第一章3 『究極の質問』
所長の机の上にはうずたかく積まれた本がいくつもあり、塔やビルが乱立しているように見える。
さしずめブックタワーとでも呼べるその本たちに共通する特徴はない。
逸美ちゃんがブックタワーの周りを珍種の小鳥でも見るように歩き、タロットカードに関する本を探していた。
「見つからないなぁ」
「きっとないんだよ。所長の本のラインナップじゃ、なにがあってなにがなくてもおかしくないって。ところで、さっきまではどんな本を読んでたの?」
「なんていうのかな。新書みたいなもの」
「へえ」
ハイライトが入ったような表情で逸美ちゃんは言う。
「そこにはね、究極の質問っていうのがあったのよ!」
「究極の質問?」
「そうよ。もし選ぶとしたら、殺すのと殺されるの、どっちがいい?」
「ひどい質問だな。そもそも、選びたくないよ」
選ぶとしたら、どっちだろう。
死んでしまっては元も子もないし、かといって殺すを選べば禍根を残すとかそういう単純な話でもないだろう。
「そうだよね。選べないよね。あとは、誰か一人だけを助けられるとしたら、母親か兄弟か恋人、どれ?」
「それも選べないよ」
「だよねぇ。わたしも選べない。あ、そうそう。タロットカードについて調べないとだったわね。ええと、タロットの本はっと」
連続放火事件にわざわざ自分から首を突っ込むこともないだろうに、逸美ちゃんは知的好奇心が旺盛だ。別に野次馬根性なんかではなく、逸美ちゃんの場合は知的欲求が強いのである。よく本だって読むし、単純に言えば気になるのだろう――それもタロットカードについてが。
「仕方ないし、これにしようかな」
逸美ちゃんは本を抱えて俺の隣に戻ってきた。やっと決まったらしい。俺は勉強していた手を止めて尋ねる。
「なに読むの?」
「これ。星座占いについて」
タロットカードから占い関連で探しているうちに、星座占いに流れたか。
星座占いは星占いとも呼ばれ、占いとしては最もメジャーなもののひとつに数えられるだろう。十二星座占いといえば朝のニュース番組でもやっているくらいだ。
「わたし、星座占いの本はあまり読んだことなかったかも」
「へえ。すでに二種類くらいは読んでそうだけど」
「そう。二冊だけなの。よくわかったね」
なんとなくでね。小学生のときからの付き合いだし、お姉ちゃんのことは弟の俺が誰よりよくわかっているつもりだ。
このあと逸美ちゃんは、黙々と星座占いの本を読み進めて行った。
しばらくして。
隣の逸美ちゃんが黙って本を読み、俺がノートに筆を走らせ数学の問題を必死に解いていたところへ、外からコツコツとブレーメンの音楽隊を思わせる軽やかな足音が聞こえてきた。この足音だけでわかる。あの人だ。
足音は止まることを知らずに探偵事務所のドアを開けたのち三歩分まで聞こえた。
ピタリと足音が止まる。軽快な足音を鳴らしていた人物は俺の対面のソファーに腰を下ろし、ぐだりともたれかかった。
「やあ。逸美、開くん」
「こんにちは、所長。挨拶は相手の顔を見てするものですよ」
続けて「おかえりなさい」と挨拶する逸美ちゃん。
お客様用ソファーに座ってはいるけれど、この人はもちろんお客様ではなく、この探偵事務所の所長である。所長はソファーにもたれて頭が天井に向いているまま俺に言った。
「そういう開くんこそ、下を見たままではなく、相手の顔を見て挨拶するように」
「お互いさまですよ」
ろくに相手の顔も見ず、天井を見上げて目まで閉じているのによく俺が一度も問題集から目を離していないとわかったものだ。いろんな意味で感心する。
「――で。二人共、依頼は来たかい?」
「来てないわ」
逸美ちゃんの返答を聞くと、
「そうか。では、わたしは寝よう」
こんな所長に俺は言ってやる。
「来て早々寝ないでください。その前に、その席はお客さんの席ですよ」
「開くんは真面目だな。わたしもそういうのは嫌いじゃないぞ」
「なら、自分の机に行ってください。そこでなら本のせいでお客さんからは見えませんし、寝ていていいですから」
「ん。そうしよう」
所長はすっと立ち上がった。性格的にだらしないくせに姿勢がよくて背筋が伸びているので、所長は背が高く見える。一八〇センチはある。おまけに手足がスラリと伸びて顔もいいので、俗世間から外れた長髪も相まってモデルのようだ。
ここで所長について触れておこう。
《名探偵》鳴沢千秋は、神の如き頭脳と活躍から、《名探偵》と呼ばれている。彼以外をして《名探偵》と評することがないほどである。また、その容姿は日本人離れしたスタイルのよさと整った顔立ちで、ファンまでついている始末である。普段はそんな《名探偵》の力を借りたい警察や様々な人たちから声が掛かり、常にせわしなく世界中を飛び回っているものすごい人なのだ。
自分の席に着いた所長は大人しくなった。寝たのだろう。客も来ないしまあいいか。
「逸美ちゃん、所長って星座は何座? 占いだとどんな性格なの?」
困ったように首を傾げる逸美ちゃんである。
「それがわからないのよ。本人に聞いても忘れたって言うし、自分の血液型も知らないみたいだし、年だっていくつなのかわからないの」
「あー。所長の年は俺も謎だった。前に聞いたときも、『覚えているわけがないだろう』って言われたもん」
「おそらく二十代ではあるんだけどね」
なんて適当な人だろう。コレと逸美ちゃんが親戚とは思えない。そもそも逸美ちゃんとの関係も親戚であるという以上はよくわからないし。
「逸美ちゃん、いまの時間は?」
「五時半よ」
「もうそんな時間か。数学を一問解いたら帰ろうかな」
明日の数学は俺に順番が回ってきて、前に出て問題を解き黒板に書かなくてはならなかった。順番的にすでに解いた問題が俺の割り当てだけれど、余分にやっておこう。
俺はまた、計算を始めた。
やっと問題が解けてほっと一息ついて顔を上げると、外は暗くなっていた。時間は六時十五分。結局五時半から問題を三つも解いてしまった。
「疲れたぁ。そろそろ帰るかな」
「うふふ。開くん頑張ったわね。お疲れさま。わたしはもう少ししたら帰るわ」
実質的なこの事務所の管理者は逸美ちゃんなので、所長を自宅である三階に行かせて事務所の戸締りをするため、今日は遅くなってしまうのだろう。
俺は立ち上がって肩の上下運動と首回しで凝りをほぐし、本の山の向こう側にいる所長に声をかける。
「所長、俺もう帰りますね」
返事がない。寝てるな。聞こえてないだろうけれど、一応は言っておく。
「お疲れさまです」
そして逸美ちゃんにはちゃんと挨拶する。
「逸美ちゃんもお疲れさま」
「お疲れさま。また明日ね」
「うん。また明日」
ふわりと微笑みながら胸の前で手を振る逸美ちゃんを背に、俺は探偵事務所を出た。
一歩外に出ると風が冷たい。昼間よりも頬に沁みる。今日の気温は十二月の中旬並みと聞くし、まったく、三月がはじまったというのに春らしさが感じられないな。
ポケットに手を入れて歩き出す。
しかし家に着く頃には歩いた分だけ身体が温まっていた。
俺の妹は花音という。
この春から中学に上がる勉強の苦手な十二歳だ。明るくうるさく活動的で、色素が薄い俺と違って健康的な顔色なのでより元気に見える。俺が母親似で妹が父親似。それでも俺と花音は似ていることは似ているらしく、互いに目鼻立ちが整ってはっきりしていることと俺が女顔なため、たまに姉妹に間違われたこともあったくらいだ。困ったものである。
頭の出来があまりよろしくない妹でも、連続放火事件については知っていた。
「あれでしょ。放火されてるんでしょ」
頭の悪い回答に「そうそう」と軽くうなずいてみせた。
「それ以外は知らないでしょ?」
「それ以上は知らない」
「じゃあ、タロットカードって知ってる?」
「知らない。なあに? それ」
「占いに使うカードだよ。カードに描かれている絵を見て、占うんだけどね」
「ふーん。そういえばさ、お兄ちゃん。今日の星座占いなんて言ってたっけ?」
「さあね。そんなもんだよ、占いなんて」
食後にぼんやりテレビを見ながらそんな話をして、小学生相手にする話じゃないよな、と思い直した。
俺は花音とは違って来月からもう高校二年生なのだ。子供相手の話題選びには取捨選択が必要なのである。花音も俺の年になったらわかるだろう。
おもしろいテレビでもなかったのでそろそろお風呂に入ることにして、そのついでに、ずっと頭に残って渦巻いている連続放火事件の記憶もシャワーで綺麗さっぱり流そうと思った。