第六章1 『routeW 9』
月曜日が始まった。
この日はいつもと少し違っていた。ここ最近の日課になっていた浅野前さんの迎えがなく、花音は「いってきます」と出かけたあと戻って来て、
「お兄ちゃん、まひるお姉ちゃんいないよ?」
と言ってきた。
「今日は約束してないからね」
そういう日もあるさ。
「ふーん。じゃあいってきます!」
元気に我が家を飛び出した花音を見やり、俺は俺で出かける準備をする。
いつもなら浅野前さんが少し早めに迎えに来るけど、今日は一人だし急がずゆっくり出かけよう。
そして、いざ家を出ると。
浅野前さんの代わりに、郷ちゃんがうちの前で待っていた。
「おはよう。郷ちゃん」
「おはよう。元気か? 開」
「うん。それよりどうしたの? 朝から」
「む。なんだ、その言い方は。姉に向かって」
「姉貴分だけど姉ではないでしょ」
ははっと俺は笑った。
郷ちゃんは明後日の方向を見ながら、照れくさそうに言った。
「そ、そのだな。浅野前が開と登校していると聞いてでな、それならわたしもいっしょに登校というのをしてみようかと思ったのだ。ど、どうだ」
顔は俺をしっかり見られず赤くなっていたが、どうしてよいのかわからず胸を張る郷ちゃんである。
俺はまた笑ってしまった。
「うん。そっか。じゃあいっしょに行こ」
「お、おう! 行くのだ」
うれしそうに郷ちゃんは笑顔を咲かせた。
ただ、郷ちゃんが俺を待っていたのはうちのすぐ前ではなく、少しばかり離れた電柱の影だった。なので、いまのはそこでの立ち話である。
なぜそんな場所で待っていたのか、理由を聞いてみれば、
「だって、開の両親に挨拶したいが、朝は忙しいではないか」
とのことだった。
「郷ちゃんは見かけによらず、気遣い屋さんだよね」
「こ、こら。からかうでない。わたしは気を遣うくらいできるのだ。わたしをなんだと思っているのやら」
しかし、こうして郷ちゃんと並んで朝の道を歩くのは、いつぶりだろうか。小学生のとき以来だよな、きっと。
ふと、郷ちゃんのアイデンティティーのひとつと言えるポニーテールをなすための白いリボンが、少し切れていることに気づいた。
「ねえ、郷ちゃん。リボン、弓道の練習で矢を引っかけたりでもした? ちょっと切れてるよ」
「お? これか」
と、リボンへ右手を持っていき、足を止めた。
「そうなのだ。矢が引っかかりおった。よく気づいたな、開」
「うん。まあ」
しかし郷ちゃんがリボンに矢を引っかけるなんて、ちゃんと集中できていなかったのだろうか。
俺はこの郷ちゃんの白いリボンを見て、昨日の白いリボンを思い出した。鈴ちゃんが持って来てくれたお土産のお菓子の包みをしばっていた白いリボンだ。掃除の前にポケットに入れたっきりだったことに帰宅して気づいて、探偵事務所でなにか使い道があるかもしれないから(逸美ちゃんがそういうのをなんでも取っておきたがるタチなので)、今日にでも一応持って行くつもりだったのだ。
でも、これもなにか縁だ。タイミングが合ったのだ。
バッグに入れておいたリボンを取り出して、郷ちゃんに渡した。
「そのリボンにこだわりがないならさ、今日のところはこれ使ってよ。髪を結ぶ用ではないんだけど綺麗なリボンだし、切れてるのよりは恰好もつくんじゃない?」
「おお! いいのか? わたしはこだわってなどないのだ。開からのプレゼントだ、ありがたくいただこう」
ものすごく感激してくれている郷ちゃんだった。新しいおもちゃを買い与えられた子供より目がらんらんとしている。
「プレゼントってほどの物じゃないって。今日一日、代わりに使ってしのいでねってくらいのやつだからさ」
と、俺は笑った。
「いいや。これはよいリボンだ。これからも使わせてもらおう。せっかく開がくれたのだからな」
「ふふっ。ちょっと郷ちゃん大げさ。そんなふうに言ってくれるなら、新しいの買ってあげようか?」
「構わん。これがよいのだ」
そう言って、郷ちゃんはいましているリボンをほどく。つややかな綺麗な黒髪がすとんと肩に落ちる。俺の手から白いリボンを取って、きゅっと結んだ。
「どうだ? 開。似合うか?」
フッとドヤ顔を見せる郷ちゃん。
「うん。すごく似合ってる」
「そうか。ならよい」
さっきまでドヤ顔だったくせに、褒められると照れたように小さく微笑み、郷ちゃんは歩き出す。
俺も小さく微笑んで、郷ちゃんの背中を追って歩き出した。
さっき郷ちゃんはああ言ってたけど、またあとで、今度はちゃんとしたリボンを買ってあげようと思った。
郷ちゃんは、浅野前さんと比べて歩くのが早い。颯爽としているとでもいうのか、歩幅も大きいし、当然といえば当然なのだけれど。
終始、俺と郷ちゃんは昔話をして、気づけばあっというまに学校の前まで来ていた。
校舎の時計が見える。
まだ時間まで十分ほどある。
ひとりで学校へ来るスピードと変わりなく歩けたおかげだろう。
「まだ時間があるか。おい、開。あそこの桜の木でも見ながらしゃべろう」
「いいよ」
桜の木の下へ行き、俺と郷ちゃんは桜を見上げた。
もうつぼみがふくらみ、花開くまでもうちょっとってところか。
「郷ちゃん、しゃべりたいことでもあったの? おしゃべり好きなイメージじゃないけど」
「まあな。わたしは、開とだから、ちょっとしゃべりたいだけなのだ」
ふわりと花が揺れるように郷ちゃんは笑った。
変なところで照れるくせに、こういうことは恥ずかしげもなく言えるんだな。おかげでこっちが照れる。
俺は訊いた。
「あのさ、郷ちゃんは桜の木の思い出、覚えてる?」
「それは、開との思い出か?」
「うん」
と、首肯する。
郷ちゃんは思い出そうとする素振りもなく、桜の木を見上げ、どこか懐かしそうに言った。
「開と別れる前、引っ越すと言ったときがあった。打ち明けたとき、おまえとケンカしたことがあったな」
やっぱり、郷ちゃんも覚えていたか。
「ケンカ、したね。俺が一方的にぐずってただけだった気もするけど」
「いや。ケンカだったのだ。あのとき、すもうも取ったしな」
「そうだね」
「見事に負けてしまった。ははは」
確かに、すもうをして俺が勝った。でも、あれは、俺が仲直りしやすくするために、わざと負けてくれた感じだった。
郷ちゃんはやっぱり気遣い屋さんだな。
「開」
「ん?」
「またケンカするか」
フッと俺は笑った。
「急にケンカはできないよ」
「できるぞ。芸人の人もやっているのだ。名人芸ではないか」
「いや、あれは俺たちがやっちゃダメなやつでしょ」
言い合いをして顔を近づけて最後にキスして仲直りとか、どこのリアクション芸人さんだよ。
しかし郷ちゃんは、くっくと笑って、
「まあ、そうではなくてな。これから、たくさんケンカをしよう。同じ時間をたくさんいっしょに過ごして、たくさんケンカしたいと、そう思ったのだ」
俺は目を見開いて、郷ちゃんの横顔を見た。まっすぐ桜の木を見上げ続ける彼女に、俺はうまく言葉が出てこなかった。
そうだね、と言いたいけど言えない。言葉が口から出てこない。そうならないのを知っているかのような、俺の身体だけが知っているような、不思議な感覚だった。
けれどもやっと、俺は言った。
「なんだ。そんなことか」
郷ちゃんは小さく、口の端にだけ笑みを浮かべて、
「ああ。そんなことだな。だが、そんなことを、わたしはしていきたいのだ」
と、そう言った。
さっき、俺はなんでうまく言葉が出なかったのだろう。悲しい気持ちが湧いた気がしたのはなぜだろう。
俺は、郷ちゃんにそうだねと言いたかったはずなのに、空虚さを埋めるような言葉を探していた。
「ちょっと。まるで、別れの言葉みたいなのはやめてよ」
少しおどけるように、俺はそう言ったのだった。
「なにが別れの言葉なものか。桜の木の下だから、またそう思ったのであろう」
「そうなのかも」
「まったく、開はしょうがないやつだ。どこか弱気が隠れているところは、昔の開のままだな。すもうを取らなくてもわかる」
「なにそれ」
と、俺はくすっと笑った。顔の表情筋が一気に緩んだ。予想外の提案に、つい微笑みが浮かんでしまう。
「すもうを取ればわかることもある。さて、開も元気になったことだし、教室に向かうとするか」
「うん」
そういえば、昔も言っていたな。すもうを取ったあと、昔の開のままだとかなんとか。口でのコミュニケーションだけでは伝わらないことが伝わることも、あるかもしれないけれど。
いまの郷ちゃんとケンカしたらどうなるだろう。これから、またケンカしたりしながら同じ時間を過ごせたらいいな……。