたというわけだ」
「俺は帰りますよ。別にサボってなんかないですから。それに、そろそろ事務所も閉めますよ」
所長はドアの敷居に背を預け、とても絵になるような動作で長い髪に触れる。
「逸美、開くん。もしかしたら、次の案件は手強いものになるかもしれない。あと数日したら、そっちに取りかかることになる。そうなったとき、なにかあったら二人で依頼にあたってくれ」
膝の上に本を広げたまま顔を上げ、逸美ちゃんは所長に報告をする。
「千秋さん。今日依頼があったわよ。最近この町で起きてる連続放火事件の犯人を、捕まえてほしいんですって」
「ふむ。なるほど。興味深い。だが残念だ。わたしには別件があるのでな。もし二人でできるようならやりなさい。なにかあっても、わたしは手を貸せないかもしれない。だが、電話で相談に乗るくらいはできるだろう」
「わかったわ」
逸美ちゃんが返事するのに続けて俺も「わかりました」と答える。
しかしいまの情報量では、いくら所長でもどうにもできないと思ったのか、逸美ちゃんは詳しくは語らなかった。
「では逸美。戸締りは頼んだ」
「はい」
それだけ言うと所長はさっさと出かけて行ってしまった。《名探偵》である所長にしか解決できないような難事件は山とある。そのため所長は忙し過ぎる。
所長が事件に当たれないいま、自分にできること。
この連続放火事件解決に努めよう。
そう思って、この日は探偵事務所をあとにした。
帰り道。
空は藍色が広がり、すっかり暗くなっていた。一週間前より日が落ちるのが遅くなったけれど、三月といってもまだまだ春を感じない肌寒さだ。
さて、遠回りにはなるけれど大通りの古本屋を見てみるか。そこにタロットカードがあるのか確認してから家に帰っても遅くない。なんせ浅野前さんが自信満々に胸を張って言っていたのだ――古本屋の近くで放火が起きるのだと。
ということはつまり、情報を流した誰かは、古本屋の壁にタロットカードが貼ってあるのを目撃した、ないしタロットカードを貼っていたことになるのだから。
情報が正しければ、だけれど。
交差点を左に折れて、このまままっすぐ進めば古本屋だ。俺は少しでも気になるものは見逃したくないタチなので、注意深く見ながら歩いた。
小さな電器店のひとつ奥が、俺の目的地である古本屋だ。
その古本屋のさらにひとつ奥で、壁に向き合っている人影を発見した。その人影を観察する。
誰だ。なにを見ているんだ。
ただ壁を見ているだけのように見える。いや、もしかしたらカードを見ているのかもしれない、そんななんとも言えない期待が胸中に渦巻く。
古書店の壁の前に着いた。そこにカードはなかった。てことは、その誰かさんが見ているところにカードがある。そう思った。
古書店を通り過ぎようというとき、そこで改めて正面に視線を戻して、人影を確認する。
少年だった。高校生。それも、俺の知る変わり者の高校生である。
そいつの前で足を止めた。しかし彼はこちらにはまったく無関心に壁を見つめたままである。声をかける。
「なにやってんの? 凪」
柳屋凪はゆっくり俺に向き直った。
「やあ。開じゃないか。キミのほうこそ、なにをしてるんだい? 探偵事務所からキミの家までの復路に、この場所は入っていないはずだ。それとももしかして、開に探偵事務所以外に行くようなところがあったのかい?」
「ちょっとね。次はここら辺で放火があるって聞いてさ。見ておこうと思っただけだよ。で、お前はなにやってんだよ?」
凪は形容しがたい苦笑を浮かべる。
「一字一句同じ理由でビックリしたよ。目玉があったら飛び出しそうだ」
「おまえには目玉がないのかよ?」
「実は、ぼくもクラスの友人に聞いたんだ。ほら、見てごらん。ここの壁にカードがある」
「ん?」
カードに書いてあったのは、死神だった。確かタロットカードには『死神』というカードがあったはずだ。カード下部に書いてある文字は、『DETEH』。
いい予感はしなかった。
凪はポケットからケータイを取り出して、写真を撮る。
今日、浅野前さんと郷ちゃんの訪問をもってこの連続放火事件に関わることになってしまった俺も、凪に倣ってケータイで写真を撮っておくことにした。
「どうしたんだい? 開も写真かい? キミはぼくとは違って、とても興味津々という感じではないけどね」
「おまえに言うまでもねえよ」
逆に、興味のないヤツがこんなことをしていたら、どんな料簡なのか察しがついてそうなものだけどな。
「依頼が来たんだよ」
「へー。そうかい」
俺の動向には興味がなさそうな凪である。凪は続けて、
「今回のカードは『DEATH』。つまるところが、これが『死神』のカードであるということだ。開も知ってるよね? 大アルカナくらいは」
「まあね」
「カード番号は13。この数字は不吉な数字として知られているし、死神そのものもいいものじゃない。ぼくはキリシタンではないから、それほど13という数字に嫌悪はないのだけどね。しかし対象が不確定な現状では、このカードがどのような意味を持っているか、推察のしようもないよ」
この場合の対象というのは、もちろん犯人のことだろう。犯人像がボンヤリともつかめていない現在、凪でなくともそんなこと知る由もないことだ。
「むしろ、ぼくは推察も推理もしない。するのはどんなときも、キミだしね」
と、凪は俺を指差した。
「勝手なことを言うな」
「勝手もなにも、それが定めというやつだよ、探偵王子」
む。
俺がその呼ばれ方をされるのがあんまり好きじゃないのを知っていて言うんだから始末が悪い。
さて、俺は話を戻す。
「凪。今日だってな、事件が起こるの」
「なんだ。開も知っていたのか。ぼくの高校でも多少噂になっているよ」
それから凪は俺を一瞥して、またカードを眺める。
「噂は一年生が主だね。どうも、一年生から二年生に噂の矢印は向いているようだ」
一年生? 北高では二年生からだと、晴ちゃんから聞いた。凪の高校では違うのか。別におかしいことではないけれど、それもまた、おかしく感じたというのも本音だった。
「開、いまからヒマかい?」
「帰って夕飯食べて寝ようと思ってたところ」
「そうか、ヒマか」
「別にヒマとは……」
しかし凪は俺の言葉を遮って言った。
「だったら、他の現場も見ていかないかい? せっかく開が事件に参加するんだ。ぼくにも手伝えることがあるかもしれない。昔みたいにさ。まあ、ここでぼくが現場に残っていた各カードの情報や写真を開に見せるのは簡単だ。でもね、百聞は一見に如かずだよ」
まあ、急いで帰る必要もなければあまりお腹も空いていないし、それでもいいか。一度は見ておこうと思っていたのだから、それが今日になろうが明日であろうが変わらない。
「わかったよ。行ってもいいよ」
「ははっ。そう言うと思ってたよ。じゃあ行こうか」
そう言うなり、凪は目的地も告げずに飄々と身を翻した。