第六章4 『routeM 12』
帰宅した俺はまず、玄関の靴に首をかしげる。
「誰か客でも来てるのか……?」
学生のローファーだけど、一体誰だろう。
靴を脱いで上がりながら、
「ただいま」
といつも通りに言っておく。
俺が鞄を持ったまま居間に行くと、そこには妹となにかおしゃべりしている少女がいた。
花音が俺に気づいて、
「お兄ちゃん。お客さんだよー」
水をぶるぶると払うゴールデンレトリバーのような勢いで髪とリボンを揺らして、少女は俺を振り返り見た。
「お邪魔している」
誰かと思っていたあのローファーの主は、蒲生郷里だった。
どうして郷ちゃんがこんな時間に約束もなしに俺の家にいるのかは疑問だったが、今日学校では話したくてもできなかったし、彼女の訪問は素直にうれしかった。それに、昨日俺があげたリボンをつけていてくれたのもまた、うれしかった。
でもどうして郷ちゃんが?
「あたしは遊びに行ってくるね」
その説明を俺が郷ちゃんと花音に求める前に、遊ぶことしか頭になさそうな妹はアルプスの少女みたいな軽やかな足取りでタッタと出かけて行ってしまった。妹の背中に声をかける。
「気をつけて行けよ」
「わかったー」
何時に帰ってくるのかは聞いていないけれど、普段から鍵は持っているので大丈夫だろう。俺が家を出ても中に入れずに困ることはないと思う。
俺は腰を下ろす。
「で、郷ちゃんどうして来たの?」
「そんな聞き方せんでもよいではないか。おまえは身内相手になると聞き方が雑になるな」
「郷ちゃん相手だと、ついね」
苦笑を浮かべて鼻をかく。
「開。おまえは昔はなにも考えてない奴だったんだがな、いまはわたしにも気を遣っている。わたしには気を遣うな。姉弟みたいなものなのだから」
「ははっ。じゃあ遠慮なく、そうさせてもらうよ」
俺が気を遣わない相手なんて、家族以外では逸美ちゃんと所長と凪くらいだろうか。そもそもとして、昔は気を遣う余裕もそんな頭もない小学生だったわけだし、昔と同じではないのも当然なのだけれど。
「そうしろ。そうするといい」
「で、来た理由は? なにかあるんでしょ?」
「うむ」
と郷ちゃんは胸の前で腕を組んでうなずく。部活も休んでいるだろうから、それ相応の理由があってもおかしくない。
「実はだな、今日は部活を休んでしまったのだ。考えたら、この事件も今日で最後と言うではないか。それで思ってしまったのだ。今日片がついたら、わたしが開と会う機会も必要もなくなってしまうのではないかとな」
そういうことか。しかし連続放火事件が今日で最後という噂は、晴ちゃんによると一般には出回っていないらしいから、おそらく郷ちゃんは浅野前さんにでも聞いたのだろう。
「会う機会は減るかもしれないけれどさ。今日みたいにいつでもうちに来たらいいし、会うのに必要性なんてなくてもいいじゃん。姉弟みたいなもんなんでしょ?」
郷ちゃんはすぐになにか答えようとしたが、逡巡するようにちょっと迷ってから頬を緩めて、
「うむ。そうだったな。なんというかその、わたしのほうが考え過ぎていたらしい。らしくないな」
「だね。らしくないよ。今日はそのことを聞きに来たの?」
改めてそう聞くと、
「……おお、まあな」
らしくもなく、照れたような郷ちゃんだった。
「その、ちょっとな……。次に会う約束とか、今度わたしの家に来てもらう約束をだな、結んでおこうと思ってな……」
「結ぶって。条約じゃないんだからさ」
そこで郷ちゃんはまたいつもの自然な笑顔を見せる。
「言うではないか。言うようになったではないか」
そして照れ隠しついでというように、郷ちゃんは花音が出した麦茶を一口含んでニヤリとする。
「もうひとつ言っておいてやるぞ。開、昔『大きくなったら、きょうちゃんとけっこんする』と言っていたあの約束を、反故にしてやろう」
そんな昔のことをそんな得意げに言われてもな。……いや、そんなこと言っていたのか。なんだか少し恥ずかしくなるな。魔法でも使えるものなら、空から粉でも振りかけるようにして、それを聞いていた人すべての記憶を完全に消し去ってしまいたい。
「で、反故になったら、どうなるの?」
ゴホン、と郷ちゃんは気を取り直すような咳をして、
「いや、そんな約束をして、そのままでいるというのもあれだと思ってな。とりあえずは反故にしたワケだ」
「ふーん」
郷ちゃんはぐっと身を乗り出して、
「それでだ、開。今度わたしの家に来い。わたしの部屋も見たかろう。それで、そこで、聞きたいことがあるのだ。言いたいことというか、な」
「なに?」
「それはそのときまで言わないのだ」
と。
それだけ言って、郷ちゃんはすっくと立ち上がってカバンをつかみ、昔の郷ちゃんを思わせる探検隊のような子供っぽい笑顔をする。
「開の部屋に行こう」
スカートを翻して居間を出て行き、俺の部屋へと向かっていった。
しかしなんなのだろう、郷ちゃんが俺に聞きたいことなんて想像のしようもないし、逆に、言いたことであっても想像がつかない。でもまあ、そのときになればわかるか。
俺の部屋に入った郷ちゃんは、真っ先にベッドに飛び込んで横になった。俺は机の椅子に座る。
「開。アルバムだ」
むくっと起き上がって郷ちゃんはそう言った。
「はいはい。アルバムね。あれでしょ? 郷ちゃんもいっしょに写ってるヤツでしょ?」
「おお。そうだ。……いや、それ以降の開の成長も見たいぞ。ある分だけ持ってこい」
酔が回って気分がよくなった大酒飲みが調子づいてしまったかのような言いようだった。
アルバムを持ってきてやると、郷ちゃんは熱心に見はじめる。俺と郷ちゃんが写っている写真を見てはそのときの解説や思い出話をして、俺の記憶が定かではない物心つく前の時期についてもいろいろと話をしてくれた。
「この写真はわたしも持っているぞ」
などと、互いに持っているらしい写真についても話をした。それから郷ちゃんは、九年前に郷ちゃんが引っ越して以降の俺の写真を見て、いちいち「これはいつなのだ?」とか「ここはどこなのだ?」とか聞いてきた。
気がつけば、外は暗くなってきていた。部屋の電気はついておらず、夕陽の赤が部屋を照らしていた。
郷ちゃんは窓の外を見て、
「おお……。少しばかり、長く居過ぎてしまったか。もう帰らなくてはな」
「送ろうか?」
「いや。構わん。平気なのだ。でも、今日会いに来てよかった。柳屋が開に会っておけと言うのでそうしただけなのだが、やはり来てよかったぞ」
柳屋?
「それって、凪?」
「当然であろう。それが、どうかしたのか?」
「どうしたもこうしたもないよ。郷ちゃん、知り合いだったの?」
「そりゃあそうだろう。浅野前といっしょに何度か会っているし、連絡先だって交換した」
でも、そうか。内心ビックリはしたけど、浅野前さんが放火事件について凪とコンタクトを取っていたのだから、その範囲が郷ちゃんに及ぶことも当然あろう。
「まるでいま知ったみたいな驚き様ではないか」
俺は苦笑いを浮かべる。
「うん、まあ。でも気にしないで」
「おお」
本当に気にしていなさそうな郷ちゃんだった。
「そういえば開、おまえこの前聞いただろう? 人を殺すのと殺されるの、どちらがよいのか」
ああ。その話か。
「うん」
「わたしは殺すのだけは嫌だ。それは最低だ。だったらわたしは、潔く死のう」
急になにを言い出すのかと思ったら潔く死のうだなんて、ほんとにまったく、なんて不謹慎なことを言うんだ。
「開は人を殺してしまった人間をどう思う?」
「状況による。正当防衛みたいに理由があったり、故意ではなく、なんらかの過ちがあったり、いろいろあるから。でも、人を殺した時点で線は引かれるね。俺が引くわけじゃなくてさ。世間が引く線だけど」
真剣な目をして話を聞いていた郷ちゃんだったけれど、肩の力をふっと抜いて、目を閉じてうなずく。
「そうか。線か。なるほどな。やはりわたしはこういう話が苦手らしい。倫理の授業が苦手なら、心理学的な話や観念的な話も苦手だ。わたしが答えを出すべきでないだけなのかもしれんがな」
「……まったく。らしくないよ、郷ちゃん。頭で考えるのは郷ちゃんらしくない」
「うむ、そうだな」
郷ちゃんの顔が、そして髪を結んでいる白いリボンが、夕陽を浴びて、まるでろうそくの炎が発光しているかのように赤く見えた。そして光は徐々にしぼんでいく。
「なあ、開」
夕陽だけが照らす、不安定に暗い部屋で。
「ん?」
郷ちゃんの調子に合わせて聞き返した。
落ち着いたというより、それこそ来週引っ越すのだと告げるかのような、九年前にそうしようとしていたような顔で俺を見つめる。
「わたしはおまえとこうして再会して、いろんな話をして。できることならずっとこうしていたいと思った。ずっとこうしたいと思ってきた。改めて言うと恥ずかしいのだが、開といると、他の誰といっしょにいるより、満たされた。ご機嫌だったのだ」
と、照れたように笑った。
まったく。今日の郷ちゃんはらしくないな。でも俺は、足をすり剥いて泣いてしまった郷ちゃんや、友達とケンカして落ち込んでいた郷ちゃん、引っ越すときの寂しそうな郷ちゃんを知っている。すでにいろんならしくない彼女を知っていた。だから。いまの郷ちゃんも、それは郷ちゃんらしさのひとつにも思える。
郷ちゃんは顔を上げた。
「こんなわたしだが――」
しかし。
言葉を続けない。
そこで郷ちゃんは言い淀んだ。
いや。
ただ言いにくいことなのかもしれない。
やっぱり普段の郷ちゃんらしくないな。
視線は俺を捕らえたままだ。
俺は郷ちゃんの言葉を待った。
やがて。
郷ちゃんはらしくもない、いままで俺が見たことないような、こんな表情するんだな……と、思わず脳内に永久記憶してしまうような、そんな笑顔で。
赤く染まった白いリボンを揺らす。
「開は、わたしとずっといっしょにいてくれるか?」