第六章12 『routeM 20』
夕方。
あれから俺と逸美ちゃんはひと言も交わさず、黙って読書をする逸美ちゃんの横で、俺はぼーっとしていた。
はた目にはまるで抜け殻のようでもあったと思うけれど、逸美ちゃんが隣にいてくれたから、空虚さは感じなかった。
日も落ちかけてきた頃になって俺はソファーから立ち上がり、
「逸美ちゃん、今日はありがとね」
ふわりと逸美ちゃんは微笑んだ。
「いいのよ。開くん、もう帰るの?」
「うん」
「気をつけて帰るのよ。また明日ね」
「また明日」
逸美ちゃんに手を振り返し、俺は探偵事務所を出た。
帰り道。
郷ちゃんの死を実感し、逸美ちゃんと過ごしたことで頭の整理だけはついた俺だが、細い糸が絡みついたようにとぼとぼとゆるい足取りで帰路を歩く。
視線も下がっていたらしい。
前方に、誰かが立ち尽くしていたのにも気づかなかった。
俺を待っていたその気配にやっと顔を上げてみると。
そこで待っていたのは、しばらく前にも見た顔だった。
「やあ」
「……」
いまはこいつとしゃべる気力もないんだよな。
だけど、相手は一方的にしゃべりかけてきた。
「キミを待っていた」
「なにか用?」
「待っていたからには、用のひとつくらいはあるさ。そうだろう? 開」
そう言って、柳屋凪は、俺を見据えた。
俺は眇めるように凪を見返す。
「で、まだなにか、俺に話すことでも?」
「キミは、まだ浄化されてない。そうだろう?」
「さっきもしたな、そんな話」
「ぼくはさ、本来的なカタルシスはなくなった。悲劇はカタストロフにしかならなくなった。だから今回の件だって、悲劇を避けられなければカタストロフだって、そう思ってたんだ」
一瞬、凪の言葉に引っかかる。
「思ってた? いまは、違うのか?」
うん、と凪はうなずいた。
「カタルシスが必要なんだ。浄化しなければならない。ぼくはキミを、浄化しないといけないんだ。相棒として。そう頼まれてしまったんだ」
「どういう意味だよ?」
頼まれたって、誰に。
凪はふんと鼻を鳴らした。
「ぼくはキミを導けなかった愚者だった。ぼくが見たこの世界では、ダメなのさ」
こいつの言っている意味がまるでわからない。
「いずれね、キミは名探偵として難事件に挑まないといけないんだよ。そう決まっている。てことらしい。でもこれじゃあ、こんな顛末じゃあ、ダメなんだ。カタストロフじゃなくて、キミにカタルシスを見せてあげないといけなかったんだよ、ぼくは」
「それは、おまえがただ後悔してるって話じゃないよな?」
大きな瞳で、凪は俺を飲み込むように見つめた。
「悪いけど、ぼくにとってはどうでもよかった。だがそれじゃあダメだって話さ。だからぼくは、繰り返す。終わりとはじまりを繰り返す。この螺旋を繰り返す。愚者の旅を繰り返す。そうするよう、仕組まれてしまっている。ぼくが、タイムリープをしなければならない」
俺はフッと笑った。
「本当に、タイムリープなんかができたらいいのにな。もしおまえが言ってるみたいに、未来が変えられるなら、俺にカタルシスを見せてくれよ。そして、そのときはいっしょに桜でも見ようぜ」
なんて。そんな冗談みたいな話に乗って、俺は息をついた。
「わかった。じゃあぼくはちょっと行ってくるよ」
凪がそう言った瞬間、視界が――いや、世界が眩しく見えて、俺は目がくらんだ。
タイムリープってなんだ?
そう問いただしたかったけれど、俺はもう、目をつむったまま動けなかった。
もう目を開くこともできず、立ちくらみにも似た感覚に襲われる中、俺は最後に凪の言葉を聞いた。
「螺旋を抜け出し、これからの愚者の旅が終わったら、みんなでいっしょに桜を見に行こう。約束だぜ、相棒」
そこで、俺の意識はぷつんと切れた。