第一章2 『運命の輪』
柳屋凪とはそのあとすぐに別れた。
互いに「またね」の挨拶だけで背を向けて、振り返ることもなく歩き出す。
今度いつ会うことになるだろう……。また会おうという約束もなしに別れたのだけれど、きっとまたそのうち会うような気がしていた。
ただもしそうなったとき、面倒なことにならなければいいな、とも思う。
俺の経験上、あいつに関わるととにかく事件に巻き込まれたからな。昔の凪はお気楽マイペースで周囲に迷惑をかけるのが趣味のような飄々としたやつだったけど、久しぶりに会った凪は昔と変わらず穏やかではあったがどこかクールに見えた。昔も人様に迷惑をかけておいて本人は至って冷静、みたいなところはあったけど。
でもまあ、あいつも少しは成長したと思っておこう。
そして俺は、その足で探偵事務所へと向かった。
探偵事務所はなだらかな坂を登ったところにある。
小さな事務所だからかあまり人がやって来ないが、探偵に依頼に来る人なんていうのは人目を避けたいものなのだから、これぐらいがちょうどいいのだと所長なんかは言う。
坂を登り終える頃には、まだ寒い三月上旬の風も堪えないくらいに身体が内から温まってくる。これが夏には汗を掻かずには登れないことを考えると、夏だけでも場所を変えてほしいと切に思う。
住宅と住宅に挟まれたビルが目に入った。
探偵事務所はその三階建てビルの二階部分に相当し、一階は車庫兼物置、三階は所長の生活スペースになっている。
各階は完全に分かれていて、外から出入りするようになっているので、俺は階段を使って二階に上った。
十三段の階段を上る。
ドアを開けて。
「ただいま」
我が家に帰ってきたように言って、中に入って行った。まだ肌寒い外の空気とは違って事務所の中は温かい。筋肉の緊張が緩むようだ。
事務所には、本が山積みにされた所長の机が窓を背にして置かれている。その手前――部屋の中央に、コの字型に並んだ三つのソファーがテーブルを囲うように配置され、壁際には本棚、部屋の奥には台所へと繋がるドアがある。
ソファーでは、ゆるくウェーブのかかった栗色の長い髪をしたお姉さんが本を読んでいた。雰囲気的には、近所の綺麗なお姉さんといえばわかりやすい。彼女は本から顔を上げ、俺にふわりと微笑みかけた。
「あら。開くん。おかえり」
柔らかい微笑に、ブルーがかったグレー色のセーターとチェック柄のスカートが似合うこのお姉さんは、密逸美。
逸美ちゃんはこの探偵事務所の所長の親戚で、探偵助手として働いている。また、忙しく世界中を飛び回っている所長に代わり、この事務所の管理もしている。年は俺より二つ上なので今年の春から大学生になる。いまは春休みということで俺が学校で勉強している時間も、のんびり事務所の店番をしているのが最近の逸美ちゃんの日課だった。
「やっぱり所長は今日もいないみたいだね」
「そうなのよ。ちょっと待っててね、お茶を淹れてきてあげるから。ほうじ茶でいいかな?」
「うん」
逸美ちゃんは立ち上がった。立ち上がるとわかるけれど、逸美ちゃんは女としては背が高いほうで、一六八センチの俺とも視線が変わらない。胸も大きく、あまり高校生という感じがしない。まあ、もうひと月もすれば大学生なのだけれど。
俺はさっき逸美ちゃんがいたソファーに腰を下ろした。対面がお客様用のソファーになっているので、大抵は並んで座るようにしていた。
そういえば、凪は連続放火事件を調べてどうするつもりなのだろう。そんなことを考えていると、逸美ちゃんがお茶を淹れて給湯室から出てきた。
「開くん、お茶淹れてきたよ。ちょっと隣空けて。座れないでしょう」
「座れないことないでしょ」
言いつつ、俺は逸美ちゃんが座れる分のスペースを作る。
空いたスペースに逸美ちゃんは腰を下ろした。テーブルにお茶を置いて、
「はい。どうぞ」
「いただきます」
コップを手に持つ。温かくて手の温度が体温に近づいていくのがわかる。思っていたより冷えていたんだな。
お茶をすすって一息つく。
「開くん、手冷たそうだね。お姉ちゃんが温めてあげようか?」
「いいよ、別に」
「わたし、手あったかいんだから」
知ってるけど、もしそんなときにお客さんが来たら変な目で見られるじゃないか。
「コップで温まったから大丈夫」
「その割に、まだコップから手、離さないじゃない」
「ゆっくり飲んでるだけだよ」
基本は大雑把なくせに俺の細かい動向には気がつくのは、逸美ちゃんが「わたしは開くんのお姉ちゃんだから」を自負しているからである。幼なじみなのもあって、俺のことを本当の弟のように溺愛しているのだ。
特に話すことも他になかったから、俺は思い出したように言った。
「逸美ちゃん。俺、帰り道に久しぶりに凪に会ったよ」
「凪くんって、あの? 随分と久しぶりね」
凪は中学時代よく探偵事務所に遊びに来ていたから、当然逸美ちゃんも凪のことを知っている。
実は、この探偵事務所の壁には襖があり、はた目にはわからない隠し部屋がある。その襖の奥は和室なのだけれど、いまはそこも使われていない。凪がよく遊びに来ていたときにはいっしょにそこでくつろいだりもしたものだけれど、凪が来なくなるのと同じくして使われない物置部屋になった。
そんな昔のことを思い出して、俺はふと和室の襖が壁を見る。
逸美ちゃんが聞いた。
「それで、どんなお話したの?」
俺は逸美ちゃんに向き直って、
「ただの学校の話とか。あと、連続放火事件についての話を聞いたりしたんだ」
それから。
連続放火事件について、聞いたことを覚えている範囲で全部逸美ちゃんに話したのだが、そんなこと逸美ちゃんもすでに知っているようだった。逸美ちゃんは知識も豊富だけどニュースに詳しいのでそれゆえだろう。
そしてここから、世間一般には知られていないという、犯行予告のカードについて話す。
「この連続放火事件、同一犯だと裏付ける証拠があるらしいんだよ。それが犯行予告。放火の現場から近くにある壁に、その犯行予告が貼られるんだって」
「それって、どんな犯行予告なの?」
少しためて、
「タロットカード」
「タロットカード? それだけ? 他に、犯行声明みたいな、文章とかはないんだ?」
「みたいだね。聞いたところによると」
逸美ちゃんは「ふぅん」と小さく言って考える仕草をする。考えているというより、情報の整理が主だろうけれど。
「ちなみに、カードは瞬間接着剤で貼られているらしいよ」
「そうなんだ。でも、よくそんな手の込んだことするね。どうしてなのかしら……?」
「凪が言うには、特定の人間に気づいてほしいんじゃないかって。まあ、予告するからには、まったく誰にも気づかれないなんてのは論外なんだろうけどさ」
だとしたら、まだ放火が続いているのだから、その特定の誰かさんは気づいていないのだろうか。
「うふふ」
急に逸美ちゃんが笑ったので俺は尋ねた。
「どうしたの?」
「だって、懐かしくなっちゃって。凪くんとも昔はよくいっしょに事件を解決したもんね」
「あいつはひっかき回してただけだよ」
「また、相棒くんとのコンビが再結成されるのかぁ。楽しみ~」
「誰が相棒だよ。あいつはそんなんじゃないって」
昔から――いや、初めて会ったときから、あいつは俺を相棒だと言っていた。
なぜか逸美ちゃんはそんな凪のたわごとも信じていたし、凪が俺を助けてくれる存在だとも逸美ちゃんは言っていた。
本当に、当時からトラブルメーカーだった凪を知っていてよくそう思えたものだ。逸美ちゃんは昔から天然なのだ。
俺は話を戻した。
「で、三日前に起きた放火の際にあったのが、『運命の輪』っていうカード」
「運命の輪、か」
「うん。そういえば、タロットカードについて、逸美ちゃん詳しい?」
なんでも知っている広才博識な逸美ちゃんはいろいろ教えてくれる。
「タロットカードといって一般の人が思うイメージは、大アルカナのことじゃないかな。さっき出た『運命の輪』もそうだし、『愚者』『魔術師』と始まって、大アルカナは全部で二十二枚あるの」
「へえ」
タロットについて詳しくない俺でも、『愚者』や『魔術師』は聞いたことがある。
逸美ちゃんは家庭教師のお姉さんが手取り足取り解説するような調子で、
「タロットカードは七十八枚が一組になっているの。さっきの大アルカナが二十二枚。そして、小アルカナっていうカードが残りの五十六枚になっているの」
合わせて計七十八枚か。
「小アルカナの五十六枚がトランプの元になったって説や、その逆、トランプが元になって小アルカナが作られたという説があるの。関連はないっていう見方もあるけどね」
「つまり、どういうこと? 全七十八枚で占うってこと?」
「うん。そう。でも、大アルカナだけで占う方法もあるわ。素人が自分で占う場合は大アルカナだけというほうが多いだろうし、プロの占い師でも、大アルカナだけを用いる人もいるんだって。確か、カードの並べ方をスプレッドといって、スプレッドにもいくつか種類があったと思うな」
「スプレッドねえ。よくそんな用語まで覚えてるもんだね」
物知りなお姉さんは得意げに大きな胸を張って、
「まあね。二、三冊だけど、本を読んだことあるんだから」
一冊だけでも逸美ちゃんならいろいろ知識として自分に取り入れられそうだが、タロットカードにも種類がありそうだし、いくつかの本を参考にしないと偏った理解になりそうだ。
「開くんも聞いたことあるかもしれないけど、タロットカードには向きがあるのよ」
「ああ、聞いたことはあるよ。詳しくは知らないけど」
「正位置と逆位置」
正位置は正しい向きのことで、逆位置はカードが逆さまを向いてしまっている状態のことだ。
「逆位置だと悪い意味になるんだっけ?」
「うーん……。一概には言えないわ。正位置がよくない意味を持つモノもあるけど、捉え方は人それぞれだから。そもそもタロットカードは絵解きだから、カードの絵をどう捉えるかが重要なの」
「へえ。なるほど。それじゃあますます、読み取る人が重要になるわけだね」
「タロットカードはいろいろな絵柄のモノがあるから、カードによって、同じ『運命の輪』でも捉え方が変わるしね」
「ふーん。絵柄もいろいろあるんだ」
「綺麗なのや可愛いの、いろんなカードがあるから、コレクション目的で買う人もいるくらいよ」
いわゆる観賞用ってやつだ。
「でもさ、逸美ちゃん。タロット占いが絵解きだというなら、それこそカード如何で占い結果は変わりそうなものだけど」
「確かにそうかもしれないわね。でも、基本的にカードが象徴する本質的な意味や数字は同じなのよ。中には数字、つまり順番が違うのもあるけど」
数字はゼロからはじまる。『愚者』の『0』からはじまり『世界』の『21』までの二十二枚。これが大アルカナ。
対する小アルカナは、ジャックが二つに分かれた場合のトランプ全五十六枚と同じ割り振りである。要するに、『ジャック』の代わりに『ナイト』と『ペイジ』として、数字が『1~10、ナイト、ペイジ、クイーン、キング』となり、それぞれ各スートずつあるということだ。まあ、こんなことは知っていてもしょうがないので、話半分聞き流して、うなずいておいた。
それに、今回の連続放火事件においては、大アルカナしか用いられていないんだよな……。メジャーなのはそっちだし、それもまた当然ではあるように思う。あまり専門的過ぎても作り手側――つまり犯人――の独りよがりになって誰にも理解されなくなってしまうが、凪の言う特定の人間に気づいてほしいという魂胆ならば、その特定の人間が専門家である場合を想定しているのかもしれない。
「それで開くん、『運命の輪』は正位置? それとも逆位置?」
「正位置だよ。そのカード自体を知っていたわけじゃないけど、カードの下部に英語で『WHEEL OF FORTUNE』って書かれていたんだ。それを凪が読み上げた。向きは正位置だよ」
「なるほど。この正位置の『運命の輪』にも、なにか意味があるかもね」
「犯行予告以外に?」
「うん」
とうなずく逸美ちゃんである。
つまり、暗号やまた別のメッセージということか。
「でもカードの意味、詳しく覚えてないなぁ。本もどこにやったかわからないし。こんなことなら、探してでも持ってくればよかったわ」
果たしてそんなモノを持って来たところで意味があったろうか。残念ながら探偵助手といっても逸美ちゃんは推理することができない。所長が推理をするときも、案件が俺と逸美ちゃんの二人に回ってきても、逸美ちゃんは助手しかしない。所長の代わりに探偵役を務めるのは、俺なんだ。そういうわけで、俺は探偵王子の異名を取ることになったのである。
「ねえ、開くん。他の現場のカードはなんだったの?」
逸美ちゃんはとりわけ興味津々というふうではないが、そんなことを聞いてきた。
「わからない。凪は『運命の輪』しか見せなかったし、言わなかった。凪が興味を持つくらいだ。ろくな事件じゃないと思うし、あんまり考えないほうがいいと思うよ」
それでも少し腑に落ちない顔をする逸美ちゃんである。
「なんとなく、まだなにかありそうな気がするのよね」
「なにかって?」
首をひねって「うーん」と唸る。
「このまま、わたしたちがこの事件を右から左に聞き流すことはできないような気がするのよ」
勘だ。
逸美ちゃんの勘が言っているのだ。
俺たちはこの連続放火事件に関わることになるのではないかと。
逸美ちゃんの勘はたまに働き、よく当たる。たまに、予知ではないけれど、予感があるらしい。
「まあ逸美ちゃんが言うなら、用心しておくよ。積極的に関わるつもりはないけどね」
密逸美イラスト
逸美が登場する開と逸美のラブコメ短編は、『つれない態度でメロメロにさせたい(https://ncode.syosetu.com/n1184el/)』と、『背が高くなりたい(https://ncode.syosetu.com/n5724ek/)』です。
また、開や逸美が登場する日常は、『あけちけの日常と少年探偵団の日常(https://ncode.syosetu.com/n3688el/)』です。よかったら読んで笑ってください。