第六章9 『routeW 17』
朝起きて朝食をとり終えたところで、「いってきます」と出て行った花音が玄関先から引き返してきて言った。
「お兄ちゃん、まひるお姉ちゃん来てるよ」
「わかった」
昨日、浅野前さんとはいっしょに学校へ行く約束をしていた。
再び家を飛び出した花音を見やり、俺は一歩遅れて家を出た。
「おはようございます。約束通り、お迎えに参りました」
軽やかな挨拶をする浅野前さんに俺も挨拶を返し、いっしょに学校へ向かって歩き出した。
なんだか不思議な感じがする。送ることのできなかった時間を送れているような、もっと前に送るはずの時間を過ごしているような、記憶と時間が錯誤したような、少し不思議な感じだ。
隣を歩く浅野前さんは、楽しげに花音の話を始めた。
「花音さん、随分わたしになついてくれましたよ。わたしうれしくて、朝から元気もらえました」
確かに花音が浅野前さんになついているのは本当だ。呼び方もそうだが、花音が人懐っこいのもあるだろう。郷ちゃんとだって打ち解けたようだしな。とまあ、花音の性質はともかく、そんな妹と仲良くしてくれる人のいい先輩を少し微笑ましく思いながらも、しかしまた別のことを考えている自分がいた。
浅野前さんは兄弟がいたのだろうか。妹の話をしているいま、これはちょうどいい機会だし、単刀直入に聞いてみるか。
「ところで。浅野前さんには、兄弟はいるんですか?」
急な質問に戸惑った様子は見せず、ええと、と前置きしてから話し出した。
「兄弟。わたしにもいました」
「いましたってことは、いまは……」
「ええ。いまは帰らぬ人となってしまいました。よかったら聞いてくれませんか? わたしの昔の話のこと」
それはいままで切り出すタイミングのなかった話を、ようやく切り出せたような、そんな顔だった。
「聞かせてください」
「では、この登校中に話し切るようにまとめますね。昔、わたしには兄がいました。唯一の兄妹です。わたしと兄のふたりだけ。亡くなった兄以外にわたしに兄弟はなく、兄弟と呼べるような……そう、明智さんと蒲生さんのような、特別な、兄弟のような存在もありませんでした。兄はわたしが五歳の頃に亡くなりました。それでも覚えてるんですよ、兄のこと。わたしは兄が大好きで、いつもくっついて歩いていました。一つしか年が違わないのに、すごく頼りになって。蒲生さんと明智さんもそうですよね。年齢差がいっしょです」
「そうですね」
「兄との思い出は、いまでも覚えているんですよ。エピソードにして語れるくらいにです。アルバムの写真で見たり両親から話を聴いたりして、それで補正されている分もあるかもしれませんね。でも覚えてるんです。それは絶対に」
そううっすらと微笑む浅野前さんに、
「はい。思い出は記憶から消せませんからね」
と、俺は相槌を打った。
「わたしは許せなかったんですよ。今回の放火事件のこと。わたしの兄が死んだのは、放火が原因なんです。家が放火されてしまい、兄だけが助からずに死んでしまいました。そのとき父はかなりのやけどを負い、いまも完全には治っていません。父の顔を見るたびにわたしは思い出してしまうんですよ、あの放火事件を」
「だから今回の放火も、許せないんですね」
しかし、浅野前さんは口をつぐんだまま言葉が出ない。
俺もせかすマネはしたくなかったから黙って彼女の歩調に合わせて歩いていると、やがて、浅野前さんはぽつりと言った。
「どうなのでしょう。わたしは、間違っていたのかもしれません」
「間違っていた?」
浅野前さんは軽く目を閉じて、
「いまの言葉は忘れてください」
そう言われたらこれ以上は聞けず、かといって無視もできず、俺はぽつりぽつりとしゃべっていた。
「はい。忘れておきます。ただ、この放火事件が終わったらです。そして、あなたの中で積み重なって複雑に絡み合ったその想いを、浄化させます。あなたの家族を壊したカタストロフを、浄化する。そうすれば、あなたはもう、どうやっても終わらない螺旋から出られる。どこへぶつけても浄化できなかった苦しさから解放される。これ以上、苦しまなくて済む。きっとカタルシスを与えます。探偵としてね」
浅野前さんの中で煮えたぎる想いを重ねて理解することなんていまの俺にはできないけど、それでも心のどこかにあった感情が、なんとなく彼女の気持ちを理解できていた気がした。俺だけは理解できるような、そんな思い込みがあった。
はっきりと浅野前さんに言うつもりで言った言葉ではなく、自分に言い聞かせるような、そんな自身に語るような言葉だったけど、浅野前さんは立ち止まった。
俺も歩を止めて振り返る。
浅野前さんがどんな顔をしているか、どんなことを言ってくるのか、見るのが少しだけ怖かった。でも、彼女は存外普通の顔で、普通の柔らかい笑顔だった。
「あたしはやっぱり、明智さんに出会えてよかったです。そう思えました。いえ、やっぱりっていうのもなんか変ですけど、明智さんはなんだか特別、あたしのことを理解してくれる人に思うんです。自分との向き合い方もわかってない人間ですけど、どうかあたしを、あなたの言うカタルシスまで、連れて行ってください。あたしは自分から自分を変えることはできないけど、それでも連れて行ってくれるなら、見せてください」
たぶん、俺と彼女のあいだには、共通認識のようなものがあったのだろう。だから、俺は微笑み、うなずいた。
「はい。必ず」
再び歩き出して、しばらくは無言だった。
しかし無言も嫌じゃなかった。
隣を歩く浅野前さんの歩調も、俺たちを照らす朝の陽ざしも、そんな陽ざしを浴びて動き出した忙しそうな街の喧騒も、温順な気候も、どこかのどかだった。
浅野前さんは言う。
「あ、もう校門ですね」
「そうですね」
「なんだか今日は、時間が穏やかでした」
ちょうど、俺もそう思っていたところだ。
校門を通り抜けて、浅野前さんは校舎前にある桜の木を見上げた。
「見てください。もう少しですよ。開花まで、あと二週間というところでしょうか」
「わかるんですか?」
「大抵そういうものなんです。桜のつぼみもふくらみかけてきました。いい季節になりましたね」
「ですね」
そう言って、二人で立ち止まって桜の木を見上げて数秒、お互いに顔を見合わせる。
「では、明智さん。今朝もありがとうございました」
「こちらこそ。では」
「はい」
そして、俺も浅野前さんも昇降口に入って別れた。
今日の終業式までの俺の教室――一年一組の教室は下駄箱のすぐ近く。俺はまっすぐ教室に入った。




