第六章10 『routeM 18』
こう晴れ渡った空の下を探偵事務所へ向かってしばらく歩いていると、昨日まで毎日のように顔を合わせていた浅野前まひると蒲生郷里――彼女たちと過ごした時間が遠い昔のことように思えて仕方がない。そんなことを考えていたところで、歩く俺を後ろから車が抜き去り、停止した。
その車はタクシーで、そこから人が降りてきた。
スラリと伸びた脚と高い上背、長髪をなびかせこちらに歩いてくる様はいつ見てもモデルのように格好がついている。
「こんにちは、所長」
所長鳴沢千秋は優雅に俺の元まで歩み寄り、わざとらしく格好つけて言った。
「やあ開くん。わたしもいまから探偵事務所に行くところなのさ。乗ってくかい?」
「はい。所長、お仕事終わったんですね」
「まあな。終わったと言えば終わった。というより、わたしがすべて終わらせてきてやった。まずは乗ろう」
はい、と再度返事して俺はタクシーに乗り込んだ。しかし所長、大阪で三件も事件を抱えてたんじゃないのか。三日で帰ってきたぞ。さすがは所長だと舌を巻く。
タクシーが発進すると、所長はおもむろに長い脚を組んだ。
「それにしても開くん、今日は随分と帰りが早いことだね。終業式か。なるほど」
まだこちらはなにも言っていないのに、勝手に納得する所長である。
「実は、今日帰ると逸美に連絡したのだが、そのときに聞かせてもらった。キミが今回関わった連続放火事件について。その全部というワケではないが、簡単にな。大変なことになったみたいだな」
「ええ。大変でした。散々でしたよ。逸美ちゃんがどうかはわかりませんけど、俺はもう、ダウン寸前です」
遺憾千万、正直もうへとへとだ。
「そのようだな。よかったら、逸美が知っているところまででいいから、聞かせてくれないか。今回の事件について」
「いいですよ。その様子じゃ、逸美ちゃんからもあまり詳しくは聞いてないんでしょう? きっと、逸美ちゃんは俺に気を遣って事件についてはなにも聞かないと思いますから、情報の伝達は所長に任せます」
「任せるがいいぞ」
どうせなんでもお見通しのこの《名探偵》のことだ、俺が話す内容なんてしゃべっているあいだに理解して、その後俺がどんな行動を取りどんなことを言ったのか、察してしまうのだろう。
それでも俺はしゃべることにする。
「まず、浅野前まひると蒲生郷里が依頼に来ました」
「いや、そんなところからしゃべらなくても結構だ。そうだな。わたしの質問に答えてくれればいいぞ。それに開くんが答えるのだ。簡単だろう?」
「そうですね。そのほうがいいかもしれません」
所長がどの程度知っているのかもわからないのだし。効率的なほうが俺は好きだ。
「さて」
その言葉からはじまった。
「では質問だ。事件現場はすべて、蒲生郷里の思い出の場所だった、ということでいいんだな?」
「はい。基本的にはそうですね。俺と遊んだ場所やよく通っていた歯医者さん、小さい頃に見た思い出の場所です」
「選ばれた場所は全部十年以上前からある建物ばかりだったしな。いや、それ以前に、ヒトの記憶を思い出させるには日時と場所を提示するのがセオリーだ。浅野前まひるのしたことは間違っていない。ただし補足するなら、六件目のオフィスビルの放火では蒲生郷里の現在の住処が燃やされた。厳密には壁の一部が燃やされてしまったワケだが、これだけは当初の計画と異なり、開くんを巻き込むための特別ルートだったのだろうね」
それはそうだろうな。あそこだけは昔の郷ちゃんに関係がない。他は、父が通っていてたまに迎えに行くこともあったパチンコ屋さん、小さい頃利用したレンタルビデオ店、スパゲティがおいしいという喫茶店、こちらに戻ってくる際に利用した不動産屋。六件目だけ現在のモノなのだから。
「ひょっとすると、蒲生郷里は途中で気づいていたのかもしれないな。この放火事件が自分への報復であることに」
「ええ」
自分の懐かしの場所が狙われただけでは、自分への恨みからの放火だとは考え詰めることなどできない。話してくれなければ他人の気持ちなんてわからないものだ。でも、気づいていたのだと俺も思っている。
「ちなみに、二件目の会社だが、あれは浅野前まひるの父が勤めている会社だとか言っていたそうだが、あそこが、元浅野前家があった場所だ。蒲生郷里によって燃やされた跡地ということになる」
「なるほど。そんなこと言ってませんでしたけどね、二人共」
「言うはずがないさ。あそこは、終わりの場所だったのだからね」
同時にはじまりでもあった。
終わりは同時にはじまりである。
縷々と続くはじまりと終わりの連続を、螺旋のようにとはよく言ったものだけれど、それは永遠ではない。繰り返しですらなく、はじまっては終わるだけの連続の、その繋がりでしかないのかもしれない。
所長は俺を見ることなく言う。
「それとだが、現場となった公園。ここは、蒲生郷里の思い出の場所ではないのだろう?」
それは、俺もわからなかった。別の友達と遊んだ場所だと思っていたけれど、考えたら郷ちゃんは、俺と浅野前さんの二人とその公園に行ったとき、ここに来るのははじめてだと言っていた。
「どう思ってるんですか? 所長は」
「ん。わたしは蒲生郷里に詳しくないから仕方ないのかもしれないとも思った。しかし、あれも思い出の場所を表していたのだとわかった」
「どういうことですか?」
「開くんは、約十年前、蒲生郷里が引っ越してしまい、別れることになったときの話をしただろう? その直前、キミは蒲生郷里とケンカした。公園に桜を見に行ったときにね。開くん、キミが蒲生郷里とケンカしたのは、どの公園だい?」
「近所の公園です。その公園がどこなのかは覚えてませんが」
「ん。そうだ。浅野前まひるはその話を、キミから聞く前にも蒲生郷里から聞いていたのだろう。幼馴染の弟分とケンカした思い出話として。それもキミと同じく、近所の公園だという認識の元にね。そこで、浅野前まひるは思ったワケだ。近所の公園というのは、この公園なんじゃないか、と」
「なるほど」
「開くん、浅野前まひるは、こう提案したそうじゃないか。『わたしが一人で聞き込みをし、蒲生さんは明智さんと二人で聞き込みをする。そして、あとで合流して結果報告! いかがですか?』と。きっと、浅野前まひるは、公園でキミと二人にさせることで、蒲生郷里により鮮明に思い出させようとしたんだろうな、昔を」
そういえばそんなこともあったな。けれど、だから、彼女は二手に分かれさせたのか。よく考えるものだ。というか、そこまで気づく所長は、もう鋭いとかいうレベルじゃない。すべてわかっているようだった。
「あ、所長。じゃあ、逆位置だったカード――あれはどういう意味だったんですか?」
「ん。あれか。ただカードを逆さまにして貼っただけだったワケだ。つまり逆位置のカードに意味はない。イコールそこに意味を持たせなかったのだ」
「そうですか」
そういえば凪は、まだ二つしかない段階でわかっていた。
「なぜ凪が知っていたんだろう。いや、なぜそんなに早い段階であいつは結論付けたのかなって」
「凪くんか」
「はい。凪がそんなことを言っていたんですよ。もっともあいつは、『意味がないカードもあるんじゃないか』、『価値がないと言いたいんじゃない。単なるインタルードだよ。つまり、幕間劇でしかない可能性もあると思ったんだ』って言ったんですけれど。知っていたんですかね?」
「ん。というより、凪くんの中の認識の問題だ。幕間劇という表現が彼らしい。わたしならそれを、茶番と言うだろう。意味のない目くらまし。蒲生郷里にカードの意味を考えさせ、考えることによって不安を与えたかった。すなわち揺さぶりだ。カードが逆位置だから意味を考えない、なんてヒトはいないし、逆位置だからこそ、どんな意味かを考えてしまうモノだろう。浅野前まひるは、彼女自身も気づいていない蒲生郷里の罪の意識を、蒲生郷里が自ら考えるよう仕向けた、とは考えられないだろうか」
どうだろう。浅野前まひるが知らない蒲生郷里の罪の意識。蒲生郷里しか知らない意識と記憶。そこを揺さぶろうとした。自分しか知らない記憶でも、カードの意味と繋がる点があるかもしれない、あれば勝手に照らし合わせて恐怖し反省すると踏んで。そこまで、意識下にないところまで、浅野前まひるは追い込もうとしていたのか。果たして本当にそうなのかなんて、俺には想像もつかなかった。
「確かに緻密な人でしたけど、そこまで考えてたんでしょうか」
「いまのは忘れてくれていい。わたしが考えられる可能性のひとつに過ぎない。おそらく凪くんは、その可能性までは考えていないだろう。なんとなく思っただけだろうね、物語的な意味でさ。情報は二つ以上のソースから同じモノが得られれば信頼に値する、そう判断しただけだろう。彼は勘や推理で考えるタイプではなく、情報線を追うタイプだからね。あれで意外と論理型なのさ」
なんだか俺よりも凪について詳しく知っていそうな所長だった。この人にはわからないことなんて本当にないのだろう。ずっと顔を合わせていなかった現在の凪のことも、一目でどんな人間であるか見抜いて見切っていそうなくらいである。
「それに、だ。凪くんは人間の持つ悪の感情に疎い。そうは言っても、この解釈には二パターンあるね。ヒトの悪意に気づかない疎さと、悪であることの認識の疎さ、この二つだ。凪くんは前者だね。ヒトの悪意に鈍感なのさ。悪が嫌いな子だ。純粋な子だ。だから彼は、わたしのような見方はしないはずさ」
「ですね。むしろ、そんな見方をするのは所長くらいです」
「そんなことはないさ。開くんはヒトの心の機微に敏感だからね。修練を積めば、このような見方もできるようになるハズだよ、凪くんとは違ってね」
「そんな修練お断りです」
即答してやった。
「ハハハ。そうかい。確かに開くんは、少し凪くんの性質をうらやましがっている節があるからね。そうだろうね」
「そんなんじゃありませんから」
別に凪と同じがいいとかではなくて、そんな悪意までをも見透かすような真似をしたいとは思わないのだ。そんな面倒な慧眼を育てても、生きるのがつらくなるだけなのだから。
しかしいろいろ語る割に全然感情を出さない所長のなんてスタイリッシュなことだろう。ちょっとは人の気持ちも考えろと言いたくなるほど、所長は他人の感情を論理的にしか見ないのだ。
「えっと、所長。もうひとつ聞いてもいいですか?」
「ん。なんだ?」
「浅野前まひるにとって、兄弟ってなんだったんでしょう」
所長は、その答えに迷わなかった。
「彼女が生きてきたテーマさ。それを考えながら、彼女は生きてきた。結論としては、代わりなどいない唯一の存在だとか、最愛の存在だとか、そんなふうに言ってしまうこともできる。しかし結局、それをテーマに彼女は生き抜いたのさ。きっと彼女の人生には、恨みや憎しみなんかより、兄弟への愛のほうが大きかっただろう。ただ、理不尽は正さなければならないモノであり、だから決着をつけただけなんだ。まあ、それでも言葉にしたければ、唯一の愛だと、そう考えてくれ」
……そっか。しかしまったく、難しい話だ。俺は所長の言葉を心に留め置き、車の窓から外を見る。
「ちなみに、開くんにとって、兄弟とはなんだい?」
本当の俺の兄弟は、花音だ。冗談を言い合ったり気を遣ったりせず話せる、世界でたったひとりの兄妹――たったひとりの妹。逸美ちゃんや郷ちゃんは異性として意識することもある、一歩離れた姉弟。でも、この質問は郷ちゃんについても問われているような気がした。
しかし、俺にとって、郷ちゃんとはなんだろう?
俺にとって、兄弟とは――
いずれにしろ。
「兄弟とは、大きくて、重いモノですね」
所長はうなずいた。
「重い、か。なるほど確かに、そうなんだろうね。キミにとっては、ひたすらに重いかもしれない」
「押しつぶされそうですよ、本当に」
薄く微笑を浮かべる名探偵と、苦笑するその助手である。所長には、俺の考えていることや心境が、きっとわかってるんだろうな。
「開くん。到着だ」
坂道を登るタクシーも探偵事務所を捉え、それから一分もしないで停止する。
タクシーから降りて、所長は言う。
「わたしはまた出張があるのだ。だからそう長居はしないさ」
「そうですか。まったく。相変わらず忙しいですね」
所長はまず車庫兼物置である一階に荷物を置いて、それから二階に向かう。物置ってそういうふうに使うんじゃないと思うんだけどな。
俺はその後ろをついて行く。中で待っている逸美ちゃんの顔を思い浮かべながら十三段ある階段を上り、所長から順番に事務所に入る。
「やあ、逸美。帰ったぞ」
「おかえりなさい。千秋さん」
逸美ちゃんは読んでいたらしい本を開いたまま逆さにしてテーブルに伏せて、所長のすぐ後ろにいる俺に気づく。
「あ、開くん! 学校終わったのね。聞いていた時間より少し遅いから心配しちゃった」
凪と公園で話していた時間が思ったよりも長かったせいだろう。気を揉むような表情の逸美ちゃんである。それにしてもそれくらいで心配することないというのに。
「帰り道に所長と会ってね。いっしょに来た」
昨日の一件があったからこそ心配しているのはわかっている。でも大抵逸美ちゃんの心配は杞憂なんだよな。いまだってそうで、だからなるべく平気な顔で穏やかに言ったのだ。
「遅くなるならそう言ってくれればよかったのに」
昨日あんなことがあったし余計心配かけちゃったかな。
所長は俺と逸美ちゃんの会話なんてお構いなしの調子でお客様用のソファーにさらりと腰を下ろし、優雅に脚を組む。そして逸美ちゃんに注文をする。
「お茶をいただこう」
「はい。すぐに淹れてきます」
メイドのように事務的に返答して、逸美ちゃんは給湯室へとお茶を淹れに行った。
俺もソファーに座る。所長の対面に位置するいつもの席だ。
「そうだ、開くん。確認しておくことがあったのだ」
「まだなにか、ありましたっけ」
「開くんは浅野前まひるになんて言ったんだ? 最後の一言。『やめてください』のあとだ」
なんであと一言あるって知ってんだよ。凪にも言わなかったところだぞ。
俺が凪の名前を口にする前に、所長は言った。
「凪くんに聞いたのさ。凪くんは情報屋としてしばし活用するのだ。まあ、他にもわたしには利用させてもらっている情報屋はいるんだがな」
「その何人かに凪が含まれていても、不思議じゃないですね」
しかしまったく、いつの間にそんなコネクションができていたんだか。凪のヤツ、そうならそうと言っておけよ。
「それで、さっき聞いたのだ。浅野前まひるの告白に『やめてください』と言ったらしいじゃないか」
「でも、聞いたのって、それだけですよね? だったら、さらに一言あったかはわからないじゃないですか」
所長はシニカルな笑みを浮かべた。
「わかるよ。わたしは名探偵だからね。きっと開くんはこう言ったはずだ」
心臓が高鳴る。
『やめてください。好きなヒトがいますから』
得意げな顔で、俺の瞳を覗き込む。
「どうだい? 当たりだろう?」
まったく。恥ずかしい人だな。俺もつい言葉に詰まる。迷った末に違いますよと否定しようとしたところで、逸美ちゃんがお茶を淹れて戻ってきた。
「あら? なんの話?」
「なんでもない」
そんな話をされたらたまったもんじゃない。こんなときは適当に話題をそらすに限る。
「そうだ、逸美ちゃん。木曜日。花音の卒業式なんだよ。だから、そう。明後日だね」
逸美ちゃんはお茶を配り終わると俺の隣に腰を下ろして、
「花音ちゃんいま小学校六年生だもんね。もう花音ちゃんも中学生か。早いわね。きっと中学校の制服も似合って可愛いんだろうな~」
一応、逸美ちゃんは花音と面識がある。深く話したわけでもなんでもないけれど、郷ちゃんよりも逸美ちゃんのほうが知っている仲と言えるだろう。
所長はもうさっきの話をぶり返さないと見える。けれど、俺は言葉を続けた。
「花音のやつ、最近毎朝早くてさ、ランドセル背負って元気なもんだよ」
逸美ちゃんはふわりと微笑む。
「もう春だもんね」
ほんと、三月も半分を過ぎてはもう体感的にも春で、桜が咲くのを待つばかりとなった今日この頃である。
やっと冬が終わってそろそろ春がはじまるという感じだ。
所長はお茶に口をつけはしたがまだ飲み終わらないうちに立ち上がった。
「さて。わたしはそろそろ次の仕事に行くとしよう。今度もまたいつになるかわからないが、すぐに帰ってくるつもりだ」
「随分と早いですね、所長」
「わたしは忙しいのだ」
なにかあったら連絡しなさい。そう言い残して所長はとっとと事務所を出て行ってしまった。佇まいはどこの誰よりも余裕があるのに、なんて落ち着きのない人だろうと思った。そもそもこの人、連絡しても全然リターンよこさないのにな。
「いってらっしゃい」