第六章9 『routeM 17』
すべて終わった。
そう連絡を入れた。
逸美ちゃんにも晴ちゃんにも、そして凪にも。
その後の俺は気を緩めることなく、ふらつきそうな足取りで晴ちゃんの家へと向かった。
晴ちゃんの部屋で寝るのは久しぶりな気がした。前にも泊まりに来たことはあったけれど、そのときとは随分と気分が違う。
いまの気分を考えると、自宅にいるよりはずっとよかったのかもしれない。自分の部屋にいたら嫌でも郷ちゃんのことを思い出してしまう。家を出る前の夕方にも、郷ちゃんは俺のベッドで横になってごろごろして……そんな、郷ちゃんのぬくもりが残ったようなところでは寝られない。
それでも、俺はなかなか眠れなかった。
晴ちゃんはなにも言わない。逸美ちゃんから少なからず事情を聞いたのかもしれないし、俺の様子から察してくれているのかもしれない。
「ねえ、晴ちゃん」
「ん? どうしたの?」
「犯人は、二年五組の浅野前まひるだった。彼女のこと知ってる?」
「うん。二年五組といったら、おれたちが来年入ることになる選抜クラスだからね。確か彼女は東中出身だったって聞いてる。文系科目に強くて、特に現代文が得意。ヒトの気持ちのわかるいい子だって聞いてるよ」
なるほど。全部その通りだった。
「そっか」
「おれがこんなこと言うのもなんだけどさ、浅野前さんは悪いヒトじゃないと思うよ。事情がどうとかでもなくて、そうすることしかできなかっただけなんだと思うな」
「うん……」
知ってる。その通りだった。
それ以上晴ちゃんはなにも言わない。俺もなにも言わず、そこで会話が途切れた。
静かだ。
朝の前の静けさだった。
しばらくすると眠たくなって、眠ってしまった。
郷ちゃんの夢を見た。
昔の俺と郷ちゃんがいっしょに遊んでいる夢。
楽しかった昔をそのまま再現したような。
そんな夢だった。
が、急に。世界が変わる。
なにもない白い世界。優しい光に包まれたような世界だ。
「開」
呼んだのは、高校生になった郷ちゃんだった。俺も高校生になっていて、俺と面と向って立っている郷ちゃんは微笑んでいる。
「開、わたしはあのときは言いそびれてしまったな。わたしは――」
はっと。
そこで、目が覚めた。
目が覚めて最初に気づく。どうやら泣いていたらしいということに。涙を拭き取って身体を起こす。そういえばここは晴ちゃんの家だったんだな。遅ればせながらに気づいて、その晴ちゃんが横で寝ているのを見て、それから時計を確認する。
と。
目覚まし時計のアラームが鳴って、晴ちゃんが眠たげにその大きな手でアラームを止めた。
「おはよ」
大きなあくびをしている晴ちゃんにそう言うと、目をこすりながらいつもの温和な笑みを作り、
「ああ、おはよう。開ちゃん、早いね」
「俺もいま起きたとこ」
「じゃあ、学校行く準備しちゃおうか。今日は終業式だからね」
この日の学校は、終業式だった。
明日から春休みだ。
今日は学校も早く終わるし、そうしたら探偵事務所に行って、逸美ちゃんにお茶でも淹れてもらって、そしてやっと、気を休めることができるだろう。
学校では全校集会があった。
三年生のいない全校集会。卒業式もとっくに終えて母校を巣立ってしまった三年生はもうこのときここにはいない。生徒がいつもより少ない中で一年生と二年生が校長先生の話を聞いていた。
一年生の俺も当然出席していたのだけれど、その話もあまり頭に入って来なかった。
まあ、知っていたからというのがその理由だ。
我が校の生徒が校庭の真ん中で燃やされて殺されてしまった。その生徒は理系の選抜クラスにいた優秀な生徒だった。その生徒は弓道部では副主将を務めていて、下級生からも慕われていた。その生徒を殺した生徒もまた、我が校の生徒だった。殺した生徒もまた、選抜クラスの生徒だった。そして、その殺した生徒は自分が殺したという、遺書のような書き置きだけ残して自殺してしまった。自殺した場所はやはり、校庭の真ん中だった。などなど。
……まったく。
なにも、最後の最後に嘘をつかなくてもよかったんじゃないのか?
自殺をして誰が喜ぶというのだ。
自殺をすることで罪滅ぼしができるとでも思っているのか。
そんなことをしたって、誰も救われないんだぞ。
俺は、郷ちゃんにもした、究極の質問を思い出す。
もし選ぶとしたら、殺すのと殺されるの、どっちがいい?
殺すのだけはいやだ。それは最低だ。だったら、潔く死のう。郷ちゃんはそう言った。
浅野まひる――彼女が選ぶとしたら、どっちだろう。
殺して自分も死ぬ。できることなら、殺して殺される。彼女はそう言うのだろう。
そうすれば辻褄が合う。……辻褄ってなんだよ。そんなことで矛盾は正せないよ。むしろそれは、理不尽だ。なんの解消にもなってないって、まったくさ。
すべて消えて霧散して、心にぽっかり穴が空いてしまったような、そんな傷心した気分だった。
「それは焼身と掛けているのかい?」
帰り道に偶然出会った凪がそう言った。
「そんなわけないだろ。いい加減にしろ」
凪は肩をすくめて、冗談だよと笑った。
「しかし開。ぼくは別に彼女に利用されていたわけじゃないんだよ。自ら進んで情報を開に回したのはぼくなんだけどさ」
「わかってるよ。俺があの場で浅野前まひるに言ったのは、彼女から見えていた事件だ」
「まあ、今回の事件は多角的というほど人物の乱れはなかったが、確かに彼女の側から見ればそれが正解だ」
俺たちはいま、通りに立ち止まって話をしていた。こんなところで話をするのもどうかと思ったので、別の場所に移らないか、と提案してみる。
「別というと、どこがいい?」
「どこでも」
「ぼくもどこでも構わない。どこで話しても話すことは同じだ。でもそういうことなら、公園にでも行こうか。近くなら、例の公園があるじゃないか」
「あそこか」
北中近くの公園。
そうと決まれば行こうじゃないか、と凪が言って、俺たちはその公園まで行くこととなった。
公園にはこの前浅野前まひると郷ちゃんの二人と来たときと変わらず、子供たちやその母親などがいた。
なんて平和なんだろう。
昨日のあの一件が嘘みたいだ。
凪はベンチに座り、俺もその右隣に座った。
突然、凪はどこ吹く風というようにさらりと切り出した。
「ぼくはね、情報屋をやっているんだ」
またこいつはデタラメを言っているのだろうかとも思ったけれど、本当だろうという空気があった。心当たりがあるから荒唐無稽な話には思えない。
でも一応、確認する。
「冗談だろ」
右手のひらを見せるように動きをつけて、
「あるヒトに雇われてね。その人が斡旋してぼくに誰かへ情報を売ってほしいと頼まれることもあれば、直接ぼくに依頼が来ることもある。その関係でね、ぼくが浅野前まひるに情報をリークしたのさ」
「俺が探偵をしているってことを?」
「いや。それも然りだが、そうではなくてね。ぼくが教えたのは、浅野前まひるの兄を殺したのは、蒲生郷里だってことさ。新聞に子供の名前が載るはずないじゃないか。だとしたら、どこで聞いたのか――ぼくが教えたのさ」
なんだよそれ。凪がなにも浅野前まひるに教えることがなければ、そもそもこんな事件が起こらなかったんじゃないか。いや、でもちょっと待て。だとしたら矛盾だらけだ。
「浅野前さんに教えたのっていつなんだよ。浅野前さんは郷ちゃんと同じクラスになってから知ったふうだったぞ」
「だね。その認識で間違いない。ぼくが教えたのは去年の春だ。彼女は真相を知り、蒲生郷里に近づいたのさ」
「でも、まだおかしい。浅野前さんは、お前と知り会ったのは今回の放火事件がきっかけだって言ってたぞ。時期が明確にズレている」
ふふん、とおかしそうに凪は笑った。
「開も知ってるだろ? 浅野前まひるは嘘つきなんだ。ぼくらはすでに知り合っていたのさ」
「知り合っていた? 本当に、浅野前さんが嘘を?」
いや、違う。嘘をついているようには見えなかった。となると。
「どうやって浅野前さんに情報を流した? そこに言葉の綾があるんだろ?」
凪は表情を戻して、座面の後ろに手を置いて空を見上げるようにする。
「さすが。ご名答。言葉の綾だ。ぼくも彼女も嘘をついたワケじゃない。ぼくの情報線が面と向かった対人交渉に限らないということさ。いまやネットワークがこれほどまでに発達しているんだ。なにが言いたいのかというと、ぼくが連絡を取ったり情報を受け渡したりする手段は、対面以外にネットワーク上でもいくつもあるということさ」
「要は面と向かい合わずに、浅野前さんにコンタクトを取ったってワケか。凪の名前は出してないから、浅野前さんは情報屋としての凪を知らなかった」
「いかにも。彼女はどこからか、情報屋という存在を知ったのだろうね。ぼくは真摯に応対させてもらっただけさ。顔も本名も出さなかったけど。アンダーグランドな世界というのも、案外入口はどこにでもあるモノでね」
それで、と俺は質問を続ける。
「対面では、いつ浅野前さんに出会ったんだ?」
「先々週の火曜日だ。彼女もそう言っていただろう?」
「まあ、そう言ってた。それは間違いないのか」
「間違いないさ。それで、ぼくが明智開を紹介したのは、その次の授業があるときだ。それまで浅野前まひるは開と蒲生郷里の関係を知らなかった。知っていたら綿密に計画を練って、もっと早い段階でキミを巻き込んでいただろう。いや、タイミングとしては蒲生郷里の自宅が被害を受けた段階で事務所に依頼というのも、筋が通っている。が、ぼくが教えたことによって、開もこの件に参加することになったのさ」
「そうか」
つまり凪が浅野前まひるに接触したことによって、俺が巻き込まれたわけだ。
「そういえばおまえ、『タロットカードの絵は犯人からのメッセージ』だって言ってたな。考えてみればそんなこと、推理のしようもあるけれど、断定はできない。でも、お前は最初から断定していた。メッセージだと断言した。これは本来、誰も知らない情報だ。凪しか知らない情報。否、犯人しか知らないはずの情報だ。なのに、それをどうして知っていた?」
ああ、あれか、と凪は笑った。
「そうだね、一言で言えばぼくが情報屋だからさ。今回、浅野前まひるに関しては、大抵の情報をぼくは握っている。たとえば、家族構成や経歴、モノの見方考え方、交友関係などなどなど」
凪が怪訝そうに訊いた。
「ところで開。どうして浅野前まひるを尾行しなかったんだい? 割と早い段階から怪しんでいたんだろう?」
その話か。
「これから放火を起こそうってヤツが無警戒なわけないだろ。尾行も大変だと思ったんだよ。家も知らなかったし」
「確かに彼女の尾行は簡単じゃない。あれで彼女は、放火魔としては優秀だったんだから。警戒心や注意力は人一倍あった。でも、それだけじゃないんだろう?」
「まあ……。完全に裏目だったけど」
だから俺は後悔している。たとえ困難でも尾行して浅野前まひるから目を離さなければ、郷ちゃんは死ななかったのだから。
「さしずめ、清算を済ませて互いに仲直りでもしてほしかったのかい?」
「当然だろ。まさか殺すとは思わなかったよ。本当に殺すとはね。どこかで放火を済ませたあと、後日タロットカードのメッセージの意味を郷ちゃんに伝えて謝罪を求めて、和解するものと思ってたよ。……まったく。俺の認識が甘かった」
「ぼくもまさか本当に殺すだなんて思わなかったよ。事実を知って以降何か月も音沙汰がなかったことからも、ぼくはもう、彼女の中で片がついたものと考えていた」
凪もそう思っていたか。いや。まあ、凪が殺人を促したり手伝う真似をしたりしないのはわかっているけれど。
「しかし本当にカタストロフになるとはね。これはもう悲劇だよ」
「そういえば言ってたな、カタストロフ」
せっかくの警告も、なんにもならなかった。なにも、できなかった。
「あと、カタルシスがどうとかも言ってたな。あれはなんだっけ、悲劇のあとの心の浄化、とかだっけ」
「その通り。現在では心にあるわだかまりを一気に解消することだけど、本来の意味はそうさ。その通りさ。悲劇はカタストロフにしかならなくなった。悲劇のあとにおける浄化はなくなったのさ」
悲劇が悲劇で悲劇のまま救いなく終わり、その後の浄化は起こりえなくなった。だからカタストロフ。今回の連続放火事件はカタストロフでしかなかった。そんな悲劇でしかなかったのだ。
「まあ、とはいえ。この件で浄化されるべきは開、キミだ」
「…………俺もそうだけど、浅野前さんの家族や友達もそうだし、郷ちゃんの家族や友達もそうだよ」
「そう言う話じゃないのさ。と、言いたいところだけどね、キミにそれ以上を言うつもりはないよ」
そうかよ。そうしてくれ。
「これもすべて、浅野前まひるの計画通りだったのかな。それはぼくにはどうにも判断がつかないね。しかしそこを含めても、彼女は実に計画的で用意周到な子だよ。その反面、その手のヒトに多い特徴だけど、巧遅だ」
巧みだが遅い。確かにそうだ。あの綿密な計画を立ててからこれほどに時間をかけて犯行に及んだのだから、巧緻だが巧遅、凪の言う通りかもしれない。
「そういえば、こんなことがあったよ。以前登校時間が早い彼女に、行動が早いですね、って言ったら、『逆ですよ。遅いからこそ、早めに動きはじめるんです。わたしは何事にも時間をかけてしまうタチなので』って答えた」
「今回の放火に対するものと同じ性質がそのまま出ている気がするね」と、凪は納得するようにして、「それでさ、開。キミはどう思ってるんだい?」
「どうって?」
凪はあの言葉について、
「浅野前さんのことさ。だって、『好きですよ』とまで言われたんだろう?」
実は、凪には浅野前さんとの会話の一部始終を話していた。最後のほうの告白については逸美ちゃんに言うつもりなんてさらさらないし、けれど俺も人間だから誰かには話したかったから、ちょうどいいところにいただけの凪に話してしまったわけだ。
「そのとき開は、なんて答えたんだい?」
別に、としらをきる。
「ぼくの勝手な憶測を口に出すなら、開はそれほどヒドイことは言えないね。いくら大切な蒲生さんを殺した相手でも、浅野前さんの想いやなんかも知ってるから、彼女自身を全面的に嫌ったり追い込んだりしない」
やれやれ。俺は嘆息する。
「やめてください」
「?」
「ただ、『やめてください』って言ったんだよ。『俺は嫌いです』とか『ありがとうございます』っていうのもなんか違うだろ」
すると、凪は吹き出した。
「ふっ。ははは。なんだい? それ。一応、謙遜という扱いになるのかい?」
「おまえがどう扱おうと勝手だよ」
「しかし開。それだけで彼女は納得したのかい? キミの意図を理解したのかい? 普通、もう一言あるものだけど」
「おまえが普通を語るな」
「おっしゃる通りで」
実際、もう一言あった。やめてください。そう言ったあと、さらに言ったこともあるのだけれど、もしそれを凪に教えたらなんて言われるかわかったものではない。だからそれは黙っておく。
「開は浅野前さんのこと、どう思ってるの?」
「質問が戻ってるぞ」
「さっきは答えなかったじゃないか」
……うーん。そうだな。
「別に。彼女の言葉に返すのなら、俺も彼女といて楽しかった。でも、彼女がどんな俺も受け入れてくれるかは別として、彼女に俺の全部を見せるつもりはなかった。そして、死んだ郷ちゃんを見たあとじゃ、俺は彼女を、好きにはなれなかった」
いや、人間としては好きになれたかもしれないし、好きだったのかもしれないけれど、しかしどちらにしても同じことだ。
「開。キミはそれを彼女本人に言うべきだった。『やめてください』なんて中途半端だけを聞かされては、自殺しようにも残るモノがある。ならいっそ、好きにはなれないと言ってやればよかった。そうすれば心置きなく死ねただろう」
「おまえもハッキリ言うよな」
「まあ、開のそんなところも含めて、彼女は好きだったのかもしれないけどね。それで、開。キミは浅野前まひるが死んだことついて、どう思ってるんだい?」
俺は冷静に言う。
「ふざけるなって思うよ。簡単に死んでくれて……。死んだところで罪は償えないし、悲しむ人もいる。郷ちゃんが浅野前さんに生きてほしいと願ったかは知らない。でも。人は死ぬべきじゃないんだよ」
「それが開の意見か。そうだね。キミらしい。ぼくはこう考える。死ぬべき必要がある人間もいるのだとね。キミに怒られそうだから先に断っておくと、浅野前まひるはまだ死ぬべきじゃなかった。ぼくの考える死ぬべきヒトというのは、生きていることで生きている多くの人間に害を与える人間のことだ。誰しも誰かに害を与えてはいるけど、そういうことじゃない。程度の問題とでもいうのだろうか。でもね、弁解をさせてもらうと、ヒトはそんなに悪いモノじゃないと思ってるんだ」
「わかってるよ、そんなこと」
俺には凪の言いたいことはわかるし、凪の考え方もある程度はわかる。こいつは人の悪い面を見ることが苦手で、だから今回だって善意で浅野前まひるに情報を流していたのだ。
「まったく、難儀なヤツだよ」
とつぶやく。
「ぼくがなんだって?」
凪じゃなくて難儀って言ったんだよ。いちいち変なところだけ聞き取るな。
「別に」
「確かに」
相変わらず変な相槌を打つ凪だった。
「そういえば凪。どうして郷ちゃんに、昨日俺の家に行くように言ったんだ?」
昨日の放課後俺の家に来た郷ちゃんは、柳屋に行くように言われたのだ、ということだった。死ぬ前の最後の面会として浅野前さんがそう指示したのだとしたら納得いくけど、どうして事情を知らない凪がそれを言ったのか、俺には見当がつかなかった。
「ああ。それかい? ぼくの考えでは、蒲生さんは自分がこの連続放火事件のターゲットであることに気づいていた。犯人が浅野前まひるであるということもね。だから和解すると思っていた。で、だ。その前にチャンスを与えたのさ」
チャンス?
「蒲生さんには事前に連絡がいっていたことだろう、この日学校に来てくれ、とね。もちろん蒲生さんは行くつもりだった。現に行ったしね。しかし、もしもこのまま浅野前まひると和解できたとしても、それまで真実を隠してきた開に、顔向けできないと思っていたことだろう。嘘をつき続けていたのだから。だからぼくは、蒲生さんに真実を告白するチャンスを与えた。事件が解決する前に、開に知ってもらう。そうすればいままで通り、関係を続けられると思ったから。でも、現実は違ったね。言わなかったそうじゃないか。きっと彼女は、怖かったんだ。開、キミに拒否されることが」
なんて、なんて信用がないんだ。まったく。そんなことで拒否するはずがないじゃないか。見当違いもいいところだ。でも、それゆえに彼女は言ったのだ。
ずっといっしょにいてくれるか、と。
あとからその真実を告白しても、いっしょにいてくれるか――それを先回りして言ったのだ。……まったく。ホント、まったくだよ。
二人黙って公園で遊ぶ子供たちの様子を眺める。実に元気で楽しそうだった。
そして。
凪はベンチから立ち上がって背伸びをする。
「はぁーあ。今日はぼくのほうも終業式で、思いっ切り羽を伸ばしたい気分だったんだけど、辛気臭くなってしまったね。カードの意味についても聞いておきたいところなんだけど、それはまたあとでにするよ」
髪をいじりながら、凪はふわっと吹いた風に目を細める。
「無常の風は時を選ばず。ってね」
「難しい言葉を知っているんだな」
「まあ。趣味の範囲内さ。さあて。開。仕事柄、また会うこともあるだろう。ぼくとしては一友人として再会したいものだね」
「そうだな。俺も仕事関係でまでおまえには会いたくないよ」
「手厳しいね」
肩をすくめる凪だった。俺は座ったままそんな凪を見て、頬を緩ませる。
「ぼくはこれで失礼するよ」
俺の返事も聞かずに、柳屋凪は飄々と歩き出す。
軽快な足取りで歩いていく凪の後姿。あいつはいつもそうだ。俺相手にはいろいろしゃべり小難しいことさえ言うくせに、スタンダードなあいつはなにも考えていない。そんな凪の性質がうらやましく思えた。
しかしなんだ。
見方を変えれば、あいつが真犯人じゃないか、とも思う。あいつが浅野前まひるに彼女の兄が死んだというあの放火事件の全貌を教えなければ、今回の事件は起こらなかったはずだ。
……いや。やっぱり俺なのだ。俺が尾行でもなんでもして、事件を未然に防いでいればよかった話なのだ。
「いつまでもここで考えていても、仕方ないよな」
立ち上がって、俺も公園を出ようと歩き出した。
そのとき――フリスビーがこちらに向かって飛んできた。そのフリスビーを追って犬が駆けてくる。白い犬だ。
そしてジャンプ。
いかにも喜んでいるように、バンザイと両手を挙げるようにして俺に向かって飛んできた。
「わあっ」
びっくりして犬を抱き抱える。犬は(動物全般も)苦手なんだけどな……。そう思いつつゆっくりと犬を地面に下ろした。
「大丈夫?」
犬に声をかけると、
「ワン!」
吠えられた。
いや、でもこのワンは悪い意味のワンじゃないことはわかる。なんだかちょっぴり、犬と会話した気分だ。
「おう! 悪いな」
そう言ってきたのは、この犬の飼い主であり以前俺と郷ちゃんが二人で放火事件の目撃談を聞いたあの、日に焼けたおじいさんだった。見覚えのある犬だと思ったらやはりそうだったかと納得しつつ、いつの間にかこの公園に来ていた常連さんらしいこのおじいさんに挨拶をする。
「こんにちは。先日はどうもありがとうございました」
「おお、あんたかい。おい、なんて顔してんだ。新聞見たけどよ、しょうがねえこともあるさ。心頭を滅却すれば火もまた涼し。心持次第だぜ? それで、あんたはこれから、どうしたいんだ?」
「え?」
流れる言葉と唐突な質問に二の句が継げない。
「これからを考えな。動物ってのは、仲間が死んでも、これからどうやって自分が生きていくかを考えるもんさ。それができなきゃあんた、生きていけないぜ? さっき犬がなんて言ったと思う?」
それもわからない。
「難しいことは言ってねえんだよ。きっとな」
はあ、とかなんとかしか言えない俺だった。
しかしいつの間にこのおじいさんは公園に来ていたのだろう。凪と話しながらも公園の様子は見ていた俺だけれど、おじいさんと犬の登場にはまったく気づかなかった。
考えつつぼぅっとしていると、おじいさんはくるりと背を向けた。
「でもまあ、あんたは人間だからな」
なにも言えないまま、おじいさんは歩いて行ってしまった。
最後の言葉もどんな意味なのかわからない。それはまあ、人間さ。人間だから、どうなんだ? まるで高尚な考え方を持つ別の世界の人間と会話をしている気分だった。
いや、しかし。
おじいさんの言いたいことは、なんとなくわかったような気がした。あのおじいさんは郷ちゃんのことは聞かなかったけれど、その事件の本当の真相に気づいていたような、どこかの仙人のような口調だった。なにも知らないはずなのに、すべてを見透かしたような人間の言葉に聞こえた。
さて。
探偵事務所に行こう。
まずは少し、落ち着きたい。
そしてやっと一段落ついたと言って、逸美ちゃんのお茶でも飲みながらゆっくりと休みたかった。
公園を出る。
スッキリとした空だった。